米子城四方山話

1. 吉川広家の妻、容姫

1588年秀吉は吉川広家27歳と秀吉養女、容姫18歳が結婚し一門になったとご機嫌だった。
だが結婚後、2年程で容姫が亡くなり子もなく終わる。広家は気落ちし、秀吉に許しを乞う。

秀吉は広家を慰め、1591年東出雲・隠岐・西伯耆14万石を与え、毛利家からの独立を促す。
悲しい出立だが、この後の10年近くが吉川家を率いた広家の人生の最も充実した時となる。

難攻不落の山城、月山富田城に入るが、城下の発展は望めないと新たに城を築くと決める。
秀吉の勧めもあり近世城郭の築城を決め、中海に面した湊山に米子城の築城を開始する。

広家は父吉川元春と母新庄局との三男に生まれ、元長(もとなが)、元氏(もとうじ)が兄だ。
広家が生まれた頃、出雲を中心に山陰地方に長く君臨した尼子氏が崩壊していく時だった。

尼子氏は居城、月山富田城に籠もり防戦のみで、負け知らずの名将、父元春が攻め上げた。
1566年尼子氏は滅び、元春は尼子残党を掃討しつつ、山陰地方の政治・軍事の指揮を執る。

広家30歳は元春から受け継ぎ、月山富田城を手にしたと、長い道を振り返り感無量だ。
広家は父母と相性が悪く、課せられた文武の修養もよくさぼり、叱られてばかりだった。

13歳上の兄元長が嫡男で、元春の優秀な血を受け継いだ、と誰もが褒める確固たる後継だ。
1581年兄は秀吉に攻囲され窮地に陥った岩見吉川家経家を助けると、鳥取城に駆けつけた。

だが秀吉の包囲網は完璧で破れず、元春の本隊の到着を待つ間に経家は降伏し自害した。
情け深い元長は悔し涙を流し、身の毛のよだつ城内の惨状を聞き、戦いではないと言う。
食料を絶ち食べ物を求めて城内から投降した者まで許さず殺す、秀吉の戦いは許せない。

1582年信長死後、秀吉と毛利氏は和睦し、秀吉嫌いで反対した元春は隠居し、元長が継ぐ。
秀吉は元春の隠居を敵対行為と見なし、吉川家と秀吉の関係はぎくしゃくしかみあわない。

1586年秀吉は九州征伐に出陣するよう命じ、病を押して出陣した元春は小倉城で亡くなる。
元長も翌年、日向で病に倒れ亡くなる。父子はよく似た性格で、秀吉は煙たく思っていた。

元長の妻は宍戸隆家と元春の姉五龍(ごりゆう)局との間の次女で、子は生まれなかった。
三女南の方は毛利輝元の妻であり、元長と輝元は従兄弟で義兄弟でもある親しい仲だった。

元長が亡くなり後継に輝元は次男元氏を推すが、兄を押しのけ広家が家督を継ぐと決まる。
元氏は1566年仁保氏の婿養子となり他家に養子に出たと、都合の良い理由で外された。
元氏は1600年の関ヶ原の戦い後、毛利姓に戻り子孫は長州藩一門家老の阿川毛利家となる。

吉川家の家督相続を決めるとき、秀吉は小早川隆景の考えで決めると言い、意見を聞いた。
秀吉は隆景を、思慮深く見極めが確かで信頼できると、毛利家中ながら秀吉側近とした。

秀吉は明智光秀追討に向かう中国大返しの実現に、隆景の存在が大きいと恩に感じていた。
信長の死を隠して毛利氏と和睦を結び京に向かう時、事情を知った毛利方で激論が起こる。
追撃し秀吉を倒すと主張する元春に、隆景は信義を守り秀吉に恩を売ると動かなかった。

隆景は秀吉の意中を思い、元春の考えに近い次男元氏を差し置いて、三男広家を推した。
以前、吉川家の人質を秀吉から要求され、隆景は元春の反対を押え広家を連れて行った。

以来、隆景は広家の面倒をよく見て広家も良くなつき、秀吉も広家と親しく付き合った。
秀吉のお気に入り広家が吉川家の家督を継げば安泰に繋がり、毛利家にも良いと考えた。

秀吉は毛利氏に対し取り込みと分断化の両面で接し、毛利本家に優しく吉川家には厳しい。
隆景も取り次ぎとして慎重に対応し、毛利氏全体の利益の為に、外交能力を活かした。

秀吉は中国大返しを見送り以降も惜しみない支援に感謝し、毛利家に最大限の優遇をした。
秀吉嫡男、秀勝(信長の4男)の妻を輝元の娘と決め、共に天下を治めようと手を差し出す。

だが、秀吉の結婚政策は失敗が多く、秀勝は1585年2月に結婚し1586年月1月に亡くなる。
輝元の養子秀元(従兄弟)と秀吉の弟秀長の娘と結婚させたがまもなく秀長の娘は亡くなる。
両家の縁が切れ、新たな縁組を考えている時、元春・元長の死、広家の家督相続となる。

