岡山城四方山話

1.お福、宇喜多直家の妻

お福、宇喜多直家の妻1547-1592
 1547年、お福は美作国勝山(岡山県勝山地方)の領主三浦氏の一族に生まれる。この地は出雲と京を結ぶ出雲街道の要所であり、旭川水運の拠点でもある。北岡山の政治経済の中心地だ。
群雄割拠の戦国時代この地を支配下に置くことに高い価値があり、戦いが絶えない。

 お福は戦いを間近に見ながら育つ。逃げ隠れることも度々だった。
だが、お福の容姿は血なまぐさい戦いを全く感じさせない、神々しい美しさを持ち続けた。どのような状況に陥っても、華やかな優しい光に包まれたように微笑むのがお福だ。誰もがうっとりと仰ぎ見る。勝山でお福の穢れない美しさを知らない者はいないほど有名になっていく。

1561年、お福14歳で勝山城主、三浦貞勝 18歳と結婚する。一族の熱い期待を受けて三浦家当主である城主、貞勝の妻となる。分家の姫には過ぎた晴れがましい結婚だ。 
三浦家は非常に不安定な立場だったため、お福の美しさは領民の希望の光であり、勝山に平和をもたらすだろうと期待の込めた結婚でもある。

結婚式の13年前の1548年、貞勝の父が亡くなった。
山陰の覇者、尼子晴久の再三の攻撃にも勝山城を守り抜いた勇猛な武将だったが、度重なる戦いで病に侵され若くして亡くなる。幼い嫡男、貞広7歳と二男、貞勝5歳が残された。
当主の死で士気の落ちた今こそ三浦氏を倒すと尼子晴久が急襲する。長年、守りぬいた勝山城だったが、あっけなく征服される。
城主、貞広は尼子氏の人質となり出雲に連れられて行く。次男、貞勝は機を見て家臣に守られ三浦家の主君になる備前守護代、浦上氏の元に逃げた。それから、勝山は尼子氏の支配下に置かれ、貞広の後見と称して尼子氏家臣が城主になり勝山城を治めた。お福ら三浦一族も尼子氏に従うしかない。

11年が過ぎ、貞広の帰りを待ちわび、独立を願っていた三浦一族に好機が訪れる。
毛利対尼子の本格的戦いが始まったのだ。尼子勢の主力軍勢が西から侵攻する毛利勢と対峙し戦う。勝山城内の尼子勢の大半が加勢に向かい守りが手薄になった。
その隙を狙い、貞勝ら三浦勢が浦上氏の援軍を得て勝山城を取り戻す。嫡男、貞広は尼子氏の人質のままだ。そこで次男ながら城を取り戻した貞勝が城主となる。
城を奪い返した三浦勢は意気盛んで、三浦一族の結束を強め強敵、尼子氏と戦うために、貞勝の妻にお福を選んだ。
容姿・知性・性格どれをとっても、お福に似合うのは当主しかいないと家中は一致した。浦上氏も認め結婚式となる。

だが、結婚後も戦いが続く。尼子氏は追い返したが、毛利氏に属する三村勢の勢力が増し勝山城にも侵攻してきたのだ。
三浦勢は防戦一方で勝てる見込みはない。お福は貞勝と共に必死で城を守る。むなしい戦いながらも共に戦い、緊迫した中で愛は深まり、嫡男桃寿丸も生まれる。敵、三村勢が一時兵を引き城内に平穏が生まれる時がある。その時、二人の愛は燃える。
普段は、貞勝は軍議と戦闘。お福は傷病者の手当や食事の確保など、兵の士気を高めるために働きひたすら浦上氏の支援を待つ。
三浦勢は力尽きた。1565年1月、三村家親に勝山城を乗っ取られる。負け戦に嫌気をさした城内からの内通者によって開城されてしまい、難なく三村氏は城になだれ込んだ。

お福は嫡男、桃寿丸や夫と共に城を脱出する。だが、逃亡中、貞勝は戦傷が悪化し亡くなる。お福との結婚生活は四年だった。戦に明け暮れながらも、勝山城内で共に過ごした月日は充実した暮らしだったと、お互いをねぎらい礼を言い合う。夫を看取り葬る。

義弟、貞盛らは勝山城近くに潜伏し城奪取の機会を狙うと決めた。お福は後を託して別れる。お福と桃寿丸は近習に守られ旭川を下り、縁戚の下土井村の土井氏を頼る。土井氏の屋敷に落ち着いて以後は、貞盛らと連絡を取りながら三浦家の再起を図る。
お福は貞盛らに任せるだけでなく独自でのお家再興を考えた。耐えて待つ性格ではない。夫から託された三浦家だと、柔和な表情の中に闘志がもえたぎっていた。

貞勝とお福が目指したのは東備前を制する浦上宗景の居城、天神山城だった。浦上宗景の支援を受けて再起を図るつもりだった。だが、貞勝が亡くなると、お福は浦上宗景を頼る気にはならない。貞勝が頼みにした浦上氏だが、今までの加勢の軍勢は期待したほどではなく、三浦家を守るために必死で戦っているとは思わなかった。
浦上宗景は三浦家を守ろうとせず、守る気もなく、夫は見殺しにされたと、お福は恨みに思う。そこで三浦家の再興を浦上家一番の重臣で、主君を凌ぐ実力だと勇名が知れ渡る宇喜多直家に託すべきではないかと考え始めた。

 直家に会う為にお福は、土井氏の主君になる直家の妹婿、伊賀久隆に会おうとする。久隆の口添えで直家と面会し、勝山城の奪還を願うのだ。
土井氏も喜んで久隆にお福のことを話す。伊賀久隆も近隣に知れ渡るお福の美しさに興味を持っており、すぐに面会が実現する。
久隆はお福を目の前にし、後光に包まれて浮き上がる美しさに感動し魅せられた。直家にお福を差し出そうと考える。
伊賀氏は津高郡(岡山市北区)虎倉城を居城とする西備前の有力国人で15万石と言われるほどの領地を支配した。直家の一族だが、主君は西備前を制する松田氏だ。松田氏を倒し成り代わりたい野望を持っている。そのために直家の一族となったが、なお一層強い絆を結んで松田氏との決戦に備えたい。お福は直家への最高の贈り物だ。

