| 1588年秀吉は吉川広家27歳と秀吉養女、容姫18歳が結婚し一門になったとご機嫌だった。 だが結婚後、2年程で容姫が亡くなり子もなく終わる。広家は気落ちし、秀吉に許しを乞う。 秀吉は広家を慰め、1591年東出雲・隠岐・西伯耆14万石を与え、毛利家からの独立を促す。 難攻不落の山城、月山富田城に入るが、城下の発展は望めないと新たに城を築くと決める。 広家は父吉川元春と母新庄局との三男に生まれ、元長(もとなが)、元氏(もとうじ)が兄だ。 尼子氏は居城、月山富田城に籠もり防戦のみで、負け知らずの名将、父元春が攻め上げた。 広家30歳は元春から受け継ぎ、月山富田城を手にしたと、長い道を振り返り感無量だ。 13歳上の兄元長が嫡男で、元春の優秀な血を受け継いだ、と誰もが褒める確固たる後継だ。 だが秀吉の包囲網は完璧で破れず、元春の本隊の到着を待つ間に経家は降伏し自害した。 1582年信長死後、秀吉と毛利氏は和睦し、秀吉嫌いで反対した元春は隠居し、元長が継ぐ。 1586年秀吉は九州征伐に出陣するよう命じ、病を押して出陣した元春は小倉城で亡くなる。 元長の妻は宍戸隆家と元春の姉五龍(ごりゆう)局との間の次女で、子は生まれなかった。 元長が亡くなり後継に輝元は次男元氏を推すが、兄を押しのけ広家が家督を継ぐと決まる。 吉川家の家督相続を決めるとき、秀吉は小早川隆景の考えで決めると言い、意見を聞いた。 秀吉は明智光秀追討に向かう中国大返しの実現に、隆景の存在が大きいと恩に感じていた。 隆景は秀吉の意中を思い、元春の考えに近い次男元氏を差し置いて、三男広家を推した。 以来、隆景は広家の面倒をよく見て広家も良くなつき、秀吉も広家と親しく付き合った。 秀吉は毛利氏に対し取り込みと分断化の両面で接し、毛利本家に優しく吉川家には厳しい。 秀吉は中国大返しを見送り以降も惜しみない支援に感謝し、毛利家に最大限の優遇をした。 だが、秀吉の結婚政策は失敗が多く、秀勝は1585年2月に結婚し1586年月1月に亡くなる。 秀吉・隆景に推され家督を継いだ広家は恩に報いる為、毛利本家の信頼を得る為にも働く。 容姫は岡山を平定した宇喜多直家と妻お福の娘で、宇喜多秀家の姉で、秀吉は可愛がった。 豊臣政権下で、重要な地位を占める若い二人の結婚は新しい時代を築くと秀吉は考えた。 広家も期待に応え居城、安芸日山城の吉川屋敷(広島県北広島町)に広大な新居を建てた。 この結婚で広家は父・兄の死、家督を巡る本家との葛藤、吉川家を率いる不安が終わる。 真面目な父母からひねくれ者とあきれられた三男で、妻を決められなかったのが幸いした。 広家の母も家督を巡る諍いに不快な顔つきだったが、広家・容姫を受け入れ歓迎した。 広家は余りに惨い運命を呪うが、同時に真の自立の時が来たと受けて立つ自信もみなぎる。 |
| 広家の父元春は毛利元就(もとなり)の次男に生まれたが、母の実家吉川氏の養子となる。 元春の母は小倉山城(北広島町)主吉川国経(くにつね)の娘妙玖で、内助の功で有名だ。 吉川家は鎌倉時代に安芸国大朝荘(広島県北広島町)の地頭として在し延々と続いていた。 吉川経基(つねもと)が出て石見(島根県西部)安芸(広島県西部)北部まで領地を広げる。 経久は同族の出雲守護、京極氏・室町幕府将軍と敵対し1484年守護代を奪われ追放される。 そして経久は旧臣、鉢屋衆を率い1486年月山富田城を奪い返し再起し、吉川夫人を迎えた。 出雲の国人衆をまとめ、大内氏との対立を避けつつ山陰・山陽約2百万石を平定していく。 吉川夫人に嫡男政久が生まれ狂喜し溺愛し、経久は気力充実し破竹の勢いで勢力を拡げる。 