お福、宇喜多直家の妻1547-1592 お福は戦いを間近に見ながら育つ。逃げ隠れることも度々だった。 1561年、お福14歳で勝山城主、三浦貞勝 18歳と結婚する。一族の熱い期待を受けて三浦家当主である城主、貞勝の妻となる。分家の姫には過ぎた晴れがましい結婚だ。 結婚式の13年前の1548年、貞勝の父が亡くなった。 11年が過ぎ、貞広の帰りを待ちわび、独立を願っていた三浦一族に好機が訪れる。 お福は嫡男、桃寿丸や夫と共に城を脱出する。だが、逃亡中、貞勝は戦傷が悪化し亡くなる。お福との結婚生活は四年だった。戦に明け暮れながらも、勝山城内で共に過ごした月日は充実した暮らしだったと、お互いをねぎらい礼を言い合う。夫を看取り葬る。 義弟、貞盛らは勝山城近くに潜伏し城奪取の機会を狙うと決めた。お福は後を託して別れる。お福と桃寿丸は近習に守られ旭川を下り、縁戚の下土井村の土井氏を頼る。土井氏の屋敷に落ち着いて以後は、貞盛らと連絡を取りながら三浦家の再起を図る。 貞勝とお福が目指したのは東備前を制する浦上宗景の居城、天神山城だった。浦上宗景の支援を受けて再起を図るつもりだった。だが、貞勝が亡くなると、お福は浦上宗景を頼る気にはならない。貞勝が頼みにした浦上氏だが、今までの加勢の軍勢は期待したほどではなく、三浦家を守るために必死で戦っているとは思わなかった。 直家に会う為にお福は、土井氏の主君になる直家の妹婿、伊賀久隆に会おうとする。久隆の口添えで直家と面会し、勝山城の奪還を願うのだ。 お福は、城を追われて直家に救いを求める薄幸の人として直家に引き合わされた。側室にしてはどうかとも受け取れる伊賀久隆からの直家への紹介にお福は怒る。 直家は世情の風聞とは裏腹に終始、誠実な態度だった。直家は三村家親の暗殺には成功したが、弔い合戦を挑む三村勢の決死の反撃はすさまじい。決戦は近い。三浦勢が戦いの先頭に立てば、戦力も強まり士気が上がると期待もある。 1570年、容姫が生まれ直家は初めて子を持ったように大喜びした。お福のために念願の大仕事の仕上げをすると張り切る。 1572年、お福は再び身籠もり、家中の誰もが待ちかねた嫡男、秀家が誕生する。翌年、直家はお福を容姫、秀家と共に岡山城に迎え、余裕の表情でさりげなく案内する。心の中ではこの日を指折り数えていた。お福が目を輝かせ、直家を頼もしそう見る姿は、すべての苦労を忘れさせてくれる。お福も三浦勢を率い堂々と入城し、岡山城の華麗な華となる。 次は、直家の宿願、祖父・父の敵、浦上氏との決戦だ。今まで祖父を無残に殺されたことを知っていながらも、全面対決を避け万全の体勢になるまではと耐えた。実力は主君を上回っても第一の家臣を装おいながら機会を待った。 直家は策を巡らしながら、毛利勢とともに浦上氏と戦う道を採る。 |
上月城(兵庫県佐用郡佐用町)は備前・美作・播磨の境に位置する要衝にあった。 その後、直家は毛利氏に属するとの態度をとりつつ、信長との和議を求めて暗躍を始める。だが直家は病に倒れる。死期を悟りながら、秀吉と和議を成立させた。 1582年4月始めようやく快進撃を続ける秀吉が岡山城に来る。宇喜多勢には救いの神だ。秀吉は備中高松城(岡山市高松)を攻め落とし、毛利氏の本拠、芸備広島に侵攻し討ち果たすのは時間の問題だと、自信たっぷりだ。 秀吉の傍には小西行長がいた。小西行長はお福の側近くに仕えた。そして、直家が秀吉との和睦の使者に抜擢した商人から身を起こした武将だ。直家から命じられた重責を果たし、秀吉に請われ直臣になり、出世した姿だった。 お福は宇喜多家の将来について直家とよく話し合った。直家は秀吉と会い、じっくりと人物を見、和議の概要を打ち合わせた。その様子をお福に話し、宇喜多家を委ねるに足る人物だと褒め称えた。