水戸城四方山話

1.佐竹義宣(よしのぶ)の三人の妻

天下第一の士、源義家の弟義光の孫が常陸国久慈郡佐竹郷に在し常陸源氏佐竹家が始まる。
以来、浮き沈みはあっても500年以上常陸国の支配を続け、弟は甲斐の武田家となる。

1590年に佐竹義重(よししげ)が水戸城主・江戸重通(しげみち)を襲い追放し、居城とする。
江戸氏は佐竹氏の家臣であり独立した国人でもあり、長く縁戚関係を続けた一門でもある。
争ったり和睦したりで義重の次女は重通の嫡男と結婚し死別し戻った時、水戸城を奪った。

秀吉から得た常陸(ひたち)54万石を後ろ盾に悲願の城を得、重通は妻の実家結城氏に去る。
こうして佐竹氏が水戸城入りするが、その時嫡男義宣(よしのぶ)に悲しい出来事が起きる。

義宣の妻は下野(しもつけ)国那須郡(栃木県)を支配する国人那須資晴(すけはる)の娘だ。
那須氏と佐竹氏は争いを繰り返したが、義重は那須氏の内紛に介入し影響力を強めていた。
そして1572年佐竹氏優位の和議を結び、義宣2歳は正姫5歳と婚約し、那須氏は配下に入る。

ところがまもなく那須氏は佐竹氏と敵対する北条氏と結び、武力衝突し義重は屈服させた。
だが押さえは長く続かず再び北条氏・伊達氏と結び戦いを挑み、義重は出陣し追い詰める。

またも資晴は和議を乞い婚約中の二人の結婚を願い、降参し従う。1585年義重は承知した。
こうして結婚した二人はしばらく和やかな結婚生活を送るが、那須資晴はまた裏切った。

関東で争いがあっても天下人は秀吉であり、それぞれ温度差はあるが臣従の意を表明した。
ところが、上洛しない北条氏の征伐を秀吉が決め、北条氏に近い国人に悲劇が起きていく。

佐竹氏は秀吉と共に北条征伐に参陣し勝利し、那須氏は出遅れ北条方と見なされて改易だ。
正姫23歳は那須家と佐竹家の争いを回避するべく努力し続けたが、守るべき実家は滅んだ。
佐竹家に居場所をなくし果たすべき役割もなくなり、実家と運命を共にし一人死を選ぶ。

義宣が幼い頃に出逢い文を交わした正姫との長い縁はかけがえなく、正姫が妻だった。
実家がなくなろうとも妻は正姫だと言っていたのに、悩みを理解せず追い詰めたと悔やむ。

正姫は、義宣の妻の座は多賀谷氏の珪姫がふさわしい、と日々考え譲ろうと考えていた。
多賀谷氏は結城氏の家老だが、主君以上の力を持ち独立した国人を目指し北条氏と戦う。

本拠、武蔵国騎西庄(埼玉県北埼玉郡)から勢力を拡大し上杉氏・佐竹氏らと同盟を結ぶ。
多賀谷重経は北条氏から激しく攻められ、佐竹義重と強い共同戦線を組む必要を感じる。

重経は佐竹氏との強い絆を求め1583年長女珪姫を義重の元に送り、義宣との結婚を願った。
義重も裏切りを繰り返す那須氏の正姫より、珪姫との結婚がより有効だと義宣の妻とする。

ところが2年後、那須氏から正姫が送られて約束通り義宣と結婚し、珪姫は側室となる。
両家とも名家だが婚約の早い正姫が正室となるが、すでに珪姫は家中で確固とした存在だ。

しかも秀吉から多賀谷重経に結城家与力として20万石を安堵され佐竹家には重要な存在だ。
義宣の弟が後継として多賀谷氏の婿養子になる佐竹一門でもあり珪姫を妻に迎えるべきだ。

正姫は珪姫に同情したが岩瀬御台が現れて、身の置き所はなくなり死を決意するしかない。
子の生まれない正姫は、佐竹氏の後継ぎの母は岩瀬御台こそふさわしい、と考えたのだ。

岩瀬御台の説明は難しいが、義宣のいとこで、血筋は確かで、可憐な美しさは妻に最適だ。

伊達晴宗の娘茜姫が佐竹義重の妻で、長男が岩城親隆となり、娘南姫が二階堂盛義の妻だ。
岩城親隆に義重の姉が嫁いで岩城家と佐竹家・伊達家と二階堂家と強豪同士が結びついた。
中心には子だくさんの伊達晴宗がおり、伊達家は次男の輝宗が継ぎ、その子が伊達政宗だ。