 お福は、城を追われて直家に救いを求める薄幸の人として直家に引き合わされた。側室にしてはどうかとも受け取れる伊賀久隆からの直家への紹介にお福は怒る。
三浦家は美作地方を長く治めた勇者の家柄だ。側室の一人にされては、三浦家再興は果たせない。お福は静かにゆったりと三浦家臣団の勇猛さを説き、きっと直家の役に立つと訴える。
直家は同意し即座に結婚を申し出た。直家はお福を一目見たときから釘付けになっていた。何があっても離したくない衝動に突き動かされたのだ。お福は驚き受け入れる。

直家は世情の風聞とは裏腹に終始、誠実な態度だった。直家は三村家親の暗殺には成功したが、弔い合戦を挑む三村勢の決死の反撃はすさまじい。決戦は近い。三浦勢が戦いの先頭に立てば、戦力も強まり士気が上がると期待もある。
お福は、桃寿丸を三浦家当主に返り咲かせる、との約束を取り付け、1566年直家と結婚し正室となる。宇喜多・三浦連合軍は三村勢を撃破した。

 1570年、容姫が生まれ直家は初めて子を持ったように大喜びした。お福のために念願の大仕事の仕上げをすると張り切る。
以前から策を練り謀を張り巡らしていた岡山城の奪い取りだ。配下の岡山城主、金光氏だが、強い勢力を持ち簡単には追い出せない。そこで、長年かけて毛利氏へ内通したとの完璧な証拠を用意し突きつけ当主、宗高を切腹に追い込む。続いて、金光勢を岡山城から追い出した。
直家は岡山の地こそ備前・備中・美作を治める中心だと思い定めていた。すぐに岡山城を宇喜多家の居城にすると宣言し、拡張整備にかかる。風光明媚な堅城だが、お福にふさわしい華やかな城下町を作り、洗練された大都市にするつもりだ。

1572年、お福は再び身籠もり、家中の誰もが待ちかねた嫡男、秀家が誕生する。翌年、直家はお福を容姫、秀家と共に岡山城に迎え、余裕の表情でさりげなく案内する。心の中ではこの日を指折り数えていた。お福が目を輝かせ、直家を頼もしそう見る姿は、すべての苦労を忘れさせてくれる。お福も三浦勢を率い堂々と入城し、岡山城の華麗な華となる。

 次は、直家の宿願、祖父・父の敵、浦上氏との決戦だ。今まで祖父を無残に殺されたことを知っていながらも、全面対決を避け万全の体勢になるまではと耐えた。実力は主君を上回っても第一の家臣を装おいながら機会を待った。
だが、浦上氏は信長に従い1573年、備前・播磨・美作三カ国の領地を安堵された。それ以来、直家が切り取った領地なのに、わが領地だと高飛車に言い出した。信長をかさに着て大きな顔をする主君はいらないと、いよいよ運命の時が来たと感じた。

 直家は策を巡らしながら、毛利勢とともに浦上氏と戦う道を採る。
長年の宿敵毛利氏に和解を申し出る。毛利輝元は信長から和議を迫られ考え中だった。西国の覇者、毛利家に信長への屈服を促す和議には同意しがたい思いがあった。輝元は、直家を防波堤に信長と戦い毛利家の実力を見せた上で信長との関係を決めるのが得策と、信長の申し出を拒否し、直家と和議を結ぶ。
直家の思うままに事が進み1575年、毛利氏の支援を得て仇の浦上氏を倒す。ここで直家は名実ともに、備前・美作・備中56万石を領する大大名になり、お福に誇った。
だが信長と敵対し毛利方として秀吉の全面攻勢を受けることになる。


2.お福、宇喜多秀家の母


 備前・美作・備中を平定した直家だが、織田勢対毛利勢の熾烈な戦いの真っただ中に立たされた。直家は毛利方として戦うが浦上氏を倒し、毛利家の為に秀吉とこれ以上戦う必要がないと思い始める。

上月城(兵庫県佐用郡佐用町)は備前・美作・播磨の境に位置する要衝にあった。
秀吉は、上月城を拠点に毛利氏の本拠に迫ると言い、毛利氏も絶対に渡せないと言う。こうして城は奪われたり奪い返したり激闘が続く。
上月城は直家の配下にあり直家の戦いぶりが勝敗を左右するが、戦費も被害も莫大で戦いは避けたい。次第に直家は戦力の消耗を避け優柔不断な態度で毛利氏側に属しながら、適当に戦うようになる。
1578年、上月城の戦いと呼ばれる。毛利氏は威信をかけて秀吉を討ち果たすと、総力戦で戦いを挑む。だが、織田勢を撃破したが秀吉を討ち取れず逃がした。
この時、直家は毛利勢を見限り、信長に運があると確信する。

 その後、直家は毛利氏に属するとの態度をとりつつ、信長との和議を求めて暗躍を始める。だが直家は病に倒れる。死期を悟りながら、秀吉と和議を成立させた。
1581年末、52歳でお福に後を託し亡くなる。

この間、毛利勢の総大将、吉川元春らも直家の裏切りを感じ、宇喜多勢に猛攻をかけるようになっていた。お福と重臣達は病床の直家を案じつつ、後には直家の死を隠しながら巨大な敵、毛利勢に痛めつけられながら戦い秀吉の援軍を待つ。宇喜多勢の消耗は激しいが、天下の大勢は信長に傾いており、希望を持って戦い待つ。

 1582年4月始めようやく快進撃を続ける秀吉が岡山城に来る。宇喜多勢には救いの神だ。秀吉は備中高松城(岡山市高松)を攻め落とし、毛利氏の本拠、芸備広島に侵攻し討ち果たすのは時間の問題だと、自信たっぷりだ。

 秀吉の傍には小西行長がいた。小西行長はお福の側近くに仕えた。そして、直家が秀吉との和睦の使者に抜擢した商人から身を起こした武将だ。直家から命じられた重責を果たし、秀吉に請われ直臣になり、出世した姿だった。
お福も和睦の条件が折り合わず悲愴な顔をしながら岡山城に戻った小西行長を励ましたこともあった。気を取り直し、直家の指示を受け秀吉の下へ飛んで行く。
お福も和議の成功を祈った。秀吉に働きを認められたと嬉しそうに言う行長を褒めた。行長の希望を叶え、秀吉のに忠誠を尽くすように喜んで送り出した。
小西行長を通じ、秀吉に直家の死を知らせ9歳の秀家を跡継ぎにする了解を得ている。
小西行長はお福に引き立てられた恩を忘れず、終生、お福に尽くした。

