鳥取城四方山話

伝説の乳母 『養徳院』

池田長吉(ながよし)は関ヶ原の戦いで戦功をあげ、3万石加増の鳥取藩6万石藩主となる。
勇んで鳥取城に入り全力を傾け鳥取城の拡張改修に取り組み、近世城郭の原型を築いた。

長吉の祖父は池田家の祖とされる恒利で、嫡男恒興を父に荒尾御前を母に生まれた3男だ。
池田家は古代豪族の紀氏(きし)の流れで清和源氏・橘氏と血筋が入り組みながら続く。

美濃池田荘に在地し治めた時から池田氏と名乗り、源平の争乱が起きると源氏に従い残る。
そして功を上げ摂津(大阪近辺)地頭も兼ね軍事力を蓄え、戦乱続く京でも力を発揮する。
摂津池田氏は京を制する有力者の間でうまく立ち回り、有力国人の地位を確立していく。

また美濃池田氏から尾張に出た一族が織田家に仕えていたが男子なく娘婿で引き継がれる。
摂津池田氏から婿養子、政秀を迎えたが生れたのはお養だけで、再び婿養子で引き継ぐ。

政秀は娘婿に河内国高安郡(大阪府八尾市東部)の豪族、滝川貞勝の次男、恒利を選ぶ。
摂津に近い出身の滝川貞勝と親交があり、貞勝は美濃近く近江甲賀の滝川氏の婿となった。

摂津から政秀を得て次に甲賀武家の恒利を得て、織田信秀が認める格式ある武将となる。
恒利が信秀に仕えて5年目、1534年那古野城で信秀の嫡男信長が生まれ池田家の運が開く。
信長には複数の乳母が付き育てられたが、2歳になった信長なのに乳離れが出来ないのだ。

乳が出ない乳母に信長が怒り、信秀は仕方なく乳の良く出る新しい乳母を探すよう命じた。
その時、出産直後のお養を恒利の主筋で縁戚にもなる信秀の重臣、森寺秀勝が推薦する。

恒興が生まれた直後で、十分な乳が出たお養は直ぐに城に上がり、信長に乳を含ませる。
信長は吸い寄せられるように乳を飲み他の乳母を拒否し直ぐにお養は唯一の乳母になった。

お養は信長に乳を含ませ残した恒興への申し訳なさと、信長との運命の出会いを実感する。
主君の嫡男の乳母はなりたくてもなれない誇るべき仕事で、お養は運の良さに驚き感謝だ。
そして、信長の抜きんでた感受性を痛いほど感じ、並の主君ではないと畏れ多く愛おしい。
後世の信長を見抜き、信長に安らぎをもたらした最初の人となり、つきっきりで育てる。

信秀はお養に満足し森寺秀勝を褒め、母を取られた恒興の面倒を見るように命じてくれた。
恒利は信秀に価値ある働きをしたと那古野(愛知県名古屋市中川区)城近くに屋敷を得る。

お養は恒利が信秀に重く用いられる事を願い懸命に働くが、2年後肝心の夫が亡くなった。
家付き娘として家を継いだが残された恒興はまだ2歳、尾張池田家の先行きが不安になる。

お養の心を見抜いた信秀は森寺秀勝に恒興の後見を命じ家督を継ぐことを許し安心させた。
1539年信秀は東に備え古渡城(愛知県名古屋市中区)を築城し那古野城を信長に譲り移る。

1546年信長は元服し林秀貞・平手政秀・青山与三右衛門・内藤勝介が家老として仕える。
信長の側にずっと仕えたお養も一つの区切りを感じ、信長の元を辞する事を信秀に伝えた。

その頃お養は我が家と城を行き来し恒興の世話、池田家中の束ねの役目も果たしていた。
池田家に戻り落ち着いて、恒興が信長に仕える日の為に武将としての教育をすると考えた。
だが、信秀はお養に恒興10歳を伴い古渡城で仕えるよう言い信長は嫌ったが引き離される。

お養31歳、恒興の信秀近習への取り立てに喜ぶが、信秀の愛を受け世話をする身ともなる。
信長の乳母になった時から信秀の熱い視線は感じており、当然のように嬉しく受け入れる。

