城の四方山話 その2

6.名城を造ればリストラ

石高の割りにがんばり、今も人々を楽しませる名城を築いた大名の行く末は、あまり芳しくない。築城が集中した中国地方を例にみてみよう。

■津山藩森家
1604年から1616年まで13年の歳月をかけて鶴山の上に大城郭を築き上げた。
太平の世には似合わない高石垣で築かれた大城郭津山城。

藩主森忠政は織田信長に仕えた森蘭丸の弟である。兄森長可の戦死後家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えていた。 関ヶ原の戦いは東軍で戦い、領地は2.5倍にUP。
西国美作18万6千石の大大名となり津山に城を築く。
1代森忠政 京都でご馳走を食べて後、急死
2代森長継(ながつぐ) 忠政の娘の子である
3代森長武(ながたけ) 長継の嫡子早死のため孫の成長までの中継ぎのはずだったが
30歳での隠居は不本意でお家騒動となる。
4代森長成(ながなり) 成長した長継の直系の孫、子なし、改易。

前の藩主森長継が87歳で健在でいたため、名誉ある森家の家柄を考慮し、長継に備中西江原(のち赤穂藩)に2万石ながら名跡復興を許される
改易の理由は、表向きは藩主の発狂というけれど、大大名として徳川家の養女を正室に迎えたけれど嫡男が生まれず、堅固な大城郭は幕府は気に入らず、結局幕府に必要のない外様大名とみなされ改易となる。
大名として存続を許されるが信長時代の栄光に比べさびしい小大名となる。

■広島藩福島家
豊臣秀吉の側近である福島正則。
1600年の関ヶ原の戦いの功によって尾張国清洲城24万石から倍増する、49万8000石余の広島城主となった。しかし徳川氏から豊臣恩顧の大名として警戒されていた。
1617年春の長雨で太田川が洪水となり、城囲いをはじめ広島の町中の堤防、橋梁が決壊、流失した。その後、幕府の許可を得ないで修築した罪として改易を伝えられ、福島の家臣4000余人の大半が浪人することとなる。
徳川幕府が豊臣恩顧の大名を事あらば取り潰そうとしていた時代に良い口実を与えたのである。毛利時代の広島城でも大きすぎるぐらいなのに、広島城を整備拡充し惣構えの櫓を築いたり、亀居城を造ったり軍備増強に努めてしまった。
1代 福島正則
福島正之 実子が遅く生まれたため、それまでの養子。
三原城主。乱交により殺害
福島正友 実子で長男・早くに死亡。
2代 福島忠勝 実子で正則の後継ぎ。

徳川幕府と親戚になり存続を図るのが大藩の常識。徳川家康の姪であり養女の、満天姫との婚姻の記録があるが、相手が誰であるかいつ頃か確証がない。
どちらにしても徳川家との婚姻はうまくいかなかったのである。
戦国時代を生き抜いた福島正則は信州川中島で64歳で死去。

■松江藩堀尾家
名城松江城を5年の歳月をかけて築く。
豊臣政権下で、要職を占め、遠江浜松城12万石の大名に抜擢されている。
関ヶ原の戦いでは、吉晴の子忠氏が家康の会津征伐に従っており、終始東軍として活躍した。
隠岐・出雲を与えられ領地は2倍にUP24万石を領した。しかし西国に移される。
忠氏が築城中に亡くなり、孫の忠晴が初代藩主となる。
堅固な大城郭の築城に幕府は、警戒していた。
忠晴が、1633年に死去。死ぬ直前に従兄弟を後継ぎにしようとしたが幕府に認められず堀尾家は断絶してしまう。
徳川家との婚姻により嫡男は生まれなかった。冬の陣で活躍するも、幕府からは忠義を認められず。山内一豊の同僚だったが、明暗を分けた。

