城の四方山話 その1

1.築城バブル

■空前の好景気
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、豊臣家および西軍大名の領地より400万石以上の領地を得る。その領地を分け与えられ、東軍に属した功労大名の領国は空前の好景気となる。

豊臣秀頼の大坂城を包囲するように城を造ることの協力を求めた家康の政策が天下普請であり、それはまた各大名の領地での城造りとなって空前の築城ラッシュが始まる。

■巨大な公共事業
戦国時代は武器を購入するために銭を必要とした時代だった。
兵糧も足りなければ買わなければならなかった。当時は物々交換が主流で銭が少ない状態だったので、農作物などを銭に替えるときは低く評価された。そのため各有力大名は、自ら銭および貴金属を作り出す事に熱心になった。銭および貴金属を作り出ため、この時代は鉱山掘削技術、精錬技術が大きく発展した。また多くの銭が集まる城下町造りは、各大名にとって必要不可欠なことだった。

整備された城下町には、領内の銭や物が集まり、物流が生まれ、人が集まり、町が大きくなり各藩は安定した収入が得られ必要なものを自国で調達できることになる。築城ラッシュとは、用水土木技術を伴う城下町づくりであり、人家がまばらな地域や自然のままというという地域に人工的な町を作るという大公共事業であった。

■求人・求職活動ともに活発
戦線が次第に縮小され、平和の足音が聞こえるようになると、大量の失業軍人があふれてくる。しかし、巨大な公共事業の渦は、すべての不平不満を飲み込み、あたかもに未来永劫繁栄が続くかのごとく席巻する。巨大な戦争エネルギーは、急速に消え去り、失業対策としての意味もすくなくない。

1600年関が原の戦いから1615年の一国一城令までのわずか15年間に巨大プロジェクトは進行する。
この時期築城された近世城郭は、およそ200前後といわれている。

■政庁としての近世城郭
近世城郭は織田信長から始まるとされる。
1576年に天下をほぼ統一した織田信長が安土城を築くと城の姿は一変した。築城は、平野にのぞむ小高い丘上に城を構える平山城や平城(水利の良い平地に築いた城)に移行し、足元には多くの商工業者を集めた城下町が生まれた。
中世にはせいぜい三重櫓の建物が、五重七階の大規模な高層建築に発達して「天守(天守閣)」と呼ばれるようになった。
自然石積の石垣が部分的に用いられた従来の縄張り(建物の位置を示す境界)も、高石垣で固められて防備と威厳を飛躍的に高めた。
こうして城は単なる軍事施設ではなく、武将の権力を象徴する近世都市の中核建築となった。


2.緊縮財政

■躍動の時代
戦国時代はそれまであった多くの規制が撤廃され、自由な競争が始まり、力のある武将・大名は大規模な公共事業に投資し、新しい産業が生まれ、新しい製品が普及し、それが軍事・経済・社会に大きな変革を起こした時代であった。
武器、装備、戦略、陰謀、策略、人望などで競い合い、その基盤に経済力があった。
その経済力とは、コメの生産力、金・銀鉱山、特産品、商業などであり、コメの増産には特に力が注がれた。
戦国時代に新田開発が多くなったのは、軍事力の自由競争時代に勝ち抜くには、経済力増強そのためのコメ増産、そのための新田開発という図式になったからだ。
大きな川を治め、沖積層平野を新田に作り替え、そこでのコメ増産という経済力を武器にする、それなくしては戦国武将の生き残りはなかった。
その治水技術は築城にも生かされ、戦国時代の終戦とともに、より高度な築城技術が民間に伝わり民間主導の耕地開発がすすめられることになる。
戦国時代、外国からもたらされ社会に大きな影響を与えたものに鉄砲と木綿がある。
麻が主流の衣服から、木綿に変わり、保温・耐久性・動きやすさなどなど庶民の労働生産性の向上に大きく貢献した。
武器製造技術鉱山掘削技術築城技術などなどは、農工業の生産性を高めることとなった。
農民もまた生産製の高い新しい農業を開拓していく。