この頃の毛利氏は元就の父弘元が当主で、安芸国の有力国人ではあったが精彩がなかった。 その時、裕福な吉川国経の嫡男元経の再婚相手に娘松姫が望まれ、25歳の年の差だが嫁ぐ。 大内氏は長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領し西国最大の守護大名として君臨した。 追随させられる国人衆は利益なしに戦力も経費も負担させられ、犠牲が大きく反発した。 だが毛利氏は大内氏に近い兄興元(おきもと)が継ぎ吉川氏の干渉を拒み尼子氏と対決する。 高橋氏は安芸・石見の有力国人で尼子氏に従い幸松丸の祖父として毛利氏を牛耳っていく。 また、武田信玄と同じ一族でかっての安芸守護、武田元繁(もとしげ)も大内氏と決別する。 元繁は自ら国人衆を従え領地を拡大し、1517年隣接する毛利氏・吉川氏の領地に侵攻した。 元繁のあっけない死を知り経久は元就を取り込むと、義兄国経の娘妙久との結婚を勧めた。 以後、元就は大内氏との敵対を避けながら経久に従い高橋久光死後の毛利家中をまとめる。 尼子経久の裏切りだと怒った元就は弟を殺し、家督騒動を収め、尼子氏との絶縁を決める。 尼子氏と関係深い吉川家と離れていく元就の変心を察し、妻妙玖は心を乱し気が気でない。 同時に、夫元就の執念深さ、知謀を駆使した調略に驚き、冷酷さに背筋が凍る思いをする。 高橋氏を滅ぼし毛利家より勝る領地・軍事力・財力すべて手に入れ元就は毛利家を継いだ。 宍戸氏は五龍城(安芸高田市甲立)を居城とする国人で毛利氏と領地を巡り争いが続いた。 宍戸氏を味方にし元就は、宍戸氏娘が妻の吉川家の後継、興経(おきつね)に干渉していく。 尼子経久を継いだ孫晴久が、武田氏支援、大内氏を討ち果たそうと総力を挙げて出陣した。 だが元就は圧倒的戦力差の尼子氏に勝つ見込みはないが小競り合いを繰り返し耐え続ける。 この撤退の影響は大きく尼子氏の栄華は陰りを見せ窮地を脱した元就に従う国人が増える。 大内氏は尼子氏を撃退した勢いで、1542年経久死後、大内勢総力を挙げ尼子氏攻撃に出た。 元就は尼子氏の追撃で命からがら吉田郡山城に逃げ帰り、興経に許せない憎しみを持つ。 ここから元就は調略で吉川家中の内紛をあおるが、興経には許したり諭したり縁戚を保つ。 病いがちになった妙玖は元就の策謀を非難し弟や一族を円満に配下にし吉川家存続を願う。 子達、長女は亡くすが、次女五竜の存在は大きく宍戸家は元就に忠誠を尽くした。 妙玖は死を前にして元春に、3男2女を育て楽しみも多く悲しみも多い人生だった、と話す。 |
| 華母によく似た性格の元春16歳は、吉川家を守りたいとの切ない願いを感じ、母を看取る。 元就も五竜も隆元も隆景もそれぞれ悲しんだが、皆は母とは違う忙しい暮らしがあった。 兄隆元は大内義隆のいとこ、長門国守護代の娘、尾崎の局との結婚が決まり嬉しそうだ。 姉五龍は子達に恵まれ、宍戸家を仕切り、毛利家にもよく現れて、飛ぶ鳥を落とす勢いだ。 元春は母から、いずれは叔父北就勝(なりかつ)の養子になり後を継ぐ、と聞かされていた。 北就勝は父が認めた子だが、晩年の子で兄が3人いた為、毛利家に必要ないと仏門に入る。 そのうち母は嬉しそうに、弟興経の養子になり元春が吉川家を継ぐかもしれない、と話す。 高橋氏の滅亡を見た母は、元春の養子入りで吉川家は元就の思うままだが、良いと思えた。 吉川家と毛利家の架け橋になる結婚だが、吉川家の為に何も出来なかったと母は嘆いた。 元春は吉川家の婿養子になると聞いていたが、千法師が生れ養子入りはないと考えていた。 元春は母を思い精一杯父に抵抗し、吉川一門の娘との結婚を拒否し、意中の人を決めた。 