ところが政宗が岩城家の宿敵、田村氏の愛姫と結婚し伊達家との同盟は崩れ戦いが始まる。 
岩城親隆は嫡男常隆と南姫の娘岩城御前と結婚し、隠居とされ、岩城家は義重姉が仕切る。
こうして佐竹氏、岩城氏、二階堂氏が反伊達共同戦線を組み、政宗の覇権主義に対抗する。

しかし政宗は強く1589年7月二階堂氏は敗れ滅び岩城氏も押され佐竹氏を裏切り和睦した。
佐竹義重は怒り岩城常隆に妻岩城御前を離縁させ義重の長女と再婚させ完全に配下に置く。
常隆が亡くなると7歳の義重三男貞隆を岩城家へ養子に入れ家督を継がせ佐竹一門とする。

南姫は義重の義姉だが、長女岩城御前は岩城家に嫁ぎ、嫡男盛隆は蘆名家の養子となった。
次いで兄盛興が亡くなると、盛隆は盛興の妻伊達晴宗の娘彦姫と結婚し蘆名家を継いだ。

ところが1582年後継の二階堂行親を亡くし南姫は仕方なく盛隆の娘岩瀬御台を養女にする。
岩瀬御台に婿養子を迎え二階堂家を継がせるつもりが滅亡し、岩瀬御台と共に義宣を頼る。

こうして岩瀬御台は蘆名家から二階堂家を経て、佐竹氏で祖母南姫と共に義宣と出会う。
南姫は妹茜姫に義宣と岩瀬御台を結婚させ、生まれた子に二階堂氏を再興させたいと頼む。

そして正姫が亡くなり、岩瀬御台は水戸城で、伊達家の母二人に支えられ義宣と結婚する。
だが豊臣家ゆかりの佐竹氏は1602年改易され水戸を追われるが岩瀬御台に子は生まれない。

義宣は苦渋の思いで秋田に移り、岩瀬御台に力のなさを詫び二階堂氏の再興はないと話す。
岩瀬御台23歳は義宣に感謝し二階堂氏の終焉を静かに迎え、遺臣と共に生きたいと願う。
義宣は、二階堂氏遺臣を率いる横手城(秋田県横手市)城代須田盛秀に岩瀬御台を預ける。

横手城は義宣が居城にすべきかと一時考えたほどの一国一城令でも存続が許された名城だ。
岩瀬御台は秋田富士、鳥海山を望む風光明媚な城に住み、桜の見事な滝ノ沢の茶室に遊ぶ。

岩瀬御台は関東の名門としての気品があり教養深く領民に敬愛され、家臣の精神的支えだ。
自然を愛で領民家臣に学問を伝えながら心静かに暮らし、二階堂家・蘆名家の菩提を弔う。

義宣は秋田に落ち着くと2歳で亡くすが唯一の嫡男の母珪姫の労に報いて正式に再婚した。
珪姫はずっと佐竹家の奥を守り秋田でも変わらず粛々と家中を仕切り、要の役目を果たす。


2.家康五男、武田信吉の母、下山殿

佐竹義宣には源義光以来脈々と受け継がれた常陸源氏の嫡流だ、という自意識が深かった。
誇りと育ちの良さからか詰めの弱さがあり、潔癖さと信義を重んじるこだわりも強かった。

家康も同じ源氏の嫡流、新田源氏を祖とする系図を作り、征夷大将軍になり幕府を開いた。
ただ系図には強引に繋げた部分もあり、脈々と正統を受け継ぐ佐竹氏は目障りな存在だ。
特に義宣は家康に対抗するように血筋の良さを誇示し、家康には当てつけに見え腹立つ。

天下分け目の戦いから2年家康は東軍に参陣したが西軍にも荷担した義宣の改易を考えた。
しかし戦力の消耗のない54万石の佐竹氏は脅威で、西国大名との戦後処理を先とし残した。

家康は佐竹氏以外の処理を思い通りに終え、万全の体制で出羽(では)国への移封を命じた。
義宣は長く沙汰がなく領地は安堵されたと思ったが、義を貫いた結果の惨い仕打ちを知る。
佐竹憎しの個人的制裁処置だと思うが対抗する力も協力し合える大名もなく従うしかない。

佐竹氏が秋田に去り、家康は上機嫌で武田氏の血を引く5男武田信吉を水戸城主にする。
佐竹氏と同祖の甲斐源氏を受け継ぐ武田信吉を水戸藩15万石藩主とし武田氏旧臣を喜ばす。
意気揚々と19歳の信吉は武田氏旧臣を引き連れ水戸城入りしたが、わずか1年で亡くなる。