信秀は恒興に厳しくも心のこもった教えを授け、恒興は武将として一人前になっていく。
1548年信秀はより東に末森城(名古屋市千種区城山町)を築き信長弟の信行を城主にした。

お養・恒興も信秀と共に末盛城に移る。恒興は同い年の信行と良く気が合い3年間仕える。
お養には信秀の子、小田井殿が生まれ恵まれた暮らしが続いたが、1551年信秀は急死した。

後継が信長となると、すぐにお養・恒興に那古野城に戻り信長に仕えるよう命じ、移る。
お養が最高の主君だと決めていた信長に恒興15歳が仕え、信長側近としての道が始まる。

お養には全ての時間を捧げて育てた信長は我が子以上の存在で、再び仕える事は幸せだ。
しかし信長17歳の立場は非常に厳しく、信秀41歳の急死の後で、家中をまとめ切れない。
信長は守護斯波氏、守護代織田本家、その下の三奉行家の一つでしかない家格で敵も多い。

お養は信長の普通でない姿を見続け、困難が増すほど闘志を燃やす性格も見抜いている。
必ず家中をまとめ率い果てしなく伸びるでしょうと、にっこりと信長を見つめ、励ます。

まず、弟信行との家督争いが起き、一度目は許し二度目の謀反を許さず謀殺を決める。
その時、信行を信用させ、おびき寄せ、とどめを刺す役目を、信行と親しい恒興に命じる。

お養は恒興に「主君は信長様だけだ。迷うことなく命令を守りなさい。」とはっきり言う。
恒興は役目を果たし、信長は信秀の元に去ったお養親子に持っていた不信感をぬぐい去る。
信長は恒興の忠誠心を認め、恒興も信長こそ命を賭け仕える主君だと確信し強く結ばれる。

信行の謀反騒動を通じ守護代の本家を滅亡させ、信長は織田本家の居城、清洲城に入った。
そして尾張守護、斯波義銀(しばよしかね)を傀儡とし、尾張の支配権を一手に握った。
目的のために冷酷に犠牲を払う信長の厳しさ、鋭く見通す先見の明で織田家中をまとめる。


2.池田恒興の妻  『善応院』荒尾御前

信長は信行の死で残された結婚間もない妻荒尾御前に同情し優しく恒興と再婚を命じた。
信行誅殺の褒美として荒尾御前との結婚を命じられ恒興は驚くが、お養は堂々と受けた。

お養は恒興が信長に高く評価されたと、死後20年の夫恒利に涙を浮かべ喜びの報告をした。
信長乳母、信秀の側室と異例の出世で織田家譜代の重臣から嫉妬された苦労の日々を思う。

高齢の側室で信秀の世話を任されただけと控えめに尽くしたが、信秀の愛は強く妬まれた。
日頃感じていた信秀の思いに答えたいと待ち焦がれていた愛の告白にためらわずに答えた。
信秀を看取る5年間は、信秀の妻であり信長の母だと心密かに思い定めて、堂々と耐えた。

ただ、母子とも大切にされ主君の子まで授り育て、幸運を感謝した時は余りに短かった。
信秀の死で立場は不安定になり、後継者次第では存在は抹殺されかねないと危機だった。

だけど信長に呼ばれ清洲城に入り、厳しい顔つきながらも小田井殿は妹だとの言葉を聞く。
信長を残し信秀の元に行った時の怒りの顔は目に焼き付き、今でも憎しみがあるとは思う。
だけど信長の全てを知るお養は気にせず頭を切り換え、堂々と清洲城の奥を守り束ねる。

次第に信秀の側室から信長の乳母に戻り信長の信頼を取り戻し、恒興も信長近習となる。
そして尾張池田家に比べ遙かに力のある荒尾家の荒尾御前と恒興との結婚が実現したのだ。

恒興21歳は信長側近として力を発揮しつつあるが、重臣に比べ小禄であり若輩でしかない。
力のある荒尾氏との縁戚は池田家の勢力を倍増させる事に繋がる快挙で、信長に感謝する。
美濃池田家は尾張に移り、恒興は池田家当主として織田家重臣となり飛躍する責務がある。