秀吉は絶世の美女、お福に関心を持って岡山城に来た。 直家の思いを胸に秘めて、お福はすべてを委ねる覚悟で「秀家の庇護者になって欲しい」と改めて秀吉に頼む。秀吉45歳、何の迷いもなく岡山城で直家が座った位置に座り、にっこりとお福に同意した。 秀吉はねねとの夫婦生活に厭きて長浜城にはほとんど帰らない。お福はねねと年齢も近い35歳だ。秀吉の愛を受け入れ、子種を宿すには年を取りすぎている。 秀吉はお福を見つめる。盛りは過ぎつつあっても、絶世の美女として皆が認める妖艶な美しさは健在だ。 それからの二ヶ月半の間、秀吉は備中高松城を水攻めにする策を進め、陣中の指揮をしながら、夜ごとお福の元に戻ろうとする忙しい行き帰りが始まる。お福も出陣したかと思うとすぐに岡山城に戻る秀吉に合わせ、支度を完ぺきにしながら、にこやかにもてなす。秀吉は、秀家・容姫も側に置きかわいがる。その様子に、お福は身も心も浮き立っていく。 戦国の世、明日はどうなるかわからないが、今は宇喜多家は安泰だと、気張っていた肩の力が抜ける。秀家と秀吉は実の親子のように仲良しだ。 お福と秀吉の逢瀬は短かかった。6月21日、本能寺の変が起きたのだ。信長が亡くなる。秀吉は毛利軍と対峙中で信じられなかったが、間違いないと確認するや和議を急ぎまとめた。すぐに陣払いを始め、後に中国大返しと言われる大撤収作戦に入る。 お福にまた大きな転機だ。この事態にどう対処するべきか、家中はもめる。宇喜多家も明智光秀に加勢して秀吉を討つべきだとの意見も多い。だが、お福は信長の後を継ぐのは秀吉だと確信していた。そしてきっぱりと「家中一団となって秀吉殿を支援し宇喜多家の力を見せるのが直家の遺志だ。」と宣言する。 それからの宇喜多家の活躍はめざましい。家老の岡氏、戸川氏らが宿場宿場に馬と食料を準備し、小西行長が石田三成に渡し秀吉軍に行き渡らせた。 秀吉に代わり毛利勢の監視をする役目を宇喜多勢は頼まれ引き受けた。毛利輝元も様子眺めで動かず、宇喜多勢には良い休養となった。お福は戦いのない暮らしを始めてじっくり味わった。とてもいい気分だ。 秀吉が織田家の主導権を握ったとの報が届く。お福は、秀吉の妻だった夢の一時は終わったと知る。 信長の後継者への道を進む秀吉から、自信に満ちた便りが届く。「秀家に会えないのが寂しい」とのうれしい便りだ。秀吉と共に過ごしたときから一年以上経っていた。その間、お福は幼君、秀家の母として藩政に携わる。母として宇喜多家のために生きるのに、心地よい幸せを感じた。 秀吉は天下普請で居城、大坂城を築く。宇喜多家には大坂城下に屋敷地を与えた。秀吉に命じられすぐに、宇喜多家の屋敷の建築を始める。 秀吉からお福に、側室としての待遇で大坂城、二の丸に屋敷を与えるという申し出があった。身分も保障され、十分な手当が支払われると言う。だが、断り、庵(いおり)だけを願う。以後、お福は秀吉を庵に迎え、備前焼の茶道具でもてなし茶飲み話をする関係となる。秀吉は秀家に、直家以上の所領、岡山藩57万4千石を与えた。 |
信長は、父信秀(1510-1551)が41歳で急死し家督を継ぐ。嫡男だったが一族の総意で家督を継いだわけではなく身分は不安定だった。 信秀には子が多く、跳ね返りの異端児の信長(1534-1582)への家中の信奉は薄い。 恒興は複雑な思いながらも、信長の厚い信頼の結果だと信じ、荒尾御前を妻にする。信長は「これで恒興は義弟になった」と結婚を祝福した。ここから恒興は信長側近の道を踏み出す。 結婚の翌年1559年、嫡男、元助が誕生する。 まもなく、信長は元助に似合いの相手だと、伊勢貞良と斎藤道三(1494-1556)の娘との間に生まれた貞姫との結婚を決める。 濃姫も姉の子、姪の貞姫を養女にするのを喜んだ。 