家康は信吉の死を聞き下山殿との劇的な出会いを切なく思い出し信玄とは終わりだと思う。
信玄を恐れ尊敬した日々が完全に過去の思い出になり、天下人たる余裕の笑顔がこぼれる。

22年前武田信玄の二人の子、追い詰められた勝頼と穴山梅雪を夫とする見性院が対立した。
見性院は弟を見限り武田氏を残す為と信長への臣従を決め、梅雪は甲斐制圧に力を尽くす。
勝利を手中にしたと信長は西に転じ、家康と梅雪が協力し武田氏掃討作戦に取り組んだ。

その時、梅雪は家康から信玄の資質を受け継ぐ姫が欲しいと頼まれ信玄ゆかりの姫を探す。
梅雪の妻は信玄の娘、母は信玄の姉で、姉が秋山氏に嫁ぎ信玄に似た下山殿が生れていた。
家康は信玄の娘松姫を探したが、信玄の面影を漂わせた下山殿が梅雪娘として突然現れた。

下山殿は幼ない頃に信玄に可愛がられた懐かしい思い出を目を潤ませささやくように話す。
家康は信玄を彷彿する表情、憂いを秘めた17歳の美貌に釘付けになり側に置きたいと思う。

下山殿は信玄死後、追い詰められ負け戦が相次ぎ重苦しい武田氏の悲惨な情景を見続けた。
武田家栄華の時を知る下山殿は一族を少しでも守りたいと、悲壮な責任感で家康に会う。

だけど心配は杞憂に終わり、家康は下山殿に夢中になり1582年浜松城に屋敷が整えられた。
こうして他の側室に比べ明らかに特別待遇での側室となり、家康の愛を独り占めにする。

家康は信玄の血筋を継ぐ美貌の姫だと心底思い、下山殿を抱き締め離さない日々が続いた。
信長が家康と梅雪を同格に扱かった事もあり下山殿は正室に近い存在だと奢りうぬぼれる。

ところが信長が殺され、続いて信長が旧領を安堵し武田氏後継とした養父梅雪も殺される。
梅雪の武田氏後継としての栄光は3ヶ月で終わり、後ろ盾をなくし下山殿の立場は弱まる。

だが、家康は信長の死の混乱で甲斐武田氏の旧領のほとんどを手に入れ喜び興奮していた。
その熱い想いを下山殿は一身に受けて愛され、1583年に18歳で家康五男信吉を無事に生む。
秀吉に屈する前で舞い上がる家康は、信吉は嫡男にふさわしい顔だと下山殿に言い喜ばす。

だけど家康の前に秀吉がそびえ立ち戦いが始まると、下山殿への訪れも減り、愛は醒める。
下山殿は二人目の男子をと願い、信玄の面影に似せて心を込めてもてなすが家康は遠のく。

家康は天下取りを目論み秀吉とせめぎ合うが敗北し、信玄の影は重苦しくやりきれない。
秀吉から朝日姫との結婚話が出て、臣下として生き残る道を選ぶと、身辺整理を始める。
朝日姫の為に奥をまとめる最小限の侍女だけを置き、正室を尊び秀吉の意向を大切にする。

家康は朝日姫に遠慮する立場となり、名門を気取り扱いにくい下山殿は遠くに退けられる。
家康の変わりように下山殿は信じられず我を失い、責めるが、愛は失せて戻らないと悟る。

信吉の近習に秋山氏を付け梅雪の子と共に武田氏の再興に尽くすと家康への愛を断ち切る。
なのに1587年梅雪の子が亡くなり、家康は信吉に武田を名乗らせ武田家の後継だと決める。
下山殿が守りたい武田家の血筋は断ち切られ、家康の武田氏に変わるのを止められない。

仕方なく、家康の側室を辞し、信吉の分家独立と武田家旧臣を支える為に生きる道を選ぶ。
名門武田家旧臣はばらばらにされながら、家康は250万石の大大名になり、関東入りする。
そして1590年信吉は下総(しもふさ)小金(千葉県松戸市)藩三万石を与えられ分家した。

下山殿は家康を離れ、信吉と小金城に移り一族と武田家旧臣を集め、落ち着きを取り戻す。
信吉を名君にすると気持ちを切り替え英才教育を始め、満ち足りた穏やかな母の顔となる。
だが、翌年、26歳で亡くなる。信吉8歳を残して生きたいと叫びながらの悲しい死だった。

