古河城四方山話

1.土井利勝 ー父は家康ー

土井氏は美濃守護土岐(とき)氏庶流、三河碧海郡(へきかいぐん)土居に在地し名となる。
これが土井氏の由来とされた。名家出身武将は在地した土地の名を名乗るのが自然だから。
利勝の養父利昌が、主君家康から土井氏を名乗るよう命じられた時の、ありがたい理由だ。

こうして早乙女利昌は家康の家臣らしい名に変り、利勝を養子にするよう命じられた。
利勝の生まれは謎に包まれているが、名字を変えてまで迎えられた土井氏で大切に育つ。

土井氏は家康にはさほど重要ではない武将だが、その後異例の出世をしていくが訳がある。
土井利勝は正式の家紋の他に、沢瀉(オモダカ)の葉の形をしている替紋を使っていた。
利勝が生まれた時に、家康が与えた短刀のかざりから作られた家紋だと、皆が噂していた。

利勝は何も言わないが、生まれた時に家康から短刀を与えられたと養父から聞き受け取る。
利昌の娘と家康の間につかの間の愛があり二人の仲はその場で終わり利勝が生まれたのだ。
真偽のほどは分からないが利勝は利昌から事の次第を聞き嬉しく信じ、そっと家紋とする。

1573年春に生まれた利勝は、すぐに家康の母お大の方の兄水野信元に渡され三男となった。
だけど2年後、信元は武田勝頼との内通を信長に暴かれ、謀反だと追求され窮地に陥った。
信長は許さず、家康と信長の仲を取り持ったのが信元だから家康に信元を殺すよう命じる。

武田信玄亡き後、勝頼が武田家を率いていたが、かっての威力は消え落ち目は明らかだ。
先を見る目に優れた勇猛な将、信元が内通したとは信じられないが、家康は信元を殺す。

信元は織田信秀の勢いを見通し今川義元を裏切り、信長の代では主従ではない同盟と思う。
信元の力は大きく今川義元は怒り恐怖もし、家康の父はお大の方と別れ忠誠心を見せた。
家康から母を奪ったのが信元であり義元が脅威に感じ信長が重宝する三河の実力者だった。

その後信長は格段に勢力を伸ばし絶対服従を求めるが、信元は独立性もある同盟だと思う。
信元は一方的命令を不満に思い信長は指示に従わないと不信感が募りついに裏切りとした。

家康も信長と同盟を結び信元と同じ立場だ。慎重に動かないと同じ運命だと背筋が凍った。
信長とは兄弟的同盟として従うが、主従関係ではないと考えていたが、信長は違っていた。
以後、家康は信長に従いながらも存在感を示す、硬軟合わせた対応を心がけるようになる。

だが、家康の親代わりを自称し家康に指図し苦々しく感じていた信元の死は有益だった。
信長は水野氏の家督を継ぐのは信元の嫡男ではなく、末の弟忠重(ただしげ)と決める。
同時に水野氏の領地を大幅に削り、行き場を失った多くの一族・家臣が家康の元に集まる。

信長の暴挙で、家康は有力国人水野氏の一族・家臣を難なく配下とし家臣の層を厚くする。
家康は母お大の方と同母弟の叔父の忠守を匿い、水野氏後継と見なして家臣に召し抱える。

利勝は養父信元の死で水野氏に居場所がなくなり、家康は利昌の養子となるよう命じる。
祖父が父になり、母が姉になる、ややこしい関係だが、利勝は土井氏に大切に迎えられた。
利勝は特別待遇の養子であり兄元政を差し置き利昌嫡男となりわずか5歳で家康に仕える。

家康は利勝を我が子とはしないが、側近く置き重臣にも顔見せし誰の目にも特別の存在だ。
容姿・性格の全てが家康によく似て、しかも優秀で内心我が子だ、とうなずくことも多い。

1579年秀忠が生まれ、6歳の利勝は子守役に抜擢され家康と秀忠を行き来しながら仕える。
将来の秀忠の側近に繋がる大役であり、譜代の臣ではない利勝の異例の出世の始まる。
父も兄も一族は相応に武将としての地位が上がり、土井氏は譜代の顔を持ち始める。

利勝は家康の心を先読みする知恵もあり、家康がはっと感心しついほおをゆるめてしまう。
こうして利勝は物怖じすることなく家康の側に座し家康流の人心掌握術・組織作りを学ぶ。
利勝にまだ理解できなくても体感する事で度胸が備わり、自然と身につき受け入れていく。