秀吉・隆景に推され家督を継いだ広家は恩に報いる為、毛利本家の信頼を得る為にも働く。
その様子が秀吉には好ましく、直臣としても良いと思い、養女容姫との結婚を決めた。

容姫は岡山を平定した宇喜多直家と妻お福の娘で、宇喜多秀家の姉で、秀吉は可愛がった。
以前、元春は直家を毛利氏を裏切り秀吉に寝返ったと怒り、熾烈な戦いを繰り返した。
その子達の結婚で、秀吉は毛利家と吉川家・宇喜多家に新たな信頼関係を築かそうとした。

豊臣政権下で、重要な地位を占める若い二人の結婚は新しい時代を築くと秀吉は考えた。
そして、容姫に「毛利家・吉川家との強い絆を結ぶ役目を果たすよう」直々に諭し祝った。
秀吉から養女にふさわしい支度をするようにと、容姫に多額の嫁入り支度金も与えられた。

広家も期待に応え居城、安芸日山城の吉川屋敷(広島県北広島町)に広大な新居を建てた。
容姫は秀吉の代わりに付き添い立ち会う、黒田官兵衛と共に、広島入りし吉川屋敷に着く。
岡山城で幼少期を過ごし大坂城で洗練された美しい容姫と広家は、婚礼を盛大に執り行う。

この結婚で広家は父・兄の死、家督を巡る本家との葛藤、吉川家を率いる不安が終わる。
秀吉の全面的支援で、毛利輝元も認め、吉川家の譜代の臣も当主と認め臣従を誓った。

真面目な父母からひねくれ者とあきれられた三男で、妻を決められなかったのが幸いした。
絶世の美女お福を母に持つ容姫の初々しい美しさに、広家も見惚れ、家中も歓迎した。

広家の母も家督を巡る諍いに不快な顔つきだったが、広家・容姫を受け入れ歓迎した。
吉川家の安泰を感じ、夫元春・嫡男元長の墓前に時代の流れを受け入れると報告する。
なのに、仲むつまじい新婚生活は続かず容姫は20歳で亡くなり吉川家中は悲しみに暮れる。

広家は余りに惨い運命を呪うが、同時に真の自立の時が来たと受けて立つ自信もみなぎる。
吉川家を率いる力が試されるのだと自覚し、秀吉とも輝元とも違う我が道を進もうと思う。
広家は妻は容姫のみと決め、後に秀吉・輝元が勧めても拒否し側室のみで再婚はしない。


2. 吉川元春の母、妙玖(みようきゅう)

広家の父元春は毛利元就(もとなり)の次男に生まれたが、母の実家吉川氏の養子となる。
元春の母は小倉山城(北広島町)主吉川国経(くにつね)の娘妙玖で、内助の功で有名だ。

吉川家は鎌倉時代に安芸国大朝荘(広島県北広島町)の地頭として在し延々と続いていた。
安芸国高田郡(安芸高田市)を領する毛利家と領地を接し争い、和解しつつ縁戚も重ねた。

吉川経基(つねもと)が出て石見(島根県西部)安芸(広島県西部)北部まで領地を広げる。
そして、出雲守護代だった尼子経久(つねひさ)と出会い、匿い支援し、より飛躍していく。

経久は同族の出雲守護、京極氏・室町幕府将軍と敵対し1484年守護代を奪われ追放される。
再起を期し加勢を求め動く中で経基を訪れ、長女吉川夫人に出逢い恋が芽生える。
経基も経久の才を見抜くが、吉川家は大内氏に従い幕府将軍側であり表立って支援しない。

そして経久は旧臣、鉢屋衆を率い1486年月山富田城を奪い返し再起し、吉川夫人を迎えた。
以後、経基は尼子経久に味方し、嫡男国経は毛利氏を取り込みつつ大内氏と対決していく。

出雲の国人衆をまとめ、大内氏との対立を避けつつ山陰・山陽約2百万石を平定していく。
11ヶ国、石見・出雲・伯耆・美作・備前・備中・備後・安芸・播磨・隠岐・因幡周辺だ。
経久は負担を極力求めず独立性を重んじる臣従を認めた為、配下は増すが支配関係は弱い。

吉川夫人に嫡男政久が生まれ狂喜し溺愛し、経久は気力充実し破竹の勢いで勢力を拡げる。
吉川家は尼子政久の外祖父となり、尼子氏と関係を強め、吉川家最高の時を迎える。

この頃の毛利氏は元就の父弘元が当主で、安芸国の有力国人ではあったが精彩がなかった。
弘元は大内氏に従い行動したが、課せられる戦費や幕府将軍に関わる出費に頭を悩ました。