11年後、家康は武田氏を受け継ぐにふさわしい常陸水戸藩15万石を預けると信吉に話した。
だが、下山殿と同じように翌年、1603年10月15日信吉は亡くなり武田家再興の夢は潰えた。

 

3.お万の方と家康十男、徳川頼宣(よりのぶ)

甲斐源氏の嫡流信玄を主君と仰いだ、誇り高い武田の猛将達の主君は家康だけとなった。
そして家康は10男頼宣を抱き上げ、今日から武田旧臣を従えて水戸城主になるかと聞いた。
まだ1歳半の頼宣が可愛い口を大きく開き、はいとはっきり答え水戸藩20万石が誕生する。

頼宣の母お万の方は生まれたばかりの頼房を抱きながら末頼もしいと、にっこり見上げる。
お万の方は強烈な個性で思うがままに生き、家康の2人の男子を生み育てた有名な女傑だ。
客観的には全てに恵まれた幸せな家康の側室であり、後の御三家の二つ頼宣・頼房の母だ。

秀吉政権下、京都と江戸との往復を度々繰り返した家康が、沼津で休憩していた時だった。
いつものように有力者の娘の接待を受け、立ち居振る舞いが優雅な娘に心惹かれ話かけた。
歯切れの良い話しぶりに話が弾み笑いが生れ、家康に仕えるかと尋ねると瞳を輝かせた。
1594年家康52歳に呼ばれ江戸城に行き、お万の方17歳の夢見た家康との愛の暮らしが叶う。

のびのびと健康的に見えるお万の方だが、数奇な経験を繰り返し醒めた目で世を見通した。
父は勝浦城(千葉県勝浦市)主の正木頼忠と母は北条氏政(うじまさ)養女・お智の方だ。

正木家は北条早雲に滅ぼされた三浦一族で里見氏に呼ばれ、縁戚を結び一門となり仕えた。
頼忠は安房(あわ)国(千葉県南端)を治める里見義康の筆頭家老として権力を握っていた。

1564年里見氏が北条氏に敗れ、頼忠13歳は父時忠から氏政に人質に出され小田原城に行く。
だが里見義弘は1567年三船山合戦で北条氏に勝ち返り咲き時忠も北条氏から里見氏に従う。
ここから義弘は佐貫城を本拠地として安房・上総(かずさ)・下総にかけて支配地を拡げる。

氏政は時忠を繋ぎ止める為、姪お智の方を養女にし頼忠と結婚させ重んじ、忠誠を求めた。
この頃の里見氏は武田氏・上杉氏・北条氏と同盟を結んでは決裂し戦う繰り返しだった。
名門同士家臣も複雑で多くの縁戚を結び、戦いが始まると家臣も分裂し内紛も起きる時だ。
その為、死闘は避け和議を念頭にし戦い、敵であっても頼忠は北条家で優雅に暮らした。

正木家が北条氏から離反しても、頼忠には夫婦仲も良く2人の男子が生まれ小田原城にいた。
ところが1575年末、兄時通(ときみち)が死に頼忠への家督継承を、時忠が氏政に懇願した。

武田信玄亡く上杉謙信も関東進出をあきらめ、氏政の勢いは増し里見氏取り込みを策した。
そこで氏政は頼忠に子を人質に残し北条家に臣従すると誓約させ勝浦城へ戻ることを許す。

1576年頼忠は母お智の方を伴い正木家の当主となり、開放感を噛みしめ12年ぶりの入城だ。
母は子達の世話を母の弟、板部岡江雪斎や父氏隆そして縁戚蔭山氏広(うじひろ)に頼む。

勝浦城で1577年お万の方が次いで弟が生まれ、父は里見氏と北条氏を和睦させる為に働く。
そして頼忠は氏政の思い通り和睦を実現させすぐに子の引き渡し求めるが答えはなかった。
そのうち里見義弘が亡くなり、家督を巡り、嫡男梅王丸と長子義頼との争いが起きる。

頼忠は北条氏はを後ろ盾にした義頼を支え、いとこの憲時(のりとき)は梅王丸を支えた。
1580年憲時の軍勢が怒濤のごとく勝浦城に迫り、城を奪われお万の方ら一族は逃げ惑う。

父頼忠は憲時ら梅王丸派を必ず一掃すると意気揚々と、里見義頼と合流する為に向かった。
まだ1歳の弟は父の母方の実家糟谷家に預け、母とお万の方3歳は祖父の元に行くと決まる。
お万の方のやんちゃぶりが「お万布晒し」の伝説を生むが父と別れ厳しい逃避行は事実だ。