信長は今川義元に備える為、荒尾善次(よしつぐ)に木田城(東海市大田町)を守らせた。
だが義元勢は強く1556年善次の義父空善は戦死し、信長は空善を賞賛し荒尾家を重んじた。
それは空善の孫、善次の娘荒尾御前を弟信行と結婚させ、織田家の縁戚とする事だった。

荒尾家は空善に娘しか生まれず、隣国の佐治為定の子を娘婿養子とし後継に決め結婚した。
荒尾善次と名乗り、二人の間に嫡男善久と荒尾御前が生まれ、佐治家とは強い縁戚関係だ。

佐治家は甲賀から始まる一族で佐治水軍の将として伊勢湾全域の海上交通を握っていた。
信長の妹お犬の方を嫡男信方の妻に迎え、信長に臣従し水軍を駆使し交易も握る家柄だ。
信長は義兄の善次との関係を重視し荒尾家に要所木田城を任せ荒尾御前の結婚に繋がった。

信行は謀反を企て失敗し謹慎中だが、信長は荒尾御前一行を送り込み監視体制を強化する。
信行も荒尾御前を迎えざるを得ないが、すでに相愛の高嶋の局が仕え信澄が生まれていた。

信行と荒尾御前との結婚はしっくりいかず、信長とも相容れず再び謀反を起こし殺される。
荒尾御前は1年余り信行の追い込まれる不安な心を見続け同情するが、愛は生れず冷静だ。
斎藤道三死後の危うい信長を狙う織田家お家騒動を見、信長の偉大さと家臣の働きを知る。

信長は荒尾御前に不幸な結婚を結ばせたと詫び、恒興は将来有望な武将で良縁だと勧めた。
死別でも実家に戻るのは荒尾家の期待を背負った結婚の失敗に繋がり、恥ずかしい事だ。
その為、荒尾御前は信長の義弟、恒興との再婚を喜び、実家に戻ることなく池田家に嫁ぐ。

重臣でもなく母が側室だった縁だけで信長に仕えたと噂される恒興には幸運を呼ぶ快挙だ。
結婚は二人が待ち望む吉事となり、お互いをいたわり合い、愛情溢れた新婚生活が始まる。
結婚の翌年に嫡男元助が生まれ、続いて安養院・天球院・輝政・長吉・長政と生まれる。

荒尾家・滝川家の支援を受け、恒興は信長近習として頭角を現し、池田家は重要性を増す。
だが1560年の今川義元との戦いで、信長は消極的な善次の戦いぶりに不満で、苦境に陥る。
桶狭間の戦いの直前で、義元の死まで荒尾氏周辺の豪族は強豪義元との戦いを避けたのだ。

義元を殺し勢いづく信長は、善次・善久親子を家臣として信用できないと冷たい目で見る。
荒尾御前は夫恒興の活躍を支え喜ぶが、潔癖症の信長に嫌われた実家に不安で気がかりだ。
池田家に比べ支配地・兵力は荒尾家が上であり、両家が緊密な関係を結ぶ事が必要と思う。

善次も同じ考えで、1570年恒興・荒尾御前の次男輝政5歳を荒尾家の養子にしたいと頼む。
1572年善久が三方ヶ原の戦いで戦死し、善次は善久の子でなく輝政を後継にと信長に願う。
ここから荒尾家と池田家の立場を変え、善次は恒興を支えながら信長に仕える事を選んだ。

荒尾御前は母の血筋を受け継ぐ輝政が荒尾家を継ぎ、亡き母の安堵の顔を想いほっとする。
荒尾家に弟達もいるが、後妻の水野信元の娘との子達で、荒尾氏の血筋ではないのだから。

以後、母として嫡男元助と次男輝政に両家を継ぐ重い責任と力を合わせる大切さを教える。
母の話を聞き、二人とも目を輝かせ、戦で手柄を立て家を大きくする、と力強く宣言する。

恒興は確実に出世していき、信長の乳兄弟、義弟として 1570年には犬山城を与えられる。
1573年、東美濃を治める信忠軍団の主翼となり、本拠美濃で思う存分働く、と張り切る。