■伯耆国米子城主中村家
名城米子城を完成する。
豊臣政権下で、要職を占めた中村一氏。
関が原の戦い東軍として参戦。しかし直前に死亡し、後を継いだ一忠は12歳。
駿河国14万石から18万国へと加増されたが、西国へと移封される。
幕府から注視されていたにもかかわらず、米子騒動を起こしたり、治世にも問題があった。
徳川家康養女の正室に男子無く、側室の男子はいたが、養子を認められず断絶。
太平の世の堅固な米子城は美しいが、その後は城主のいない城となる。

中国地方ではないが、熊本城を築いた加藤家も断絶。親分の顔色を伺いながら名城を築くことこそ至難のワザであった。


7. 現代都市と城

現在の都市の大部分が江戸時代の城下町から始まっているとされている。
現代の都市は、安土桃山時代から江戸時代はじめにかけて築かれた近世城郭の城下町から引き継がれているということだ。 では城下町と都市名は関連するのか現在どうなったのだろう。
県名・県庁所在地から考えてみるとおもしろい。

徳川幕府の終焉に伴い、江戸時代の諸藩は、明治新政府に対し版籍奉還する。
1867年廃藩置県で、新政府の元に新しい行政区域が成立する。
といってもその時は藩はそのまま県と名前を変えただけで藩主が県知事になっただけのようだ。そして1879年まで試行錯誤を繰り返し63府県に統合決定されて、さらに修正があって現在の1都1道2府43県となった。この間の行政責任者は、大蔵省次官の井上馨(山口藩)で、長官は大久保利通(鹿児島藩)だそうで、明治維新に大きな役割を果たした大物だ。

廃藩置県は、将来の国の発展のための大きな事業であった。
県名・県庁所在地決定ガイドラインは次のようであった。
1、県名と県庁所在地名と一致する
2、県名は古代からの国を重視し、30~40万石程度の財政規模にし旧大藩の名称を使用する
3、県庁は、行政の効率から考えて、交通の便利な旧城下町に置く
4、横浜・神戸など開港地で、発展を続けている地は、元々はマイナーでも将来性も加味する。

しかし、江戸幕府を連想させる名称は避ける。
幕末の戊辰戦争で、幕府の側について新政府軍と戦った地域では、明治政府に対する不満が残っているので、治安上の理由からその地域を避ける。
戊辰戦争の時に幕府側についていた朝敵藩に対しては新しい時代が始まるという命名にする。
ということも配慮されたようだ。
また選考過程で、維新での働きに応じて政府内部の各勢力のさまざまな力関係も反映したようだ。
結果、日本の47都道府県の名には、県庁所在地名と一致するものが29(1都2府26県)一致しないものが18(1道17県)となった。
現行県名が現県庁所在地に一致しない17県は、下記のとうり
岩手・宮城・茨城・栃木・群馬・埼玉・石川・山梨・愛知・三重・滋賀・島根・香川 ・愛媛・神奈川・兵庫・沖縄。
神奈川・兵庫・沖縄は港町が県庁所在地となったので別格として、他の県はなぜ県庁所在地と県名が変ってしまったのだろう。
佐賀県は、何度も消滅を迫られながら維新での功労により存続したという。
行政内部での力関係も影響するし、新しい国つくりに貢献した藩は、優遇される。
反対に会津若松城・佐倉城・弘前城・米沢城などのように名城があり整備された城下町があり、雄藩でもあるのに、県庁所在地にも県名にもならなかったところもある。
賊軍としての制裁と見ることもできるかもしれない。