伊勢家は室町幕府の政所執事(幕府の財政と司法を統括する職)として絶大な力を持ち続けた名門だ。だが将軍家の凋落と共に衰退していく。 信長は、信忠に賢明に仕える元助への褒美として貞姫を嫁がせた。元助は信長から娘婿と呼ばれ、信忠の近習として重要性を増していく。 光秀と美濃衆、池田恒興・之助は関係が深い。恒興は光秀との関係を断った証を示すと秀吉と共に光秀を攻め倒した。そして、清洲会議では秀吉の支援に回る。 この頃、秀吉は恒興を盟友と称えた。両家の固い結びつきなくして信長亡き後の織田家を支えられないと、甥秀次(1568-1595)と恒興の娘若御前の結婚を申し出る。秀次は秀吉の嫡男、秀勝(信長四男)に次ぐ後継者の二番手とされている大物だ。 だが、秀吉は信長重臣、滝川一益を敵前逃亡したと厳しい処分を下した。恒興の父は滝川家に生まれ池田家に養子入りしている。恒興の父方の実家なのだ。 また、織田家後継とされた信忠の子、三法師の後見に恒興・元助も関わるつもりだった。だが、秀吉は自らが織田一族と共に後見し、池田家は三法師の主要な守役からはずされた。 恒興・元助は秀吉と対等だという意識があり、秀吉の力を認めるにしても、秀吉のやり方に怒りを感じ始める。また秀吉の織田家をないがしろにする態度も許しがたい。 秀吉と恒興・元助に溝ができていく中、1584年、小牧・長久手の戦いが起きる。この頃には秀吉との意思の疎通を欠いていた恒興・元助には不運が待っていた。 恒興に不信感を感じていた秀吉は、討ち死にを当然と受け止め池田家の再編に乗り出す。 池田家は当主・嫡男が共に亡くなり一大事となった。恒興の妻、荒尾御前は一族をまとめる立場となり、元助の嫡男、由之(1577-1618年5月5日)を守り動揺してはならないと説く。家中も後継は由之であると信じ切っていた。 元助・輝政の母、荒尾御前も驚き、由之は7歳となり池田家当主としての資質もある。当面は輝政を後見人とし成長後は家督を継がせたいと秀吉に願う。だが許されない。 荒尾御前の変わり身は早く、輝政が当主に決まった以上一族あげて輝政を盛り立て従うよう命じる。その上、実家であり池田家と同格の名門、荒尾家にも輝政が当主であり、たとえ輝政が池田家に戻っても荒尾家の当主だと説く。ここで荒尾家は池田家の家臣となる。 秀吉の決定を池田家の強い結束を見せつけつつ、従順に従う。そして、秀吉の企みを寄せ付けず、池田家を守り乗り切る。 |
秀吉死後、輝政はすぐに豊臣家を離れる。豊臣家への恩より、家康の娘督姫の婿として家康に従うことを選んだ。そして豊臣恩顧の大名を家康陣営に取り込むために懸命に働き、続いての関ヶ原の戦いでも活躍した。 家康は恩賞だと、輝政に播磨姫路藩52万石を与えた。督姫の子たちも順次分家させてそれぞれ大名とする。池田一族で、百万石の領地となり、西国将軍と呼ばれるほどの、西国一の権力を持つ。当然、輝政は池田家当主として揺るぎない地位を築く。 由之(よしゆき)が池田本家の家督が継ぐ可能性は皆無となった。輝政も、自らの幸運と才覚で今の地位を築いた自負があり、由之に遠慮することはなくなる。 1603年、督姫の長子、忠継(1599-1615)4歳が分家し、岡山藩主になる。督姫はわが子であり幼少でもあると、傍を離さず姫路城を離れることはない。そこで、利隆が岡山城代となり備前岡山藩政を任され、由之と共に岡山城に移る。 利隆は輝政嫡男として池田家本拠、姫路城に戻り後を継ぐ。 由之は幕府よりに動き、猜疑の目をかわしながら利隆を助け、大坂の陣を乗り切った。だが、利隆は家中の統制に疲れたのか1616年7月亡くなる。 池田家嫡流には不幸な出来事だが、由之には思いもかけない幸運だ。 この結果、筆頭家老は伊木忠貞(たださだ)4歳。