1580年信長に従い摂津を平定し、本家筋の摂津池田家は滅び代わって旧領地を引き継いだ。
恒興は摂津の軍事指揮権を得て中川清秀・高山右近・安部二右衛門・塩河長満をまとめる。
摂津池田家と縁戚になる有力武将も率い、信長の家老になった感謝と喜びと責務を感じる。

恒興は摂津の武将、輝政の荒尾家、滝川家、娘婿の森家と共に信長家臣団の大勢力となる。
荒尾御前は義母お養と顔を見合い、池田家の繁栄に尽くせたと過去の苦労を笑い褒め合う。

 

3.池田長吉(ながよし)と家康の次女、督姫(とくひめ)

時代は移り、織田信長も、豊臣秀吉も亡くなり、天下分け目の戦いで家康が勝利する。
長吉30歳は兄輝政と共に東軍に加わり美濃岐阜城攻め、近江水口岡山城攻めと勇猛に戦う。

長吉は3男に生まれ長男に期待する父、次男に力を入れる母の思いを見て、いじけていた。
いらん子だと反抗的な態度をとり続け、祖母お養の側を離れず、反抗的態度を取り続けた。

恒興も困りお養と相談し、腕白な長吉の守り役に森寺秀勝・伊木忠次を付け、養育を頼む。
彼らは長吉に、強い武将になることが全てを解決すると武芸の鍛錬に熱心に取り組ませた。

長吉も両親から期待される良くできた兄二人以上に評価されたいと武芸の修養に励み育つ。
長吉11歳は信長に仕え始め気に入られ、1581年秀吉の養子となり家を起こすよう命じた。

信長は天下を治める織田政権の安定した運営の為、強力な譜代の臣の組織を作ろうとした。
その為、長吉を秀吉に預け、秀吉と恒興が縁戚で結ばれた信長譜代の臣となるよう企てた。

恒興も層の厚い家臣団を築く為に、信長に願い織田家の重臣を直臣としたり、縁戚となる。
桶狭間の戦い後に直臣に迎えた森寺秀勝や伊木忠次(ただつぐ)は、父とも思う逸材だった。

伊木忠次は美濃伊木山城(各務原市鵜沼)攻めで見事に攻め落とし与えられた信長直臣だ。
その戦ぶりを信長が褒め名を伊木氏とし居城とした、戦勲の数も多い、信長自慢の猛将だ。
恒興は森寺秀勝から優秀な武将だと推され信長に願い直臣とし、池田家の誇る武将となる。

長吉が秀吉の養子となると、伊木忠次が秀吉と恒興との連絡を取り持つ役目を任せられた。
秀吉も伊木忠次を気に入り長吉と忠次の娘との結婚を決め、直臣にも似た扱いをしていく。

だがその間は短く、信長・恒興・元助の死と信じられない悪夢が続き池田家の危機となる。
秀吉は動揺せず冷静に、信用している伊木忠次に池田家の後継について意見を聞いた。

忠次は娘婿長吉を推したかったが、14歳の長吉では秀吉の思うがままにされる、と恐れた。
そこで、養子入りした荒尾家を見事に率いる次男の輝政20歳の能力評価し後継に強く推す。

秀吉も同意し輝政が家督を継ぐ。長吉は池田家の後継になると確信していたが裏切られた。
輝政は恒興が集め築いた譜代の重臣に大きな柱を失い揺れ動く池田家家中のまとめを頼む。

輝政は忠次の推薦で池田家当主になり、筆頭家老としての奮闘で家中を治め、恩を感じる。
輝政は忠次に生涯感謝を忘れず伊木家は池田家嫡流、岡山藩筆頭家老の地位を不動にした。
荒尾家から戻った輝政は池田家には遠慮し立ち入らず当主に抜擢した秀吉への忠誠に励む。

事の次第を聞き、長吉は忠次にも裏切られたと思い、秀吉に理由を問い悔しさを訴える。
秀吉から長吉の将来に考えがある任せろ、と激励され秀吉を信じ、戦いに従い功を上げる。

長吉は秀吉を信じ戦い近江国佐倉3万石を与えられたが、兄輝政と比べわずかでしかない。
妻が亡くなり妻の妹と再婚する悲しみの中で、まだ秀吉の養子として待遇されると信じた。

