上杉景勝・直江兼続に武士の面目を潰され新発田重家(しげいえ)が怒りの雄叫びを上げた。 新発田氏は源頼朝(みなもとよりとも)の側近佐々木盛綱の子を始祖とするとされる。 室町幕府となっても変わらずこの地を治め、新発田城を築き居城とし、続いていく。 加地氏は上杉謙信の姉と結婚する力を持ち、生まれた秀綱は上杉一門として謙信に仕えた。 謙信死後の家督争い「御館(おたて)の乱」では、秀綱は景虎側に付き景勝を追い込んだ。 一方、新発田氏は権力基盤が弱い景勝を推すことで、勝利後の自らの覇権を目指し頑張る。 加地氏が景虎から離れた影響は大きく他の国人衆も景虎を見限り景勝支持に変わり始める。 新発田兄弟は兄が知将、弟が猛将で、謙信の外交・軍事で強い力を持ち勇名が轟いていた。 兄長敦が急死する。景勝勝利に貢献した重臣で亡くなる者が次々出て来て、不安になった。 妹婿は三条町奉行で景勝側で戦い、三条城主神余親綱(かなまりちかつな)は景虎側だった。 三条城を含め奪い取った地は新発田一門が得るはずで、景勝に次ぐ地位にまで拡げていた。 重家は新発田城に籠もりつつ、引きつけては討って出る、巧みな戦いで上杉勢を翻弄した。 新発田城は加治川を背に、阿賀野川・信濃川河口の湿地帯に囲まれて天然の要害だった。 本能寺の変までは重家が戦いの主導権を握り、景勝が追い詰められ逃げ惑う時もあった。 一方、景勝への忠誠を強く迫られ、色部長実は調停を望むが、重家と対決せざるを得ない。 1586年景勝が秀吉と同盟を結び、頼りにした蘆名(あしな)氏の力もなく、命運はつきた。 |
上杉氏が越後を去り、1598年豊臣秀吉直臣の溝口秀勝が新発田藩6万石を与えられた。 溝口氏は甲斐武田氏の庶流で、木曾川の下流の尾張国中島郡溝口鄕を領地とした豪族だ。 丹羽長秀(にわながひで)に仕え、師と崇め、領国経営から土木技術まで幅広く習い覚えた。 信長死後、丹羽長秀の元に戻り、秀吉を支援し賎ヶ岳(しずがたけ)の戦いで戦功を上げる。 秀勝は安土城の普請で現場の采配を任せられ成し遂げた実績があり、秀吉も知っている。 その結果、秀勝50歳、6万石の藩主として千人以上の家臣らを引き連れて堂々の国入りだ。 溝口秀勝は秀吉の薦めもあり、新発田に近世城郭を築き、秀吉の威光を示そうと考えた。 ところが溝口藩政に取りかかり、まだ1年も経たないのに秀吉は亡くなる。 秀吉死後、予想外に早く豊臣政権はきしみ始め豊臣か徳川かの決断を迫られる事態となる。 激動の時が続き去就も分からず、新発田城の築城は進まないが天下の動静に対処していく。 |
秀勝は秀吉の生存中から、家康の実力を天下一だと高く評価し、礼を尽くしていた。 天下分け目の戦いは越後で上杉景勝が煽動した一揆を鎮圧し、家康方として働き乗り切る。 堀氏は一族が内紛が起こし藩主としての統治能力がないと責められ、あえなく改易された。 秀勝は信長から美濃の斎藤道三の縁者、長井源七郎の娘と結婚を勧められ2男5女が生れた。 次に、堀氏に代り松平忠輝(ただてる)が越後入りし、同じく与力として支える事になる。 次男善勝は前田利家の娘婿長種の娘(利家の孫)と結婚し、前田家との縁を大切にした。 長女には越前朝倉家の義景の庶子を婿に迎え、生まれた広景を溝口伊織家の祖とする。 次女は公家中院通村(なかのいんみちむら)に嫁ぎ、京都公家との仲も重んじる。 三女亀姫は松平忠輝の義兄であり、忠輝の最も信頼する家老花井氏の嫡男義雄に嫁ぐ。 四女宮姫は秀勝と同じ与力でもある越後村上藩、村上頼勝一門の吉武久七に嫁ぐ。 