その時、裕福な吉川国経の嫡男元経の再婚相手に娘松姫が望まれ、25歳の年の差だが嫁ぐ。
経久は大内氏に従う国人衆を配下に取り込む為、政略結婚を仕組むが全面対決は避けた。

大内氏は長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領し西国最大の守護大名として君臨した。
だが、幕府の力は弱まり、軍勢を率い上洛し、幕府の政治を支え主導する立場になった。

追随させられる国人衆は利益なしに戦力も経費も負担させられ、犠牲が大きく反発した。
経久は国人衆の反感をまとめて、巧みに大内氏配下の国人衆を尼子氏の配下に変えていく。

だが毛利氏は大内氏に近い兄興元(おきもと)が継ぎ吉川氏の干渉を拒み尼子氏と対決する。
しかし1516年兄24歳は幸松丸1歳を残し、後見を弟元就と義父高橋久光に頼み、亡くなる。

高橋氏は安芸・石見の有力国人で尼子氏に従い幸松丸の祖父として毛利氏を牛耳っていく。
久光は、元就を相手にせず、思うがままに娘と共に毛利家を1521年亡くなるまで支配した。

また、武田信玄と同じ一族でかっての安芸守護、武田元繁(もとしげ)も大内氏と決別する。
元繁は妻の大内義興の養女を離縁し、尼子経久の弟の娘を妻とし尼子氏と同盟を結んだ。

元繁は自ら国人衆を従え領地を拡大し、1517年隣接する毛利氏・吉川氏の領地に侵攻した。
元就は窮地に陥るが捨て身の奇襲攻撃で敵将、熊谷(くまがい)元直を討ち緒戦で勝利する。
勝利の知らせを待つ元繁は、副将の死に怒り自ら元就めがけ突撃し、撃たれ死んでしまう。

元繁のあっけない死を知り経久は元就を取り込むと、義兄国経の娘妙久との結婚を勧めた。
元就21歳、心は大内氏だが大内氏は幕府に肩入れし元就を支える気はなく孤立無援だった。
経久の熱心な申し出を、武田氏と戦う元就を見捨てた高橋久光に対抗する為に、結婚する。

以後、元就は大内氏との敵対を避けながら経久に従い高橋久光死後の毛利家中をまとめる。
だが1523年幸松丸が死ぬと尼子氏は元就を恐れ異母弟を後継に推し毛利氏の内紛を策する。

尼子経久の裏切りだと怒った元就は弟を殺し、家督騒動を収め、尼子氏との絶縁を決める。
尼子氏に出している人質もおり敵対化は避け、大内氏に従いつつ優柔不断な態度を保つが。

尼子氏と関係深い吉川家と離れていく元就の変心を察し、妻妙玖は心を乱し気が気でない。
嫡男隆元が生まれ夫婦仲は申し分ないが両家を繋ぐ役目を持ち嫁いだ妙玖の苦悩が始まる。

同時に、夫元就の執念深さ、知謀を駆使した調略に驚き、冷酷さに背筋が凍る思いをする。
幼い長女を高橋家の嫁に出したが、久光が亡くなると、高橋家に内紛を画策し乗っ取った。
娘を利用し信用させ、高橋家重臣を元就への内通者に変える技は冴えるが、娘は殺された。
妙玖も戦いなくして生き残りはないと分かるが、元就は完璧な謀略を成功させぞっとする。

高橋氏を滅ぼし毛利家より勝る領地・軍事力・財力すべて手に入れ元就は毛利家を継いだ。
すぐに高橋氏の領地を手土産に1534年次女五龍を宍戸(ししど)隆家に嫁がせ、和解した。

宍戸氏は五龍城(安芸高田市甲立)を居城とする国人で毛利氏と領地を巡り争いが続いた。
結婚で得た利益は大きく、高橋氏を倒した手腕は恐ろしく、宍戸家は元就に従うと決めた。

宍戸氏を味方にし元就は、宍戸氏娘が妻の吉川家の後継、興経(おきつね)に干渉していく。
先代元経は姉婿で、妙玖の兄でもあり遠慮があったが、甥の代では立場が変わり指示する。

尼子経久を継いだ孫晴久が、武田氏支援、大内氏を討ち果たそうと総力を挙げて出陣した。
1541年まず元就の吉田郡山城を攻め落とし、武田氏の領地を回復させる為、兵を進める。

だが元就は圧倒的戦力差の尼子氏に勝つ見込みはないが小競り合いを繰り返し耐え続ける。
晴久は、城を落とせず、無駄な時間ばかり過ぎ、率いる国人衆に倦怠感が出て焦り出す。
そして大内氏の援軍が来て激突するが国人衆は動きが鈍り、勝敗は付かず晴久は撤退した。

この撤退の影響は大きく尼子氏の栄華は陰りを見せ窮地を脱した元就に従う国人が増える。
尼子氏の敗戦を見て、尼子軍として奮闘した興経が、元就と共に大内氏に従うと表明する。
妙玖は吉田郡山城で毛利家の危機と夫元就と甥興経の激闘を悲しく見続けて、和解に喜ぶ。