しかし秀吉は長吉より輝政の力を期待し、1594年家康の次女督姫と輝政の結婚を決めた。
長吉の妻と比べ兄嫁は250万石の大大名の姫で、長吉は池田家分家でしかないと思い知る。

しかも伊木忠次は輝政の為に秀吉・家康に対し一歩も引かず主張し、池田家の誇りを守る。
兄輝政に忠誠を尽くし池田家にかけがえのない人材となり娘婿長吉とは儀礼的付き合いだ。

長吉は伊木氏の姉娘との縁は短かいが、妹と再婚し嫡男長幸を始め4人の男子に恵まれた。
次男は長吉が幼い頃から頼りにした森寺忠勝の養子となる。義弟、伊木忠繁の母の実家だ。
輝政が池田家の安定の為に力を奮い始め、長吉は分家として役目を果たすしかないと知る。

その時秀吉が亡くなり、督姫の影響力は増し、池田家は家康に従い長吉へも支持を求める。
長吉は石田三成らとは合わず、憎んだこともある督姫だが家康に従うのは賛成で了解した。

家康に従い戦い鳥取6万石藩主となる。ありったけの力で仕えた秀吉よりはるかに厚遇だ。
輝政の督姫を妻にした運の良さ、時代の流れを読む目に感心し、とても叶わないと悟る。
輝政が督姫の威光で西国将軍と呼ばれるまでの勢力を持つのを見続けるが、気にならない。

長吉は鳥取城の築城、城下の整備にひたすら取り組み一国一城の主となる満足感を味わう。
しかし、余りに熱心な城づくりは、大阪方に近い大名と見られて、幕府の厳しい目が光る。
やはり大坂の陣を前にして1614年10月17日長吉は亡くなる。兄輝政の死の1年半後だった。

その後、督姫が亡くなると長吉の家系は幕府に翻弄され、悲しく潰されていくことになる。
長吉が精魂込めて築城した鳥取城だったが、嫡男長幸が継ぎ在城したのは3年だけだった。
本家の池田光政の鳥取入りが決まり池田長幸は5千石加増されて備中松山藩へ移封された。

長幸は池田家と親しい森家の姫と結婚し、義父忠政の近くに移すと言う幕府の配慮らしい。
だが鳥取城から離され、長幸は納得できず幕府への忠誠心が揺らぎ、独自の行動が増える。
多くの子に恵まれ森家・堀家・分部家など外様大名でありながらまた外様大名と縁を結ぶ。

そして嫡男長常に男子が生まれず32歳で亡くなる時、養子を願うが認められず断絶した。
池田本家か幕府に近い縁者を養子とし家系を守るべきを、自分の思いに素直に生き改易だ。


4.督姫と鳥取城

1617年7月、輝政の嫡男利隆32歳が当然亡くなり、その子光政7歳が後を継ぐ事に決まる。
利隆は姫路藩42万石藩主だったが光政は鳥取藩32万5千石と大きく減らされ惨い仕打ちだ。

池田本家は姫路藩52万石だったが、輝政・督姫という大きな存在の死で縮小化されていく。
藩主幼少ゆえ要衝の姫路の統治は難しいと伝わるが、光政は理由にならない理由だと思う。
光政は天才的な記憶力洞察力があり、幼くても幕府の池田家への厳しい措置だと理解した。

ところが、1632年岡山藩主忠雄(ただかつ)30歳が突然亡くなり嫡男光仲2歳が後継となる。
またしても藩主幼少ゆえと、光政が岡山藩31万5千石に移り、光仲が鳥取藩藩主となる。
本家光政が移る岡山藩より鳥取藩は1万石多く、幕府の考える池田家の骨格が出来上がる。

督姫の孫光仲は徳川親藩に準じた家系となり、池田本家より石高の多い鳥取藩主とされた。
こうして、鳥取池田家が徳川家の血筋を受け継ぎ、葵の紋と松平姓を許され明治まで続く。