 お福は宇喜多家の将来について直家とよく話し合った。直家は秀吉と会い、じっくりと人物を見、和議の概要を打ち合わせた。その様子をお福に話し、宇喜多家を委ねるに足る人物だと褒め称えた。秀吉は絶世の美女、お福に関心を持って岡山城に来た。

 直家の思いを胸に秘めて、お福はすべてを委ねる覚悟で「秀家の庇護者になって欲しい」と改めて秀吉に頼む。秀吉45歳、何の迷いもなく岡山城で直家が座った位置に座り、にっこりとお福に同意した。
お福は、秀吉の居城、姫路城内に多くの女性が秀吉に仕えていると知っている。
また、信長の家臣でしかない秀吉に対し、宇喜多家は岡山藩56万石の大大名だ。その当主の母であるお福が秀吉の言いなりになるのは情けないとの思いもある。
だが、直家に自然に成り替わった秀吉の行動は並の武将ではない。毛利勢に勝利するのは間違いないと直感する。
しかも直家より若く精悍な顔つきで、たくましい。直家の看病疲れの残るお福には、まぶしく求めていた男に見えた。

 秀吉はねねとの夫婦生活に厭きて長浜城にはほとんど帰らない。お福はねねと年齢も近い35歳だ。秀吉の愛を受け入れ、子種を宿すには年を取りすぎている。
このままでは、秀吉は宇喜多直家の妻を奪い、宇喜多家を配下にしたと公然と示すだけで終わってしまうとお福は思う。それでは直家とお福の名誉が守れない。お福の生涯で3度目の男と女のせめぎあいに入る。

 秀吉はお福を見つめる。盛りは過ぎつつあっても、絶世の美女として皆が認める妖艶な美しさは健在だ。
それだけでは終わらせないだけの才がお福にあった。秀吉の知りたい情報が手に取るように理解できる。その情報を適宜さりげなく話した。お福は備前・備後から岩見、毛利氏の安芸まで政治状況を熟知していた。秀吉はその知識にも、心を見抜く賢さにも、強烈に打ちのめされる。

 それからの二ヶ月半の間、秀吉は備中高松城を水攻めにする策を進め、陣中の指揮をしながら、夜ごとお福の元に戻ろうとする忙しい行き帰りが始まる。お福も出陣したかと思うとすぐに岡山城に戻る秀吉に合わせ、支度を完ぺきにしながら、にこやかにもてなす。秀吉は、秀家・容姫も側に置きかわいがる。その様子に、お福は身も心も浮き立っていく。

戦国の世、明日はどうなるかわからないが、今は宇喜多家は安泰だと、気張っていた肩の力が抜ける。秀家と秀吉は実の親子のように仲良しだ。
お福は傍を離れたくない秀吉の気持ちを熱く感じ、自然に笑みがこぼれ、菩薩(ぼさつ)のような輝きに、ますます磨きがかかる。

 お福と秀吉の逢瀬は短かかった。6月21日、本能寺の変が起きたのだ。信長が亡くなる。秀吉は毛利軍と対峙中で信じられなかったが、間違いないと確認するや和議を急ぎまとめた。すぐに陣払いを始め、後に中国大返しと言われる大撤収作戦に入る。

 お福にまた大きな転機だ。この事態にどう対処するべきか、家中はもめる。宇喜多家も明智光秀に加勢して秀吉を討つべきだとの意見も多い。だが、お福は信長の後を継ぐのは秀吉だと確信していた。そしてきっぱりと「家中一団となって秀吉殿を支援し宇喜多家の力を見せるのが直家の遺志だ。」と宣言する。 

 それからの宇喜多家の活躍はめざましい。家老の岡氏、戸川氏らが宿場宿場に馬と食料を準備し、小西行長が石田三成に渡し秀吉軍に行き渡らせた。
お福は、秀吉勢2万の大軍が短期間で京に戻れたのは宇喜多家の力が大きく、きっと秀吉は恩に感じるだろうと胸を張った。秀吉は、光秀を討ち果たした。

 秀吉に代わり毛利勢の監視をする役目を宇喜多勢は頼まれ引き受けた。毛利輝元も様子眺めで動かず、宇喜多勢には良い休養となった。お福は戦いのない暮らしを始めてじっくり味わった。とてもいい気分だ。

秀吉が織田家の主導権を握ったとの報が届く。お福は、秀吉の妻だった夢の一時は終わったと知る。
お福は我に返るが、秀家の目は輝いたままだ。秀家は秀吉の天下太平を願う壮大な夢を聞かされ、秀吉と共に戦うと燃えている。まだ10歳だが、藩主の自覚も出て、お福によく似た顔は愛らしい。

信長の後継者への道を進む秀吉から、自信に満ちた便りが届く。「秀家に会えないのが寂しい」とのうれしい便りだ。秀吉と共に過ごしたときから一年以上経っていた。その間、お福は幼君、秀家の母として藩政に携わる。母として宇喜多家のために生きるのに、心地よい幸せを感じた。

秀吉は天下普請で居城、大坂城を築く。宇喜多家には大坂城下に屋敷地を与えた。秀吉に命じられすぐに、宇喜多家の屋敷の建築を始める。
1584年、秀吉から養子にしたい、早く会いたいとの矢のような催促があり、秀家12歳は、お福より一足早く、大坂城に行く。続いてお福も備前大坂屋敷に移る。

秀吉からお福に、側室としての待遇で大坂城、二の丸に屋敷を与えるという申し出があった。身分も保障され、十分な手当が支払われると言う。だが、断り、庵(いおり)だけを願う。以後、お福は秀吉を庵に迎え、備前焼の茶道具でもてなし茶飲み話をする関係となる。秀吉は秀家に、直家以上の所領、岡山藩57万4千石を与えた。

 

3.元助、池田恒興嫡男


時を経て、信長、秀吉、家康と覇者の時代が移っていく。その間、岡山城主は宇喜多秀家から、小早川秀秋へと移り、その後に池田家が備前岡山藩主として居城とする。
池田家は信長に仕え、秀吉に仕え、家康に仕えた。

 池田家は古い家柄だが、近世大名としては池田恒興(つねおき)の父恒利を始祖とする。恒興(1536-1584)は母、養徳院(1515-1608)が信長の乳母となり、信長と乳兄弟になった縁で信長の身近に仕える。