大内氏は尼子氏を撃退した勢いで、1542年経久死後、大内勢総力を挙げ尼子氏攻撃に出た。
ところが大内方の興経が月山富田城攻めの陣中で尼子氏に寝返り大内氏は大打撃を受ける。

元就は尼子氏の追撃で命からがら吉田郡山城に逃げ帰り、興経に許せない憎しみを持つ。
興経も元就を嫌い、叔父宮庄経友(みやのしようつねとも)の娘と再婚し千法師をもうける。
前妻は宍戸氏の娘だが亡くし、宮庄経友は尼子氏に近く興経も元就の束縛を断つと挑んだ。

ここから元就は調略で吉川家中の内紛をあおるが、興経には許したり諭したり縁戚を保つ。
吉川経世・家老森脇祐有らを味方にし 興経側近大塩右衛門や宮庄経友の排除を策謀する。

病いがちになった妙玖は元就の策謀を非難し弟や一族を円満に配下にし吉川家存続を願う。
元就も昔、吉川家に助けられた恩もあり、妙玖が亡くなる1546年まで巧みに謀りつつ待つ。

子達、長女は亡くすが、次女五竜の存在は大きく宍戸家は元就に忠誠を尽くした。
嫡男隆元は大内家への人質、3男隆景は小早川家の養子と政略に使われ力を発揮している。

妙玖は死を前にして元春に、3男2女を育て楽しみも多く悲しみも多い人生だった、と話す。
妙玖自筆の文、送られた文はなく、元就のみが愛情深い文を残し良妻賢母を高らかに詠う。

 

3.吉川広家の母、新庄局

華母によく似た性格の元春16歳は、吉川家を守りたいとの切ない願いを感じ、母を看取る。
元就も五竜も隆元も隆景もそれぞれ悲しんだが、皆は母とは違う忙しい暮らしがあった。

兄隆元は大内義隆のいとこ、長門国守護代の娘、尾崎の局との結婚が決まり嬉しそうだ。
弟隆景はまだ13歳なのに小早川家で頭角を現し、養子ながら譜代の臣の信望を集め率いる。

姉五龍は子達に恵まれ、宍戸家を仕切り、毛利家にもよく現れて、飛ぶ鳥を落とす勢いだ。
母は毅然とし取り乱す事なく亡くなり他の兄弟とは距離を持ち母の苦悩を元春だけ知った。

元春は母から、いずれは叔父北就勝(なりかつ)の養子になり後を継ぐ、と聞かされていた。
元就の男兄弟は北就勝と見付元氏だけで、見付元氏は父弘元から認められた子でなかった。

北就勝は父が認めた子だが、晩年の子で兄が3人いた為、毛利家に必要ないと仏門に入る。
元就は信頼できる親族が少なく還俗(げんぞく)させ一族とし、北家に婿養子入りさせた。
だが子は生まれず、元就は大切な弟だから、次男元春を養子とし北家を継がせようと言う。

そのうち母は嬉しそうに、弟興経の養子になり元春が吉川家を継ぐかもしれない、と話す。
興経と妻宍戸家の娘に男子が生まれず、元就と興経との仲を取り持つ良い考えだと頷いた。
ところが興経に千法師が生まれ、母は寂しそうに元春の養子入りは難しくなった、と話す。

高橋氏の滅亡を見た母は、元春の養子入りで吉川家は元就の思うままだが、良いと思えた。
だが元春では吉川家存続が可能だが、千法師では吉川家は跡形なく滅ぼされる不安が増す。

吉川家と毛利家の架け橋になる結婚だが、吉川家の為に何も出来なかったと母は嘆いた。
母の死後、元就は人が変わり、吉川家家臣に檄を飛ばし、執拗に興経の隠退を求め始めた。

元春は吉川家の婿養子になると聞いていたが、千法師が生れ養子入りはないと考えていた。
その為、父の変わり様に驚いたが、父に不可能はなく1547年元春の養子入りを実現させた。

元春は母を思い精一杯父に抵抗し、吉川一門の娘との結婚を拒否し、意中の人を決めた。
真面目な元春は父の横暴さを嫌い、吉川家に養子に入りたくないとの意思表示をしたのだ。
だが元就は苦渋に満ちた顔をしたが、元春の恋した熊谷信直の娘新庄局との結婚を認める。

新庄局は元就の名を近隣に知らしめた有田の戦いで、討ち取った大将、熊谷信直の孫娘だ。
武門の名門だが祖父を殺された恨みはあるはずで、用心深い元就は災いは避けたかった。
この頃、熊谷氏は元就配下の武将であり危険な先陣を命じられ、華々しい活躍をしていた。