祖父北条氏隆の領地は東伊豆にあり、小田原城に詰めている祖父に代り蔭山氏広が待つ。
氏広は河津城(静岡県賀茂郡)主であり、氏広からの使者が迎えに来て案内され船に乗る。

勝浦から伊豆は遠く、梅王丸方が優勢での内乱が続いく中で身分を隠して危険な旅が続く。
だけどお万の方は驚くべき度胸で嬉々として、夫と子と別れた傷心の母を元気づけ励ます。

後々お万の方は断片的な記憶だけの旅の様子を、懐かしいわくわくした冒険旅行だと話す。
氏広は心配そうに待ちかねていたが母子を無事に迎え大喜びし預かり父からの連絡を待つ。

まもなく、父は憲時らを討ち果たし義頼の勝利となり筆頭家老になると聞くが連絡はない。
この頃は、里見氏と北条氏は協力し合い、兄一人が父の元に戻ったと聞き、母は喜んだ。

次いで里見義頼の妹と父の再婚を知り、母は父との別れを覚悟していたと割り切っていた。
父は押しつけられた北条の姫、母になじめずずっと里見一族として生きたいと思っていた。
母も父の想いを知っていて、母は吹っ切れたように故郷伊豆で生きると晴れやかに話した。

母は幼少から親しい蔭山氏広から再婚を望まれ、想いは同じで祖父も賛成し伴侶と決まる。
蔭山氏は鎌倉公方足利氏から始まり、代々河津城を治めた。教養のある穏やかな養父だ。

里見氏は秀吉に臣従し、北条氏と敵対するようになり、お万の方の父母は敵味方に別れた。
お万の方が伊豆で暮らして10年、秀吉の北条氏征伐が始まり、20万の大軍が押し寄せる。

蔭山氏は北条方に属すが戦う気はなく秀吉に降伏し城を明け渡し、蟄居謹慎を命じられた。
養父は妙国寺に逃れ隠居し母もお万の方も従い、敗者としてのつつましい暮らしをする。

お万の方は新しい暮らしに直ぐ慣れ書物と親しみ住職に可愛がられ宗教の奥深さに触れる。
父の裏切り、母の実家の滅亡、養家の衰退と悲運が続いても、のびのびと逞しく成長した。

それから3年、蔭山家の再興はならないが、名家の娘お万の方が家康の接待を命じられる。
その時、何度も聞いていたが、再び脈々と続く蔭山家の再興の想いを氏広は切々と訴えた。

お万の方は母から行儀作法を教わり、仏門での修養の日々から一転、晴れ舞台に興奮した。
養父や母の為、自分の将来を切り開く為に頑張らねばと、家康に心を込めてもてなした。

家康が気に入った様子が直ぐに分かり気が楽になり普段のように陽気に面白く話し始める。
新田源氏から里見家へ、三浦氏から正木家へ、鎌倉公方足利氏から蔭山氏と血筋が繋がる。
家康はお万の方の血筋の良さに驚き、明るく自然な知性に共感し、側に置きたいと思う。


4.お万の方と家康、寂しい時代

伏見城下に広大な徳川屋敷が完成し、家康は主な住まいを江戸城から伏見に移すと決めた。
秀吉は側を離れない京に住まうよう言うが、顔色を伺いゆっくり江戸を往復しなが移る。
ほとんどの側室も江戸城から伏見屋敷に準じ引っ越して、華やかに競い合う奥が出来た。

お万の方が江戸城入りをした時、すでにほとんどの側室は伏見に居たが、知らなかった。
その為、家康の側室は少なくお万の方は家康に愛された特別の存在だと有頂天になった。

家康の江戸城滞在は短く直ぐに伏見に戻ってしまうが、会える時は楽しくて大切にされた。
大きな目・厚い唇と整った華やかな顔を輝かせ、家康の子を生むと思う存分に甘えられた。

しかも、家康と江戸城での短い逢瀬を楽しむ以外は、身軽で気ままに信仰の道を究める。
伊豆の養父母を訪ねて幸せだと報告したり、周囲が諫めても行動範囲は広く活発に動く。

そのうち家康は猛烈に忙しく江戸に帰る間がなくてお万の方もついに伏見屋敷に呼ばれた。
今まで以上に家康と過ごせると浮き立つ思いで、弾む笑顔を振りまきながら京へ旅した。

ところが、伏見では想像を超えた大勢の側室が目の前に現れ、誇りが傷つき、落ち込む。
しばらく呆然としたが、お万の方の強い闘争心は消える事なくあふれ出て負けなかった。