■宴の後で
積極経済がとられた好況期は1615年夏の陣で豊臣家の滅亡によって幕引きとなる。
豊臣家亡き後、幕府はもはや城は必要がないと、一国一城令を発布した。
築城はおろか、城の改修に関しても許可制として、規制を強化し、以後築城ブームは急速に終焉する。
折りしも、このころには、諸大名は、天下普請の手伝いと居城・城下町を築くためにお金を使い尽くしていた。城下町の発展は、商人の存在を大きくしていく。各藩があくまで米の現物納付を収入の柱としている限り武士は、商人に頼って貨幣に換え消費していく。
身分制度はどうあろうとも、貨幣に変えなければ経済が成り立たない武士に対して貨幣を握る商人の実質的地位は上がり、消費経済が進み各藩や武士が借金までするようになり、地位は逆転してしまうという皮肉なことになった。農本主義は自給自足を前提として成り立つ。
その中に貨幣で取引される商品が入ってくると、商品を得るために貨幣が必要になる。
その貨幣を手に入れるために、米やその他のものを売らなければならない。そうすると、各藩の自給自足の体制は崩れ、そこに商人が介在する。
商人はそうした商取引のプロであるから、品物の現実の価値を見極めて値段を付け、商品の売買をする。そこに直接的に武士の力は必要ない。
城下町の発展は、武士の力をなくしていくことにつながる。
築城とは武士の夢であったが、夢を実現した途端、いやおうなく、商人が力を持つ時勢となる。その間武士は幕藩体制を守るために、制度の中でがんじがらめになって、緊縮財政の道を突き進む。
徳川幕府が磐石となったときから、武士の時代が終わる「始まり」となった。改革に次ぐ改革も大方効果なく武士の窮乏は、加速する。城郭もこの流れに無縁ではない。慢性的な財政難の中、維持すらおぼつかない城郭も珍しくなかったのである。

 

3.城の価格

武士の夢、「築城」が終わった時、諸藩の多くは、現実的に財政破綻の状況となった。
当然、緊縮財政とならざるをえない。 新たな築城はいうまでもなく、増築や改修にしても近世城郭に生まれ変わる質とスケールを伴うからには、いずれにせよその地に空前のインフラ整備公共事業だった。では実際築城にはいくらのお金が必要だったのか。

広島城の場合
まず城の位置を決め、縄張りをする。これは武士の仕事であり直接の経費すなわち人件費はかからない。次に、普請。堀を造り石垣を築く。さらに大田川河口の干拓。土を詰めた俵と、人海戦術で夜を徹して工事する。石垣の基礎に地盤強化のため胴木(松の丸太)を埋める
石材は広島近郊の島々や山から集め、道路整備をして運ぶ
石工は安土城築城の石工集団穴生衆を招いたのか地元の石積技術者を用いたのかはっきりしないが大量の石工が集められる。次は作事といわれる建物建築である。木材は大田川上流からいかだで運んだ。
多くの大工に知行を与えていた資料がある。城地に住まわせたのだろう。左官・瓦師・鍛冶多くの職人が必要とされた
労働者、は村ごとに割り当てられたらしい。
当時の農民は夫役(ふえき)の義務がある。その日数を超えた場合、報酬が支払われた。

広島城は、連結式天守を含めて88の櫓を持つ、総面積約135万平方メ-トルの大城郭。
同時に城下建設も行なわれ、縦軸を基準に碁盤の目状に都市計画された。

現在のお金でどんなに安く見積もっても約1000億円以上の建設といわれる。
掛川城天守復元に10億円以上の費用がかかっている。天守だけでの建設費である。近世城郭は戦時を想定して大量の武器や食糧を保管する場も必要であり、同時に鉄砲など攻撃に耐えるぶ厚い壁の施設も必要である。だから城はハード面では構造的に、とにかく木材喰いであり石材喰いである。

近世城郭は、軍事的機能と同時に外見も美しく豪華でなくてはならない。
ソフト面では、創意工夫を凝らした軍事的機能と外見上(対面j所すなわち大広間等の御殿内部は、別にして天守や櫓内部は、荒削りで武骨)の美しさが高度に統一されたデザイン的優位性も不可欠である。その結果、巨費がかかる。

