新発田城四方山話

1.新発田(しばた)氏の時代 ー新発田重家の決起ー

上杉景勝・直江兼続に武士の面目を潰され新発田重家(しげいえ)が怒りの雄叫びを上げた。
1581年景勝・兼続を苦しめた血みどろの戦いが始まり、これから6年も泥沼の戦いが続く。

新発田氏は源頼朝(みなもとよりとも)の側近佐々木盛綱の子を始祖とするとされる。
鎌倉時代初期に頼朝より越後加地の地を与えられ、加地(かじ)氏を国人として続く。
本家加地氏から新発田氏は分家して、越後新発田を与えられ名として、支配が始まる。

室町幕府となっても変わらずこの地を治め、新発田城を築き居城とし、続いていく。
守護・守護代に従いながらも、独立性を保ち、共存を図りながら、有力国人領主となった。

加地氏は上杉謙信の姉と結婚する力を持ち、生まれた秀綱は上杉一門として謙信に仕えた。
新発田長敦(ながあつ)・重家兄弟も謙信に従い戦功を上げる加地氏以上の軍事力を持つ。

謙信死後の家督争い「御館(おたて)の乱」では、秀綱は景虎側に付き景勝を追い込んだ。
そこには名ばかりの名門、景虎を擁し、より独立した強い権力を握ろうとの魂胆がある。

一方、新発田氏は権力基盤が弱い景勝を推すことで、勝利後の自らの覇権を目指し頑張る。
新発田兄弟の力が一族で最も強く加地氏も景勝に味方すべきだと攻め降伏させ説得した。
加地氏一門で景勝に匹敵する力を持つのが最善の道だと説き、加地氏も景勝支持に変わる。

加地氏が景虎から離れた影響は大きく他の国人衆も景虎を見限り景勝支持に変わり始める。
そして景勝は勝利する。長敦・重家兄弟のもくろみは当たり、景勝勝利に大きく貢献した。

新発田兄弟は兄が知将、弟が猛将で、謙信の外交・軍事で強い力を持ち勇名が轟いていた。
兼続が新発田氏に景勝支持の助力を頼む時は恩賞を約束し平身低頭で誠意があり信頼した。
景勝が勝利宣言した時、新発田兄弟も興奮し喜び、恩賞による一族の輝く将来を確信する。

兄長敦が急死する。景勝勝利に貢献した重臣で亡くなる者が次々出て来て、不安になった。
重家は五十公野(いじみの)氏の養子であった為、妹婿に譲り、新発田氏に戻り家督を継ぐ。
その動きを見て待ちかねていたように兼続は豹変し、交わした恩賞の約束は白紙だと言う。

妹婿は三条町奉行で景勝側で戦い、三条城主神余親綱(かなまりちかつな)は景虎側だった。
妹婿は主君になる神余親綱を敵とし激戦を繰り拡げ倒し、三条城を奪い取り城主となった。

三条城を含め奪い取った地は新発田一門が得るはずで、景勝に次ぐ地位にまで拡げていた。
ところが景勝は新発田氏の領地・五十公野氏の領地の安堵を認めるが恩賞はないと決めた。
新発田氏・五十公野氏との恩賞の取り決めで当主の交代で終わったと勝ち誇って宣告した。

「御館の乱」一番の功労者、重家は多大な戦費を投じ景勝を勝たせただけで終わったのだ。
だまされたと知り兄の死にも疑いを持つ重家は、兼続の卑怯な策で許されないと怒った。
兼続は恩賞を出し渋り言いがかりを付けるのが常套手段で、恨む国人衆は多く皆同情した。

重家は新発田城に籠もりつつ、引きつけては討って出る、巧みな戦いで上杉勢を翻弄した。
苛立つ景勝は本庄繁長(ほんじょうしげなが)と色部長実(いろべながざね)に討伐を命じる。
だが、彼らには揚北衆(あがきたしゅう)として隣り合い協力してきた仲間で、敵ではない。
色部長実の妻は重家の妹で、繁長の妻は景勝に敵対した古志長尾家で、景勝の臣ではない。
独立意識が強く新発田氏と戦う大義もなく、お互いが相手を思いやり、兼続は怒りが増す。

新発田城は加治川を背に、阿賀野川・信濃川河口の湿地帯に囲まれて天然の要害だった。
しかも重家は織田信長と通じ支援を受け十分な物資の補給を船から受け取り、士気は高い。
重家は新発田城を攻め落とす事は不可能で、いずれ景勝を倒して勝てると楽観視していた。