次第に家康の望むとおりに、秀忠の守り役にふさわしい技量を身につけていく。
家康の心を掴んだ利勝は子と認められなくても、秀忠と強く結ばれ実力で出世の道を歩む。
その道も家康によく似て、分をわきまえて焦らず、慎重に確実に役目を果たすのだ。
71歳の死の直前まで現役であり続ける、緻密な頭脳が磨かれていく。


2.土井利勝 ー妻は長沢松平家のお光の方ー

利勝が浜松城で家康に仕えていた頃、岡崎城で信康の謀反という、大変な事態が起きた。
家康の嫡男信康が武田勝頼に通じ裏切ったと、また信長から発覚し厳しく追求されたのだ。

家康は水野信元の謀反騒動から信長の意図を学び、対処の仕方は分かり落ち着いて考える。
真相を解明し信長に釈明せよとの命令に、まず信長の持つ情報を知る為返事を引き延ばす。
信長があせり家康への追求が強まると、釈明は一切せずに、信長の娘婿、信康20歳を殺す。

家康は岡崎衆を家康家臣団に再編する良い機会と考え犠牲と痛みを伴いながら成し遂げる。
信康を擁して独立した動きをする岡崎衆を処罰し、家康への忠誠心を改めて試し確認した。

一方、信長には信康を殺すことで信長にも痛みを与え、家康は侮れない存在だと誇示した。
信康の妻徳姫、従う信長家臣団すべて送り返し家康と強い主従関係で結ばれた家臣とする。

家康が徳川一門から信康に付けた筆頭家老、松平康忠(やすただ)は長沢松平家当主だった。
康忠の母は家康の叔母の碓井姫でいとこになり、妻は家康の異母妹矢田姫で義弟でもある。
武勇にも優れ徳川十六神将の一人だが、家康に逆らった桜井松平信定の娘と再婚していた。
その姉達は水野信元の妻、信長の叔父織田信光の妻となり織田家・水野家とも親しく近い。

夫婦仲の善し悪しもあり妻の縁が絶対ではないが家康は情報が漏れる恐れが大きいと見た。
信長と距離を保ちたい家康は康忠を頼りにしつつ脅威とも感じ、信康との関係を見ていた。

家康の祖父清康は、彗星のように三河統一をほぼ成し遂げ、直ぐに消えてしまった英雄だ。
松平家の黄金時代を築いた祖父の力で信長も一目置き、家康は信頼できる弟だと言われた。

碓井姫は祖父・矢田姫は父広忠の愛娘で長沢松平家とは深い縁で結ばれ一門では力がある。
だが康忠は信康に大きな影響力を持ち信康も13歳上の兄だと深く信頼しすぎており心配だ。

康忠は強い責任感で信康を見守り岡崎城を仕切り、岡崎衆を率いる優秀な家老となった。
そこで家康は決意を岡崎衆に隠し、康忠に信康の引き渡しを命じ、まず信康を隔離した。
続いて、岡崎城に戒厳令(かいげんれい)を敷くよう命じ、岡崎衆の動きを止めた。
康忠も信長の激怒の様子を聞き、家康の命令に従い動き、信康が許されるのを信じ待った。
ところが、康忠が家臣達の動揺を抑え動かないよう監視していた時、信康の死が伝わった。

落ち度のない信康の無念の死に呆然としていた康忠へ追い打ちをかけて蟄居謹慎を命じる。
康忠に全く覚えはないが、信康の謀反企てを押さえられなかった責任を取らされたのだ。
信康の無実を知る康忠はようやく家康への忠誠心を疑われ言われなき罪人とされたと知る。

家康は康忠の叔父松平近清に康忠の嫡男康直を後見し、長沢松平家を率いるよう命じる。
これで混乱なく康忠33歳は松平一門筆頭の権勢の座から滑り落ち、岡崎城は静かになる。
家康との深い縁戚から、後に許され家康の近くで仕えるが、もう権力を握る場には出ない。
1588年嫡男康直19歳に家督を譲り、42歳で京に隠居し信康の冥福を祈る暮らしとなる。

康直は近清に見守られ成長し長沢松平家を継ぐ。近清は任を果たして亡くなった。
家康は康直に東城松平家出身の母と本多広孝(ひろたか)を父に持つ娘との結婚を決める。

ここに利勝は、三河国碧海郡土居を領地とし土井家の主君筋になる広孝との縁が繋がる。
長沢松平家の重鎮を亡くし広孝は利勝と家康との関係を見込み康直と縁が繋がるよう願う。