女の力で藩を新たに、しかも大藩であり、また嫡流も活かしながら、創設するのは珍しい。
家康の愛情深い娘ならこそだ。池田家は節々に活躍する女性の力で生き抜き大きくなる。
督姫はその時その時をこだわりなく、流れに沿って自然にわがままに生き鳥取藩を築いた。

秀吉は北条家存続を巡り顔を合わせた督姫に東三河15万石藩主池田輝政との再婚を命じた。
1594年二人とも29歳の再婚同士で輝政には父・兄の仇でもある家康の姫と結婚式を挙げた。

輝政は秀吉の意図が分からず結婚当初はただ督姫を大切にし、督姫は思うままに行動した。
その為、輝政は秀吉・秀次に従い猛烈に忙しく、督姫とは別居状態で長く子供は出来ない。

督姫は再婚の時、秀吉から伏見城下に広大な屋敷地を与えられ家康が豪壮な御殿を建てた。
輝政の妻となっても、お気に入りの督姫屋敷に娘や母を呼んで、気ままに楽しく過ごした。

ところが1598年秀吉の死の前から、督姫は輝政との会話を求め二人の時間を持とうとする。
輝政も秀吉への屈折した思い家康への尊敬を話し出しお互いをいたわり波長が合っていく。

輝政は父恒興と秀吉は力では差があるが、信長は家老として同等に扱かったと知っていた。
京を押える摂津を与えられ信忠の補佐の役目もあり信長との信頼関係は秀吉より上だった。

その為、秀吉は丹羽長秀・恒興の協力で織田家筆頭の地位に就いた恩に清洲会議で報いた。
その後も織田家を完全に配下にするまで、恒興を繋ぎ止める為に大判振る舞いの話をした。
柴田勝家を滅ぼし長秀は123万石を得、家康・織田信雄を押え恒興は尾張を得るはずだった。

恒興は旧領の摂津を含め美濃大垣13万石を、之助は岐阜城主として相応の領地を得ていた。
情勢は刻々と変わり秀吉は勢力を伸ばしつつ、矢継ぎ早に恩賞を与え恒興の助力を頼んだ。
恒興は秀吉との関係を上下関係ではなく盟友だと思い、傲慢になっていく態度に怒ったが。

家康を押えられず父・兄は戦死し、口約束はすべて消え輝政は美濃大垣13万石だけを得た。
父は尾張を兄は岐阜を得る約束だと知る輝政だが家督を継いだ恩を忘れるなと秀吉は言う。

秀吉の勢いに勝てる訳がなく、池田家が残り輝政の家督を認めた秀吉に感謝すべきだった。
以後、輝政は忍従の日々で、秀吉政権の生みの親であるが一家臣として仕え実力を蓄える。

秀吉は恒興の戦死に報い豊臣秀次と輝政の妹若御前と結婚させ、輝政を秀次の家老とした。
輝政は秀吉の一門となり、秀次の義父として豊臣政権で影響力を持ち、重きを成していく。

ただ秀次謀反の秀吉への疑念・江戸と京を往復する家康の再々の岐阜城での交友があった。
秀吉死後を見つめながら、家康との親交を深め、改めて督姫と夫婦としての契りを結ぶ。

そして秀吉の死の翌年、結婚五年目にして二人の間に最初の子、忠継(ただつぐ)が生れる。
督姫34歳での高齢出産だが無事生まれ、輝政・督姫の中年夫婦が日を追って仲良くなる。
次々と46歳まで7人の子を生み続ける督姫は、父家康に似て驚異的な体力の持ち主だった。

輝政は信長が決めた妻、中川氏との間に利隆が生まれ、文句ない嫡男として育てられた。
その妻を亡くし新たな妻に輝政と疎遠な家康の娘督姫を選び秀吉への忠誠心を試したのだ。

だけど家康は、関ヶ原の戦いでの池田家の活躍は督姫の力が大きいと、督姫を褒めていた。
督姫も得意で、子達への恩賞で報われるよう、伏見城で母と共に頼み家康はうなずいた。

この頃、家康も母西郡局(にしごおりのつぼね)も伏見城にいて、督姫は自由に出入りした。
輝政に遠慮することのない気軽な督姫は姫路城が居城だけど、度々伏見城に遊びに行った。