信長は、父信秀(1510-1551)が41歳で急死し家督を継ぐ。嫡男だったが一族の総意で家督を継いだわけではなく身分は不安定だった。
織田家の本家は尾張守護代だが、信長は分家だ。しかも信秀は有能で本家をしのぐ勢いがあり、本家は恐れた。信秀の死後、本家は威信を取り戻そうと信長家中の内紛をあおる。

信秀には子が多く、跳ね返りの異端児の信長(1534-1582)への家中の信奉は薄い。
信秀のお気に入りだった同母弟、信行を後継に擁した謀反が起きる。信長はすぐに押さえたが、信長に忠誠を誓わない一族が後を絶たない。
そこで信長は弟信行をおびき寄せ、恒興に処刑を命じる。信行はだまし討ちに遭いあっけなく殺された。信長の知力を備えた強さ、恐ろしさ、を見せつけ威信を高め、信秀後継と認めさせていく。信長は信行の妻、荒尾御前と恒興との結婚を命じる。

恒興は複雑な思いながらも、信長の厚い信頼の結果だと信じ、荒尾御前を妻にする。信長は「これで恒興は義弟になった」と結婚を祝福した。ここから恒興は信長側近の道を踏み出す。

 結婚の翌年1559年、嫡男、元助が誕生する。
続いて今川義元との決戦、桶狭間の戦いが始まり、一家をなした恒興は目覚ましい働きをする。以後、順調に頭角を現し信長の重臣になっていく。
元助も幼い頃から信長に引き立てられ、信長嫡男信忠の近習に抜擢される。信忠(1557-1582)の守り役は美濃衆で固められ、美濃出身である池田家の恒興も信忠に従う。
この頃の恒興は、信忠の側近となり次代を担う意欲に燃えていた。

 まもなく、信長は元助に似合いの相手だと、伊勢貞良と斎藤道三(1494-1556)の娘との間に生まれた貞姫との結婚を決める。
しかも、信長の妻、濃姫(のうひめ)(1535年-1612年8 月5日)の養女として嫁がせると楽しそうに言う。

濃姫も姉の子、姪の貞姫を養女にするのを喜んだ。
貞姫の母と濃姫の母は同じで、小見の方だ。小見の方の父は明智光継(みつつぐ)、母は若狭守護、武田信豊の娘だ。小見の方の兄の子が明智光秀となる。

 伊勢家は室町幕府の政所執事(幕府の財政と司法を統括する職)として絶大な力を持ち続けた名門だ。だが将軍家の凋落と共に衰退していく。
夫、貞良を戦いで亡くした妻は京を追われ、三人の遺児、貞為・貞興・貞姫を連れ、母方の縁、武田家を頼り若狭小浜に逃げ、子達を育てる。
1566年には、将軍足利義昭も姉婿、武田義(よし)統(ずみ)(信豊の嫡男)を頼り若狭に来る。義昭には明智光秀が付き従っていた。光秀の母も信豊の娘だ。
京を追われた伊勢家・将軍家を庇護した武田家だが、内紛を繰り返しじり貧だった。武田家の行く末に不安を感じていた母は光秀に子達の行く末を頼む。以後、貞為・貞興は光秀に従い、信長に仕えることになる。
信長は光秀を召し抱え、義昭を奉じて京を制する。この間、光秀は異例の出世を遂げ、貞為・貞興も取り立てられた。濃姫も貞姫を可愛がる。

信長は、信忠に賢明に仕える元助への褒美として貞姫を嫁がせた。元助は信長から娘婿と呼ばれ、信忠の近習として重要性を増していく。
だが、1582年、光秀の謀反で信長が殺される。まもなく明智光秀に従い果敢に戦った義弟、貞興も秀吉らに殺された。

 光秀と美濃衆、池田恒興・之助は関係が深い。恒興は光秀との関係を断った証を示すと秀吉と共に光秀を攻め倒した。そして、清洲会議では秀吉の支援に回る。
明智光秀と親しい一族は厳しく処罰された。濃姫は貞姫を養女だとかばい、元助は光秀への連座を逃れた。
秀吉も恒興の働きで清州会議を主導できたと感謝する。恒興に美濃国大垣13万石を与え、元助には岐阜城を与える。信長から得ていた摂津国に加えての美濃国であり、ここで池田家は大飛躍を遂げる。

 この頃、秀吉は恒興を盟友と称えた。両家の固い結びつきなくして信長亡き後の織田家を支えられないと、甥秀次(1568-1595)と恒興の娘若御前の結婚を申し出る。秀次は秀吉の嫡男、秀勝(信長四男)に次ぐ後継者の二番手とされている大物だ。
ここまでは、恒興も受け入れ、秀吉を支えようと考えた。

 だが、秀吉は信長重臣、滝川一益を敵前逃亡したと厳しい処分を下した。恒興の父は滝川家に生まれ池田家に養子入りしている。恒興の父方の実家なのだ。
信長は滝川一益に上野(こうずけ)国と信濃二郡を与え、関東管領(関東での取次人)に任じ、関東支配の主要な任務をまかせた。一益の行政能力を高く評価したのだ。だが、3か月後には信長が亡くなる。すぐに、反信長勢力が台頭し治めきれず撤退したのだ。秀吉は「信長様を裏切った」と決めつけた。恒興は非常事態故やむを得なかったと秀吉の処遇に不満だ。

また、織田家後継とされた信忠の子、三法師の後見に恒興・元助も関わるつもりだった。だが、秀吉は自らが織田一族と共に後見し、池田家は三法師の主要な守役からはずされた。
信忠の守役は、林秀貞から河尻秀隆と移るが元助は主要な側近だった。その子三法師の後見は信忠の信任厚かった元助こそふさわしいと自認していたが、無視された。

恒興・元助は秀吉と対等だという意識があり、秀吉の力を認めるにしても、秀吉のやり方に怒りを感じ始める。また秀吉の織田家をないがしろにする態度も許しがたい。

 秀吉と恒興・元助に溝ができていく中、1584年、小牧・長久手の戦いが起きる。この頃には秀吉との意思の疎通を欠いていた恒興・元助には不運が待っていた。
総大将は秀次で家康勢と対峙し戦いが始まる。恒興は娘婿、秀次の義父だとおだてられた。秀吉から秀次の飛躍の為に勝利するようにと期待された。
恒興は勝利を焦った。策を練り家康に戦いを仕掛けたが、家康が一枚上手だ。池田家・森家(娘の嫁ぎ先)・荒尾家(妻の実家)が総力を上げて戦った作戦は失敗し恒興・元助・娘婿、森長可は家康勢に挟まれ追われ討ち死にした。