家康は広孝の願いに応え、利勝17歳と長沢松平家近清の娘お光の方との結婚を決める。
利勝は松平一門に連なる縁組を素直に喜び、お光の方と共に徳川家に尽くすと誓い合う。

お光の方の上品な雰囲気が好きで、気持ちの良いくつろぎの暮らしを得た、と結婚を喜ぶ。
お光の方と松平一門としての誇りも共に出来て、家康・秀忠が以前より身近に感じる。
恐れ多い主君秀忠だったのが、弟のように時には厳しく意見できる親密さが生れてくる。

家康の関東入りに伴い康直は武蔵深谷1万石を得て一門として重んじられ、利勝も安心だ。
なのに、妻との間に娘蓮姫が生まれただけで、男子が産まれないまま24歳で亡くなった。

その間、利勝は松平康忠・本多広孝から徳川家の内部抗争の歴史を聞き、使命を感じた。
利勝7歳で信康の死を知り、家康の悩む顔を見つめ慌ただしい動きを感じた記憶は鮮明だ。
幼い断片的な知識がお光の方との結婚で多くの情報を得て繋がり、家康の心を理解する。

そして長沢松平家の度重なる不運は信康の不運と重なるようだ、とつらく寂しく感じた。
徳川家を守る為に行ってきた家康の秘策の数々までも知り、家康への敬慕の念を深めるが。
家康の冷酷さ、洞察力に感心しながら、徳川家を守るリストラ術を新たな思いで深める。

 

3.土井利勝 ー蓮姫は娘と同じー

利勝は土井家を実家ではなく自らが始祖だと自覚し、実家は妻の長沢松平家だと考えた。
利昌を養父として感謝したが早乙女家との縁は薄く、利勝は松平一門だと考えるのを好む。
同母から生まれた妹達の兄としても、新しい土井氏一族を創り上げると張り切った。

なのに、実家とした長沢松平家の宗家は康直が亡くなり絶える。利勝はまだ20歳だった。
長沢松平家の一族と共に若き利勝も、家康に遺児蓮姫の婿養子を申し入れ、存続を願う。

家康も同意したが、ちょうど七男松千代が生まれ、長沢松平家の養子に入れる事に決める。
家康の子を迎えての家名の存続は誇りであり、康直妻は松千代を我が子のように慈しむ。
跡継ぎが出来、蓮姫14歳は婿の必要をなくし、1596年家康養女として有馬豊氏と結婚する。

ところが1599年松千代は5歳で亡くなり、康直妻は家康に申し訳なく、自責の念で苦しむ。
利勝は再び家康に願い、松千代の兄で7歳の六男忠輝が長沢松平家へ養子入りと決まる。
康直妻は安心し役目を果たしたと、お光の方に後を託し、実家本多家に戻ってしまう。

大喜びで迎えた忠輝だが、養親、皆川広照らの家臣が家康から命じられ付き従ってきた。
この為、長沢松平家の譜代の家臣と忠輝の家臣団とに違和感が生じ家中は揺れ動いていく。

長沢松平家1万石の蓮姫なのに家康養女として7千石の破格の化粧料で、有馬豊氏に嫁ぐ。
家康が子を押しつけ、婿養子を迎えるはずの蓮姫の居場所をなくし、不憫に思ったのだ。
豊氏は13歳も年上で再婚だし豊臣秀吉に仕え、結婚時は遠江横須賀藩3万石の所領だった。
有馬豊氏は家康の厚い信頼に感激し、蓮姫を敬い裏切ることなく、家康に忠誠を尽くす。

1620年、関ヶ原の戦い、大坂の陣と特別の戦功はない豊氏だが筑後久留米藩21万石を得る。
蓮姫の幸せを願う家康・お光の方の遺志を継ぎ、利勝が裁量の範囲で蓮姫に与えた恩賞だ。
大大名となった有馬家は異例の大出世に感謝し、蓮姫と利勝との親子のような関係は続く。

忠輝も順次加増され、1603年には家康の子にふさわしく信州川中島12万石藩主となる。
1606年には伊達政宗の娘五郎八(いろは)姫と結婚し大久保長安が付け家老を命じられた。
忠輝は政宗・長安に熱く支援され1608年には秀忠の直ぐ下の弟であり後継たり得ると思う。

だが長沢松平家家中は険悪な雰囲気なのに、新たに政宗・長安からの家臣が入り混じった。
家臣団は膨張し、忠輝は政宗・長安の力を最も頼りにした為、忠輝に反発する重臣が出た。