家康を取り巻く女性陣の状況分析を始め、家康の知らない面を知りすべき事を見い出した。
お万の方の強敵は1596年生まれた松姫の母勝局と1595年生まれた仙千代の母お亀の方だ。

ひたむきで奔放で大胆な行動力は持ち味で、家康に子宝に恵まれたいと体当たりで訴える。
そしてお万の方は神仏の加護を受けたいと家康に願い認められ、派手に寺に寄進し続ける。

やっと伏見に慣れ京の暮らしがおもしろくなった時、秀吉が亡くなり騒々しい時代となる。
刺客がはびこり家康周辺も危険な情勢が続き、お万の方らは江戸に戻るよう促される。

お万の方は留まりたいと願うが叶わずあきらめ、江戸で子宝を祈願して家康を待つとする。
そして、子宝に効くと聞いて伊豆吉奈温泉に行ったり、子宝を得る秘策を知ると動き回る。

京が実家のお亀の方は伏見を一歩も動かないと聞き、お万の方は負けたくないと必死だ。
お亀の方は極度の緊張感に包まれた家康に一人静かに仕え、1601年九男義直が生まれる。

天下分け目の戦いに勝利した家康から呼び戻されるがお万の方は気が滅入り動きたくない。
お亀の方に負けたと思い悔しくて、家康の愛を信じられず不安で泣きわめいて伏見に戻る。
お亀の方は体格は素晴らしいが容姿も家柄も普通で、伏し目がちでおとなしい人だった。

ところが、天下を押さえ歓喜する家康から待ちかねたように愛され、長年の努力が実った。
家康が賢さを最も見込んだお亀の方が二人目を生んだ直後なのが、運が良かったと感謝だ。

家康は同じ側室が二人以上の男子を持てば、実家と共に権力を握るかもしれないと嫌った。
その為、愛と信頼のある勝局が子を生む事や血筋の素晴らしいお万の方の子を望んだのだ。

家康の愛がより深い勝局に子は生まれず、お万の方に元気な男子が授かったのは皮肉だが。
1602年側室になって8年お万の方25歳で頼宣・翌年には頼房(よりふさ)と続いて生まれた。
男子誕生が続き、家康は天下と共に授かっためでたい子達だと、特別の熱い愛情を注いだ。

子達はとても元気で、家康は暴れん坊な子達を困ったように、頼もしそうにあやすのだ。
この間、家康の子達が次々亡くなり、時には弱気になって、子達の明るさが救いだった。

家康の男子を二人生み元気に育っているのはお万の方だけだと、嬉しくてこの世の春だ。
強敵お亀の方と勝局に勝ちと家康側室の最高位を獲得したと子達と遊びながら良い気分だ。

1609年家康は頼房に常陸水戸25万石を、頼宣に家康の隠居地を継ぐ駿府藩50万石を与えた。
お万の方は故郷伊豆を含む家康の居城駿府城、水戸城を得た子達をはじける笑顔で抱く。

だけど、お万の方は年を重ねても家康の熱い愛を求めたが、叶わない愛だと切なく知った。
結局、家康の愛を得たのは江戸城で仕えた短い時間だけで家康との愛は幻でしかなかった。

家康は真っ直ぐで情熱的な愛は苦手で華やかな賑わいと癒される静かな時の両方を好む。
勝局が仕切る若い美女達と戯れ遊び、静かな一時はお茶阿の方と気兼ねなく笑い語るのだ。

お万の方に出番がない。母として敬われるが家康の伴侶としてのふれあいは感じられない。
その上、お万の方を激怒させる出来事が次々起こり、お万の方の家康への愛は醒めていく。 

幕府による宗教統制の一環で、お万の方の深く帰依する僧日遠が家康に敵対し罰せられる。
日遠処罰の経緯に策謀を感じるお万の方は、公然と命を賭けて反対し日遠を守ろうとした。
やむなく家康はお万の方に譲歩したが、表面上の親密さと気詰まりな感情が微妙に混じる。

1611年父が筆頭家老で縁戚の館山藩12万石里見忠義が大久保長安事件に連座し改易された。
長安の後ろ盾、老中大久保忠隣(ただちか)の孫娘が、忠義の妻という理由が付いていた。
後に、譜代の臣大久保家は許されるが、里見家は大名として許される事はなく復興はない。

里見家は新田源氏を始祖とし家康の系図と似ているが、里見氏がより正統に続いていた。
家康には江戸近くで始祖を同じくし、家康以上の血筋を誇る外様大名は目障りな存在だ。
お万の方は父との縁は少ないが、里見氏に冷酷な処遇をする家康の本心に気持ちは波打つ。