 恒興に不信感を感じていた秀吉は、討ち死にを当然と受け止め池田家の再編に乗り出す。
織田家・家康を従えたが、全国平定までにはあと一息かかる。身内の争いは避けなければならない。そこで、池田家を敵に回すこととなく、秀吉の完全な臣下とすべく考える。

 池田家は当主・嫡男が共に亡くなり一大事となった。恒興の妻、荒尾御前は一族をまとめる立場となり、元助の嫡男、由之(1577-1618年5月5日)を守り動揺してはならないと説く。家中も後継は由之であると信じ切っていた。
だが、秀吉は、池田家の弱体化と家中騒動の火種を作り出そうと謀り、元助の弟、輝政を後継に決める。
二男、輝政は母方の荒尾家の家督を継いでいた。輝政と荒尾家の養子縁組を解消させて池田家を継ぐよう命じたのだ。家中はますます混乱する。

 元助・輝政の母、荒尾御前も驚き、由之は7歳となり池田家当主としての資質もある。当面は輝政を後見人とし成長後は家督を継がせたいと秀吉に願う。だが許されない。
「明智光秀の血筋を引き継ぎ、近しい関係にあった元助の子、由之では、信長様は認めないだろう」と天下をほぼ手中にした秀吉は余裕で拒否した。荒尾御前は唇をかみしめ、秀吉の仕打ちを二度と忘れないと心に刻み耐える。

 荒尾御前の変わり身は早く、輝政が当主に決まった以上一族あげて輝政を盛り立て従うよう命じる。その上、実家であり池田家と同格の名門、荒尾家にも輝政が当主であり、たとえ輝政が池田家に戻っても荒尾家の当主だと説く。ここで荒尾家は池田家の家臣となる。

秀吉の決定を池田家の強い結束を見せつけつつ、従順に従う。そして、秀吉の企みを寄せ付けず、池田家を守り乗り切る。
かっては池田家以上の力を持った荒尾家が家臣に付くことで池田家は大きく飛躍した。輝政は生涯、荒尾家は実家だと恩を忘れない。

だが、嫡流御曹司として大切に育てられた由之なのに、輝政の家臣とされてしまう。
信長は元助を身内のように扱い、由之に池田家後継にふさわしい結婚相手を決めていた。
信長の寵愛する生駒の方の実家、生駒家の娘を秀吉の重臣、蜂須賀家政に嫁がせた。その間に生まれた娘、万姫だ。蜂須賀家は後に徳島藩主となる。
由之は徳島藩25万石蜂須賀家の藩主の姉、万姫を妻にした。


4.熊子、池田元助のひ孫 1637-1691

秀吉死後、輝政はすぐに豊臣家を離れる。豊臣家への恩より、家康の娘督姫の婿として家康に従うことを選んだ。そして豊臣恩顧の大名を家康陣営に取り込むために懸命に働き、続いての関ヶ原の戦いでも活躍した。

家康は恩賞だと、輝政に播磨姫路藩52万石を与えた。督姫の子たちも順次分家させてそれぞれ大名とする。池田一族で、百万石の領地となり、西国将軍と呼ばれるほどの、西国一の権力を持つ。当然、輝政は池田家当主として揺るぎない地位を築く。

由之(よしゆき)が池田本家の家督が継ぐ可能性は皆無となった。輝政も、自らの幸運と才覚で今の地位を築いた自負があり、由之に遠慮することはなくなる。
由之(1577-1618)に姫路藩内に2万2千石を与え、輝政の嫡男、利隆(としたか)(1584-1616)の守役とする。由之は7歳年下の利隆に、兄のように面倒を見ていく。

1603年、督姫の長子、忠継(1599-1615)4歳が分家し、岡山藩主になる。督姫はわが子であり幼少でもあると、傍を離さず姫路城を離れることはない。そこで、利隆が岡山城代となり備前岡山藩政を任され、由之と共に岡山城に移る。
1609年、岡山に在住が続く由之は一門筆頭家老として、天城(倉敷市)3万2千石を与えられる。
この時点では、由之は一門筆頭家老の地位で生涯甘んじるしかないとあきらめた。ところが、
1613年、輝政が大坂の陣を前にして亡くなる。

 利隆は輝政嫡男として池田家本拠、姫路城に戻り後を継ぐ。
幕府の対応はがらりと変わる。池田氏嫡流は豊臣系家臣を多く召し抱え豊臣秀頼に味方していると、幕府の監視の目が光り出す。利隆の後見として幕府目付、安藤重信・村越直吉らが送り込まれ、藩政に介入する。
輝政の重臣、若原右京、中村主殿(播磨高砂城主)らが豊臣系だと処分された。
輝政の曾祖父(祖母、信長の乳母の父)は摂津池田家の出身で、若原家・田中家は摂津衆として輝政の信任厚く、かつ豊臣家との関係も深い。

 由之は幕府よりに動き、猜疑の目をかわしながら利隆を助け、大坂の陣を乗り切った。だが、利隆は家中の統制に疲れたのか1616年7月亡くなる。
利隆の嫡男光政が7歳で後を継ぐ。その2ヶ月後、3万3千石を預かる池田家筆頭家老、伊木忠繁(ただしげ)も35歳の若さで亡くなる。
幕府は池田家の縮小再編の好機とし、光政を姫路藩から鳥取藩に移す。

 池田家嫡流には不幸な出来事だが、由之には思いもかけない幸運だ。
藩主も筆頭家老も幼く、由之が鳥取藩第一の実力者として藩政を取り仕切らざるを得なくなり、権力が集中する。
すぐに、由之の頭に本来は池田家嫡流だという意識があふれ出し、自信満々で藩政を牛耳り、わが世の春を謳歌する。幕府は池田家に内紛が起きるのもよしと興味深く見守る。
由之はわずか2年の栄光だった。藩主の近習、神戸平兵衛に殺された。

 この結果、筆頭家老は伊木忠貞(たださだ)4歳。一門筆頭家老は由之の嫡男、由成(よしなり)(1605-1676)13歳となる。藩主光政もまだ9歳の幼君で、藩政は混乱し幕府の望む通りの内紛がおこりかねない危機となる。

