天下第一の士、源義家の弟義光の孫が常陸国久慈郡佐竹郷に在し常陸源氏佐竹家が始まる。 1590年に佐竹義重(よししげ)が水戸城主・江戸重通(しげみち)を襲い追放し、居城とする。 秀吉から得た常陸(ひたち)54万石を後ろ盾に悲願の城を得、重通は妻の実家結城氏に去る。 義宣の妻は下野(しもつけ)国那須郡(栃木県)を支配する国人那須資晴(すけはる)の娘だ。 ところがまもなく那須氏は佐竹氏と敵対する北条氏と結び、武力衝突し義重は屈服させた。 またも資晴は和議を乞い婚約中の二人の結婚を願い、降参し従う。1585年義重は承知した。 関東で争いがあっても天下人は秀吉であり、それぞれ温度差はあるが臣従の意を表明した。 佐竹氏は秀吉と共に北条征伐に参陣し勝利し、那須氏は出遅れ北条方と見なされて改易だ。 義宣が幼い頃に出逢い文を交わした正姫との長い縁はかけがえなく、正姫が妻だった。 正姫は、義宣の妻の座は多賀谷氏の珪姫がふさわしい、と日々考え譲ろうと考えていた。 本拠、武蔵国騎西庄(埼玉県北埼玉郡)から勢力を拡大し上杉氏・佐竹氏らと同盟を結ぶ。 重経は佐竹氏との強い絆を求め1583年長女珪姫を義重の元に送り、義宣との結婚を願った。 ところが2年後、那須氏から正姫が送られて約束通り義宣と結婚し、珪姫は側室となる。 しかも秀吉から多賀谷重経に結城家与力として20万石を安堵され佐竹家には重要な存在だ。 正姫は珪姫に同情したが岩瀬御台が現れて、身の置き所はなくなり死を決意するしかない。 岩瀬御台の説明は難しいが、義宣のいとこで、血筋は確かで、可憐な美しさは妻に最適だ。 伊達晴宗の娘茜姫が佐竹義重の妻で、長男が岩城親隆となり、娘南姫が二階堂盛義の妻だ。 ところが政宗が岩城家の宿敵、田村氏の愛姫と結婚し伊達家との同盟は崩れ戦いが始まる。 しかし政宗は強く1589年7月二階堂氏は敗れ滅び岩城氏も押され佐竹氏を裏切り和睦した。 南姫は義重の義姉だが、長女岩城御前は岩城家に嫁ぎ、嫡男盛隆は蘆名家の養子となった。 ところが1582年後継の二階堂行親を亡くし南姫は仕方なく盛隆の娘岩瀬御台を養女にする。 こうして岩瀬御台は蘆名家から二階堂家を経て、佐竹氏で祖母南姫と共に義宣と出会う。 そして正姫が亡くなり、岩瀬御台は水戸城で、伊達家の母二人に支えられ義宣と結婚する。 義宣は苦渋の思いで秋田に移り、岩瀬御台に力のなさを詫び二階堂氏の再興はないと話す。 横手城は義宣が居城にすべきかと一時考えたほどの一国一城令でも存続が許された名城だ。 岩瀬御台は関東の名門としての気品があり教養深く領民に敬愛され、家臣の精神的支えだ。 義宣は秋田に落ち着くと2歳で亡くすが唯一の嫡男の母珪姫の労に報いて正式に再婚した。 |
佐竹義宣には源義光以来脈々と受け継がれた常陸源氏の嫡流だ、という自意識が深かった。 家康も同じ源氏の嫡流、新田源氏を祖とする系図を作り、征夷大将軍になり幕府を開いた。 天下分け目の戦いから2年家康は東軍に参陣したが西軍にも荷担した義宣の改易を考えた。 家康は佐竹氏以外の処理を思い通りに終え、万全の体制で出羽(では)国への移封を命じた。 佐竹氏が秋田に去り、家康は上機嫌で武田氏の血を引く5男武田信吉を水戸城主にする。 22年前武田信玄の二人の子、追い詰められた勝頼と穴山梅雪を夫とする見性院が対立した。 その時、梅雪は家康から信玄の資質を受け継ぐ姫が欲しいと頼まれ信玄ゆかりの姫を探す。 下山殿は幼ない頃に信玄に可愛がられた懐かしい思い出を目を潤ませささやくように話す。 下山殿は信玄死後、追い詰められ負け戦が相次ぎ重苦しい武田氏の悲惨な情景を見続けた。 だけど心配は杞憂に終わり、家康は下山殿に夢中になり1582年浜松城に屋敷が整えられた。 家康は信玄の血筋を継ぐ美貌の姫だと心底思い、下山殿を抱き締め離さない日々が続いた。 ところが信長が殺され、続いて信長が旧領を安堵し武田氏後継とした養父梅雪も殺される。 だが、家康は信長の死の混乱で甲斐武田氏の旧領のほとんどを手に入れ喜び興奮していた。 だけど家康の前に秀吉がそびえ立ち戦いが始まると、下山殿への訪れも減り、愛は醒める。 家康は天下取りを目論み秀吉とせめぎ合うが敗北し、信玄の影は重苦しくやりきれない。 家康は朝日姫に遠慮する立場となり、名門を気取り扱いにくい下山殿は遠くに退けられる。 信吉の近習に秋山氏を付け梅雪の子と共に武田氏の再興に尽くすと家康への愛を断ち切る。 仕方なく、家康の側室を辞し、信吉の分家独立と武田家旧臣を支える為に生きる道を選ぶ。 下山殿は家康を離れ、信吉と小金城に移り一族と武田家旧臣を集め、落ち着きを取り戻す。 11年後、家康は武田氏を受け継ぐにふさわしい常陸水戸藩15万石を預けると信吉に話した。 |