武田元繁の死で嫡男光和(みつかず)が後を継ぎ尼子氏が仲介し武田家と吉川家は和解した。
和解の条件で元経の娘と光和は結婚したが、元経の娘の死後1531年熊谷信直の妹と再婚した。
武田氏の最有力武将の熊谷氏だが、光和は父を殺したに等しいと思い妻を好きになれない。

1533年信直の妹は光和との愛といたわりのない暮らしに怒り、思いをぶつけて実家に戻る。
熊谷信直は主従関係の修復を願っての結婚だったが失敗を知り、元就の元に裏切り逃げる。
それからは元就に従い光和と戦うが、翌年光和が亡くなり武田氏は力は弱まり滅びるが。

元春は尼子氏との吉田郡山城の戦いで初陣し、その勢いで武田氏を銀山城から追放する。
この間、信直と知り合い言葉を交わし、信直は元春を高く評価し、娘新庄局と引き会わす。
信直の居城、三入高松城(広島市安佐北区)と元春の吉田郡山城は近くで再々立ち寄った。

母の死から三ヶ月、千法師に吉川家を継がせたいと考えて、新庄局との結婚を父に願う。
元就は長く信直を家臣として従えており、大切な毛利家の宝、元春を取られたと腹が立つ。
だが、真面目で正攻法を好み謀略を嫌う元春を否定すると、親子の関係が崩れると恐れた。

元就はにっこり結婚を認めたが、まず吉川家へ養子に入る事が条件だときっぱりと命じた。
1547年春、興経と養子縁組を結び、夏に新庄局と結婚、そして千法師を二人の養子とした。
興経は元就の仕組んだ吉川家乗っ取りを拒否すると抵抗したが、無理矢理隠居させられた。

元春は不穏な小倉山城には行かず、吉田郡山城で新婚生活を始めるが新庄局は肩身が狭い。
主君大内氏の養女尾崎の局を妻にする兄より早い結婚で、熊谷氏は武田家旧臣でしかない。
余りの家格の違いに、家中の白い目が注がれる新庄局は元春の強い愛だけを支えに耐える。

元就は信直の忠誠心を試すかのように、隠居した興経の逃亡を防ぎ監視する事を命じる。
隠居を渋々了解した興経を次に領地から引き離し信直の領地、深川(広島市)に連れ出す。

興経の平穏な隠居を願う吉川重臣への粛正・隔離も行ないつつ戦わずに吉川家を裸にする。
遂に、わずかな精鋭に守られた興経・千法師の殺害を信直に命じ1550年吉川家は終わった。

元春は気づかないうちに、母の愛した吉川家はなくなり、千法師も無残に殺されたと知る。
新庄局はつらい役目を命じられた父に申し訳ないと思い、元春は自分の浅はかさを責めた。
元春と新庄局は母の願いは吉川家の存続と旧臣を守る事だと慰め合い、吉川家の為に働く。

だが元就は吉川家譜代の重臣より毛利家を優遇した家臣団を編成し元春のいらだちは続く。
ようやく小倉山城に入り、父と違う武将を目指すと張り切り、二人は目を輝かせ決意する。

元春は苦悩の時を支えられ、助け合った新庄局を伴侶として最高だと誇り、強く結ばれた。
母の生存中に他の女性の元に通った父とは違い元春は側室を持たず、生涯妻を愛し続けた。

新庄局は毛利一族の冷たい視線から逃れ小倉山城に入り、落ち着き自分を取り戻していく。
次第に元春も感心した不屈の精神が蘇り、絶対に負けるまいと毅然として暮らし始める。
元春を支え、毛利家・吉川家・熊谷家に尽くすのが生きる道と定め、迷わず我が道を行く。

嫡男元長は五龍の娘と結婚し、元就愛娘の五龍とよく顔を合わすが遠慮せず火花を散らす。
義弟隆景がもっと元就に尽くし毛利家中の和を重んじるよう言うが答える必要を感じない。
元就とも結婚以来の冷たい視線を忘れず、好かれる必要はない、と形式的付き合いのみだ。

 


4.中村一忠(ただかず)と妻、家康養女の房姫

1601年吉川広家が岩国に去り、中村一忠が伯耆(ほうき)米子藩17万5千石藩主になる。
関ヶ原の戦いでの戦功を認められ、駿府14万5千石から加増されたが西国へ移されたのだ。

一忠の父一氏(かずうじ)は、秀吉が浅井攻めの為に優秀な武将を探していた時、応じた。
譜代の臣のいない秀吉は出世と共に、家臣団を形成する必要に迫られ、人材を捜し求めた。
同時期、山内一豊、堀尾吉晴や加藤清正や福島正則、片桐且元など一流の武将を見い出す。

中村一氏は南近江(滋賀県甲賀郡)の甲賀21家の内の瀧氏の生まれで不屈の武門の家柄だ。
秀吉が長浜城主になり譜代の臣らしい名が良いと尾張中村の一政の家を継がせ名とさせた。
それから中村一氏となり秀吉の勝利に必ず一氏ありと評判を取る、秀吉最強の家臣になる。