お万の方は自分らしく大胆に豪快に生きるだけで、権力も望まず子育ても熱心でなかった。
父母が同じ兄弟では長兄は亡くなるが次兄為春が頼宣の家老、末弟は旗本になった程度だ。
家康の愛があり、一族が幕府で価値ある働きをすれば、立身出世など必要なく十分だった。

なのに、お万の方は北条家・里見家・足利家に通じると警戒され、権力から引き離された。
養父も含め一族は幕府の旗本としては多数存続したが、子達を支える藩政の中枢にはない。

家康晩年に生まれ可愛がった3人の子、義直・頼宣・頼房の内一番のお気に入りは頼宣だ。
頼宣が将軍になる事など望まないが、家康の最も愛した子の母だとはしゃぎ胸を張った。

義直の母お亀の方はお万の方とは違い、家康の側室であっても愛を求めず慎ましく仕えた。
しかし義直に異父兄と実家の兄を近習に付け一族競って守りたて義直の成長に賭けている。

お亀の方の実家・婚家は美濃守護土岐氏の重臣であり、家康が好む名のある優秀な家柄だ。
実子の竹越氏は付け家老・兄清水氏は家老となり、お亀の方一族は尾張藩の中枢を占めた。

お亀の方の手腕の冴えに驚くが、それでもまだそれぞれの生き方だとして認め受け入れた。
ところが、家康は3人の中で最も思慮深く将軍後継にも適任だと、義直を褒め言い始めた。
家康の愛を占有したやんちゃな頼宣から義直の成長に目を細める家康の変貌に衝撃が走る。

また、頼房を引き離すかのように養母に勝局が決まり生母がいるのにと不満が渦巻き憎い。
家康との間に冷たい風が吹くが、こだわらず思う存分散財しうっぷんを晴らすお万の方だ。


5.水戸藩主、家康十一男、頼房の母、お万の方

子達はのびのびと野性的にお万の方によく似た性格に成長し満ち足りた暮らしでもあった。
そして1616年家康が亡くなる。お万の方は寂しさとほっとし区切りが付いたと安堵もした。

お万の方には十分な手持ち資金と家康の遺産分けがあり、遠慮なく余生を送れるはずだ。
駿府城の金庫番、勝局は倹約を口癖に金の出入りに厳しいが、お万の方には遠慮し黙った。

お万の方から頼房を奪ったという負い目があり、お寺への莫大な寄進にも干渉しなかった。
家康も徳川家のための寄進だ、と説くお万の方の熱心な頼みを了解し、思うようにさせた。

1618年41歳で江戸城に移ったお万の方は家康の菩提を弔い、残りの人生を送ろうとする。
ただ、秀忠は頼宣・頼房への家康の過保護を快くは思わず、冷静な将軍命令を出していく。

堅固な幕府の体制作りの為だと言い、1619年頼宣は駿府藩から紀伊藩55万石に移された。
それでも頼宣には加増されたが頼房にはなく必死の嘆願で1622年に3万石だけ加増された。
政治的駆け引きに興味はないが、存在を示さないと縁者が抹殺される、と静かに動き出す。

お亀の方の尾張藩での影響力の大きさに比べお万の方は紀伊藩・水戸藩への影響力はない。
お万の方の縁者は巧みに藩政の中枢から遠ざかるが、それでも主張する事で影響は持てた。

紀伊藩の家老、次兄為春は、将軍からの付け家老ではなく、権威権力は劣る藩主一門だ。
水戸藩の家老に母方の縁者を願うが、母の実家北条氏ではなく北条氏家臣中山氏を任じた。
将軍からの付家老には足利家に繋がる養父陰山氏ではなく同じ血筋の最上家が抜擢された。
お万の方の縁者は頼房の重臣から外され、母の威光は水戸藩政に反映されず残念な結果だ。

だけど二人の子は母思いで、頼房は次男なのに家康の子ゆえ水戸藩主になり幸せだと言う。
不満に思う方がおかしい身の丈で生きると、自分を抑え分かった風に母に諭す子が可愛い。
時々激高してしまうが普段は楽天的で底抜けの明るさでこだわりなく吹っ切ってしまうが。

まず家康の追善供養の名目で法華宗寺院へ寄進し家康第一の側室として盛大な法要を催す。
手持ち資金もあり、子達も裕福だ。続く限り、信仰の道を進むと張り切って働き始める。