広島城の場合、毛利氏の歳入は、単純に一石を5万円とすれば、120万石*5万円600億円の二分の一(五公五民)つまり、300億円の歳入になる。
税率を七公三民として大幅増税したとして計算しても420億円にしかならない。
年貢以外の税収を含めても歳入の3倍以上の恐ろしい額である。
しかも、この時期は、まさに「築城ラッシュ」であり、巨額な建設工事が全国いたるところで開始される。当然人件費等も高値で推移していただろう。同時に天下普請という手伝い築城もしなくてはいけない。
終わった時はへとへとになってしまうだろう。
豊臣家滅亡の後は、参勤交代制度が待っている。藩財政の半分は、参勤交代と江戸での生活費に消えてしまうのである。


4.実戦には役にたたなかった近世城郭

4.実戦には役にたたなかった近世城郭武士の夢、「築城」が終わった時、諸藩の多くは、現実的に財政破綻の状況となった。
当然、緊縮財政とならざるをえない。 新たな築城はいうまでもなく、増築や改修にしても近世城郭に生まれ変わる質とスケールを伴うからには、いずれにせよその地に空前のインフラ整備公共事業だった。では実際築城にはいくらのお金が必要だったのか。

広島城の場合
まず城の位置を決め、縄張りをする。これは武士の仕事であり直接の経費すなわち人件費はかからない。次に、普請。堀を造り石垣を築く。さらに大田川河口の干拓。土を詰めた俵と、人海戦術で夜を徹して工事する。石垣の基礎に地盤強化のため胴木(松の丸太)を埋める
石材は広島近郊の島々や山から集め、道路整備をして運ぶ
石工は安土城築城の石工集団穴生衆を招いたのか地元の石積技術者を用いたのかはっきりしないが大量の石工が集められる。次は作事といわれる建物建築である。木材は大田川上流からいかだで運んだ。
多くの大工に知行を与えていた資料がある。城地に住まわせたのだろう。左官・瓦師・鍛冶多くの職人が必要とされた
労働者、は村ごとに割り当てられたらしい。
当時の農民は夫役(ふえき)の義務がある。その日数を超えた場合、報酬が支払われた。

広島城は、連結式天守を含めて88の櫓を持つ、総面積約135万平方メ-トルの大城郭。
同時に城下建設も行なわれ、縦軸を基準に碁盤の目状に都市計画された。

現在のお金でどんなに安く見積もっても約1000億円以上の建設といわれる。
掛川城天守復元に10億円以上の費用がかかっている。天守だけでの建設費である。近世城郭は戦時を想定して大量の武器や食糧を保管する場も必要であり、同時に鉄砲など攻撃に耐えるぶ厚い壁の施設も必要である。だから城はハード面では構造的に、とにかく木材喰いであり石材喰いである。

近世城郭は、軍事的機能と同時に外見も美しく豪華でなくてはならない。
ソフト面では、創意工夫を凝らした軍事的機能と外見上(対面j所すなわち大広間等の御殿内部は、別にして天守や櫓内部は、荒削りで武骨)の美しさが高度に統一されたデザイン的優位性も不可欠である。その結果、巨費がかかる。

広島城の場合、毛利氏の歳入は、単純に一石を5万円とすれば、120万石*5万円600億円の二分の一(五公五民)つまり、300億円の歳入になる。
税率を七公三民として大幅増税したとして計算しても420億円にしかならない。
年貢以外の税収を含めても歳入の3倍以上の恐ろしい額である。
しかも、この時期は、まさに「築城ラッシュ」であり、巨額な建設工事が全国いたるところで開始される。当然人件費等も高値で推移していただろう。同時に天下普請という手伝い築城もしなくてはいけない。
終わった時はへとへとになってしまうだろう。
豊臣家滅亡の後は、参勤交代制度が待っている。藩財政の半分は、参勤交代と江戸での生活費に消えてしまうのである。


5.築城の波及効果

■築城の波及効果
城の建築は各地から銭で集められた職人達が競争して腕をふるう場である。
そこでは技術交流があり競争がある。その結果新しい方法が開発され技術が向上した。
各地から集まった職人達の技術向上が進む。 ■鉱山開発技術の飛躍的向上
多くの人が各地から集められ報酬を支払わなければならない。
そのために銭となる金・銀・銅等がどうしても必要とされた。
その結果鉱山開発技術が進んだ。そして日本は世界有数の金銀産出国となった.。

