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駿府城の四方山話   <前のページ 1 2 3 4 5 >次のページ   DijitalDaiku Top
忠輝の微笑み

2忠輝誕生
吉長から家康への仕官を聞いた三成は改めて優れた行政手腕を認め縁戚を結ぶのが得策と1591年、兄の嫡男勝長と三成の長女との結婚を決めてしまうのです。結局、兄は強い縁で結び付いた三成の許を去ることは出来ず、家康の申し出を断り、三成を主君として選びました。

面目丸つぶれの家康は案の定、激怒し、実家(山田家)との縁切りを迫ります。実家の離反という最悪の事態に苦渋の色を濃くしながらも、お茶阿(ちやあ)の方は家康の心のうちもよくわかりました。実家の為に側室にあがったつもりが、いきなりつまずき、将来の暗雲を感じながらも、実家もいつか家康に役に立つ働きをするだろうと期待するほかありませんでした。

同じ頃、家康は武田家重臣土屋昌恒(つちや まさつね)の忘れ形見、8歳の忠直を見出し、名門の家柄を守ろうとお茶阿(ちやあ)の方を養母とし土屋家を起こします。土屋昌恒は多くの家臣が離反する中、最後の最後まで勝頼に従い討死した猛将でした。
忠直を我が子と思い、養育に専念することで実家との齟齬を忘れさせようとする家康流の配慮でした。お茶阿(ちやあ)の方も、我が娘と共に勇猛さで名高い土屋家の嫡男忠直と妹長松院を育てるのは母として誇れることでした。

お茶阿(ちやあ)の方の願いは、家康の子が授かることであり、忠直の養母となっても我が子が欲しい気持ちは変わりません。やがて待望の男子が授かります。ところが、家康は喜ぶどころか我が子とは認めないとまで言い出す始末でした。お茶阿(ちやあ)の方の必死の願いで、ようやく折れた家康は、他家にあずけることを条件に我が子と認めます。
1592年、家康49歳江戸城で6男、後の忠輝が誕生し、北条氏政の養女を母に持つ皆川広照に引き取られます。皆川広照は家康に臣従し所領を安堵され、皆川藩(栃木市皆川)1万3千石を与えられていました。

お茶阿(ちやあ)の方には、あまりにも惨めな忠輝の処遇であり、悲しみにふさぎますが、二人目の子が授かった時は、家康の対応も変わってきます。家康には秀吉後の世相が見えてきたようで冷静でした。1594年に7男松千代が生まれると長沢松平家に養子に出されます。長沢松平家は松平一門の中でも重要視されている家柄でお茶阿(ちやあ)の方もほっとします。

1598年春いよいよ秀吉の余命が残り少ないことが、誰の目にも明らかになったころ、家康は6歳になった忠輝と対面します。まもなく松千代は亡くなり、弟を継いで兄忠輝が長沢松平家に養子入りします。家康には考えがあったようです。お茶阿(ちやあ)の方は、松千代の死は悲しくても、忠輝が家康の子にふさわしく認められ心から安堵します。

1598年夏、ついに秀吉が亡くなると家康は大名同士の勝手な婚姻を禁じた秀吉の遺言を破り、独断で長沢松平家忠輝6歳と伊達政宗(だてまさむね)の長女五郎八(いろは)姫との婚約を決めます。明らかに三成への挑発であり、天下人に向けての布石の一つとして三成に近い忠輝が使われます。

お茶阿(ちやあ)の方は、家康には忠輝の父親としての愛がないとまたしても悲しくなります。それでも仙台藩58万石の伊達家の一の姫との婚約を喜び、家康が警戒している野心にあふれた政宗との政略結婚に大きな仕掛けがあるとしても、乗り切る力が忠輝に備わっていると思うのです。そして1600年、関が原に三成を破った家康は、1603年には、征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開きます。