秀吉に従い大坂の石山本願寺(一向宗総本山)紀州の雑賀(さいか)根来(ねごろ)衆と戦う。
一氏の見事な戦ぶりを秀吉は頼りにし、戦いの度に出世させ、岸和田城の守りを任せた。

信長の死後も、山崎の戦い・賎ヶ岳の戦いとめざましい活躍で秀吉を天下人に押し上げる。
1583年秀吉は本願寺の押さえを任せると、和泉3万石岸和田城主とし譜代の重臣とした。

翌年、小牧長久手の戦いで戦死した森長可の妻だった池田輝政の姉お久との結婚を命じる。
輝政の祖父滝川氏は中村一氏と同じ甲賀出身であり先祖も深く結びついていて、良縁だ。

秀吉は一氏をお久と再婚させ、中村家を池田家・滝川家と匹敵する家格に押し上げる。
一氏も秀吉家臣団の中核を担うようにとの暖かい配慮だと感激し、奮い立ち戦に力が入る。

お久は信長と共に池田家が飛躍した時、伸び伸びと屈託なく育ち周りに明るさを振りまく。
一氏には池田家は格上で恐縮したが、前夫を失い傷心の妻を喜びを押さえいたわり迎えた。

お久は中村家を無骨を気取る固い武将の家から、笑い声の溢れた気さくな雰囲気に変える。
一氏はお久を得て、秀吉譜代の重臣として余裕と風格が増し、順調に出世街道を走った。

1585年故郷に伊賀6万石を得た。成功の証だと近江水口城を築き、妻に誇り一族を集める。
そして秀吉政権下で優遇されない滝川一族を親戚と思い、何くれと支援し、交流を深める。

同時に秀吉の甥で妻の妹若御台を妻とした近江42万石藩主豊臣秀次の家老となり補佐する。
秀吉の期待に応えられたとこみ上げる喜びを妻に報告し軍事・内政の手腕に磨きをかける。

1590年待望の嫡男一忠が生まれ、北条攻めでは秀吉をうならせる働きをして忠誠心を表す。
褒美だと駿府14万5千石を得て、家康の駿府城を中村家の城とし池田家に近い禄高になる。

お久も中村家と幼少期の池田家はよく似て勢いがあり一忠の未来は明るいと、幸せそうだ。
一氏にはお久の言葉が元気の源でもあり、駿府城に妻と子と共に住み功成った喜びを知る。
ただ秀次と義妹若御前との夫婦仲を取り持とうと努力したが難しく、離縁され残念だ。

一氏は12歳年下の若々しい妻が可愛くてたまらず、中村家の福の神だと称え大切にした。
なのに、お久は1599年一氏と一忠を残し39歳で生涯を終え、15年の結婚生活で終わった。

秀次・秀吉を亡くし今後の生き方を話している最中の妻の死に、呆然として言葉が出ない。
お久は熱心に池田家との協力を願ったが、一氏と輝政は張り合い親しい仲になれなかった。
秀吉を師と仰ぎ一心不乱に仕えたがゆえ、横の繋がりが薄く政治力はないと評価される。

だが秀吉の腹心として苦労を共にしたが秀次の処遇を巡り、秀吉晩年の政策に反発した。
そして、駿府城で度々家康の接待を行い親交を深め家康の実力・政策を学び影響を受ける。

1600年8月25日家康が駿府城に立ち寄りった際、家康への臣従を誓いと一忠の後継を頼む。
秀次・秀吉・お久を亡くし生きる指針を失った一氏は気力がわかず関ヶ原の戦い前に死ぬ。

一氏の最後は秀吉に似てすがっても詮無い相手家康に中村家を託し藩政は弟一栄に委ねた。
関ヶ原の戦いでは一忠10歳の後見として、一栄が兄が乗り移ったように戦い力を示した。
だが家康は秀吉を信奉する多くの家臣を持つ中村氏に恐怖し、冷たく厳しい恩賞を与えた。

大幅加増の大名がひしめく中で加増はわずか3万石、しかも引っ越し費用の掛る西国行きだ。
駿府城を追い出され、米子城は築城が7割方進んだ状態で、完成まで費用も莫大必要だ。

その上、家康は筆頭家老に一栄ではなく、家康にすり寄る一氏の妹婿横田内膳と決めた。
中村氏の内紛を家康は内心期待し、内膳は家康の抜擢に喜び張り切り、一忠の後見をする。
一忠は一栄を父とも思い信頼したが家康の仕打ちに憤り、横田内膳とは初めから溝がある。

内膳は中村家の為に、米子城及び城下町の完成を主導し家康が求める検地も平行して行う。
移住費・築城と多額の費用が掛り、厳しい査定で増収を企み、古くからの慣習を無視した。