■用水土木技術の絶対的必要性と進歩
大規模な城下町を造るためには、都市計画がされて、治水・用水等が整備されなければならない。その技術は、以後耕地新田の開発・灌漑治水工事に活用されることとなる。
当時の世界最高水準にまで達していたほどの素晴らしい技術革新の時代でもあった。

■築城技術の向上
天守という高層建築には新技術が要求される。精度の高い石垣が築かれなければ高層建築は建たない。石垣の積み方・石の切り出し方に工夫がされて、石垣の精度が高くなり、信頼性が出た。
その結果近世城郭は土台を用いて石垣の端に柱を立て、柱も貫穴などの間隔を一定にした規格品となった。そして大量生産と工期短縮の一種のプレハブ的建築が可能となった。
それまでは石垣の精度も悪く土地の状況を見ながらの慎重なその場あわせの建築だった。
これらの総合技術が今日も残る日本の華麗な城郭建築および城下町建設工事に開花した。

土木学会で編集した「明治以前日本土木史」によると古代から徳川時代の終りにあたる1867年までに行われた主要土木工事のなかで、約35%が1596年から1672年までに集中しているそうだ。
明治以前の用水土木工事は、戦国期から江戸時代初頭のあいだに、その半数が集中しているのである。しかもその内容をみると第一線級の大河川にたいする巨大土木工事がこの時期に集中しており、それまで洪水の氾濫原として放置されたままになっていた大河川下流の沖積層平野が、広大・肥沃な農耕地(主として水田)につくりかえられている。こうして人は、丘や山から低地=平地に降りた。他の時代には類がないほど土木技術が大きく発達した結果だ。

■森林保護と林業振興
築城には大量の木材が必要。そんな城が、関ケ原合戦前後から江戸時代前期に日本各地で建築ラッシュとなった。良木は奪い合い状態となり、領内の材木だけで自国の築城をまかないきれなくなる藩も出てきた。各大名はコメの生産に力を入れるのと同様に林業政策にも力を注がなくてはならなかった。
加賀藩では杉、ケヤキ、ヒノキなど重要樹木七種を決めて、伐採を禁止・保護した「七木の制」(しちぼくのせい)が知られる。また、木曽地方では他国へのヒノキ材持ち出しが禁止された。徳川幕府が天領と呼ばれる直轄地の多くを山間地に求めたのも、鉱山を確保したほかに建築用材確保に目的があったのだ。

■経済学の発展
築城は、国を挙げての大事業。経済的に合理的効率よく築城を進めなければならない。
経済的破綻は、領民の一揆をもたらし、藩の滅亡にもなる。
しかし、うまくすれば多くの人々に経済的恩恵をもたらし、郷土の誇り、安定した治世の実現にも通じる。
そのため築城には経済の理解が必要ともなる。
そこで、現在の簿記のようなものが重要視されはじめ、豊臣秀吉も重視した。
目に留まったのはとびきり計算の早い、頭のいい少年当時16歳の石田三成、以後経済の知識を深めることで権力を握ることとなった。
築城の名手藤堂高虎も経済を一生懸命勉強し、秀長の家来のなかでも高い評価を得た。
各藩それぞれ経済に明るい武将が力を持つことにつながる。

泰平の世であった近世城郭の時代では、落雷や火事といった災害や事故で城郭の一部が失われることがあっても、そのほとんどは、明治の大量破脚まで存続し破脚を免れた城郭は、第二次世界大戦の空襲などで壊滅的被害を被ることになる。
戦乱の時代に終止符を打った織豊期末期から江戸初期に築城された近世城郭は、明治維新という体制変革という時期には無用の長物と化し政治=軍事的役目を終えた。
江戸幕藩体制の平和な時代の象徴こそ近世城郭の姿であった。
城が壊されたのは明治の初めの廃城令・第2次世界大戦の米軍攻撃による被災が大きい。残念。

 

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