| 駿府城の四方山話 <前のページ 1 2 3 4 5 >次のページ DijitalDaiku Top |
| 忠輝の微笑み 5忠輝の微笑み 家康を看取ったお茶阿(ちやあ)の方は、自由に秀忠に対して言うべきことを言い、動き始めます。駿府城を引き上げ江戸に移ると葵の紋が輝く自らの菩提寺宗慶寺を建立し、末永く徳川家の庇護を受けるようにします。これで行く末も万全です。 土屋家は、忠直が1612年、30歳の若さで亡くなります。幼い遺児の行く末は生前の家康が道をつけ、お茶阿(ちやあ)の方が責任を持って見守り続けます。1607年生まれの嫡男利直は父を引き継ぎ秀忠に仕え、1608年生まれの次男数直は1616年に家光近習に取り立てられ、後には信任厚く老中となり土浦藩主10万5千石にまでなり、1611年生まれの之直は旗本として取り立てられます。我が子のように育てた長松院は秀忠の養女として相馬氏に嫁ぎ、相馬中村藩(そうまなかむらはん)6万石を磐石にしています。おはちの三男は秀忠に仕え旗本花井氏として続きます。お茶阿(ちやあ)の方は秀忠・家光の側近の母としても権勢を誇りもう十分でした。 お茶阿(ちやあ)の方に残された最後にして最大の仕事は、徳川幕府体制確立のために捨て石とされた忠輝の赦免でした。 お茶阿(ちやあ)の方は忠輝の行末を託すには諏訪藩主諏訪頼水がふさわしいと決めます。武田信玄が愛した諏訪御寮人由布姫(ゆうひめ)の実家にもなり、武田家滅亡後家康に仕え3万2000石で風光明媚な故郷を治めています。頼水の妻は本多康重の娘です。康重の姉は長沢松平家に嫁ぎ松千代・忠輝の養母となり、お茶阿(ちやあ)の方とも親しく信頼出来る人でした。長沢松平家と本多家はとても親しく深い付き合いがあり、頼水の妻は従兄弟になる忠輝を大切に守ると言います。 こうしてお茶阿(ちやあ)の方は、素直に思いを忠輝に伝え、長くて深い溝をていねいに埋めていきます。忠輝も了解します。ただ忠輝は何をしても目立ち、型にはまらない自由人であり、周囲を巻き込むカリスマ性があり、秀忠の警戒心はなかなか解かれません。 家光が将軍就任後、忠輝の諏訪頼水預かりを許可し、諏訪氏の居城高島城本丸の外に忠輝のために南の丸が築かれます。4000平方メートルの広さがあり、忠輝の誇りをなんとか保てます。1626年、忠輝は身内を中心に家臣60人とその家族を引き連れ移ります。新たに家臣も召抱え大名の格式を保った暮らしが始まります。温泉をめぐり、諏訪湖での遊漁を楽しみ、能・俳句・茶などは一流の域に達し華やかな暮らしです。山田氏も自由に忠輝に仕え長沢松平家からの家臣とも縁戚関係が結ばれていき主従関係は強く、忠輝亡き後も諏訪に住み着きます。 諏訪家第2代藩主忠恒は、母の本多康重の娘、貞松院の菩提寺を建立します。忠輝の菩提寺としての意味を込めて母が息子に託し忠恒もよく心得、寺領40石で広大な山林に囲まれた温かみのある寺とします。さらに5代将軍綱吉から、御朱印30石の寄進を受け、徳川将軍家の菩提寺ともなります。 1683年忠輝91歳は改めて父母に長寿を感謝しながら徳川家の盤石を確信し一翼を担った満足の微笑みを浮かべて亡くなります。 |