甲斐源氏の嫡流信玄を主君と仰いだ、誇り高い武田の猛将達の主君は家康だけとなった。 頼宣の母お万の方は生まれたばかりの頼房を抱きながら末頼もしいと、にっこり見上げる。 秀吉政権下、京都と江戸との往復を度々繰り返した家康が、沼津で休憩していた時だった。 のびのびと健康的に見えるお万の方だが、数奇な経験を繰り返し醒めた目で世を見通した。 正木家は北条早雲に滅ぼされた三浦一族で里見氏に呼ばれ、縁戚を結び一門となり仕えた。 1564年里見氏が北条氏に敗れ、頼忠13歳は父時忠から氏政に人質に出され小田原城に行く。 氏政は時忠を繋ぎ止める為、姪お智の方を養女にし頼忠と結婚させ重んじ、忠誠を求めた。 正木家が北条氏から離反しても、頼忠には夫婦仲も良く2人の男子が生まれ小田原城にいた。 武田信玄亡く上杉謙信も関東進出をあきらめ、氏政の勢いは増し里見氏取り込みを策した。 1576年頼忠は母お智の方を伴い正木家の当主となり、開放感を噛みしめ12年ぶりの入城だ。 勝浦城で1577年お万の方が次いで弟が生まれ、父は里見氏と北条氏を和睦させる為に働く。 頼忠は北条氏はを後ろ盾にした義頼を支え、いとこの憲時(のりとき)は梅王丸を支えた。 父頼忠は憲時ら梅王丸派を必ず一掃すると意気揚々と、里見義頼と合流する為に向かった。 祖父北条氏隆の領地は東伊豆にあり、小田原城に詰めている祖父に代り蔭山氏広が待つ。 勝浦から伊豆は遠く、梅王丸方が優勢での内乱が続いく中で身分を隠して危険な旅が続く。 後々お万の方は断片的な記憶だけの旅の様子を、懐かしいわくわくした冒険旅行だと話す。 まもなく、父は憲時らを討ち果たし義頼の勝利となり筆頭家老になると聞くが連絡はない。 次いで里見義頼の妹と父の再婚を知り、母は父との別れを覚悟していたと割り切っていた。 母は幼少から親しい蔭山氏広から再婚を望まれ、想いは同じで祖父も賛成し伴侶と決まる。 里見氏は秀吉に臣従し、北条氏と敵対するようになり、お万の方の父母は敵味方に別れた。 蔭山氏は北条方に属すが戦う気はなく秀吉に降伏し城を明け渡し、蟄居謹慎を命じられた。 お万の方は新しい暮らしに直ぐ慣れ書物と親しみ住職に可愛がられ宗教の奥深さに触れる。 お万の方は母から行儀作法を教わり、仏門での修養の日々から一転、晴れ舞台に興奮した。 家康が気に入った様子が直ぐに分かり気が楽になり普段のように陽気に面白く話し始める。 |
伏見城下に広大な徳川屋敷が完成し、家康は主な住まいを江戸城から伏見に移すと決めた。 お万の方が江戸城入りをした時、すでにほとんどの側室は伏見に居たが、知らなかった。 家康の江戸城滞在は短く直ぐに伏見に戻ってしまうが、会える時は楽しくて大切にされた。 しかも、家康と江戸城での短い逢瀬を楽しむ以外は、身軽で気ままに信仰の道を究める。 そのうち家康は猛烈に忙しく江戸に帰る間がなくてお万の方もついに伏見屋敷に呼ばれた。 ところが、伏見では想像を超えた大勢の側室が目の前に現れ、誇りが傷つき、落ち込む。 家康を取り巻く女性陣の状況分析を始め、家康の知らない面を知りすべき事を見い出した。 ひたむきで奔放で大胆な行動力は持ち味で、家康に子宝に恵まれたいと体当たりで訴える。 やっと伏見に慣れ京の暮らしがおもしろくなった時、秀吉が亡くなり騒々しい時代となる。 お万の方は留まりたいと願うが叶わずあきらめ、江戸で子宝を祈願して家康を待つとする。 京が実家のお亀の方は伏見を一歩も動かないと聞き、お万の方は負けたくないと必死だ。 天下分け目の戦いに勝利した家康から呼び戻されるがお万の方は気が滅入り動きたくない。 ところが、天下を押さえ歓喜する家康から待ちかねたように愛され、長年の努力が実った。 家康は同じ側室が二人以上の男子を持てば、実家と共に権力を握るかもしれないと嫌った。 