本能寺の変までは重家が戦いの主導権を握り、景勝が追い詰められ逃げ惑う時もあった。
だが予想外の信長の死に補給の道が狭められ、重家は運に見放されていくのを感じ嘆いた。

一方、景勝への忠誠を強く迫られ、色部長実は調停を望むが、重家と対決せざるを得ない。
その上、兼続から嫡男光長と兼続妹との結婚を望まれ縁戚になり景勝政権に組み込まれる。
景勝政権は基盤を固め、もはや重家を討ち取らざるを得ない立場になったと覚悟を決める。

1586年景勝が秀吉と同盟を結び、頼りにした蘆名(あしな)氏の力もなく、命運はつきた。
1587年夏、景勝は1万余の軍勢で新発田城を取り囲み、重家の戦いは終りを迎えたと悟る。
重家は戦い抜いた最後、盟友色部長実の陣に突入し首を渡すと叫び、新発田氏は滅ぶ。
色部氏の手柄とされ、大きく出世し米沢藩家老となる。赤穂浪士討ち入り時の江戸家老だ。


2.溝口(みぞぐち)氏の時代 ー我慢の名君ー

上杉氏が越後を去り、1598年豊臣秀吉直臣の溝口秀勝が新発田藩6万石を与えられた。
秀吉が越後45万石を堀秀治に与え春日山城に入り、その下に付く与力としての新発田藩だ。
領地を治める藩主であり、堀氏に従い戦い堀氏を監視し秀吉に報告する忙しい大名だ。

溝口氏は甲斐武田氏の庶流で、木曾川の下流の尾張国中島郡溝口鄕を領地とした豪族だ。
木曾川は水運を活用することで多くの益をもたらすが、反面、洪水に悩まされ続けていた。
木曾川の氾濫を見て育った秀勝は幼少時から、治水技術を学び堤防工事に熱心に取り組む。

丹羽長秀(にわながひで)に仕え、師と崇め、領国経営から土木技術まで幅広く習い覚えた。
信長に土木技術の才能を認められ直臣となり1581年若狭国に5千石を得て有力武将となる。

信長死後、丹羽長秀の元に戻り、秀吉を支援し賎ヶ岳(しずがたけ)の戦いで戦功を上げる。
秀吉から感謝され長秀は123万石を得、秀勝は加賀大聖寺4万4千石を得て家老となる。
長秀死後、丹羽家は力をなくすが、秀勝は秀吉の直臣となり所領安堵され大名として残る。

秀勝は安土城の普請で現場の采配を任せられ成し遂げた実績があり、秀吉も知っている。
そして秀吉の大坂城築城、肥前名護屋城の普請に積極的に関わる様命じられ成果を上げる。
秀勝の築城技術、治水土木工事の才能を、築城好きの秀吉は喜び厚い信頼を受けていく。

その結果、秀勝50歳、6万石の藩主として千人以上の家臣らを引き連れて堂々の国入りだ。
新発田に着き、溝口氏のために命を賭けて戦った4家に重職を与え、国造りが始まる。
第1は妹婿、加藤清重だ。
本能寺の変の後、共に秀吉に従い戦い、そして溝口秀勝の家臣となり数々の戦勲を上げた。
嫡男重広から溝口姓を与え、溝口内匠(ないしょう)家と名乗り、代々家老職となる。
第2は加藤清重の妹婿、溝口秀友だ。
本能寺の変の後、柴田勝家に味方し敗北し逃げていたが、秀勝は縁戚だと助け召し抱えた。
秀友は気の合う友であり、剣豪として文武に優れ、以後何度も秀勝を助ける守護神となる。
溝口姓を与え一門として取り立てるが、運がない家系となるが。堀部安兵衛の母の実家だ。
第3は柴田勝家に仕えた弟勝吉だ。 
勝家から養子勝豊の家老に命じられたが勝豊が秀吉に従った責任を感じ、勝家と共に死ぬ。
予期していなかった秀吉と勝家との戦いで、兄弟敵味方に別れたが秀勝は遺児を引き取る。
溝口半左衛門家と名乗らせ弟の死に報い、新発田藩家老として続いていく。
第4は少し後になるがもう一人の弟伝三郎だ。
伝三郎は秀吉に仕え、死後も豊臣家に仕え京・大坂に居り、三成と行動を共にした。
関ヶ原の戦いでは西軍となり、戦い後、追われる身となり行方不明となってしまう。
しかし新発田城入りした子達は守り抜き、後を継がせ、溝口四郎左衛門家とする。
秀勝は敗者になり捨て石となる一族をも引き取り、働きを褒め、守る律儀な性格だった。

