駿府城 四方山話ー忠輝の微笑み

1出逢い

後にお茶阿(ちやあ)の方呼ばれる「山田氏の娘」の実家は遠江国金谷(静岡県島田市金谷)の土豪で、父は武田氏に仕えていました。1582年武田氏(勝頼)滅亡後浪人となった父は新たな仕官先が見つかるまで、やむなくお茶阿(ちやあ)の方を遠江国森町の縁戚にあたる鋳物師山田七郎に預けます。

養家は鋳物師といっても、大砲や石火矢など当時最新の兵器を製造する技術者を率いいる商工業者であり、家康の遠江国支配が始まるとその配下として、兵器製造に励み小牧の陣にも従軍し家康を満足させます。家康の信頼厚い鋳物師として商売は繁盛し、お茶阿(ちやあ)の方も不自由なく育ちます。

1586年、お茶阿(ちやあ)の方は16歳で養家の嫡男と結婚し金谷に戻ります。すぐに娘おはちが生まれしあわせな生活でしたが、長くは続きません。美人の妻がいて、兵器を作り羽振りのいい夫は、ねたまれ代官と諍いを起こし殺されます。お茶阿(ちやあ)の方は泣き寝入りするどころか駿府の殿様、家康への直訴を決意します。決死の覚悟をし家康の動向を探りながら領主のの公正な裁量に賭けたのです。

家康は駿府城から遠出して鷹狩りに興じていました。

秀吉から押しつけられた後妻の朝日姫が京の聚楽第に帰ったおかげで、縛り付けられていた身から一気に解放され久しぶりの気晴らしで上機嫌でした。その時突然飛び込んできたお茶阿(ちやあ)の方を一目見るなり、大胆さも、さることながらお茶阿(ちやあ)の方の妖艶な美しさに魅せられました。

早速、直々に事情を聞いた家康は、夫の敵(かたき)代官を罰し後家のお茶阿(ちやあ)の方には駿府城の奥に勤めるよう言います。駿府城に勤めることが夢だったお茶阿(ちやあ)の方は喜び娘おはちとともに養家に別れを告げます。家康は、お茶阿(ちやあ)の方が武家の教養も十分備えたうえに町屋の生活にも明るく、家康を飽きさせない話し振りが気に入り、側に仕えることが多くなっていきます。

1590年、お茶阿(ちやあ)の方20歳は家康の側室になります。側室として実家山田氏の再興を実現することが心からの願い、夢の第一歩を踏み出したのです。

この頃お茶阿(ちやあ)の方の父は、同郷の宇多頼忠(うだよりただ)を頼り仕官します。そして1586年、お茶阿(ちやあ)の方と一回りばかり年上の兄吉長は、頼忠の紹介で娘婿石田三成に仕官します。家康の側室となったお茶阿(ちやあ)の方は、兄達に一族で家康に仕えるよう喜び勇んで伝えます。
こうした場合、側室の実家は一族をあげて、家康に仕えるのが当たり前でした。家康も会うのを楽しみに役職まで考え待っています。


2忠輝誕生

吉長から家康への仕官を聞いた三成は改めて優れた行政手腕を認め縁戚を結ぶのが得策と1591年、兄の嫡男勝長と三成の長女との結婚を決めてしまうのです。結局、兄は強い縁で結び付いた三成の許を去ることは出来ず、家康の申し出を断り、三成を主君として選びました。 面目丸つぶれの家康は案の定、激怒し、実家(山田家)との縁切りを迫ります。実家の離反という最悪の事態に苦渋の色を濃くしながらも、お茶阿(ちやあ)の方は家康の心のうちもよくわかりました。実家の為に側室にあがったつもりが、いきなりつまずき、将来の暗雲を感じながらも、実家もいつか家康に役に立つ働きをするだろうと期待するほかありませんでした。

同じ頃、家康は武田家重臣土屋昌恒(つちや まさつね)の忘れ形見、8歳の忠直を見出し、名門の家柄を守ろうとお茶阿(ちやあ)の方を養母とし土屋家を起こします。土屋昌恒は多くの家臣が離反する中、最後の最後まで勝頼に従い討死した猛将でした。
忠直を我が子と思い、養育に専念することで実家との齟齬を忘れさせようとする家康流の配慮でした。お茶阿(ちやあ)の方も、我が娘と共に勇猛さで名高い土屋家の嫡男忠直と妹長松院を育てるのは母として誇れることでした。

