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駿府城の四方山話   <前のページ 1 2 3 4 5 >次のページ   DijitalDaiku Top
忠輝の微笑み

3忠輝の輝き
家康に対する愛憎錯綜する思いを抱きながらも、三成の死後山田一族は続々家康への仕官を求め、その実現にお茶阿(ちやあ)の方も奔走します。豊臣家を一大名におとし主従逆転となったことに家康の機嫌は悪いはずもなく、政宗の姫を迎える準備をすると言い、1602年忠輝に佐倉藩5万石を与え翌1603年には信濃川中島12万石藩主とします。この頃から実家山田氏も忠輝家臣として仕えます。

次に大久保長安を忠輝の付家老に決めます。長安は家康直轄の全国の金銀山の経営を任され、あふれる資金と絶大な力を持ち、名行政官の力も発揮している大物でした。長安は武田氏に仕えていた頃は土屋氏に従い土屋を称しており、土屋氏を守るお茶阿(ちやあ)の方には身近な存在であり喜ばしいことでした。長安は忠輝を褒め称え、力を振り絞り忠誠を尽くします。

お茶阿(ちやあ)の方の連れ子おはちは、家康の命で近習の花井吉成と結婚していました。花井吉成は忠輝の守役を命じられ続いて家老として重きを成します。また養家の長沢松平家・能見松平家など松平一門衆も忠輝に付けられ家臣団を形成していきます。
1605年忠輝は家康の名代として大坂城で秀頼に面会します。以後、淀殿に家康との間を取り持つよう頼まれ、忠輝も豊臣家との折衝役に意義を感じるのです。
こうした忠輝の動きに豊臣恩顧とされる諸将が注目しない訳がありません。

1606年14歳の忠輝は五郎八(いろは)姫と結婚します。義父政宗は大喜びで全面的に忠輝を支えここに来て忠輝はますます勇猛なる武将として存在感を示すようになります。1607年6月2日兄結城秀康が亡くなり、幼い1601年生まれの義直以下の3人を除いて、秀忠の対抗馬となりうるのは忠輝だけとなります。家康は秀忠への牽制と能力を試そうと忠輝と競わせるようにします。

忠輝家臣団は寄せ集めでした。松平家一門衆や忠輝縁者、甲州勢、育ての親皆川氏との軋轢が生まれてきていることを知りお茶阿(ちやあ)の方は気がかりです。急激に力を持ち始めた忠輝の前途にお茶阿(ちやあ)の方は喜ぶどころか危険な前触れを感じていました。それでも長安の資金力や花井吉成らの有能な行政手腕で、信濃川中島は豊かな藩になり、忠輝の評価は高まります。そして用なしとなった皆川広照が、忠輝に反抗し改易されます。

1610年、家康は忠輝に新たに越後高田藩45万石(与力分を含む)を与え忠輝は旧領と合わせ60万石の太守に躍り出ました。
家臣団の内紛の種は多くあっても、忠輝は德川家一門として家康の誇りとなるよう働くと言い生き生きと輝いています。お茶阿(ちやあ)の方には最高に幸せなときでした。秀忠には家康の真意を測りかねる不快なことでした。

お茶阿(ちやあ)の方は、家康の思いが少しづつ分かってきます。
秀頼と親しい忠輝の周辺はいうまでもなく、家康の周辺にも豊臣家が65万石の一大名として存続していくのが自然と思うような世相になっていました。天下人徳川家の地位は確立しこれで良しという雰囲気が、余命が少ないと感じている家康には苦々しく映りました。
また武田氏を制圧した直後に秀吉との緊張関係が高まり武田遺臣を家康流に再編成することなく受け入れて力を持たせた結果、長安を筆頭に武田家の再興が実現できるかのように考えている武田氏旧臣が多くなっています。

武田信玄次男の子信道の嫡流としての振る舞いが目に付き 家康は苛立たしく感じ旧体制を安易に認めると幕府の基盤が弱まるとの思いが膨れていきます。
豊臣家と親しいお茶阿(ちやあ)の方には逆風でしたが、盤石な徳川の世を確立せんと最後の闘志を燃やす家康の思いも理解出来ます。秀忠は家康の思いを冷ややかに静観し、政宗・長安に担がれている忠輝には前途の雲行き、すなわち父家康の想いが分かっていないことを人知れず悲しく思うのです。