溝口秀勝は秀吉の薦めもあり、新発田に近世城郭を築き、秀吉の威光を示そうと考えた。
今まで磨いた築城術を発揮する時だ、と奮い立ちじっくり居城の構想を練り藩政を考える。
前領主新発田氏の城をそのまま引き継ぐと決め、旧新発田城に新たに城を築き直すとした。
新たに縄張りをし、旧城を一新する今日に繋がる近世城郭を築き始めた。

ところが溝口藩政に取りかかり、まだ1年も経たないのに秀吉は亡くなる。
秀吉の名『秀』を与えられ誇りとした秀勝は、豊臣政権は続くと信じ、忠勤に励んだのに。

秀吉死後、予想外に早く豊臣政権はきしみ始め豊臣か徳川かの決断を迫られる事態となる。
秀勝はバランス感覚があり運もあり、堀氏と上杉氏の関係が悪い事もありすぐに決断した。
上杉氏討伐への情報を提供したのが堀氏で家康に協力して上杉氏に対峙する体制を整えた。
堀氏の与力である秀勝は三成の味方要請にも、堀氏に従うしかないと言い訳できた。

激動の時が続き去就も分からず、新発田城の築城は進まないが天下の動静に対処していく。
その後、築城は50年以上も続き、最終的には小藩にはまれな名城新発田城が築かれる。
旧城の面影はなくなっても、領民の城として新発田城の名を受け継ぐ。

 

3.新発田藩の生き残り ー肥沃な穀倉地帯へー

秀勝は秀吉の生存中から、家康の実力を天下一だと高く評価し、礼を尽くしていた。
秀吉死後、次男善勝(よしかつ)をすぐに秀忠に仕えさせ、徳川家へ従う事を表した。

天下分け目の戦いは越後で上杉景勝が煽動した一揆を鎮圧し、家康方として働き乗り切る。
領地は安堵されたが、豊臣恩顧の大名なのは明らかで、外様つぶしの難題が降りかかる。

堀氏は一族が内紛が起こし藩主としての統治能力がないと責められ、あえなく改易された。
秀勝も堀氏は主君で嫡男の妻の実家であり連座責任を追求されるが、関係なしを貫いた。

秀勝は信長から美濃の斎藤道三の縁者、長井源七郎の娘と結婚を勧められ2男5女が生れた。
嫡男宣勝(のぶかつ)は秀吉から堀秀政の娘と結婚するよう決められて、喜んで迎えた。
その時は、信長の寵臣で秀吉の重臣、堀氏の一門となれば溝口氏の将来は安泰だと考えた。
たとえ堀氏が改易されても宣勝は妻を大切にし離縁など考えず、溝口家として筋を通した。
それどころか宣勝の妻は溝口家の奥を仕切り、積極的に縁者を集め庇護し家臣としていく。

次に、堀氏に代り松平忠輝(ただてる)が越後入りし、同じく与力として支える事になる。
忠輝の居城、高田城の築城に加わり、人も物資もふんだんに投入し忠臣ぶりを発揮する。
石垣工事の得意な大名は東国には少なく、秀勝の技術力は見事でひときわ目立った。
忠輝は褒め、秀勝も家康の六男忠輝との親しい関係は益ありと、積極的に忠勤に励む。

次男善勝は前田利家の娘婿長種の娘(利家の孫)と結婚し、前田家との縁を大切にした。
かっての主君丹羽家から離れ、外様大名の筆頭、前田家とは親しい関係を続ける。

長女には越前朝倉家の義景の庶子を婿に迎え、生まれた広景を溝口伊織家の祖とする。
以後は家老家となり、藩政に力を持つ。

次女は公家中院通村(なかのいんみちむら)に嫁ぎ、京都公家との仲も重んじる。

三女亀姫は松平忠輝の義兄であり、忠輝の最も信頼する家老花井氏の嫡男義雄に嫁ぐ。

四女宮姫は秀勝と同じ与力でもある越後村上藩、村上頼勝一門の吉武久七に嫁ぐ。

こうして将来を見据えた政略結婚は順調に進み、溝口家の地位は安泰としたつもりだ。
秀勝は忠輝の引き立てにより、まだまだ飛躍すると豊臣系大名を脱したと自信を持った。

しかし、大坂の陣を前にした1610年に秀勝は志半ばで豊臣家を心配しつつ亡くなる。
死に臨んで宣勝に、幕府に忠誠を尽くし溝口家を守れ油断するな、と強く遺言する。
引き継いだ宣勝は遺言を守り忠輝に仕え幕府の命じる江戸城の手伝い普請も積極的に従う。

