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| 忠輝の微笑み 3忠輝の輝き 家康に対する愛憎錯綜する思いを抱きながらも、三成の死後山田一族は続々家康への仕官を求め、その実現にお茶阿(ちやあ)の方も奔走します。豊臣家を一大名におとし主従逆転となったことに家康の機嫌は悪いはずもなく、政宗の姫を迎える準備をすると言い、1602年忠輝に佐倉藩5万石を与え翌1603年には信濃川中島12万石藩主とします。この頃から実家山田氏も忠輝家臣として仕えます。 次に大久保長安を忠輝の付家老に決めます。長安は家康直轄の全国の金銀山の経営を任され、あふれる資金と絶大な力を持ち、名行政官の力も発揮している大物でした。長安は武田氏に仕えていた頃は土屋氏に従い土屋を称しており、土屋氏を守るお茶阿(ちやあ)の方には身近な存在であり喜ばしいことでした。長安は忠輝を褒め称え、力を振り絞り忠誠を尽くします。 お茶阿(ちやあ)の方の連れ子おはちは、家康の命で近習の花井吉成と結婚していました。花井吉成は忠輝の守役を命じられ続いて家老として重きを成します。また養家の長沢松平家・能見松平家など松平一門衆も忠輝に付けられ家臣団を形成していきます。 1606年14歳の忠輝は五郎八(いろは)姫と結婚します。義父政宗は大喜びで全面的に忠輝を支えここに来て忠輝はますます勇猛なる武将として存在感を示すようになります。1607年6月2日兄結城秀康が亡くなり、幼い1601年生まれの義直以下の3人を除いて、秀忠の対抗馬となりうるのは忠輝だけとなります。家康は秀忠への牽制と能力を試そうと忠輝と競わせるようにします。 忠輝家臣団は寄せ集めでした。松平家一門衆や忠輝縁者、甲州勢、育ての親皆川氏との軋轢が生まれてきていることを知りお茶阿(ちやあ)の方は気がかりです。急激に力を持ち始めた忠輝の前途にお茶阿(ちやあ)の方は喜ぶどころか危険な前触れを感じていました。それでも長安の資金力や花井吉成らの有能な行政手腕で、信濃川中島は豊かな藩になり、忠輝の評価は高まります。そして用なしとなった皆川広照が、忠輝に反抗し改易されます。 1610年、家康は忠輝に新たに越後高田藩45万石(与力分を含む)を与え忠輝は旧領と合わせ60万石の太守に躍り出ました。 お茶阿(ちやあ)の方は、家康の思いが少しづつ分かってきます。 |