盛岡・仙台・水戸・宇都宮・前橋・(さいたま)・金沢・甲府・名古屋・津・大津・松江・高松・松山この地が現在の県庁所在地。
いずれも名城がありこの地域では、他に変ることのできない大城下町が築かれていたので条件に一致し、順当な結果であろう。
しかし、県名とは違う名前の県庁所在地となってしまった。
これらの地域には親藩・譜代大名が藩主であったり、幕府側に近い立場で維新を迎えたところが多い。
そのため県名にはならなかったのではないかと連想してしまう。
歴史の変換点では敗者は損をすることが多いようだ。
新しい政権が早く軌道に乗るためにも、敗者に責任を取らせるなにかが必要だったようだ。
県庁所在地と県名が違うと地理でも歴史でも覚えにくく勉強嫌いになるきっかけにもなるが、そこに、固有のドラマ、すなわち、歴史があるともいえる。
市町村の統廃合が続いていくので、これからは、さいたま市のように過去を感じさせない新しいわかりやすい地名がつけられることになるだろう。
どの城にも、幕府に近い人、朝廷に近い人が入り混じって幕末を迎えたのだ。
各地で紙一重のきっかけで賊軍になったり、また維新の功労者になるという、歴史のドラマが生まれてしまった。
近世城郭は現代都市につながることは事実だが、城下町の規模だけで現在の都市構造につながるわけではない。

 

8.築城主の行末

近世城郭は織田信長に始まり豊臣秀吉が発展させて、徳川家康で終焉するようだ。
家康亡き後は時折城持ち大名が領地換えになってその地にまともな城がない時や幕府のにらみを効かせるために必要になった時など特別な場合を除き築かれることがなくなった。
関が原の戦いから豊臣家滅亡までの間に徳川家の後押しで築城を始めた城。そして築城主はその後どんな運命が待っていたのだろう。 東軍豊臣恩顧の主な大名の行く末
関ヶ原の戦いで東軍に付いて、家康臣下となり、領地が大幅に加増された秀吉恩顧の大名たちの場合。
徳川家康は、西軍方について敗者となった豊臣縁故の大名の地に、東軍に付いた豊臣縁故の大名を配置する。旧藩主の統治が色濃く旧藩主を慕う領民が多い中で、領国安定のために奮闘し、成果が現れた頃には、亡くなる。
徳川家は安定政権づくりの為、積極的に婚姻政策を採る。
徳川家に縁あるお姫様との結婚により、夫婦仲むつまじく、嫡男が生まれ、跡を継ぎ、その子が元気で優秀なら、そしてお姫様についてきた徳川からの家臣と直参の家臣をうまくまとめて家臣段一丸となって徳川の血を引く嫡男を支える体制が出来れば安泰となる。
お家安泰のために、いろんな試練があり、生き残りに細心の注意が払われた。
関ヶ原の戦いで没収した領地が十分で、諸大名への恩賞が出来たので最初は大判振る舞いだった。それで良かった。

しかし大坂の陣の頃から、恩賞のための領地がなくなる。秀頼の所領は65万石しかなく、幕府のために大坂方と戦う武将に恩賞は出せない事態がうまれた。
また豊臣色が消えていくと、今度は長期安定政権のために、外様大名へのお目付け役として全国各地に、譜代・親藩の大名を配置しなければならなくなる。
そのための領地も圧倒的に不足する。有力大名を改易しなければ幕府の権威は保てないのであり、2代将軍秀忠・3代将軍家光にとって有力大名改易は避けて通れない道であった。そこで幕府は死の直前の養子は認めないということにした。いわゆる末期養子の禁止である。幕府の狙い通りこの政策で改易となった大名は多い。そしてこのころ、なぜか大名の突然死があいつぐ。時代小説などで幕府隠密が活躍し、毒殺説が唱えられる。

秀忠が将軍に就任ころには、関ヶ原に自ら参陣したの大名の多くは、進んで隠居し、跡目を徳川に近い後継者に譲り、その後は若き藩主の教育に力を注ぐスタイルが流行する。
諸大名は、それぞれ、突然死や後継藩主が若く統治能力不足とみなされたり、また家臣の間でのお家騒動などおおよそ改易をにつながりかねない事態をさけるため、必死であった。幕府とって無益な大名となる評価されると容赦なく改易が待っているこの時代は、戦国の世とは、別の意味で、厳しいサバイバルであった。