お寺への奉納を好み、寺の果たす役割を考え品物を吟味し、江戸日本橋の店に発注する。
だけど何事も自分で選び確かめないと気が済まない性格で、屋敷で選ぶのは、じれったい。
そこでいつでも寄れるよう日本橋に休憩所を作り、再々訪れお金に糸目を付けず注文する。

大勢を引き連れての休憩で食事や接待も含めて、日本橋の店は大賑わいで、活気に満ちた。
お万の方の死後、お万稲荷神社を建て福を願い商売繁盛の守り神とするほど、感謝された。

また、お万の方は女人禁制の霊山の存在は、万人の成仏を説く教えに背く、と許せない。
そこで七面大明神(しちめんだいみようじん)を奉る七面山(山梨県南巨摩郡)山頂に登る。
急峻な山道を自ら歩き1989mの頂上に立ったお万の方は、富士山頂からのご来光を拝んだ。

七面天女と呼ぶ女神を奉り女の登頂はたたりがあると言うが、たたりはないと大笑いした。
迷信だと身を持って示し女人禁制は解け参拝は自由とし、以後七面大明神を守護神とする。

近習から絶世の美女の七面天女とお万の方63歳は似ている、と言われにこやかにうなずく。
お寺は弱い人のよりどころであり、学びの場でもあり、多くの寺が必要だと説き続ける。

家康生前に、信仰が同じ熊本藩主加藤清正の娘あま姫と頼宣との結婚を願い、叶えていた。
あま姫が大好きで実の娘だと思う。お万の方とは違い紀州藩の奥を取り仕切る能力もある。
激情家で近寄りがたいお万の方を母と尊敬するあま姫から心を込めて尽くされ心穏やかだ。

頼宣と仲もよいあま姫の実家加藤家は幕府の外様大名の改易の標的となり、潰され怒る。
お万の方は幕府のあからさまな策謀だと許せず、頼宣と共に加藤家を守るよう家光に頼む。
しかし加藤家は改易され、頼宣は多くの加藤家旧臣を召し抱えることしかできなかった。

お万の方は頼宣と共に実家がなくなり心寂しいあま姫を庇い、変わることなく大切にする。
幕府に対して毅然として自己の主張を貫く強さは変わらずに頼宣に受け継がれ、心強い。
あま姫もその心を受け継ぎ清正をいつまでも誇り、紀州藩の正室として動じることはない。

もう一人縁を結びたい人が義娘がいた。伏見城で暮らした頃世話になった家康の娘督姫だ。
督姫は姪だが12歳年上で、同じ信仰心を持ち、家康愛娘の颯爽としたまぶしい存在だった。

その督姫が礼を尽くして伏見のあれこれを話しかけた時のいたわりが嬉しく忘れられない。
頼宣の長女因幡(いなば)姫と督姫の孫、鳥取藩主池田光仲とを結びつけ末永い縁を願う。

友であり姉だと思い、気が合い親しくしたのが、加賀120万石藩主前田利常の母千代保だ。
1614年、前田利家の妻まつに代わり、江戸での人質となり、以後江戸にずっと住んでいた。

前田家は大藩だが、改易への厳しい目が向く外様大名藩主の母ゆえ、慎重で控えめだった。
心もとない江戸屋敷の暮らしが、お万の方の堂々とした姿に勇気づけられ明るさが戻った。

千代保はお万の方に導かれ、紀州藩・水戸藩と徳川一門にふさわしく和やかに付き合えた。
そして息子利常の妻将軍秀忠の娘、珠姫との子光高が嫡男となり前田家は落ち着き始める。
1622年珠姫が亡くなると、千代保は供養と光高の健やかな成長を祈願し次々寄進を始める。

千代保はお万の方に刺激され同じ道を歩みつつ、お万の方を細やかな気遣いで包み癒した。
二人には資金があり、競い合って寄進し宗教史に残る功績を挙げ生涯の友と固く結ばれた。

千代保とは来世も共にと約し、前田家と水戸家を末永く結びつけたいと、良縁を考える。
そして、病気がちな千代保を安心させると孫前田光高と頼房の娘大姫との婚約を決める。
1631年、前田家の末永い安泰を確信したとお万の方に感謝し千代保が亡くなり寂しくなる。

活発な頼房だが頼宣の弟である事を常に忘れず、均衡を保ち分相応を心がける知恵者だ。
家康とお万の方、生母と養母と火花が散りそうな時、自分を抑え仲を取り持ち皆を立てた。

御三家と呼ばれるが、家康から兄達を支える事が役目と教えられ常に一段下で忠実に守る。
お万の方も水戸城に帰らず幕府に尽くす、威勢の良さと控えめさを併せ持つ頼房が好きだ。

 

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