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| 忠輝の微笑み 4忠輝の無念 家康は意を決し側近と共に幕府を万全の体制とするべく策を練ります。 1613年長安が亡くなると待ちかまえたように、長安一族は豊臣秀頼と親しく、キリスト教を認め、不正蓄財をしていたとしてその悪事が暴かれます。長安の幕府に対する裏切り行為や、武田信道への過度な庇護を確認したとして長安の側近は捕縛され、一族・縁者も含めて厳しく罰せられ、長安の7人の男子は全員処刑されました。 長安の子女は多く、池田輝政・浅野幸長・加藤嘉明など豊臣恩顧の有力大名とも縁を結び繋がっており、追及を受けた大名達も震え上がります。家康側近の本多正信に批判的な幕府重臣や、忠輝重臣の松平家一門も罰せられました。後には松平一門や家康が認めた一族は許されますが、幕府の力を見せつける厳しい仕打ちが続きます。 お茶阿(ちやあ)の方は家康の裁きを良しとし忠輝に心を入れ替え忠勤に励むよう言います。しかし生まれてすぐに離ればなれにされた深い溝は埋めることは出来ず、信頼していた側近をもがれ、取り残された忠輝は、納得出来ない幕府の過酷な裁きに忠誠心が揺らぎます。父家康に望まれなかった子だという潜在意識もあり、反抗的態度が出てしまい、ますます窮地に追い込まれていきます。 「大坂の陣」の前哨戦として身内を切り、処断することで「寸分たりとも徳川の意向に逆らうことは出来ない」と皆に周知させて、1614年大坂の陣が始ります。家康は忠輝の豊臣家との関係を疑い冬の陣では江戸城に留まるよう命じ、忠輝に屈辱を味わせます。許された夏の陣では真っ先に豊臣家と決別したところを見せ、戦功を上げようと意気込みましたが、秀忠陣営の不遜な態度を許さず、戦いを前にして秀忠の旗本を斬殺してしまいます。そして戦場に遅れて到着し戦功を上げられないという事態を引き起こし、ますます幕府への忠誠心を疑われます。 豊臣家は滅亡しますが、秀忠は将軍としての権威を保つため忠輝を許さず、家康に一連の事態を伝えます。家康もやむなく忠輝を改易処分とします。お茶阿(ちやあ)の方も、母を母とも思わず助言を聞こうともしない忠輝を冷静に見続けます。 お茶阿(ちやあ)の方の前でだけは一人の老人になる家康の、死後の徳川家を心配する思いは理解できるけれど、ここまで忠輝を追い込んだのは家康だとも思えつらい時が続きます。救いたいと思う気持ちはあっても、将軍に誠意を尽くさない我が子であることも事実した。 |