山岳信仰の霊場、大山(だいせん)を検地し歴代3千石安堵が慣例の寺領の一部を没収した。
尼子氏・毛利氏などの戦国武将から続いた約束を破られ、高僧豪円(ごうえん)僧正が怒る。

1603年12月16日、13歳の一忠は家康養女房姫と結婚し、内膳を廃し親政を行うと試みる。
だが内膳は政治を牛耳り、一忠の申し出に耳を貸さずまだ幼少ゆえ内膳に任せるよう言う。
一忠は内膳の強引さを許せず豪円僧正を信奉する家臣や側近安井清十郎らに粛正を命じた。

そこで一同謀って内膳を殺すが、怒った内膳を慕う一族家臣は決起し米子城騒動が勃発だ。
米子城の東の砦、飯山城に立てこもる横田一族を、今こそ藩主の意地を見せると攻撃した。
しかし鎮圧できず隣国、堀尾氏に援軍を頼み、加勢を受けてようやく押える力しかない。

そこには、房姫との婚約・結婚を通じて家康から送られた、内膳を支える武将が存在した。
内膳の客将、柳生宗矩の兄の活躍は後世に残るほどで、中村方の武将を数多く討ち取った。

家康は一忠に家中騒動の責任を取らせ相応な処遇をするつもりが予想外に一忠は勝利した。
そして柳生宗矩の兄の壮絶な最期を聞き、柳生家や徳川からの家臣に対する仕打ちに怒る。

即刻、安井清一郎、天野宗杷ら一忠側近を取り調べることなく、反逆罪だと切腹を命じた。
ただ中村氏の軍事力を用心し一忠の責任を追求せず、一忠は幕府の甘い措置に安心した。

念願叶い一忠は親政を始めるが、滝川一積ら豊臣恩顧と見られる家臣は次々離されていく。
1605年には頼りにした叔父一栄が急死し、家中をまとめられずいらだちながら藩政を行う。  

房姫は幕府との協調を願うが、一忠は幕府の干渉への恨みが渦巻き、夫婦仲も壊れていく。
中村家の嫡男は生むのは房姫しかいないと言うが、城内に多くの側室を置き房姫を裏切る。
家康の娘として敬愛されるはずが無視され、京都中村屋敷にも側室がいると知りあきれる。

側室に女子が生まれたと聞くが房姫は認めず、幕府も一忠を無能力の藩主だと烙印を押す。
なのに一忠はまだ家康養女の妻は家康にも等しい存在だとは理解できず、態度を改めない。

房姫は一忠の愛がないのを悲しく思いながらも、中村家の為に尽くしたいと思っていた。
房姫の助けが必要だと思うし助けたいが、一忠は戦国時代のままで一国一城の主なのだ。

房姫は家康は一忠の叶う相手ではなく素直に従うべきだと頼むが、気まずくなるだけだ。
1609年6月12日、一忠は京から戻り身体の不調を感じたが、好きな日野川で遊び急死した。

房姫も一忠18歳の無能力が公然と噂され、内紛を押さえられず、死の予感を感じていた。
一忠の死の直前、側室梅里が一清を産むが房姫は我が子と名乗りを上げる気にはならない。

家康の養女という肩書きは使いようによってはお家安泰に有効だが、房姫は全く動かない。
こうして秀吉に一氏ありと絶賛された武将、中村家は2代で断絶し家康は笑みがこぼれる。


5.米子城代 荒尾氏

時代は移り鳥取藩池田光仲が藩主となり、米子城は鳥取藩の支城となり、城代は荒尾氏だ。
ここで、遙か昔、池田輝政が荒尾氏を実家だと思うと妻督姫に言った意味がはっきりする。

荒尾氏は鎌倉幕府に仕え尾張国知多郡荒尾郷(愛知県東海市)に領地を持ち名とし続いた。
その後、室町幕府に仕え守護の勝手な権力拡大を抑えるお目付役として幕府の威光を示す。
しかし幕府は弱体化し役目は意味をなくし、独立大名化した織田家に従う事で領地を守る。

今川義元は驚異的に勢力を増し織田領に侵攻し、迎え撃つ木田城(東海市)を預けられた。
1556年当主荒尾空善は城を守り義元と懸命に戦うが敗れ戦死し、信長は空善を褒め悲しむ。
信長は空善の孫荒尾御前を弟信行の妻に、家督は娘婿荒尾善次(よしつぐ)にと功に報いる。

その後、信長は信行を謀反発覚の罪で殺し、荒尾御前を不憫に思い池田恒興と再婚させる。
まだ桶狭間の戦い前だが、善次は今川勢に押され萎縮し守りのみとなり信長は不満を持つ。

荒尾善次は尾張国知多郡大野城(常滑市)主、佐治為貞の長子で信長の義兄にもなる。
佐治氏は平安時代末期に甲賀郡佐治郷に在地し名とし、三河に移った歴史ある武門の家だ。