また秀勝の一番の望みは、新発田を肥沃の大地に変える事だと、何度も聞かされている。
未開墾地の沼地でもある阿賀野川・信濃川河口を農耕地とする、土木灌漑に全力を賭ける。
湿地帯に黄金の稲穂が広がり、豊かな農耕地帯と変わっていく様は心躍る感動だ。

秀勝の遺言で、弟善勝には1万2千石を分け秀忠から与えられた2千石と併せ大名にする。
秀忠の側近くで忠誠を尽くし続けるための資金でもあり溝口家と幕府の緊密な関係を保つ。

ところが努力は実らず、大坂の陣を前に大久保長安事件が起こり、再び改易の危機が迫る。
絶大な権力を持ち私腹を肥やした長安は、忠輝に莫大な資金を調達した庇護者でもあった。

亀姫の婿、花井義雄の妹は長安の子右京に嫁ぎ、右京は連座して切腹を命じられた。
忠輝にも疑いの目が向けられ、宣勝にも厳しい追及があり長安との仲を疑われ追求された。
だが、利益を得た証拠は見つからず、一応難は逃れるが、まもなく大坂の陣が始まる。

宣勝は幕府の疑いに対し潔白を証明する場を大坂の陣と決め、決死の活躍をすると臨む。
幕府へのわだかまりを持つ忠輝に従いつつ、独自に家康への忠誠を貫き戦う。
善勝も、秀忠に従い戦功を上げ、忠輝とは一歩引いた関係であると示した。
溝口家は幕府一筋の律儀な性格と、安定した内政、優れた行政手腕が光り、生き残る。

主君松平忠輝・隣国村上忠勝は改易となるが、宣勝は与力を外れ、念願の独立を勝ち取る。
また、村上忠勝の妻は花井義雄の妹であり連座を問われたが一切関係なしと断言できた。

新発田は肥沃な穀倉地帯に生れ変わり、新発田藩10万石として、実高は遙かに超えて続く。


4.秋香(あきか)の結婚 ー藩主の姫の威光ー

秀勝と正室の末の姫が糸姫(秋香)だった。晩年に生まれ可愛がられたが10歳で父を亡くす。
死の直前、秀勝は糸姫(秋香)と溝口政友の嫡男、盛政(もりまさ)との結婚を言い残した。

深い教養を持つ剣豪、戦国武将の鏡だった溝口秀友はすでに亡くなり嫡男政友が継いだ。
政友も文武両道に優れた剣豪であり、秀勝は引き続き、側近く重く用い、千石を与えた。
政友の妻は丹羽久兵衛の娘であり、教養深い、安芸広島藩家老、上田宗固の妹でもある。

豊臣家ゆかりの秀勝は関ヶ原の戦い後、蒲生家や敗軍の将から人材を招き家臣にしていた。
旧知の大物の武将ばかりで相応の禄を与えると財政的には負担になるが価値ある人材だ。
そのため、小藩の苦しい財政で千石以上の禄を与えるのは僅かの重臣に限られる。

しかも戦のない平和な時代になり武断より文治に比重が移っていた時だ。
剣豪であり深い教養を誇り尊敬されてはいるが、政友に高禄を与えるのは批判もある。
それでも、死を前にして秀勝は政友の家系を家老として代々重職を受け継がせたいと思う。
そこで盛政と糸姫(秋香)の結婚を決め、藩主一門として1095石に加増し、万全に手配した。

2代を継いだ宣勝は弟に分地し新発田藩は5万石となり、ますます高禄の重臣は負担だ。
宣勝は父の命を守り、秋香と盛政は結婚したが、義父政友は1623年に亡くなる。
夫盛政が家督を継ぐが、財政・行政手腕に秀でたわけではない盛政には以後試練が続く。