一門筆頭家老は由之の嫡男、由成(よしなり)(1605-1676)13歳となる。藩主光政もまだ9歳の幼君で、藩政は混乱し幕府の望む通りの内紛がおこりかねない危機となる。 その時、家中の動揺を毅然として抑えたのは光政(1609-1682)の母、鶴姫だった。将軍秀忠の養女であることを前面に押し立て幕府の干渉を押さえる。 館林藩(群馬県館林市城町)10万石藩主、榊原康政(やすまさ)の娘だ。 岡山藩には六家老家があった。輝政が池田家嫡流を支え、藩政を担うために作った。 鶴姫は、豊臣家が滅亡した以上、豊臣系と言われる家臣もすべて池田家の家臣だと幕府の追及にも屈しなかった。輝政・利隆が召し抱えた家臣を守り抜き、家中の支持を得る。 秀忠は、鶴姫の気持ちを汲み、千姫の娘、勝姫を養女とし嫁がせる。千姫は豊臣家の滅亡に大きな役目を果たした秀忠の第一の姫だ。秀忠が可愛がった千姫の一人娘との結婚で、鶴姫は一息つく。 この間、光政は由成を兄のように信頼しつつ、藩主としての力を発揮し始める。 1632年、岡山藩に国替になり、念願の岡山城主となる。鳥取藩でも治世に力を入れたが、父が力を注ぎ、生まれた地でもある備前岡山に深い愛着を持っていた。 由之の妻、万姫は夫の無残な死を心深く刻んでいた。たとえ2年間でも思うように藩政を操り満足だったとは思うが。由之亡き後の、藩政の混乱を思うと二度とあのような苦境に陥ってはならない。 夫の死を教訓に嫡男、由成(1605-1676)には、分相応を心がけ家老職に徹するよう教える。由成の結婚相手として多くの申し出があったが、返事を渋った。由成が妻の実家に遠慮したり、影響される暮らしはさせたくなかった。 光政も野心のない由成に全面的信頼を置く。光政は婿として千姫の心をつかみ、全面的支援を受け自信満々だ。光政の藩政は花を開き、教育に力を注ぎ、幾多の藩政改革に取り組む。 督姫が亡くなり30年が過ぎた。幕府は池田家を嫡流家と督姫の家系とに集約していこうとし、池田家の分家に対しては厳しい態度を取る。 笠間藩は5万3千石だったため、幕府は赤穂藩に周辺を加え5万3千石として、浅野長直に国替えを命じる。幕府は浅野長直を関東の常陸国から遠い西国に追い出したいと考えていた。関東は譜代大名で固めるべきで、外様の浅野家には似つかわしくない。 由成は母の教えに従い家老に徹し、姫達も池田家一門などに嫁がせていく。 垣見家は浅井氏に仕えていた。秀吉に仕え豊後国富来城2万石を得たが、西軍に属し殺され改易となった垣見家純(かきみいえずみ)も一族だ。そして天城池田家に仕えた一族もいた。 熊子は垣見家で主君からの預かりものだ、宝だと敬われとても大切に育てられた。熊子も主君の姫だと胸を張って怖いものなしで育つ。自由に勉学に励み、非常に優秀だった。 由成は熊子の結婚相手に家格が同程度の家老や鳥取藩家老との結婚などあれこれ考え、いくつかの縁談がまとまりかけるが運悪く決まらない。似合いの婿が見つからないまま時が過ぎていく。 その時、1657年、光政が娘の六姫(1645-1680)と由成嫡男、由貞(よしさだ)(1634-1660)の結婚を決める。由成は藩主の姫を嫁に迎えるのは有り難いことだと受けるしかない。 由成も52歳、由貞の結婚が良い機会で、隠居すべき時が来たのだと考えた。 熊子を託すに思い当たるのが大石良欽の嫡男、良昭だった。大石家に熊子と良昭の結婚を申し出る。大石家は非常に名誉なことと大喜びし婚約が決まる。由成も安心した。 熊子は実家に比べて、大石家の家政は楽ではないと聞かされた。大石家は家禄、千五百石でしかない。結婚が決まり藩主から、祝いとして特別に合力米2百石を加えられたが。 |