 その時、家中の動揺を毅然として抑えたのは光政(1609-1682)の母、鶴姫だった。将軍秀忠の養女であることを前面に押し立て幕府の干渉を押さえる。 館林藩(群馬県館林市城町)10万石藩主、榊原康政(やすまさ)の娘だ。
徳島藩25万石藩主の姉、由之の妻、万姫も由成を後見しつつ、鶴姫を支える。
鶴姫は他の家老衆に光政をもり立てるよう命じた。

岡山藩には六家老家があった。輝政が池田家嫡流を支え、藩政を担うために作った。
伊木家・天城(この頃は米子城主)池田家当主が健在の時は4家老衆は活躍の機会が少なかった。だが、幼い子たちが当主になり、残りの4家老衆が藩政の主力に躍り出た。

 鶴姫は、豊臣家が滅亡した以上、豊臣系と言われる家臣もすべて池田家の家臣だと幕府の追及にも屈しなかった。輝政・利隆が召し抱えた家臣を守り抜き、家中の支持を得る。
家中が落ち着くと、光政と将軍の養女を結婚させたいと秀忠に願う。外様であっても徳川家ゆかりの藩となるのが、岡山池田藩の安泰につながると固い決意だ。
隙を見せれば、家康の娘、督姫の子たちが池田家の後継者になってしまうかもしれない。池田家嫡流の危機を救うと必死だった。

 秀忠は、鶴姫の気持ちを汲み、千姫の娘、勝姫を養女とし嫁がせる。千姫は豊臣家の滅亡に大きな役目を果たした秀忠の第一の姫だ。秀忠が可愛がった千姫の一人娘との結婚で、鶴姫は一息つく。

この間、光政は由成を兄のように信頼しつつ、藩主としての力を発揮し始める。
江戸詰の時は義母であり将軍家光の姉、千姫の屋敷に再々訪れ藩主として目指す道を力を込めて主張する。千姫は真面目に聞き微笑む。次第に、千姫の後ろ盾を願うようになる。

1632年、岡山藩に国替になり、念願の岡山城主となる。鳥取藩でも治世に力を入れたが、父が力を注ぎ、生まれた地でもある備前岡山に深い愛着を持っていた。
由成も再び天城に戻り、この時から天城池田家と呼ばれるようになる。

 由之の妻、万姫は夫の無残な死を心深く刻んでいた。たとえ2年間でも思うように藩政を操り満足だったとは思うが。由之亡き後の、藩政の混乱を思うと二度とあのような苦境に陥ってはならない。
由之は池田家の嫡流として育った記憶を持っていたし、妻の弟が徳島藩主だった。あきらめたふりをしていたが、池田本家を継ぎたい思いを忘れられず、見てはならない夢を見てしまったのだと思う。

夫の死を教訓に嫡男、由成(1605-1676)には、分相応を心がけ家老職に徹するよう教える。由成の結婚相手として多くの申し出があったが、返事を渋った。由成が妻の実家に遠慮したり、影響される暮らしはさせたくなかった。
その内、由成に子供が生まれ、生母、団氏が事実上の妻になっていく。団氏は美濃衆であり、共に信忠に仕えた譜代の臣だ。
由成は気楽に生きることを好み、側室も多く持ち四男八女に恵まれる。六女が熊子だ。

光政も野心のない由成に全面的信頼を置く。光政は婿として千姫の心をつかみ、全面的支援を受け自信満々だ。光政の藩政は花を開き、教育に力を注ぎ、幾多の藩政改革に取り組む。
由成は光政の思いに応え、家老として働くだけで忙しく、充実していた。
天城は豊かな地であり、児島湾の干拓にも力を入れ、潤っていた。天城池田家3万2千石の藩主であることに満足する。

 督姫が亡くなり30年が過ぎた。幕府は池田家を嫡流家と督姫の家系とに集約していこうとし、池田家の分家に対しては厳しい態度を取る。
1645年、輝政・督姫の六男、赤穂藩主輝興(てるおき)は乱心したと決めつけられ、赤穂藩3万5千石を改易された。赤穂城は取り上げられ、常陸国笠間藩(茨城県笠間市)藩主、浅野長直が受取を命じられる。浅野家、筆頭家老大石良欽(よしたか)が城に出向き引き渡しを受ける。
池田輝興の引き取りを命じられたのが、池田光政だ。迎えに出向いたのは由成だった。この時、由成は大石良欽に初めて会い、しばらく共に過ごし、気に入る。

笠間藩は5万3千石だったため、幕府は赤穂藩に周辺を加え5万3千石として、浅野長直に国替えを命じる。幕府は浅野長直を関東の常陸国から遠い西国に追い出したいと考えていた。関東は譜代大名で固めるべきで、外様の浅野家には似つかわしくない。
こうして、赤穂浅野藩が誕生する。

 由成は母の教えに従い家老に徹し、姫達も池田家一門などに嫁がせていく。
1637年、生まれた六女の熊子は由成の筆頭家老、千石の垣見蔵人に預ける。6番目の、側室との娘であり養育も任せたままだった。

垣見家は浅井氏に仕えていた。秀吉に仕え豊後国富来城2万石を得たが、西軍に属し殺され改易となった垣見家純(かきみいえずみ)も一族だ。そして天城池田家に仕えた一族もいた。

 熊子は垣見家で主君からの預かりものだ、宝だと敬われとても大切に育てられた。熊子も主君の姫だと胸を張って怖いものなしで育つ。自由に勉学に励み、非常に優秀だった。

由成は熊子の結婚相手に家格が同程度の家老や鳥取藩家老との結婚などあれこれ考え、いくつかの縁談がまとまりかけるが運悪く決まらない。似合いの婿が見つからないまま時が過ぎていく。
そして、垣見家に嫁入りさせるのが一番良いと決める。だが、婿となる垣見家嫡男が亡くなり、ふさわしい結婚相手がいなくなる。やむなく熊子は池田家に戻る。
名家の姫としては、婚期の過ぎた20歳になったが未婚のままだ。

 その時、1657年、光政が娘の六姫(1645-1680)と由成嫡男、由貞(よしさだ)(1634-1660)の結婚を決める。由成は藩主の姫を嫁に迎えるのは有り難いことだと受けるしかない。
由成は由貞も自由に育てていた。結婚相手は光政が指示するはずであり、決まらなければ重臣の娘でもよいと軽く考えていた。本家とは距離を置いた関係でいたかった。
光政は勝姫との間に生まれた子以外にも多くの子が生まれ、いずれはそのうちの誰かと結婚させるつもりで遅れた。