お茶阿(ちやあ)の方の願いは、家康の子が授かることであり、忠直の養母となっても我が子が欲しい気持ちは変わりません。やがて待望の男子が授かります。ところが、家康は喜ぶどころか我が子とは認めないとまで言い出す始末でした。お茶阿(ちやあ)の方の必死の願いで、ようやく折れた家康は、他家にあずけることを条件に我が子と認めます。
1592年、家康49歳江戸城で6男、後の忠輝が誕生し、北条氏政の養女を母に持つ皆川広照に引き取られます。皆川広照は家康に臣従し所領を安堵され、皆川藩(栃木市皆川)1万3千石を与えられていました。

お茶阿(ちやあ)の方には、あまりにも惨めな忠輝の処遇であり、悲しみにふさぎますが、二人目の子が授かった時は、家康の対応も変わってきます。家康には秀吉後の世相が見えてきたようで冷静でした。1594年に7男松千代が生まれると長沢松平家に養子に出されます。長沢松平家は松平一門の中でも重要視されている家柄でお茶阿(ちやあ)の方もほっとします。

1598年春いよいよ秀吉の余命が残り少ないことが、誰の目にも明らかになったころ、家康は6歳になった忠輝と対面します。まもなく松千代は亡くなり、弟を継いで兄忠輝が長沢松平家に養子入りします。家康には考えがあったようです。お茶阿(ちやあ)の方は、松千代の死は悲しくても、忠輝が家康の子にふさわしく認められ心から安堵します。

1598年夏、ついに秀吉が亡くなると家康は大名同士の勝手な婚姻を禁じた秀吉の遺言を破り、独断で長沢松平家忠輝6歳と伊達政宗(だてまさむね)の長女五郎八(いろは)姫との婚約を決めます。明らかに三成への挑発であり、天下人に向けての布石の一つとして三成に近い忠輝が使われます。

お茶阿(ちやあ)の方は、家康には忠輝の父親としての愛がないとまたしても悲しくなります。それでも仙台藩58万石の伊達家の一の姫との婚約を喜び、家康が警戒している野心にあふれた政宗との政略結婚に大きな仕掛けがあるとしても、乗り切る力が忠輝に備わっていると思うのです。そして1600年、関が原に三成を破った家康は、1603年には、征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開きます。

 

3忠輝の輝き

家康に対する愛憎錯綜する思いを抱きながらも、三成の死後山田一族は続々家康への仕官を求め、その実現にお茶阿(ちやあ)の方も奔走します。豊臣家を一大名におとし主従逆転となったことに家康の機嫌は悪いはずもなく、政宗の姫を迎える準備をすると言い、1602年忠輝に佐倉藩5万石を与え翌1603年には信濃川中島12万石藩主とします。この頃から実家山田氏も忠輝家臣として仕えます。 次に大久保長安を忠輝の付家老に決めます。長安は家康直轄の全国の金銀山の経営を任され、あふれる資金と絶大な力を持ち、名行政官の力も発揮している大物でした。長安は武田氏に仕えていた頃は土屋氏に従い土屋を称しており、土屋氏を守るお茶阿(ちやあ)の方には身近な存在であり喜ばしいことでした。長安は忠輝を褒め称え、力を振り絞り忠誠を尽くします。

お茶阿(ちやあ)の方の連れ子おはちは、家康の命で近習の花井吉成と結婚していました。花井吉成は忠輝の守役を命じられ続いて家老として重きを成します。また養家の長沢松平家・能見松平家など松平一門衆も忠輝に付けられ家臣団を形成していきます。
1605年忠輝は家康の名代として大坂城で秀頼に面会します。以後、淀殿に家康との間を取り持つよう頼まれ、忠輝も豊臣家との折衝役に意義を感じるのです。
こうした忠輝の動きに豊臣恩顧とされる諸将が注目しない訳がありません。

1606年14歳の忠輝は五郎八(いろは)姫と結婚します。義父政宗は大喜びで全面的に忠輝を支えここに来て忠輝はますます勇猛なる武将として存在感を示すようになります。1607年6月2日兄結城秀康が亡くなり、幼い1601年生まれの義直以下の3人を除いて、秀忠の対抗馬となりうるのは忠輝だけとなります。家康は秀忠への牽制と能力を試そうと忠輝と競わせるようにします。

忠輝家臣団は寄せ集めでした。松平家一門衆や忠輝縁者、甲州勢、育ての親皆川氏との軋轢が生まれてきていることを知りお茶阿(ちやあ)の方は気がかりです。急激に力を持ち始めた忠輝の前途にお茶阿(ちやあ)の方は喜ぶどころか危険な前触れを感じていました。それでも長安の資金力や花井吉成らの有能な行政手腕で、信濃川中島は豊かな藩になり、忠輝の評価は高まります。そして用なしとなった皆川広照が、忠輝に反抗し改易されます。