大石家は、婚約が決まり熊子が嫁いで来るまでの4ヶ月あまり、てんやわんやだった。 また、小山氏の家系で近江国守護佐々木氏(京極氏は分家)に仕え、栗太郡大石庄(滋賀県大津市)を預かる下司職となり、在地し大石氏を名乗る一族がいた。 進藤長治が仲介し、大石良勝(1587-1650)は長政に目通りし決意を述べる。長政は即座に三男、長重(1588-1632)の小姓に召し抱えた。 良勝の戦いぶりが特に激しく見事で、戦功をあげた。大坂夏の陣、天王寺の戦いは、家康の目に留まり賞賛された。 熊子は大石家に入った。覚悟していたが、岡山藩31万5千石の一門筆頭家老と赤穂浅野藩5万3千石の永代筆頭家老との収入の違いは大きかった。その上、引っ越しの後遺症の残る赤穂藩の財政は厳しく、大石家の藩政に果たすべき役割は天城池田家より重いと感じた。 良昭は熊子を敬い愛し、苦労をかけると申し訳なさそうにいたわる。経済的には十分ではなくても、二人の仲は申し分なかった。 幕府は外様大名、赤穂藩浅野家に、容赦なく次々手伝い普請を命じる。 良昭の留守が増える。すると熊子は子達を連れ再々実家に戻り、良雄は多くの叔父叔母やいとこたちに紹介され、付き合いを深める。 内裏造営が終わり天皇・幕府の称賛を浴びて、熊子も鼻が高いとはしゃいだ時は短かった。1673年9月、良昭は大阪屋敷で亡くなる。わずか15年の結婚生活だった。 熊子は実家からの戻ってくるようにとの再々の申し出を断る。 熊子は幼い良雄に天城池田家の歴史、池田家始祖、恒興からの嫡流の変遷などいろいろ話した。また、夫・義父から聞いた大石家の不運と踏ん張り、権力者の恣意によって振り惑わされた歴史も説いた。良雄は文武両道に並はずれた才能を持ちすべてを理解した。熊子は打てば響く良雄の優秀さに満足する。 良重は前々藩主、浅野長直の娘、鶴姫を妻にしていた。そのため、藩主一門として別格の強大な権力を持ち、藩政を仕切り、人事も思うようにした。 1675年、浅野長矩(ながのり)(1667年9 月28日-1701年4 月21日)は父長友(ながとも)(1643年11 月4日-1675年2 月20日)の死後、わずか8歳で後を継ぐ。 熊子はほっとし、良雄は実力を発揮する時が来たと張り切った。だが、良重は藩の人事もくまなく決めており死後も良雄なしで藩政が機能していく。 藩主、長矩は16歳となっていたが、熊子は長矩および浅野家に良雄の結婚相手を頼みたくなかった。長い間、良雄に活躍の場が与えられないことを、恨みに思っていたのだ。 熊子は天城池田家の当主である弟を通じて紹介を受けた豊岡藩京極家、筆頭家老、石束家の娘りく(1669-1736)17歳に決めた。長矩に良雄とりくの結婚を願い出る。 池田家と京極家は縁戚で、大石家は京極家に仕えた時もあり、石束家と共通する。共に歴史ある名門であり同じ家格だ。りくは優れた教養を受け継ぐ、聡明な女人だ。 次男、専貞(せんてい)が住職の石清水八幡宮(京都府八幡市男山)の寺坊、大西坊近くに移る。代々大石氏の縁者が住職になっている大西坊だ。わが子の側で、近くには姉もおり、待ち望んでいた心穏やかに夫や一族を弔う暮らしを始める。 また、良雄の祖父、由成の弟の家系は徳島藩家老となっていた。京都山科に熊子のいとこ三尾正長(みおまさなが)がおり、討ち入り費用の支援を受ける。三尾正長の兄も子も徳島藩家老であり、潤沢な資金があった。正長の兄の子は藩主になる。 討ち入り成功後、天城池田家当主、池田由勝(よしかつ)(1674 年-1704年9 月14日)は責任を追及され2千石返上する。熊子の甥だ。しかも、良雄の切腹の翌年、30歳で謎の死となる。 綱政は勝姫の子であり、徳川千姫の孫になる。千姫亡き後、幕府との縁は薄れるが、千姫の威光は強く徳川ゆかりの藩であることは間違いない。徳川の血筋を受け継ぐ政純の天城池田家は3万石になったが、藩主の家系となり安泰だ。 |