由成も52歳、由貞の結婚が良い機会で、隠居すべき時が来たのだと考えた。
六姫を迎えるために江戸屋敷・岡山城下の屋敷・天城の屋敷と新築し最高の調度類を用意し、家督を譲ると決めた。六姫と由成が心置きなく新婚生活を送れるよう準備万端整える。
子たちの行く末もすべて決めていく。だが、熊子の処遇に困る。

 熊子を託すに思い当たるのが大石良欽の嫡男、良昭だった。大石家に熊子と良昭の結婚を申し出る。大石家は非常に名誉なことと大喜びし婚約が決まる。由成も安心した。
熊子(1637-1691年)は結婚をあきらめかけていたが、素直に喜び、結婚を受け入れる。かっては、嫁入り先を夢見たときもあったが不運が続き、仏門に入ることも考えたぐらいだ。

 熊子は実家に比べて、大石家の家政は楽ではないと聞かされた。大石家は家禄、千五百石でしかない。結婚が決まり藩主から、祝いとして特別に合力米2百石を加えられたが。
熊子は嫁入り後の生活は質素になると思い、覚悟した。だが、前向きに考える明るい性格であり、どうにかなるだろうと気にならない。父、由成も困ったことがあれば助けると言う。
それより、熊子は20歳で良昭は17歳なので、3歳年上になる。良昭が重荷に思わないかを心配する。
1657年婚約し、翌年結婚する。その後に、兄由貞と六姫が結婚する。


5.熊子、大石内蔵助良雄の母

大石家は、婚約が決まり熊子が嫁いで来るまでの4ヶ月あまり、てんやわんやだった。
岡山藩31万5千石の藩主に次ぐ家柄、天城池田家3万2千石の姫を妻に迎えるのだから緊張が走る。小藩主に匹敵する名家、池田由成の娘熊子を、良昭は恐れおおいと思いながらも笑みがこぼれて結婚式を待つ。熊子も良昭も結婚を待ち焦がれた。
 
 大石家は遠い昔、俵藤太(たわらのとうた)と呼ばれた豪傑、藤原秀郷から始まる。
940年、秀郷は朝廷に謀反を起こし関東八カ国を独立国だと称し君臨した平将門を滅ぼす。
この功で英雄となり名を世に広めた。以後、勇猛な武門の家柄として続く。
 子孫はさまざまに分かれ武家を起こす。嫡流は下野(しもつけ)国(栃木県)小山庄を領し小山(おやま)氏を称した。家康次男、秀康が養子入りして有名な結城家は分家だ。

 また、小山氏の家系で近江国守護佐々木氏(京極氏は分家)に仕え、栗太郡大石庄(滋賀県大津市)を預かる下司職となり、在地し大石氏を名乗る一族がいた。
秀吉の時代になると、大石家は秀吉家臣、山口宗永(むねなが)に仕えることになる。宗永が秀吉から近江国大石淀城を与えられ、大石家の領地を含めて治めたためだ。
山口宗永は秀吉に重用され、小早川秀秋の付家老を命じられ大石家も従う。だが、秀秋と不仲になり、宗永は改めて秀吉から加賀大聖寺藩6万3千石を与えられ大石家も従う。しばらく後に、秀吉は亡くなる。
続いて、関ヶ原の戦いが始まる。宗永は豊臣家への恩もあり、家康の力も認めると優柔不断な態度をした。そこを、家康色を鮮明にした前田利長に攻められ応戦し、西軍に属したことになる。結果、山口家は改易で、大石家も浪人となった。

大きな歴史の流れの中で成すすべもなく大石家は領地に戻り、野に下り不遇の時を過ごす。だが、1604年、大石良勝17歳は母志茂の父、祖父、進藤長治に勧められ家名再興を決意する。進藤長治は近衛家に仕えている。
秀吉の義弟、浅野長政を主君と定め、仕官するために京に出向く。
長政は長く近江を治め、大石家の豊臣家に仕えた功績を知っている武将だ。浅野家は徳川の世も生き残り、東国と縁が深く小山氏・結城氏を武家の名門として尊敬している。きっと喜び召し抱えられるだろうと、一族の総意だ。

進藤長治が仲介し、大石良勝(1587-1650)は長政に目通りし決意を述べる。長政は即座に三男、長重(1588-1632)の小姓に召し抱えた。
1611年、長政は64歳で亡くなり遺領、真壁藩5万石を長重は引き継ぐ。同時に、幕府は、豊臣秀頼といとこ(養母ねねは叔母)でもある長重に、豊臣家と無縁であることをはっきり示すよう望む。
長重も望むところで大坂の陣で奮戦し、徳川家ゆかりの藩であることを高らかに表明する。

 良勝の戦いぶりが特に激しく見事で、戦功をあげた。大坂夏の陣、天王寺の戦いは、家康の目に留まり賞賛された。
この功で、大石家は千五百石の代々筆頭家老の地位を約束される。良勝の嫡男が良欽(よしたか)であり、良欽の嫡男が熊子の夫良昭になる。

 熊子は大石家に入った。覚悟していたが、岡山藩31万5千石の一門筆頭家老と赤穂浅野藩5万3千石の永代筆頭家老との収入の違いは大きかった。その上、引っ越しの後遺症の残る赤穂藩の財政は厳しく、大石家の藩政に果たすべき役割は天城池田家より重いと感じた。

 良昭は熊子を敬い愛し、苦労をかけると申し訳なさそうにいたわる。経済的には十分ではなくても、二人の仲は申し分なかった。
1659年長男、良雄が、1660年に次男、専貞が、1671年に三男、良房が生まれる。熊子も次第にやりくりに慣れていく。

 幕府は外様大名、赤穂藩浅野家に、容赦なく次々手伝い普請を命じる。
1661年に京都内裏(皇居)が炎上した。翌年、赤穂藩に新内裏造営を命じられる。
総責任者として良欽(1618-1677)が、京都へ行き陣頭指揮をする。良昭も共に従い、浅野藩大坂屋敷に住まうことが多くなる。
大石家の縁戚、小山氏や進藤家は近衛家諸太夫として近衛家を仕切っている。そこで、近衛家・天皇家が幕府との取り次ぎに気心の知れた大石家を希望したためだ。
財政的には苦痛だが、新内裏造営は名誉ある仕事だ。赤穂藩浅野家は全力を挙げて取り組む。多忙な良欽に代わり、陣頭指揮は良昭になる。