新庄局は元就の名を近隣に知らしめた有田の戦いで、討ち取った大将、熊谷信直の孫娘だ。 武田元繁の死で嫡男光和(みつかず)が後を継ぎ尼子氏が仲介し武田家と吉川家は和解した。 1533年信直の妹は光和との愛といたわりのない暮らしに怒り、思いをぶつけて実家に戻る。 元春は尼子氏との吉田郡山城の戦いで初陣し、その勢いで武田氏を銀山城から追放する。 母の死から三ヶ月、千法師に吉川家を継がせたいと考えて、新庄局との結婚を父に願う。 元就はにっこり結婚を認めたが、まず吉川家へ養子に入る事が条件だときっぱりと命じた。 元春は不穏な小倉山城には行かず、吉田郡山城で新婚生活を始めるが新庄局は肩身が狭い。 元就は信直の忠誠心を試すかのように、隠居した興経の逃亡を防ぎ監視する事を命じる。 興経の平穏な隠居を願う吉川重臣への粛正・隔離も行ないつつ戦わずに吉川家を裸にする。 元春は気づかないうちに、母の愛した吉川家はなくなり、千法師も無残に殺されたと知る。 だが元就は吉川家譜代の重臣より毛利家を優遇した家臣団を編成し元春のいらだちは続く。 元春は苦悩の時を支えられ、助け合った新庄局を伴侶として最高だと誇り、強く結ばれた。 新庄局は毛利一族の冷たい視線から逃れ小倉山城に入り、落ち着き自分を取り戻していく。 嫡男元長は五龍の娘と結婚し、元就愛娘の五龍とよく顔を合わすが遠慮せず火花を散らす。
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| 1601年吉川広家が岩国に去り、中村一忠が伯耆(ほうき)米子藩17万5千石藩主になる。 関ヶ原の戦いでの戦功を認められ、駿府14万5千石から加増されたが西国へ移されたのだ。 一忠の父一氏(かずうじ)は、秀吉が浅井攻めの為に優秀な武将を探していた時、応じた。 中村一氏は南近江(滋賀県甲賀郡)の甲賀21家の内の瀧氏の生まれで不屈の武門の家柄だ。 秀吉に従い大坂の石山本願寺(一向宗総本山)紀州の雑賀(さいか)根来(ねごろ)衆と戦う。 信長の死後も、山崎の戦い・賎ヶ岳の戦いとめざましい活躍で秀吉を天下人に押し上げる。 翌年、小牧長久手の戦いで戦死した森長可の妻だった池田輝政の姉お久との結婚を命じる。 秀吉は一氏をお久と再婚させ、中村家を池田家・滝川家と匹敵する家格に押し上げる。 お久は信長と共に池田家が飛躍した時、伸び伸びと屈託なく育ち周りに明るさを振りまく。 お久は中村家を無骨を気取る固い武将の家から、笑い声の溢れた気さくな雰囲気に変える。 1585年故郷に伊賀6万石を得た。成功の証だと近江水口城を築き、妻に誇り一族を集める。 同時に秀吉の甥で妻の妹若御台を妻とした近江42万石藩主豊臣秀次の家老となり補佐する。 1590年待望の嫡男一忠が生まれ、北条攻めでは秀吉をうならせる働きをして忠誠心を表す。 お久も中村家と幼少期の池田家はよく似て勢いがあり一忠の未来は明るいと、幸せそうだ。 一氏は12歳年下の若々しい妻が可愛くてたまらず、中村家の福の神だと称え大切にした。 秀次・秀吉を亡くし今後の生き方を話している最中の妻の死に、呆然として言葉が出ない。 だが秀吉の腹心として苦労を共にしたが秀次の処遇を巡り、秀吉晩年の政策に反発した。 1600年8月25日家康が駿府城に立ち寄りった際、家康への臣従を誓いと一忠の後継を頼む。 一氏の最後は秀吉に似てすがっても詮無い相手家康に中村家を託し藩政は弟一栄に委ねた。 大幅加増の大名がひしめく中で加増はわずか3万石、しかも引っ越し費用の掛る西国行きだ。 その上、家康は筆頭家老に一栄ではなく、家康にすり寄る一氏の妹婿横田内膳と決めた。 