外様大名が、徳川幕府の創設期に堅固な名城を築くと命取りになる場合が多いことについてすでに述べたが、(6.名城を造ればリストラの運命)ここでは、サバイバルの成功例と失敗例の対比でみる。

個別大名の明暗
池田輝政 
播磨姫路に旧領の3.5倍、52万石で移封。
姫路城大幅改修するが、正室督姫が家康娘であり関ヶ原の戦い以前から親交が深く、すでに督姫との間に家康の孫となる子供がおり夫婦仲良くお家は安泰。督姫は再婚で、先妻との間にすでに嫡男が生まれていたが、両者を藩主として待遇 鳥取藩と岡山藩となる。豊臣家滅亡前に 1564~1613年 50歳で死す。

黒田長政
福岡藩52万石 福岡城
いち早く東軍に属し、調略で、秀吉子飼いの諸将東軍に誘いまとめ役となった。正室は蜂須賀正勝の娘だったが、離縁し、徳川家康養女栄姫を継室に迎え忠誠を示す。1568~1623年 55歳没 お家安泰

山内一豊
高知藩24万石 高知城
大坂方の状況を綿密に記した密書を家康の差し出す。居城掛川城を東軍に提供など積極的に東軍に貢献。豊臣家滅亡前に1605年 60歳没 2代山内忠義1592~1664、秀忠養女と婚姻。嫡男に恵まれる。 お家安泰

藤堂高虎
伊勢・伊賀35万石
豊臣大名の動向を密通、寝返り工作をしたりと、東軍勝利に貢献。信頼されて、外様でも徳川幕藩体制の中枢に参加する。大坂の陣での決死の働きは有名。外様大名としての忠勤に励む。 1630年 75歳没 お家安泰。

加藤嘉明
松山城主20万石から1627年に会津藩40万石へ 
2代明成 会津若松城の改修を行い、現在のような難攻不落名城にする。そのためお家騒動により1643年 会津領を没収。正室徳川家康の養女は1636年に若くして亡くなり、縁組はうまくいかず。1682年 嫡子明友、祖父の功で再度取り立てられ近江水口2万石藩主として存続する。1563~1631年 69歳没 

堀尾忠氏
松江(出雲・隠岐)24万石 松江城築城
豊臣家滅亡前に1605年27歳で亡くなる。堀尾忠晴6歳で藩主 1599年~1633年 34歳没 無嗣改易。正室徳川家康の養女との間には男子に恵まれず、縁組はうまくいかず。

福島正則 
安芸広島49万石城主となるが、 広島城無断修築をとがめられる。1619年改易。改易先の川中島で 1624年 64歳没 没収。徳川家康の養女と嫡男は結婚するも縁組はうまくいかなかった。嫡男が誰か、どうして亡くなったか正確にはわからない。改易の前に徳川家康の養女(満天姫)は江戸に帰る。

加藤清正
熊本52万石 熊本城築城。
豊臣秀頼と徳川家康の謁見に同席した後に謎の死。豊臣家滅亡前に1611年 49歳で急死。2代忠広(1601? ~1653)、秀忠養女と婚姻するもお家騒動を起こす。結果的に徳川家との信頼関係を築けなかった。1632年 改易

浅野幸長
広島藩(関が原の戦い後すぐは和歌山藩) 42万石 広島城主
徳川家・豊臣家の融和に力を尽くした。豊臣家滅亡前に1613年 38歳没。弟長晟(1586~1632)が二代藩主となり家康娘と婚姻、嫡男生まれる。3代藩主である嫡男と3代将軍家光の養女満姫との結婚は夫婦仲良く子宝に恵まれ2代に渡る徳川家との縁組は、うまくいき、浅野藩は安泰となった。

細川忠興
肥後熊本54万石 小倉城
前田利家娘と結婚していた嫡男細川利隆を、離縁の後廃嫡し、家康に人質として差し出していた3男忠利を跡継ぎとする。1620年隠居 1645年83歳没 安泰。2代藩主忠利は2代将軍秀忠の養女と結婚し、仲むつまじく嫡男にも恵まれる。