 良昭の留守が増える。すると熊子は子達を連れ再々実家に戻り、良雄は多くの叔父叔母やいとこたちに紹介され、付き合いを深める。
熊子はまだ嫡男の妻でしかなく大石家での役割は少なく、時間の余裕があった。
大石家でも、家格が上の天城池田家に遠慮し、熊子の行動を制約することはない。熊子は自由に裕福な実家と行き来した。

内裏造営が終わり天皇・幕府の称賛を浴びて、熊子も鼻が高いとはしゃいだ時は短かった。1673年9月、良昭は大阪屋敷で亡くなる。わずか15年の結婚生活だった。
良雄14歳は祖父の養子となって大石家の家督を継ぐことになる。

熊子は実家からの戻ってくるようにとの再々の申し出を断る。
良雄が後継と決まったが、良雄の立場は不安定で熊子の支えが必要なのだ。熊子は良雄が筆頭家老となる日まで見守る覚悟を実家に伝える。そして、良雄には池田家の後ろ盾が必要であり支えてほしいと頼む。

熊子は幼い良雄に天城池田家の歴史、池田家始祖、恒興からの嫡流の変遷などいろいろ話した。また、夫・義父から聞いた大石家の不運と踏ん張り、権力者の恣意によって振り惑わされた歴史も説いた。良雄は文武両道に並はずれた才能を持ちすべてを理解した。熊子は打てば響く良雄の優秀さに満足する。
だが、永代家老職にはなかなかなれない。祖父、良欽が亡くなり、家老見習いを経て1679年、20歳でようやく家老となった。それでも、大叔父、良重(良欽の弟)の下に付く立場でしかない。

 良重は前々藩主、浅野長直の娘、鶴姫を妻にしていた。そのため、藩主一門として別格の強大な権力を持ち、藩政を仕切り、人事も思うようにした。
熊子は大石家を仕切る立場になったが、名ばかりの筆頭家老だと不満をもらす。

1675年、浅野長矩(ながのり)(1667年9 月28日-1701年4 月21日)は父長友(ながとも)(1643年11 月4日-1675年2 月20日)の死後、わずか8歳で後を継ぐ。
父長友が1671年、藩主となってわずか4年で亡くなったためだ。
藩主の交代が続く中、藩政は良重が仕切るが、1583年良重は亡くなる。

熊子はほっとし、良雄は実力を発揮する時が来たと張り切った。だが、良重は藩の人事もくまなく決めており死後も良雄なしで藩政が機能していく。
その上、良重は良雄の妻を決めなかった。24歳の筆頭家老がまだ独身では家中の統括は難しい。熊子はとても恥ずかしいと思い、良重死後、積極的に嫁さがしを始める。良雄は時期が来るまで焦らず待つ気だったが。

藩主、長矩は16歳となっていたが、熊子は長矩および浅野家に良雄の結婚相手を頼みたくなかった。長い間、良雄に活躍の場が与えられないことを、恨みに思っていたのだ。

熊子は天城池田家の当主である弟を通じて紹介を受けた豊岡藩京極家、筆頭家老、石束家の娘りく(1669-1736)17歳に決めた。長矩に良雄とりくの結婚を願い出る。

池田家と京極家は縁戚で、大石家は京極家に仕えた時もあり、石束家と共通する。共に歴史ある名門であり同じ家格だ。りくは優れた教養を受け継ぐ、聡明な女人だ。
こうして、長矩の許しを得て1686 年、良雄27歳でようやく結婚する。

「りくは完ぺきな嫁だ」と熊子は結婚を喜び、りくを褒める。夫の分まで一人で気張って生きてきた13年を振り返り、肩の荷を下ろす。いつものきつい表情から、物静かな温かみのある姿に変わっていく。りくと和やかな関係が出来た頃、孫主税(ちから)が誕生する。熊子はもうすべきことは終わったと、後をりくに託し赤穂を去る。

次男、専貞(せんてい)が住職の石清水八幡宮(京都府八幡市男山)の寺坊、大西坊近くに移る。代々大石氏の縁者が住職になっている大西坊だ。わが子の側で、近くには姉もおり、待ち望んでいた心穏やかに夫や一族を弔う暮らしを始める。
1691年、54歳で亡くなる。

良雄が主君の死を経て討ち入りを決めたとき、熊子と同じ足跡をたどり京、山科に移る。
大石家の故郷は京・近江であり、天下への思いを胸に秘めた時、信用できる人物の揃っている京しか策を練る地はなかった。
良雄は母の実家の苗字、池田を名乗る。江戸では垣見五郎兵衛だ。垣見氏は母の養父であり、五郎兵衛は母の兄、由有の名だ。良雄の息子、主税は垣見左内と名乗る。
天城池田家はいつも良雄の味方であり、この名を名乗ることで勇気が出て、自信につながった。

 また、良雄の祖父、由成の弟の家系は徳島藩家老となっていた。京都山科に熊子のいとこ三尾正長(みおまさなが)がおり、討ち入り費用の支援を受ける。三尾正長の兄も子も徳島藩家老であり、潤沢な資金があった。正長の兄の子は藩主になる。
武器調達などで支援を受けた錦屋の安田善右衛門好時(天野屋利兵衛)も池田家出入りの京の商人だ。

 討ち入り成功後、天城池田家当主、池田由勝(よしかつ)(1674 年-1704年9 月14日)は責任を追及され2千石返上する。熊子の甥だ。しかも、良雄の切腹の翌年、30歳で謎の死となる。
後継に、藩主綱政の4男保教が入る。保教は嫡男の兄が亡くなると岡山藩主となる。そして弟政純(綱政5男)が天城池田家を継ぐ。天城池田家当主の熊子の血筋は絶えた。

 綱政は勝姫の子であり、徳川千姫の孫になる。千姫亡き後、幕府との縁は薄れるが、千姫の威光は強く徳川ゆかりの藩であることは間違いない。徳川の血筋を受け継ぐ政純の天城池田家は3万石になったが、藩主の家系となり安泰だ。
こうして池田由之(熊子の祖父)・由成(熊子の父)・由孝(熊子の弟)・由勝と続いた池田家嫡流は大石内蔵助良雄とともに消滅した。
反面、保教は天城池田家から岡山藩主となった。宿願の藩主を出し、嫡流としての面目を保ったとも言える。どちらにしても天城池田家はゆるぎなく続く。

 

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