1610年、家康は忠輝に新たに越後高田藩45万石(与力分を含む)を与え忠輝は旧領と合わせ60万石の太守に躍り出ました。
家臣団の内紛の種は多くあっても、忠輝は德川家一門として家康の誇りとなるよう働くと言い生き生きと輝いています。お茶阿(ちやあ)の方には最高に幸せなときでした。秀忠には家康の真意を測りかねる不快なことでした。

お茶阿(ちやあ)の方は、家康の思いが少しづつ分かってきます。
秀頼と親しい忠輝の周辺はいうまでもなく、家康の周辺にも豊臣家が65万石の一大名として存続していくのが自然と思うような世相になっていました。天下人徳川家の地位は確立しこれで良しという雰囲気が、余命が少ないと感じている家康には苦々しく映りました。
また武田氏を制圧した直後に秀吉との緊張関係が高まり武田遺臣を家康流に再編成することなく受け入れて力を持たせた結果、長安を筆頭に武田家の再興が実現できるかのように考えている武田氏旧臣が多くなっています。

武田信玄次男の子信道の嫡流としての振る舞いが目に付き 家康は苛立たしく感じ旧体制を安易に認めると幕府の基盤が弱まるとの思いが膨れていきます。
豊臣家と親しいお茶阿(ちやあ)の方には逆風でしたが、盤石な徳川の世を確立せんと最後の闘志を燃やす家康の思いも理解出来ます。秀忠は家康の思いを冷ややかに静観し、政宗・長安に担がれている忠輝には前途の雲行き、すなわち父家康の想いが分かっていないことを人知れず悲しく思うのです。


4忠輝の無念

家康は意を決し側近と共に幕府を万全の体制とするべく策を練ります。
1613年長安が亡くなると待ちかまえたように、長安一族は豊臣秀頼と親しく、キリスト教を認め、不正蓄財をしていたとしてその悪事が暴かれます。長安の幕府に対する裏切り行為や、武田信道への過度な庇護を確認したとして長安の側近は捕縛され、一族・縁者も含めて厳しく罰せられ、長安の7人の男子は全員処刑されました。 長安の子女は多く、池田輝政・浅野幸長・加藤嘉明など豊臣恩顧の有力大名とも縁を結び繋がっており、追及を受けた大名達も震え上がります。家康側近の本多正信に批判的な幕府重臣や、忠輝重臣の松平家一門も罰せられました。後には松平一門や家康が認めた一族は許されますが、幕府の力を見せつける厳しい仕打ちが続きます。
武田信道は伊豆大島への流刑となります。花井吉成は、娘が長安6男の妻であり、逃れられないとして自害します。忠輝まで追及の手が伸びるのをを阻止するためでした。土木事業に華々しい業績を残した花井氏は長安の力添えなくしては出来ず長安と密接に繋がっていました。また溝口氏・村上氏という与力大名も花井氏と縁戚を結んでおり追及を受けます。
長安に付き従った武田遺臣で家康が用無しとした一族はすべて葬られるか小勢力となります。山田一族にも厳しい処罰がされます。長安側近山田藤右衛門も処刑されました。
豊臣に心を寄せた大名達の徳川に対する微細にして最後の戦闘力は一斉に萎縮し霧散するに至りました。

お茶阿(ちやあ)の方は家康の裁きを良しとし忠輝に心を入れ替え忠勤に励むよう言います。しかし生まれてすぐに離ればなれにされた深い溝は埋めることは出来ず、信頼していた側近をもがれ、取り残された忠輝は、納得出来ない幕府の過酷な裁きに忠誠心が揺らぎます。父家康に望まれなかった子だという潜在意識もあり、反抗的態度が出てしまい、ますます窮地に追い込まれていきます。

「大坂の陣」の前哨戦として身内を切り、処断することで「寸分たりとも徳川の意向に逆らうことは出来ない」と皆に周知させて、1614年大坂の陣が始ります。家康は忠輝の豊臣家との関係を疑い冬の陣では江戸城に留まるよう命じ、忠輝に屈辱を味わせます。許された夏の陣では真っ先に豊臣家と決別したところを見せ、戦功を上げようと意気込みましたが、秀忠陣営の不遜な態度を許さず、戦いを前にして秀忠の旗本を斬殺してしまいます。そして戦場に遅れて到着し戦功を上げられないという事態を引き起こし、ますます幕府への忠誠心を疑われます。

豊臣家は滅亡しますが、秀忠は将軍としての権威を保つため忠輝を許さず、家康に一連の事態を伝えます。家康もやむなく忠輝を改易処分とします。お茶阿(ちやあ)の方も、母を母とも思わず助言を聞こうともしない忠輝を冷静に見続けます。

お茶阿(ちやあ)の方の前でだけは一人の老人になる家康の、死後の徳川家を心配する思いは理解できるけれど、ここまで忠輝を追い込んだのは家康だとも思えつらい時が続きます。救いたいと思う気持ちはあっても、将軍に誠意を尽くさない我が子であることも事実した。