田中吉政
筑後柳川 32万石
石田三成を捕らえた功労あり。江戸に向かう途中の山城国伏見において急死。豊臣家滅亡前に1609年没 1546年~1609年 62歳。忠政が家督を継ぐが1620年36歳で急死。 無嗣改易(むしかいえき)秀忠養女と結婚するも男子に恵まれなかった。

小早川秀秋
備前・美作55万石
豊臣家滅亡前に1602年21歳没 無嗣改易。正室の毛利輝元養女との間には子がなく、名門、小早川家は断絶した。1591年からの付家老稲葉正成は 家光の乳母春日の局の夫、家康の東軍に味方することに尽力したという。

最上義光
出羽57万石 豊臣家滅亡前に11546~1614年69歳で亡くなる。嫡男義康を廃し、家康に近い次男・家親が家督を継ぐしかし1617年 急死。1622義光の孫・義俊の代に内紛のため所領を没収、近江一万石となる。その後、五千石となり家名だけ残る。

前田利長
加賀、能登、越中3ヶ国(現在の富山県、石川県の全域)、120万石 金沢城を築城。
弟利常に家督を譲り、1605年44歳 で隠居する。豊臣家滅亡前に1614年 53歳 没。 利常は秀忠の娘と結婚。多くの子宝に恵まれ夫婦仲良く 安泰 

中村一忠
伯耆(ほうき)鳥取米子藩18万石 米子城築城。家康養女と婚姻。女児のみ生まれる。 豊臣家滅亡前に1609年 20歳急死 無嗣改易。

蜂須賀 家政
阿波徳島藩 17万石 
関ヶ原の戦いのとき阿波を豊臣家に返上し、高野山にこもり隠居。1559年?~1638年 79歳で 没する。嫡男・蜂須賀至鎮を徳川方に従軍させ、家康養女と婚姻。
夫婦仲良く、所領そのまま 安泰。

大枚はたいて築城し、挙句の果てに改易では、たまらない。
以上見てきたように各藩がお家安泰のために知恵を絞ったことがわかる。
豊臣縁故の大名藩主は、徳川幕府成立に大きな貢献をした大名以外は、おおむね豊臣家滅亡の前に亡くなってしまう。そして幕府によって改易の準備がされていく。藩主としての能力も必要だったが、徳川家系の姫と結婚し嫡男が授かることはそれ以上に重要なことであった。徳川家との縁戚関係によって徳川幕府の信頼を得ることがもっとも安泰の近道であった。

徳川将軍は誰でも養女として縁付けるわけではない。養女は姪か孫までで、しかも気に入って能力ありと認めたお姫様のみを養女としているようだ。
そのお姫様と夫婦仲が悪いということはそれだけで藩主として不適格となった。


9. 近世城郭は奥御殿が嫌い

江戸城とその他の城郭との決定的違いは、奥御殿である。すなわち、他の城郭は奥御殿が質素であることだ。
御殿は、儀礼の場として表御殿・藩主の居住部分である中御殿・藩主の家族の住まいである奥御殿で構成されている。
しかし参勤交代制度が実施されると各大名の本拠は次第に江戸に移った。そのため各藩つまり国許には女主はいなくなってしまった。いわゆる御台所と呼ばれるお金を管理し内政を仕切る人は、江戸から出れなくなってしまったのである。
藩主の在城時は、身の回りの世話をする人がいたかもしれないが、藩主にとっても1年交代での参勤交代が続くと「領地に出向いて江戸に帰る」という感じだったのだろう。経済的にも無駄なことだということで国許の奥御殿は質素になってしまう。 1635年3代将軍家光の時代に参勤交代制度が武家諸法度の中で決められ、1642年には、譜代大名にも義務付けられて徳川幕府の大名統治は完成したといわれる。
いうまでもなく、参勤交代とは、大名を江戸に一定期間交代で参勤させて、謀反などを起こすことを抑止する大名統制の制度だ。
参勤交代とは、諸大名が主君である将軍のために大名本人と石高にあわせて決められた兵とともに、江戸に出向き忠誠心を示す軍事行動でもあった。