まもなく1603年岡山藩主小早川秀秋が子なく亡くなり改易され、忠継が得て願いは叶う。
忠継は改易後の備前岡山藩28万石をわずか4歳で与えられ、督暇は余りの早さに興奮した。
同時に、家康の力を改めて感じ、父が願えば何でも実現するに違いない、と背筋が凍る。

そして忠継の将来の為母を喜ばせたくて、鵜殿家に忠継の守り役を頼みたいと家康に願う。
鵜殿家は旗本だったが、家康は良しと了解し、叔父長次とその子長之らを姫路に行かせた。

輝政は督姫に生家は池田家だが、母の実家、荒尾家に養子に入り実家と思い育ったと言う。
その為、父以来の池田家家臣を利隆に付け、忠継の家系に荒尾家を仕えさせたいと頼んだ。
督姫も異議はなく荒尾家が筆頭家老、鵜殿家が藩主一門として忠継家臣団を構成していく。

1610年次男、忠雄に淡路洲本6万3千石を与えられ、督姫は下の子達も大名にしたいと思う。
こうして、池田家は嫡流と督姫の家系と二つの流れが出来、督姫の得意満面の日々が続く。

輝政も豊臣秀頼を支えつつ、家康の娘婿としての信頼も得、池田家の飛躍と安泰を目指す。
だが、大坂の陣を前に輝政が亡くなり、家康が大坂城の堀を埋め、勝利が見えた時だった。
督姫が戦勝祝いに伏見城の家康を訪れて、1615年3月3日全てを終えたかのように亡くなる。

直後1615年3月22日忠継が岡山城で亡くなる。外様大名池田家の勢いが止まり落ちていく。
忠継の後を次男忠雄が継ぎ、岡山城主となり、17年後1632年5月21日幼子を残し亡くなる。

恐ろしい悲運の連鎖があり、督姫の他の子達も不幸の数々に見舞われ、苦難の時が続く。
だが光仲は63歳の長寿を全うし子達に恵まれ隠居の後も嫡男を見守り鳥取藩を安泰とした。


5.督姫の母、 西郡局(にしごおりのつぼね)

督姫は、家康晩年に生まれた三人の弟達を除けば、家康と最も強い親子関係を築いた。
それは母西郡局と家康の愛が強く、女の子であっても望まれて生まれた姫だったからだ。

1560年、家康が今川義元の人質だった時、義元は桶狭間で織田信長の奇襲攻撃を受けた。
信長の戦術に今川方は混乱し織田方に比べ圧倒的多数の兵力を持ちながら義元は殺された。
家康は義元に従っていたが、信長の勝利を確認すると戦線を離脱し、居城岡崎城に帰る。

そして信長と同盟を結び、今川家に人質となり残る妻子が気がかりで取り戻そうと考える。
そこで義元の妹婿、三河西郡城主、鵜殿長照を殺し子達を捕虜とし妻子との交換を求めた。
鵜殿家は源頼朝から西郡の地を与えられ多くの分家を作り勢力を築き続く歴史ある名門だ。

無事取り戻し築山殿と子達は喜ぶが離ればなれで二年以上の月日が経ち、愛は醒めていた。
家康の妻は今川義元お気に入りの姪築山殿だが信長の目もあり押しつけられた妻だとした。

家康は人質交換の条件を決めている時、長照の弟の娘西郡局に恋し築山殿を忘れたのだ。
西郡城が落城し家康が開城後の検分をした時、15歳の健康的できびきびした美人に会った。

鵜殿長照は義元の重要な一門だが、弟長忠一族は家康に味方し同盟を結ぶ事を願っていた。
そこで家康と友好的な関係を築き鵜殿家の安泰を図ろうと西郡局に接待を命じ差し出した。
松平一門と鵜殿家との縁戚はずっと続いて、古くからの信頼関係はあり不思議ではない。

家康20歳、長年の今川家の呪縛から解き放たれ一番力がみなぎった時の運命の出逢いだ。
直ぐに愛され西郡局は初めての家康の側室となり、岡崎城でいつも側に居る存在となる。