まず秋香の必死の願いにもかかわらず、兄宣勝は盛政の禄を7百石に減らしてしまう。
代りに盛政の弟を150石で分家させ、一家を成すことが出来たが。
宣勝は大坂の陣以後も豊臣系武将を召し抱え、5万石の小藩には7百石が限度だと詫びたが。

秋香も父秀勝に貢献しただけで、我が溝口家が末代までも千石が安泰とは思わない。
それでも藩主の妹秋香が健在な内に減らされ不満だが、我が子の成長に賭けると考えた。
秋香は一男四女に恵まれ、我が子が家督を継げば藩主一門として高禄になると信じたのだ。
だが1628年宣勝は亡くなり甥宣直(のぶなお)が3代藩主となり藩主との縁が遠のいていく。

やはり宣直は冷たく、秋香の4人の娘は藩主に繋がる一族ではなく家臣との縁組が決まる。
末娘は江戸詰300石の中堅の藩士、中山家の嫡男弥次右衛門(やじえもん)に嫁いだ。
ところが嫁いでまもなく1645年に弥次右衛門の父が亡くなり、夫弥次右衛門が家督を継ぐ。
江戸暮らしを好んだのに弥次右衛門は年若く江戸詰めは無理と国元に戻され250石になる。

秋香は初代藩主の愛娘としての扱いがされず、家臣扱いで、誇りが傷つけられ情けない。
だがまだ不運は続き、すべての愛情を注いだ嫡男が亡くなる。呆然として言葉も出ない。
父が秋香に託した思い、溝口家の存続がを無残に壊れ、申し訳なくて涙に暮れてしまう。
宣直は、藩主との血縁が切れる秋香の溝口家を残す必要がなくなり、好都合でほっとする。

秋香の娘達の家庭は堅実で、末娘は小禄ながらも夫婦仲良く次々三女が生まれ幸せだ。
嫡男が生まれることを願ったが、長く授からないのが不満ぐらいの平穏な日々だった。
そして、1670年5月やっと待望の長男、後の堀部安兵衛が生まれる。
ところが高齢出産の末娘は難産のため、安兵衛を残してすぐに亡くなってしまう。

秋香は嫡男を続いて末娘を亡くし悲しむが、不憫な孫、安兵衛のあどけなさが目に留まる。
安兵衛を預かると抱き上げ、秋香の晩年を彩る楽しい子育てが始まり、元気を取り戻す。
武芸に秀でた溝口家の血筋を引いていると、活発な安兵衛を藩祖の姫はとても可愛がる。
ところが2歳の安兵衛を残し1672年この子は中山家の宝になると言い残し秋香は亡くなる。

わが子を亡くした秋香だが家名存続の為に盛政と側室との間に生まれた政俊を養子にした。
死に際、政俊を我が溝口家の後継ぎにと宣直に願い認められ、心残りはあるが安心した。
秋香の遺言で新発田藩では高禄の7百石は守られ秋香の嫁いだ家としての体面は守られた。

だが、盛政は政俊の母、柿本正方の娘と再婚すると秋香との縁は切れ藩の目は厳しくなる。
柿本氏も新発田藩の重臣だが、盛政が亡くなると藩主は冷たく政俊に溝口姓を取り上げた。
政俊は抵抗するが藩主の命令は絶対だ。祖母方の丹羽氏に戻り150石で家名を守らされる。
ここで秋香の溝口家は終った。また、政俊の弟を同じく上田氏と名乗らせ150石を与えた。


5.堀部安兵衛誕生 ー武士の意地天下にとどろくー

祖母秋香を亡くし溝口家も中山家も苦しい日々が始まるが、安兵衛は元気に中山家に戻る。
秋香に愛され不自由なく育った安兵衛は、中山家でも屈託なく思い切り暴れ、人気者だ。
年の離れた姉達に可愛がられたが、ただ、姉たちは次々と嫁ぎ、中山家を去っていく。
周囲の変化に順応する力を身につけながら父と暮らし、父の指導で文武両道の天分が開く。

ところが1683年、父は新発田城の櫓の失火の責任を追及され200石に減俸され落ち込んだ。
武芸に秀でた父だが、家中では目立たず謀られたと無念の思いで、意地を通すと職を辞す。
まもなく亡くなる。妻に先立たれ運のない惨めさがつきまとう父だが安兵衛は誇りに思う。

