池田長吉(ながよし)は関ヶ原の戦いで戦功をあげ、3万石加増の鳥取藩6万石藩主となる。 長吉の祖父は池田家の祖とされる恒利で、嫡男恒興を父に荒尾御前を母に生まれた3男だ。 美濃池田荘に在地し治めた時から池田氏と名乗り、源平の争乱が起きると源氏に従い残る。 また美濃池田氏から尾張に出た一族が織田家に仕えていたが男子なく娘婿で引き継がれる。 政秀は娘婿に河内国高安郡(大阪府八尾市東部)の豪族、滝川貞勝の次男、恒利を選ぶ。 摂津から政秀を得て次に甲賀武家の恒利を得て、織田信秀が認める格式ある武将となる。 乳が出ない乳母に信長が怒り、信秀は仕方なく乳の良く出る新しい乳母を探すよう命じた。 恒興が生まれた直後で、十分な乳が出たお養は直ぐに城に上がり、信長に乳を含ませる。 お養は信長に乳を含ませ残した恒興への申し訳なさと、信長との運命の出会いを実感する。 信秀はお養に満足し森寺秀勝を褒め、母を取られた恒興の面倒を見るように命じてくれた。 お養は恒利が信秀に重く用いられる事を願い懸命に働くが、2年後肝心の夫が亡くなった。 お養の心を見抜いた信秀は森寺秀勝に恒興の後見を命じ家督を継ぐことを許し安心させた。 1546年信長は元服し林秀貞・平手政秀・青山与三右衛門・内藤勝介が家老として仕える。 その頃お養は我が家と城を行き来し恒興の世話、池田家中の束ねの役目も果たしていた。 お養31歳、恒興の信秀近習への取り立てに喜ぶが、信秀の愛を受け世話をする身ともなる。 信秀は恒興に厳しくも心のこもった教えを授け、恒興は武将として一人前になっていく。 お養・恒興も信秀と共に末盛城に移る。恒興は同い年の信行と良く気が合い3年間仕える。 後継が信長となると、すぐにお養・恒興に那古野城に戻り信長に仕えるよう命じ、移る。 お養には全ての時間を捧げて育てた信長は我が子以上の存在で、再び仕える事は幸せだ。 お養は信長の普通でない姿を見続け、困難が増すほど闘志を燃やす性格も見抜いている。 まず、弟信行との家督争いが起き、一度目は許し二度目の謀反を許さず謀殺を決める。 お養は恒興に「主君は信長様だけだ。迷うことなく命令を守りなさい。」とはっきり言う。 信行の謀反騒動を通じ守護代の本家を滅亡させ、信長は織田本家の居城、清洲城に入った。 |
信長は信行の死で残された結婚間もない妻荒尾御前に同情し優しく恒興と再婚を命じた。 お養は恒興が信長に高く評価されたと、死後20年の夫恒利に涙を浮かべ喜びの報告をした。 高齢の側室で信秀の世話を任されただけと控えめに尽くしたが、信秀の愛は強く妬まれた。 ただ、母子とも大切にされ主君の子まで授り育て、幸運を感謝した時は余りに短かった。 だけど信長に呼ばれ清洲城に入り、厳しい顔つきながらも小田井殿は妹だとの言葉を聞く。 次第に信秀の側室から信長の乳母に戻り信長の信頼を取り戻し、恒興も信長近習となる。 恒興21歳は信長側近として力を発揮しつつあるが、重臣に比べ小禄であり若輩でしかない。 信長は今川義元に備える為、荒尾善次(よしつぐ)に木田城(東海市大田町)を守らせた。 荒尾家は空善に娘しか生まれず、隣国の佐治為定の子を娘婿養子とし後継に決め結婚した。 佐治家は甲賀から始まる一族で佐治水軍の将として伊勢湾全域の海上交通を握っていた。 信行は謀反を企て失敗し謹慎中だが、信長は荒尾御前一行を送り込み監視体制を強化する。 信行と荒尾御前との結婚はしっくりいかず、信長とも相容れず再び謀反を起こし殺される。 信長は荒尾御前に不幸な結婚を結ばせたと詫び、恒興は将来有望な武将で良縁だと勧めた。 重臣でもなく母が側室だった縁だけで信長に仕えたと噂される恒興には幸運を呼ぶ快挙だ。 荒尾家・滝川家の支援を受け、恒興は信長近習として頭角を現し、池田家は重要性を増す。 義元を殺し勢いづく信長は、善次・善久親子を家臣として信用できないと冷たい目で見る。 善次も同じ考えで、1570年恒興・荒尾御前の次男輝政5歳を荒尾家の養子にしたいと頼む。 荒尾御前は母の血筋を受け継ぐ輝政が荒尾家を継ぎ、亡き母の安堵の顔を想いほっとする。 以後、母として嫡男元助と次男輝政に両家を継ぐ重い責任と力を合わせる大切さを教える。 恒興は確実に出世していき、信長の乳兄弟、義弟として 1570年には犬山城を与えられる。 1580年信長に従い摂津を平定し、本家筋の摂津池田家は滅び代わって旧領地を引き継いだ。 恒興は摂津の武将、輝政の荒尾家、滝川家、娘婿の森家と共に信長家臣団の大勢力となる。 |