家康の愛がより深い勝局に子は生まれず、お万の方に元気な男子が授かったのは皮肉だが。 子達はとても元気で、家康は暴れん坊な子達を困ったように、頼もしそうにあやすのだ。 家康の男子を二人生み元気に育っているのはお万の方だけだと、嬉しくてこの世の春だ。 1609年家康は頼房に常陸水戸25万石を、頼宣に家康の隠居地を継ぐ駿府藩50万石を与えた。 だけど、お万の方は年を重ねても家康の熱い愛を求めたが、叶わない愛だと切なく知った。 家康は真っ直ぐで情熱的な愛は苦手で華やかな賑わいと癒される静かな時の両方を好む。 お万の方に出番がない。母として敬われるが家康の伴侶としてのふれあいは感じられない。 幕府による宗教統制の一環で、お万の方の深く帰依する僧日遠が家康に敵対し罰せられる。 1611年父が筆頭家老で縁戚の館山藩12万石里見忠義が大久保長安事件に連座し改易された。 里見家は新田源氏を始祖とし家康の系図と似ているが、里見氏がより正統に続いていた。 お万の方は自分らしく大胆に豪快に生きるだけで、権力も望まず子育ても熱心でなかった。 なのに、お万の方は北条家・里見家・足利家に通じると警戒され、権力から引き離された。 家康晩年に生まれ可愛がった3人の子、義直・頼宣・頼房の内一番のお気に入りは頼宣だ。 義直の母お亀の方はお万の方とは違い、家康の側室であっても愛を求めず慎ましく仕えた。 お亀の方の実家・婚家は美濃守護土岐氏の重臣であり、家康が好む名のある優秀な家柄だ。 お亀の方の手腕の冴えに驚くが、それでもまだそれぞれの生き方だとして認め受け入れた。 また、頼房を引き離すかのように養母に勝局が決まり生母がいるのにと不満が渦巻き憎い。 |
子達はのびのびと野性的にお万の方によく似た性格に成長し満ち足りた暮らしでもあった。 お万の方には十分な手持ち資金と家康の遺産分けがあり、遠慮なく余生を送れるはずだ。 お万の方から頼房を奪ったという負い目があり、お寺への莫大な寄進にも干渉しなかった。 1618年41歳で江戸城に移ったお万の方は家康の菩提を弔い、残りの人生を送ろうとする。 堅固な幕府の体制作りの為だと言い、1619年頼宣は駿府藩から紀伊藩55万石に移された。 お亀の方の尾張藩での影響力の大きさに比べお万の方は紀伊藩・水戸藩への影響力はない。 紀伊藩の家老、次兄為春は、将軍からの付け家老ではなく、権威権力は劣る藩主一門だ。 だけど二人の子は母思いで、頼房は次男なのに家康の子ゆえ水戸藩主になり幸せだと言う。 まず家康の追善供養の名目で法華宗寺院へ寄進し家康第一の側室として盛大な法要を催す。 お寺への奉納を好み、寺の果たす役割を考え品物を吟味し、江戸日本橋の店に発注する。 大勢を引き連れての休憩で食事や接待も含めて、日本橋の店は大賑わいで、活気に満ちた。 また、お万の方は女人禁制の霊山の存在は、万人の成仏を説く教えに背く、と許せない。 七面天女と呼ぶ女神を奉り女の登頂はたたりがあると言うが、たたりはないと大笑いした。 近習から絶世の美女の七面天女とお万の方63歳は似ている、と言われにこやかにうなずく。 家康生前に、信仰が同じ熊本藩主加藤清正の娘あま姫と頼宣との結婚を願い、叶えていた。 頼宣と仲もよいあま姫の実家加藤家は幕府の外様大名の改易の標的となり、潰され怒る。 お万の方は頼宣と共に実家がなくなり心寂しいあま姫を庇い、変わることなく大切にする。 もう一人縁を結びたい人が義娘がいた。伏見城で暮らした頃世話になった家康の娘督姫だ。 その督姫が礼を尽くして伏見のあれこれを話しかけた時のいたわりが嬉しく忘れられない。 友であり姉だと思い、気が合い親しくしたのが、加賀120万石藩主前田利常の母千代保だ。 前田家は大藩だが、改易への厳しい目が向く外様大名藩主の母ゆえ、慎重で控えめだった。 千代保はお万の方に導かれ、紀州藩・水戸藩と徳川一門にふさわしく和やかに付き合えた。 千代保はお万の方に刺激され同じ道を歩みつつ、お万の方を細やかな気遣いで包み癒した。 千代保とは来世も共にと約し、前田家と水戸家を末永く結びつけたいと、良縁を考える。 活発な頼房だが頼宣の弟である事を常に忘れず、均衡を保ち分相応を心がける知恵者だ。 御三家と呼ばれるが、家康から兄達を支える事が役目と教えられ常に一段下で忠実に守る。 |