内膳は中村家の為に、米子城及び城下町の完成を主導し家康が求める検地も平行して行う。 山岳信仰の霊場、大山(だいせん)を検地し歴代3千石安堵が慣例の寺領の一部を没収した。 1603年12月16日、13歳の一忠は家康養女房姫と結婚し、内膳を廃し親政を行うと試みる。 そこで一同謀って内膳を殺すが、怒った内膳を慕う一族家臣は決起し米子城騒動が勃発だ。 そこには、房姫との婚約・結婚を通じて家康から送られた、内膳を支える武将が存在した。 家康は一忠に家中騒動の責任を取らせ相応な処遇をするつもりが予想外に一忠は勝利した。 即刻、安井清一郎、天野宗杷ら一忠側近を取り調べることなく、反逆罪だと切腹を命じた。 念願叶い一忠は親政を始めるが、滝川一積ら豊臣恩顧と見られる家臣は次々離されていく。 房姫は幕府との協調を願うが、一忠は幕府の干渉への恨みが渦巻き、夫婦仲も壊れていく。 側室に女子が生まれたと聞くが房姫は認めず、幕府も一忠を無能力の藩主だと烙印を押す。 房姫は一忠の愛がないのを悲しく思いながらも、中村家の為に尽くしたいと思っていた。 房姫は家康は一忠の叶う相手ではなく素直に従うべきだと頼むが、気まずくなるだけだ。 房姫も一忠18歳の無能力が公然と噂され、内紛を押さえられず、死の予感を感じていた。 家康の養女という肩書きは使いようによってはお家安泰に有効だが、房姫は全く動かない。 |
| 時代は移り鳥取藩池田光仲が藩主となり、米子城は鳥取藩の支城となり、城代は荒尾氏だ。 ここで、遙か昔、池田輝政が荒尾氏を実家だと思うと妻督姫に言った意味がはっきりする。 荒尾氏は鎌倉幕府に仕え尾張国知多郡荒尾郷(愛知県東海市)に領地を持ち名とし続いた。 今川義元は驚異的に勢力を増し織田領に侵攻し、迎え撃つ木田城(東海市)を預けられた。 その後、信長は信行を謀反発覚の罪で殺し、荒尾御前を不憫に思い池田恒興と再婚させる。 荒尾善次は尾張国知多郡大野城(常滑市)主、佐治為貞の長子で信長の義兄にもなる。 室町時代、武力を見込んで三河守護の一色(いしき)氏が、三河平定の為に呼び重臣にした。 一色氏に従う国人は減り、佐治氏が代り勢力を伸ばし知多半島西部を押さえ大野城を奪う。 佐治氏の水軍力・交易の利益を見込み信長は妹お犬の方を嫁がせ、空善は婿養子に迎えた。 空善の娘は善次との間に荒尾御前と嫡男善久を生み、血筋を伝えたが若くして亡くなった。 水野氏は鎌倉将軍に仕え尾張阿久比郷小河で地頭となり、土岐氏に追われるが生き抜いた。 緒川城(愛知県知多郡東浦町)を居城とし隣国松平氏と縁戚を続けさらに勢力を拡大する。 信長が善次と善久を意気地なしと言い、娘婿の池田家は信長の厚い信頼を得て伸びていた。 1573年三方ヶ原の戦いで善久が戦死した。弟達がいたが輝政8歳が後継だと信長が決めた。 善次は後妻、水野氏との間に成房・隆重が生まれており、成房が荒尾氏を継ぐと決める。 荒尾家の嫡流は輝政の母荒尾御前しかいない。荒尾御前は輝政の祖母お養の方と相談する。 その後織田信直も小田井殿も亡くなり、孫娘が牧野氏に嫁いだが死別しお養が引き取る。 荒尾御前は成房の妻に小田井殿の娘を迎え、池田家と縁続きになり仕えるようにと決める。 こうして荒尾家は池田家一門として輝政を支え、秀吉の命令に従い数々の武功を重ねた。 輝政は嫡流は池田家譜代を主に、督姫の子から始まる家は荒尾氏を主に家臣団を構成した。 鳥取城に詰める本家2家と米子城・倉吉陣屋に留まる分家に分れ4家が鳥取藩家老職となる。 ただ関ヶ原の合戦の功により入城した中村一忠は17万5千石で次の加藤貞泰は6万石だった。 禄高の急減は、一国一城令でも存続を認められた名城、米子城の維持管理に直結した。 |