時代は移り、織田信長も、豊臣秀吉も亡くなり、天下分け目の戦いで家康が勝利する。 長吉は3男に生まれ長男に期待する父、次男に力を入れる母の思いを見て、いじけていた。 恒興も困りお養と相談し、腕白な長吉の守り役に森寺秀勝・伊木忠次を付け、養育を頼む。 長吉も両親から期待される良くできた兄二人以上に評価されたいと武芸の修養に励み育つ。 信長は天下を治める織田政権の安定した運営の為、強力な譜代の臣の組織を作ろうとした。 恒興も層の厚い家臣団を築く為に、信長に願い織田家の重臣を直臣としたり、縁戚となる。 伊木忠次は美濃伊木山城(各務原市鵜沼)攻めで見事に攻め落とし与えられた信長直臣だ。 長吉が秀吉の養子となると、伊木忠次が秀吉と恒興との連絡を取り持つ役目を任せられた。 だがその間は短く、信長・恒興・元助の死と信じられない悪夢が続き池田家の危機となる。 忠次は娘婿長吉を推したかったが、14歳の長吉では秀吉の思うがままにされる、と恐れた。 秀吉も同意し輝政が家督を継ぐ。長吉は池田家の後継になると確信していたが裏切られた。 輝政は忠次の推薦で池田家当主になり、筆頭家老としての奮闘で家中を治め、恩を感じる。 事の次第を聞き、長吉は忠次にも裏切られたと思い、秀吉に理由を問い悔しさを訴える。 長吉は秀吉を信じ戦い近江国佐倉3万石を与えられたが、兄輝政と比べわずかでしかない。 しかし秀吉は長吉より輝政の力を期待し、1594年家康の次女督姫と輝政の結婚を決めた。 しかも伊木忠次は輝政の為に秀吉・家康に対し一歩も引かず主張し、池田家の誇りを守る。 長吉は伊木氏の姉娘との縁は短かいが、妹と再婚し嫡男長幸を始め4人の男子に恵まれた。 その時秀吉が亡くなり、督姫の影響力は増し、池田家は家康に従い長吉へも支持を求める。 家康に従い戦い鳥取6万石藩主となる。ありったけの力で仕えた秀吉よりはるかに厚遇だ。 長吉は鳥取城の築城、城下の整備にひたすら取り組み一国一城の主となる満足感を味わう。 その後、督姫が亡くなると長吉の家系は幕府に翻弄され、悲しく潰されていくことになる。 長幸は池田家と親しい森家の姫と結婚し、義父忠政の近くに移すと言う幕府の配慮らしい。 そして嫡男長常に男子が生まれず32歳で亡くなる時、養子を願うが認められず断絶した。 |
1617年7月、輝政の嫡男利隆32歳が当然亡くなり、その子光政7歳が後を継ぐ事に決まる。 池田本家は姫路藩52万石だったが、輝政・督姫という大きな存在の死で縮小化されていく。 ところが、1632年岡山藩主忠雄(ただかつ)30歳が突然亡くなり嫡男光仲2歳が後継となる。 督姫の孫光仲は徳川親藩に準じた家系となり、池田本家より石高の多い鳥取藩主とされた。 女の力で藩を新たに、しかも大藩であり、また嫡流も活かしながら、創設するのは珍しい。 秀吉は北条家存続を巡り顔を合わせた督姫に東三河15万石藩主池田輝政との再婚を命じた。 輝政は秀吉の意図が分からず結婚当初はただ督姫を大切にし、督姫は思うままに行動した。 督姫は再婚の時、秀吉から伏見城下に広大な屋敷地を与えられ家康が豪壮な御殿を建てた。 ところが1598年秀吉の死の前から、督姫は輝政との会話を求め二人の時間を持とうとする。 輝政は父恒興と秀吉は力では差があるが、信長は家老として同等に扱かったと知っていた。 