そして家康と西郡局が共に暮らして三年、1615年家康は男子を望んだが、督姫が生まれた。
だが岡崎城はずれの築山屋敷に築山殿を閉じこめて、本丸で家康と暮らす西郡局だった。

家康は築山殿との間に駿府で生まれた二人の子が居たが今川家の子と思え愛情を持てない。
居城岡崎城での初めての子督姫を、家康は時間があれば可愛がり、督姫の笑顔を好んだ。

家康は人質時代から長年思い描いた岡崎の政治に取り組み、内政に効果が表れ得意だった。
宗教も統制下に置こうと甘く考えたが三河一向一揆が起こり家中は混乱し家康は狼狽した。
家康の宗教観は浅く、信仰する家臣が反逆し家中が二分し家臣同士が相争い押えられない。

そんな家康に、敬虔な法華宗信者西郡局は宗教は押さえるべきでなく共存しかないと説く。
武士は死と隣り合わせに生き信仰による精神の安定は欠かせない、と熱心に家康に言う。

西郡局の影響を受け家康も僧のもつ力高い学識を認め、共存の道を探り最終的に押さえた。
また西郡局は本興寺(豊橋市)が今川家滅亡の巻き添えで壊される危機を家康に願い救う。

1570年家康は信長との同盟での約束通り、嫡男信康と信長娘徳姫との結婚式を執り行う。
同盟を結ぶ条件としての結婚は常識だが、信長は婚約だけで様子を見て納得後結婚させる。
1562年結んだ同盟で家康は忠誠心を試され続け信長から信を得て、ようやく縁組となった。

同時に、家康は拡大した領地を治める為に広い浜松城を築き、岡崎城を信康に譲り移る。
愛する西郡局の長年の労に報いるための浜松城だ、と家康は言い晴れやかに共に入城した。
西郡局は岡崎城に残された築山殿と離れ、やっと安心して家康の側で暮らし奥を仕切る。

だけど残された築山殿は次第に力を増し、たまに合う家康とは険悪で、諍いが絶えない。
そんな時、家康は築山殿へ当てつけるように、築山殿の侍女との間に次男秀康が生まれる。
誇りを傷つけられた築山殿は怒り、我が子信康を溺愛し、嫁の徳姫とも険悪になっていく。

西郡局も様子を聞き憂い30歳を過ぎもう子は望めないが、家康の為に出来ることを考える。
家康が秀康に愛情がないのを見て、信康以外に跡継ぎになれる男子が必要だと決意した。
家康も35歳、急がなくてはならないと、信頼でき必ず優秀な子が生める側室を探し始める。

西郡局は西郷城主西郷一族ゆかりの姫、西郷局(さいごうのつぼね)に好感を持ち選んだ。
西郷氏は鵜殿氏と領地も近く長年の交流があり一足早く家康の臣下となり戦い続けていた。

西郷局は子を生んだ経験があり賢く家康もきっと気に入る、と自信を持って家康に勧めた。
西郷局16歳は浜松城で側室となり、期待通り1579年秀忠、1580年忠吉と二人の男子を生む。

家康は喜び安心したように秀忠が誕生直後、信長の命だと嫡男信康と築山殿を殺害した。
信康と徳姫の間に登久姫と熊姫の二人の姫が生れていたが、家康は自ら育てると放さない。
姫との別れを拒む徳姫だが、織田家からの家臣、嫁入道具と共に信長の元に帰らされた。

督姫は幼くして別れ滅多に会わず、言葉も多くは交わさない兄信康だが大切に思っていた。
家康嫡男としての風格を備え、勇猛果敢に戦う知謀の将だと、聞いていたが突然の別れだ。
浜松城に引き取られた3歳と2歳の姫達は西郡局が育て、督姫は妹だと大喜びで可愛がるが。

西郡局は権勢欲はなく鵜殿家一族が家康の旗本となり7家を超え優遇され、十分満足した。
なのに、督姫は池田忠継の守役を鵜殿家に頼み、督姫の配慮に感謝し弟に孫の世話を頼む。

男子を生まなかった限界もあり、西郡局・家康死後は鵜殿家への優遇は少なくなるが。
娘督姫に従った弟一族は藩主を支え、鳥取池田家の家老として、藩政に重きを占め続く。

 

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