こうして将来を見据えた政略結婚は順調に進み、溝口家の地位は安泰としたつもりだ。 しかし、大坂の陣を前にした1610年に秀勝は志半ばで豊臣家を心配しつつ亡くなる。 また秀勝の一番の望みは、新発田を肥沃の大地に変える事だと、何度も聞かされている。 秀勝の遺言で、弟善勝には1万2千石を分け秀忠から与えられた2千石と併せ大名にする。 ところが努力は実らず、大坂の陣を前に大久保長安事件が起こり、再び改易の危機が迫る。 亀姫の婿、花井義雄の妹は長安の子右京に嫁ぎ、右京は連座して切腹を命じられた。 宣勝は幕府の疑いに対し潔白を証明する場を大坂の陣と決め、決死の活躍をすると臨む。 主君松平忠輝・隣国村上忠勝は改易となるが、宣勝は与力を外れ、念願の独立を勝ち取る。 新発田は肥沃な穀倉地帯に生れ変わり、新発田藩10万石として、実高は遙かに超えて続く。 |
秀勝と正室の末の姫が糸姫(秋香)だった。晩年に生まれ可愛がられたが10歳で父を亡くす。 深い教養を持つ剣豪、戦国武将の鏡だった溝口秀友はすでに亡くなり嫡男政友が継いだ。 豊臣家ゆかりの秀勝は関ヶ原の戦い後、蒲生家や敗軍の将から人材を招き家臣にしていた。 しかも戦のない平和な時代になり武断より文治に比重が移っていた時だ。 2代を継いだ宣勝は弟に分地し新発田藩は5万石となり、ますます高禄の重臣は負担だ。 まず秋香の必死の願いにもかかわらず、兄宣勝は盛政の禄を7百石に減らしてしまう。 秋香も父秀勝に貢献しただけで、我が溝口家が末代までも千石が安泰とは思わない。 やはり宣直は冷たく、秋香の4人の娘は藩主に繋がる一族ではなく家臣との縁組が決まる。 秋香は初代藩主の愛娘としての扱いがされず、家臣扱いで、誇りが傷つけられ情けない。 秋香の娘達の家庭は堅実で、末娘は小禄ながらも夫婦仲良く次々三女が生まれ幸せだ。 秋香は嫡男を続いて末娘を亡くし悲しむが、不憫な孫、安兵衛のあどけなさが目に留まる。 わが子を亡くした秋香だが家名存続の為に盛政と側室との間に生まれた政俊を養子にした。 だが、盛政は政俊の母、柿本正方の娘と再婚すると秋香との縁は切れ藩の目は厳しくなる。 |
祖母秋香を亡くし溝口家も中山家も苦しい日々が始まるが、安兵衛は元気に中山家に戻る。 ところが1683年、父は新発田城の櫓の失火の責任を追及され200石に減俸され落ち込んだ。 父母を亡くした安兵衛13歳を、祖父盛政が可哀想に思い、再び祖母の家に引き取られ育つ。 祖父の家は祖父の死で混乱し安兵衛は居場所がなくなるが帰る家はなく黙々と学び続ける。 15歳の安兵衛は禄の少ない藩士より、中蒲郡牛崎村の姉きんの長井家に行くことにした。 天賦の才が花開き、敵なしの剣術は瞬く間に免許皆伝となり、堀内道場の四天王となる。 安兵衛は不運な溝口氏に恩を返し、父の汚名を挽回し中山家を再興する機会を待っていた。 この決闘での安兵衛の活躍を噂に聞き、赤穂浅野家に仕える堀部弥兵衛が確かめに訪れる。 堀部家を継ぎ7年、1701年4月21日浅野長矩が江戸城内で吉良義央(よしひさ)を斬りつけた。 そして大石内蔵助に従い、1703年1月30日、47人の赤穂浪士と共に吉良屋敷に討ち入る。 江戸市中は敵討ちを大歓迎し号外が売れる。安兵衛は伊予松山藩江戸屋敷に預けられる。 安兵衛は主家断絶後の経緯を同志達の書状を交え「堀部武庸(たけつね)筆記」に書き綴る。 祖母・父の無念を秘め、武士のあるべき姿を天下に示し、真っ直ぐに生き、見事に散る。 |