その為、秀吉は丹羽長秀・恒興の協力で織田家筆頭の地位に就いた恩に清洲会議で報いた。 恒興は旧領の摂津を含め美濃大垣13万石を、之助は岐阜城主として相応の領地を得ていた。 家康を押えられず父・兄は戦死し、口約束はすべて消え輝政は美濃大垣13万石だけを得た。 秀吉の勢いに勝てる訳がなく、池田家が残り輝政の家督を認めた秀吉に感謝すべきだった。 秀吉は恒興の戦死に報い豊臣秀次と輝政の妹若御前と結婚させ、輝政を秀次の家老とした。 ただ秀次謀反の秀吉への疑念・江戸と京を往復する家康の再々の岐阜城での交友があった。 そして秀吉の死の翌年、結婚五年目にして二人の間に最初の子、忠継(ただつぐ)が生れる。 輝政は信長が決めた妻、中川氏との間に利隆が生まれ、文句ない嫡男として育てられた。 だけど家康は、関ヶ原の戦いでの池田家の活躍は督姫の力が大きいと、督姫を褒めていた。 この頃、家康も母西郡局(にしごおりのつぼね)も伏見城にいて、督姫は自由に出入りした。 まもなく1603年岡山藩主小早川秀秋が子なく亡くなり改易され、忠継が得て願いは叶う。 そして忠継の将来の為母を喜ばせたくて、鵜殿家に忠継の守り役を頼みたいと家康に願う。 輝政は督姫に生家は池田家だが、母の実家、荒尾家に養子に入り実家と思い育ったと言う。 1610年次男、忠雄に淡路洲本6万3千石を与えられ、督姫は下の子達も大名にしたいと思う。 輝政も豊臣秀頼を支えつつ、家康の娘婿としての信頼も得、池田家の飛躍と安泰を目指す。 直後1615年3月22日忠継が岡山城で亡くなる。外様大名池田家の勢いが止まり落ちていく。 恐ろしい悲運の連鎖があり、督姫の他の子達も不幸の数々に見舞われ、苦難の時が続く。 |
督姫は、家康晩年に生まれた三人の弟達を除けば、家康と最も強い親子関係を築いた。 1560年、家康が今川義元の人質だった時、義元は桶狭間で織田信長の奇襲攻撃を受けた。 そして信長と同盟を結び、今川家に人質となり残る妻子が気がかりで取り戻そうと考える。 無事取り戻し築山殿と子達は喜ぶが離ればなれで二年以上の月日が経ち、愛は醒めていた。 家康は人質交換の条件を決めている時、長照の弟の娘西郡局に恋し築山殿を忘れたのだ。 鵜殿長照は義元の重要な一門だが、弟長忠一族は家康に味方し同盟を結ぶ事を願っていた。 家康20歳、長年の今川家の呪縛から解き放たれ一番力がみなぎった時の運命の出逢いだ。 そして家康と西郡局が共に暮らして三年、1615年家康は男子を望んだが、督姫が生まれた。 家康は築山殿との間に駿府で生まれた二人の子が居たが今川家の子と思え愛情を持てない。 家康は人質時代から長年思い描いた岡崎の政治に取り組み、内政に効果が表れ得意だった。 そんな家康に、敬虔な法華宗信者西郡局は宗教は押さえるべきでなく共存しかないと説く。 西郡局の影響を受け家康も僧のもつ力高い学識を認め、共存の道を探り最終的に押さえた。 1570年家康は信長との同盟での約束通り、嫡男信康と信長娘徳姫との結婚式を執り行う。 同時に、家康は拡大した領地を治める為に広い浜松城を築き、岡崎城を信康に譲り移る。 だけど残された築山殿は次第に力を増し、たまに合う家康とは険悪で、諍いが絶えない。 西郡局も様子を聞き憂い30歳を過ぎもう子は望めないが、家康の為に出来ることを考える。 西郡局は西郷城主西郷一族ゆかりの姫、西郷局(さいごうのつぼね)に好感を持ち選んだ。 西郷局は子を生んだ経験があり賢く家康もきっと気に入る、と自信を持って家康に勧めた。 家康は喜び安心したように秀忠が誕生直後、信長の命だと嫡男信康と築山殿を殺害した。 督姫は幼くして別れ滅多に会わず、言葉も多くは交わさない兄信康だが大切に思っていた。 西郡局は権勢欲はなく鵜殿家一族が家康の旗本となり7家を超え優遇され、十分満足した。 男子を生まなかった限界もあり、西郡局・家康死後は鵜殿家への優遇は少なくなるが。 |