石高の割りにがんばり、今も人々を楽しませる名城を築いた大名の行く末は、あまり芳しくない。築城が集中した中国地方を例にみてみよう。 ■津山藩森家 藩主森忠政は織田信長に仕えた森蘭丸の弟である。兄森長可の戦死後家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えていた。 関ヶ原の戦いは東軍で戦い、領地は2.5倍にUP。 前の藩主森長継が87歳で健在でいたため、名誉ある森家の家柄を考慮し、長継に備中西江原(のち赤穂藩)に2万石ながら名跡復興を許される ■広島藩福島家 徳川幕府と親戚になり存続を図るのが大藩の常識。徳川家康の姪であり養女の、満天姫との婚姻の記録があるが、相手が誰であるかいつ頃か確証がない。 ■松江藩堀尾家 ■伯耆国米子城主中村家 中国地方ではないが、熊本城を築いた加藤家も断絶。親分の顔色を伺いながら名城を築くことこそ至難のワザであった。 |
現在の都市の大部分が江戸時代の城下町から始まっているとされている。 徳川幕府の終焉に伴い、江戸時代の諸藩は、明治新政府に対し版籍奉還する。 廃藩置県は、将来の国の発展のための大きな事業であった。 しかし、江戸幕府を連想させる名称は避ける。 盛岡・仙台・水戸・宇都宮・前橋・(さいたま)・金沢・甲府・名古屋・津・大津・松江・高松・松山この地が現在の県庁所在地。 |
近世城郭は織田信長に始まり豊臣秀吉が発展させて、徳川家康で終焉するようだ。 しかし大坂の陣の頃から、恩賞のための領地がなくなる。秀頼の所領は65万石しかなく、幕府のために大坂方と戦う武将に恩賞は出せない事態がうまれた。 秀忠が将軍に就任ころには、関ヶ原に自ら参陣したの大名の多くは、進んで隠居し、跡目を徳川に近い後継者に譲り、その後は若き藩主の教育に力を注ぐスタイルが流行する。 外様大名が、徳川幕府の創設期に堅固な名城を築くと命取りになる場合が多いことについてすでに述べたが、(6.名城を造ればリストラの運命)ここでは、サバイバルの成功例と失敗例の対比でみる。 個別大名の明暗 黒田長政 山内一豊 藤堂高虎 加藤嘉明 堀尾忠氏 福島正則 加藤清正 浅野幸長 細川忠興 田中吉政 小早川秀秋 最上義光 前田利長 中村一忠 蜂須賀 家政 大枚はたいて築城し、挙句の果てに改易では、たまらない。 徳川将軍は誰でも養女として縁付けるわけではない。養女は姪か孫までで、しかも気に入って能力ありと認めたお姫様のみを養女としているようだ。 |
江戸城とその他の城郭との決定的違いは、奥御殿である。すなわち、他の城郭は奥御殿が質素であることだ。 もともと戦国時代に行われていた城下在番・人質徴収の政策に始まり、豊臣政権もまた各大名に参勤を命じ,妻子の大坂居住を勧めた.。 多くの外様大名が自発的に江戸参勤・人質提出をしていたが、あくまで自発的だった。それまで家族の本拠はあくまで各藩内にあった。裏切りませんという証明のために江戸に行く・人質を出すということだった。 参勤交代の移動の際に大名行列という大掛かりな行進を行う必要があった。このために費用がかさみ、参勤交代は大名の財政を圧迫させた。参勤交代のために、街道や宿場が整備され、大名行列が消費する膨大な費用によって街道筋の人々は繁栄する。大量の大名の随員が地方と江戸を往来したために、彼らを媒介して江戸の文化が全国に広まった。 江戸での純消費生活は,国もとと同じくらいの経費を要し,大名は貨幣経済への依存度を強め、ますます財政を圧迫させる。藩の財政窮乏は江戸から遠い西国大名に早く認められ,寛永期には伊達氏などの外様大名が弱体化し全国的な傾向になる。 自藩の米を売るために江戸・大坂・京都に蔵屋敷や大坂米奉行をおき,京に衣料・美術工芸品・雑貨などの商いのために京都調物奉行をおき少しでも多くの貨幣獲得のために奮闘する。 参勤交代当初は、各藩に経済的余裕を持たせないように、お金を使わすという政策だったのだが、時を経て、借金をして参勤交代するということになる。 どうして江戸幕府を維持するために妻子の江戸定住が必要だったのか。 どちらかが滅びる時最も被害を受けるのは残された妻子だったから細心の注意を払って両家の将来に対する展望を持たなくてはいけなかった。 急ごしらえの御殿・付帯の屋敷とかてんやわんやで建てられる様子が目に浮かぶ。 天守の再建もままならない江戸城にあって、築城期から幕末までで一番変わったのは、大奥である。初期の春日の局の頃は、数百人といわれた大奥に住んだり働く人が幕末の篤姫の頃は、3000人といわれる。江戸幕府の歴史の中で、大きく勢力を伸ばし、江戸城内で最も建物を増やしたのは大奥だった。 同時に各大名は、江戸に上屋敷・中屋敷・下屋敷などの土地を幕府から与えられていたのでその藩邸内で、せっせと増やしていたのは女性たちの居住場所=奥であった。 |
築城とは軍事防御システムを備えた政治経済の中枢機能をもつ都市造りだ。 残された城跡から浮かび上がる名城とは。 築城とは優秀なる武将達が自己権力を表現する最高の場として知恵を絞っての建設した芸術的作品ともいえよう。 全国どこを探しても同じ城はない。 細やかに繊細に設計された石垣・建物は、自然と共存して社会を築こうという英知が詰まっている。人が人として集まり暮らすシンボルが城だった。 名城の基準を見る人に感動を与えるかどうかという観点で決めるとすると、どうしても名城ばかりになる。 |