もともと戦国時代に行われていた城下在番・人質徴収の政策に始まり、豊臣政権もまた各大名に参勤を命じ,妻子の大坂居住を勧めた.。

多くの外様大名が自発的に江戸参勤・人質提出をしていたが、あくまで自発的だった。それまで家族の本拠はあくまで各藩内にあった。裏切りませんという証明のために江戸に行く・人質を出すということだった。
囚われ人的な存在から忠誠心を示すパフォ-マンス的な人質まで境界線はあいまいだが江戸初期までは、通例や慣習のようなもであった。
しかし制度が出来上がって妻子は必ず江戸定住になってしまうと、各大名にとって妻子がいて親戚だったり友達だったりの大名も多くいるし、情報も豊富で、住みよい江戸が本拠になるのに時間は、かからなかった。願いどうり江戸で養育されるとは限らないが、地元で子供が生まれたりしても養育は江戸を希望することになる。

参勤交代の移動の際に大名行列という大掛かりな行進を行う必要があった。このために費用がかさみ、参勤交代は大名の財政を圧迫させた。参勤交代のために、街道や宿場が整備され、大名行列が消費する膨大な費用によって街道筋の人々は繁栄する。大量の大名の随員が地方と江戸を往来したために、彼らを媒介して江戸の文化が全国に広まった。

江戸での純消費生活は,国もとと同じくらいの経費を要し,大名は貨幣経済への依存度を強め、ますます財政を圧迫させる。藩の財政窮乏は江戸から遠い西国大名に早く認められ,寛永期には伊達氏などの外様大名が弱体化し全国的な傾向になる。

自藩の米を売るために江戸・大坂・京都に蔵屋敷や大坂米奉行をおき,京に衣料・美術工芸品・雑貨などの商いのために京都調物奉行をおき少しでも多くの貨幣獲得のために奮闘する。
商業の中心となった江戸・大坂・京都は消費生活の場として異常な都市化をとげ,あらゆる文化,遊里や盛り場が栄えていく。

参勤交代当初は、各藩に経済的余裕を持たせないように、お金を使わすという政策だったのだが、時を経て、借金をして参勤交代するということになる。
各藩にとって、戦いのない時の軍事行動・人質政策は、慢性的な借金財政を招き、結果的に幕府崩壊の大きな要因になっていく。

どうして江戸幕府を維持するために妻子の江戸定住が必要だったのか。
戦国時代ほとんどの武将は、夫婦二人三脚で豊臣秀吉の妻・前田利家の妻・山之内一豊の妻とかのように戦い抜いて領地を広げていった。お家の繁栄のために妻の存在は、重要だった。
それゆえ一族の繁栄に欠かせない妻は、人質として価値もあった。当然幕府も幕府への敵対を防ぐために、妻および嫡男の江戸在府をきめた。正室を国もとから切り離すことで国もとに対する影響力を少なくしたのだ。
そして戦国時代のような戦いを支える女性の活躍の場が少なくなった。
結婚すれば結婚先の国許に嫁いで行くのが当たり前だったのに、江戸にある大名屋敷から近くの大名屋敷に移り住むのが結婚になってしまったのだ。
戦国時代のように実家のために生きるか、婚家のために生きるかという緊張感・使命感・期待感が薄れてしまった。

どちらかが滅びる時最も被害を受けるのは残された妻子だったから細心の注意を払って両家の将来に対する展望を持たなくてはいけなかった。
正室として表立った政治家としての力は戦国時代ほどではなくなるが、江戸に常時住むということは社交・情報にかんしては以前より活躍する場が増したということ。
そして子供たちに対する影響力も増すということ。
江戸に定住する正室による次期藩主・いい結婚相手を探すお姫様達の教育には重要な役割影響を持つ。そして江戸藩邸の建築・生活様式には影響力があった。幕末参勤交代制度がなくなり妻子が国元に帰ってくる。