父母を亡くした安兵衛13歳を、祖父盛政が可哀想に思い、再び祖母の家に引き取られ育つ。
安兵衛は祖父に見守られ、父の無念を晴らすと溝口家の蔵書を読み武芸の鍛錬に励む。
2年後、祖父を亡くし不運は続くと呆然とするが、これが我が人生と笑える強さを持った。

祖父の家は祖父の死で混乱し安兵衛は居場所がなくなるが帰る家はなく黙々と学び続ける。
三人の姉の内、長女ちよは亡くなるが、二人の姉が嫁ぎ我が家に来るようにしきりに誘う。
次女きんは豪農の長井弥五左衛門、三女は藩士の町田新五左衛門に嫁ぎ、安兵衛を愛した。

15歳の安兵衛は禄の少ない藩士より、中蒲郡牛崎村の姉きんの長井家に行くことにした。
新発田は新田開発が続き、新田を拡げる資力のある豪農は、自らの田畑を増やしていた。
長井家は新田を認められて裕福で、安兵衛は思う存分剣術を磨き、知識を身につけた。
長井家では息をのむ剣術の技に見とれ国元では認められる場はなく江戸に出るよう勧めた。
安兵衛も同意し18歳になると長井家の縁者のいる江戸に出て小石川の堀内道場に入門する。

天賦の才が花開き、敵なしの剣術は瞬く間に免許皆伝となり、堀内道場の四天王となる。
高名が轟くと大名屋敷の出張稽古に呼ばれ、引っ張りだことなり一流の剣術師範となる。
1690年には、牛込天龍寺竹町(新宿区新戸町)に一戸建ての自宅を持つまでになる。

安兵衛は不運な溝口氏に恩を返し、父の汚名を挽回し中山家を再興する機会を待っていた。
1694年2月11日、同門の菅野六郎左衛門が高田馬場での果し合いを決め助太刀を頼まれる。
そして見事、剣豪で名高い相手方三人を斬り倒し、江戸の町は安兵衛の剣豪ぶりを称えた。

この決闘での安兵衛の活躍を噂に聞き、赤穂浅野家に仕える堀部弥兵衛が確かめに訪れる。
弥兵衛も惚れ込み娘ほりの結婚相手に江戸市中で大人気の剣豪を迎えたいと婿入りを望む。
主君浅野長矩(ながのり)も安兵衛に会い、武芸の話で盛り上がり堀部家の婿養子を認める。
中山氏の再興をあきらめ、流れに逆らわず武士の誇りに生きると笑う堀部安兵衛の誕生だ。

堀部家を継ぎ7年、1701年4月21日浅野長矩が江戸城内で吉良義央(よしひさ)を斬りつけた。
江戸城本丸、松の廊下刃傷事件と言われ安兵衛が仕えた長矩は切腹、赤穂浅野家は改易だ。
浪人となる安兵衛だが予期していた気がして、義父弥兵衛と共に主君の仇討ちを決める。

そして大石内蔵助に従い、1703年1月30日、47人の赤穂浪士と共に吉良屋敷に討ち入る。
弥兵衛は表門隊に属し槍を持って門を警戒し、安兵衛は裏門から突入する最強の武士だ。
大太刀を持ち剣の腕前を発揮し思う存分吉良勢をなぎ倒し、生きたと燃える時を実感する。
激闘の末に吉良義央を討ち果たし、主君の恨みを自らの手で成し遂げ感無量で立ち尽くす。
内蔵助に促され、吉良義央の首を泉岳寺の主君の墓前に捧げ口上書を携え幕府に出頭する。

江戸市中は敵討ちを大歓迎し号外が売れる。安兵衛は伊予松山藩江戸屋敷に預けられる。
藩主松平定直は自ら安兵衛らと会い、褒め、最大級の接待で労をねぎらい歓迎を続けた。
安兵衛は成し遂げた喜びに浸りながら、武士の誇りを持って1703年3月20日満足の切腹だ。

安兵衛は主家断絶後の経緯を同志達の書状を交え「堀部武庸(たけつね)筆記」に書き綴る。
後世の正しい資料としたいと、堀内道場の親友、細井広沢(ほそいこうたく)に預けた。
細井広沢は柳沢吉保(よしやす)に仕える優れた武士であり、安兵衛の良き理解者だった。

祖母・父の無念を秘め、武士のあるべき姿を天下に示し、真っ直ぐに生き、見事に散る。

 

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