室町時代、武力を見込んで三河守護の一色(いしき)氏が、三河平定の為に呼び重臣にした。
期待通り、一色氏に従い三河に勢力を伸ばし、青海山に大野城を築き知多半島を押さえた。
木田城を築いたのも佐治氏だが、権勢を誇り勢いに乗る一色氏を将軍は恐れ守護職を奪う。

一色氏に従う国人は減り、佐治氏が代り勢力を伸ばし知多半島西部を押さえ大野城を奪う。
佐治為貞は海運の利益に目を付け、大野衆と呼ばれる佐治水軍を率い海上交通を握った。

佐治氏の水軍力・交易の利益を見込み信長は妹お犬の方を嫁がせ、空善は婿養子に迎えた。
信長に為貞が従い佐治為貞の長子善次が荒尾氏を継ぎ、織田家・佐治家・荒尾家は縁戚だ。

空善の娘は善次との間に荒尾御前と嫡男善久を生み、血筋を伝えたが若くして亡くなった。
空善は善次と相談し嫡男が生れた安心もあり、後妻に縁戚でもある水野信元の娘を迎える。

水野氏は鎌倉将軍に仕え尾張阿久比郷小河で地頭となり、土岐氏に追われるが生き抜いた。
低迷が続いたが、貞守の代に勢力を拡大し水野氏と名乗り西三河に緒川城、刈谷城を築く。

緒川城(愛知県知多郡東浦町)を居城とし隣国松平氏と縁戚を続けさらに勢力を拡大する。
知多半島を佐治氏と分け合い、荒尾氏は両家と境を接し、水野氏と縁戚になり安泰を願う。
水野信元の弟忠分(ただわけ)に善次の妹が嫁ぎ、佐治氏・水野氏・荒尾氏は縁戚を続けた。

信長が善次と善久を意気地なしと言い、娘婿の池田家は信長の厚い信頼を得て伸びていた。
そこで30歳になっても嫡男のいない善久の後継として1570年恒興次男輝政を養子に迎える。

1573年三方ヶ原の戦いで善久が戦死した。弟達がいたが輝政8歳が後継だと信長が決めた。
荒尾家は善次65歳が後見し輝政が当主となり、池田家と共に信長が賞賛する戦を続けた。
そして信長の死、小牧長久手の戦いと続き父・兄を亡くし輝政が池田宗家を継ぐ事になる。

善次は後妻、水野氏との間に成房・隆重が生まれており、成房が荒尾氏を継ぐと決める。
そして荒尾氏は輝政の臣となり、成房は荒尾家の血筋でない為、池田家からの妻を望む。

荒尾家の嫡流は輝政の母荒尾御前しかいない。荒尾御前は輝政の祖母お養の方と相談する。
お養の方は信長の父信秀との間に小田井殿を生み、成長後清洲三奉行家の織田信直に嫁ぐ。

その後織田信直も小田井殿も亡くなり、孫娘が牧野氏に嫁いだが死別しお養が引き取る。
清洲三奉行家は守護代織田本家の下に付く3家で信長と同格だが、信長死後意味をなくす。
お養の孫は信長の血も受け継ぎ、輝政の従兄弟であり、池田家嫡流のお養の血筋で完璧だ。

荒尾御前は成房の妻に小田井殿の娘を迎え、池田家と縁続きになり仕えるようにと決める。
お養は信長の乳母で、家付き娘として婿を取った一族の宝で、荒尾家には最高の嫁になる。

こうして荒尾家は池田家一門として輝政を支え、秀吉の命令に従い数々の武功を重ねた。
小田井殿の娘は成利、嵩就(たかなり)・成政・久成兄弟を生み、隆重は嵩就を養子にする。
ここで成房から成利と続く「荒尾但馬」、隆重から嵩就と続く「荒尾志摩」が出来ていく。

輝政は嫡流は池田家譜代を主に、督姫の子から始まる家は荒尾氏を主に家臣団を構成した。
こうして荒尾家は鳥取藩の筆頭家老となり、藩政に重きを成し、米子城を預かる事になる。

鳥取城に詰める本家2家と米子城・倉吉陣屋に留まる分家に分れ4家が鳥取藩家老職となる。
こうして鳥取藩家老職11家のうち4家を占め、他の家老の家に養子入りする者も多く出た。
米子城代、荒尾家は「自分手」支配と言う藩主さえも干渉できない独立した統治で続いた。

ただ関ヶ原の合戦の功により入城した中村一忠は17万5千石で次の加藤貞泰は6万石だった。
池田藩となり、池田由之は3万石で城代、その後の荒尾成利は1万5千石とわずかになった。

禄高の急減は、一国一城令でも存続を認められた名城、米子城の維持管理に直結した。
改修は困難となり築城時の形状は変わらず、建築物は傷み石垣を維持するのが精一杯であった。

 

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