5忠輝の微笑み

家康を看取ったお茶阿(ちやあ)の方は、自由に秀忠に対して言うべきことを言い、動き始めます。駿府城を引き上げ江戸に移ると葵の紋が輝く自らの菩提寺宗慶寺を建立し、末永く徳川家の庇護を受けるようにします。これで行く末も万全です。 土屋家は、忠直が1612年、30歳の若さで亡くなります。幼い遺児の行く末は生前の家康が道をつけ、お茶阿(ちやあ)の方が責任を持って見守り続けます。1607年生まれの嫡男利直は父を引き継ぎ秀忠に仕え、1608年生まれの次男数直は1616年に家光近習に取り立てられ、後には信任厚く老中となり土浦藩主10万5千石にまでなり、1611年生まれの之直は旗本として取り立てられます。我が子のように育てた長松院は秀忠の養女として相馬氏に嫁ぎ、相馬中村藩(そうまなかむらはん)6万石を磐石にしています。おはちの三男は秀忠に仕え旗本花井氏として続きます。お茶阿(ちやあ)の方は秀忠・家光の側近の母としても権勢を誇りもう十分でした。

お茶阿(ちやあ)の方に残された最後にして最大の仕事は、徳川幕府体制確立のために捨て石とされた忠輝の赦免でした。
怖いもののないお茶阿(ちやあ)の方は自由に忠輝と連絡を取り合いどうすべきか考えます。忠輝は飛騨高山藩主金森重頼(かなもりしげより)に預けられ、天照寺に落ち着き母の力を得て気ままに過ごしています。しかし忠輝を脅威に感じる秀忠は許しそうにありません。重頼もお茶阿(ちやあ)の方と共に、再三幕府に忠輝の許しを求めますが実現には至りません。次第にお茶阿(ちやあ)の方は忠輝の存命を第一に考え、将来に望みをつなぎ、忠輝の周辺から浮世の軋轢を取り払い一族に囲まれた穏やかな暮らしを送ることを望むようになります。短慮を慎み、忠輝が存命さえすれば、政権確立に伴う厳しく冷たい風も、ときの移り変わりともに、やがておさまることを期待したからに他なりません。

お茶阿(ちやあ)の方は忠輝の行末を託すには諏訪藩主諏訪頼水がふさわしいと決めます。武田信玄が愛した諏訪御寮人由布姫(ゆうひめ)の実家にもなり、武田家滅亡後家康に仕え3万2000石で風光明媚な故郷を治めています。頼水の妻は本多康重の娘です。康重の姉は長沢松平家に嫁ぎ松千代・忠輝の養母となり、お茶阿(ちやあ)の方とも親しく信頼出来る人でした。長沢松平家と本多家はとても親しく深い付き合いがあり、頼水の妻は従兄弟になる忠輝を大切に守ると言います。

こうしてお茶阿(ちやあ)の方は、素直に思いを忠輝に伝え、長くて深い溝をていねいに埋めていきます。忠輝も了解します。ただ忠輝は何をしても目立ち、型にはまらない自由人であり、周囲を巻き込むカリスマ性があり、秀忠の警戒心はなかなか解かれません。
幕府へ強力に働きかけ、諏訪に移す道筋だけつけて1621年51歳で忠輝の長命を念じながら、お茶阿(ちやあ)の方は亡くなります。

家光が将軍就任後、忠輝の諏訪頼水預かりを許可し、諏訪氏の居城高島城本丸の外に忠輝のために南の丸が築かれます。4000平方メートルの広さがあり、忠輝の誇りをなんとか保てます。1626年、忠輝は身内を中心に家臣60人とその家族を引き連れ移ります。新たに家臣も召抱え大名の格式を保った暮らしが始まります。温泉をめぐり、諏訪湖での遊漁を楽しみ、能・俳句・茶などは一流の域に達し華やかな暮らしです。山田氏も自由に忠輝に仕え長沢松平家からの家臣とも縁戚関係が結ばれていき主従関係は強く、忠輝亡き後も諏訪に住み着きます。

諏訪家第2代藩主忠恒は、母の本多康重の娘、貞松院の菩提寺を建立します。忠輝の菩提寺としての意味を込めて母が息子に託し忠恒もよく心得、寺領40石で広大な山林に囲まれた温かみのある寺とします。さらに5代将軍綱吉から、御朱印30石の寄進を受け、徳川将軍家の菩提寺ともなります。

1683年忠輝91歳は改めて父母に長寿を感謝しながら徳川家の盤石を確信し一翼を担った満足の微笑みを浮かべて亡くなります。

 

 

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