急ごしらえの御殿・付帯の屋敷とかてんやわんやで建てられる様子が目に浮かぶ。
こんなことでも変革の波や幕府の弱体化を地方でも体験し、新しい時代を全国的に迎える準備ができていくのだ。

天守の再建もままならない江戸城にあって、築城期から幕末までで一番変わったのは、大奥である。初期の春日の局の頃は、数百人といわれた大奥に住んだり働く人が幕末の篤姫の頃は、3000人といわれる。江戸幕府の歴史の中で、大きく勢力を伸ばし、江戸城内で最も建物を増やしたのは大奥だった。

同時に各大名は、江戸に上屋敷・中屋敷・下屋敷などの土地を幕府から与えられていたのでその藩邸内で、せっせと増やしていたのは女性たちの居住場所=奥であった。


10. 名城って何

築城とは軍事防御システムを備えた政治経済の中枢機能をもつ都市造りだ。
ということは戦いに備える軍事拠点としての城造りが主な目的ということだ。
しかし、天下の覇者信長・秀吉・家康により領地を安堵されて初めて安心して築城を開始するのが近世城郭である。
これは 「近世城郭は軍事目的よりも、平和になりつつある時代を反映して築かれた面が多い」ことを意味する。平和をすべての人に見せ付け、実感するために軍事拠点である城を築く。一見矛盾するけれど、戦争抑止力としての城づくりなのだろう。
何よりも築城主である大名が、戦国時代を生き残り勝ち残った自分と家中に満足し、成功を実感するために、自分へのご褒美が築城なのだ。
それはまた一面にしか過ぎない。

残された城跡から浮かび上がる名城とは。
三名城といわれる大坂城・名古屋城・熊本城の共通点は、見るものを圧倒する堅固さ、天守を含め中核をなす建築物の大きさ数の多さ、城郭全体としてバランスのよさデザインの美しさ、などなどいろんな根拠がある。
何よりも実際訪れる人すべてに感動を与えるものを持っている。同じ築城主が、同じ目的、同じ機能を持った築城でも同じ城はない。
大規模構築物である城郭は、当然、自然的条件・社会的条件に大きく影響されている。逆に自然的条件を取り込み、防備を固めるのである。したがって各城郭は、各建設地に立脚した個別の特徴的な様相を帯びることになる。ご当地の城なのである。だからこそ今までも大切に維持されてきたし今でも多くの人に愛されている。

築城とは優秀なる武将達が自己権力を表現する最高の場として知恵を絞っての建設した芸術的作品ともいえよう。
彼らは、豊臣家・徳川家より命じられた天下普請への手伝い普請からも技術力・設計・必要経費など多くを学んでいる。それが全国に広がっていき、
各地で、時代の最高水準の治水・土木・建築技術を総合して築かれていく。
背伸びし過ぎて、築城で多くの人の犠牲を強い自身まで滅亡することもあるほどだ。 築城主はもちろん築城に従事する人々すべてが愛情込めた地域の総合力の結晶としての築城なのである。

全国どこを探しても同じ城はない。

細やかに繊細に設計された石垣・建物は、自然と共存して社会を築こうという英知が詰まっている。人が人として集まり暮らすシンボルが城だった。
地域の文化施設でもあった。祭りや催しで城は、開放され地域の多くの人々が訪れている。
一見、強権的支配体制に見えるが、結構和を大切にし和を持って治めることが結果的に効率がいいことをよく知っての築城だった。
城下町創りを含めた築城は、歴史・風土・自然を生かした地域のシンボルであり、見る人それぞれに感慨を与えている。

名城の基準を見る人に感動を与えるかどうかという観点で決めるとすると、どうしても名城ばかりになる。
城は、最大かつ最高の「ご当地もの」に違いない。

 

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