長沢松平家譜代の臣・皆川広照らは、忠輝に軽視され、立場をなくし緊張感が高まる。
意を決し広照らは、忠輝に譜代重視の藩政を求めるために幕府に訴え、お家騒動が起きた。
1609年皆川広照は改易、利勝の義姉婿の山田長門守は切腹処分、義弟清直も処分された。

利勝もあわてるが、幕府の将来にも影響する一大事件であり、家康の考えをじっと待つ。
ひたすら秀忠に忠勤を励み、慎重に家康がどう動くのか推し量り、様子を見続けていく。

家康は忠輝を咎めず予想を超える、越後75万石の大大名とし、利勝は家康の心が読めた。
忠輝は若き勇猛な武将の風格が備わり頼もしいが、幕府を気にしない軽挙さも目立った。

お光の方もたまらず長沢松平家一族・譜代の臣の名誉ある存続を願い利勝の助けを求める。
利勝は先が見え、どうにも出来ないもどかしさがあったが、譜代の臣が許されるよう動く。
忠輝が越後に移る時に、清直は家老に戻り譜代の臣の処分も解かれ、一見平穏に戻った。

利勝は忠輝に控えめな政治を求めるが、幕府の為に働いていると意気盛んで聞き入れない。
しかし能見松平家の重勝が新たに家老として監視役に入り、家康の考えは決まったと知る。

一方、利勝は秀忠の理解者であり優秀な参謀として不可欠な存在となり権力を握り始める。
まだ江戸幕府が始まったばかりで幕府の組織作りは整わず、個人に権限が集中する状況だ。
利勝の官吏的能力は、群を抜き、判断力は冴え、秀忠から任される事項が増え大忙しだ。
ただ、家康が存命中は、本多正信の権限がより大きいとされ、形式的には立てているが。

かって関ヶ原の戦いの戦後処理で、西軍とされた大名は穏便な処分を求め、陳情が続いた。
単純に西軍東軍と判断付かない場合が多く、家康の意向に沿い改易か減封か判断する。
最終的には正信がまとめ家康の決済となるが、利勝が主になり諸大名と将軍とを取次いだ。
利勝の分析による取りまとめを正信が検討し決済する絶妙なコンビで効率よく仕切った。

今また、豊臣家に対しての、家康と正信との慎重に張り巡らされた、はかりごとを見た。
大坂の陣の前、幕府を万全とする為、忠輝周辺が厳しく制裁される様子を耐えて見続けた。
利勝の最大の任務は、2代将軍秀忠の為に幕府の体制を盤石にする事だ、と言い聞かす。

そして家康の死後、家康の思いに従い忠輝改易の処罰を下したのは苦しみ悩んだ利勝だ。
利勝は家康の信康への仕打ちを見てきた。忠輝への処分は秀忠の意志でありやむを得ない。
将軍による弟の改易、という厳しい仕置きに諸大名は震え、秀忠に忠誠を誓うしかない。

翌1617年、利勝の妻お光の方は長沢松平家が絶えたことを嘆き、蓮姫を頼み、亡くなる。
お光の方は蓮姫を我が娘と思い共に成長を見守った利勝との結婚生活に満足し感謝した。
利勝とお光の方との夫婦愛は強く、お光の方の為に松林寺清光院を建立し菩提を篤く弔う。


4.土井利勝 ー忠長の乳母は妹お清の方ー

1604年秀忠に嫡男家光が生まれ幕府将軍の世襲が可能になり、利勝に再び守り役を命じる。
小姓を出すよう求められるが我が子がなく慌てるが、仕事が山のようにあり仕方がない。

利勝は妻を大切にし、子は生れなくても側室は持たず、我が子の誕生はまだまだ先だ。
お光の方が病がちになり促されようやく側室を持ち、嫡男利隆の誕生は1619年46歳の時だ。

秀忠が家光の家臣団の構成を考えたが、家康がより熱心に自ら人選し家光側近を決めた。
利勝は妹の子三浦正次(まさつぐ)を推し、秀忠も不満はあるが家康の望むままに任せた。
近習は家光の成長に合わせて肥大化するが、春日局の判断で家光側近は選ばれ出来ていく。

続いて生まれた二男忠長には家康は干渉せず、秀忠の指示で利勝が近習らを決めていく。
まず家光の春日局に匹敵する乳母に利勝の妹お清を選ぶ。一人ではなく数多く選ぶが。
近習には連姫の子、有馬頼次(よりつぐ)を選び、また春日局は次男稲葉正利を推した。
利勝にまだ子はいないが、自らの目で忠長にふさわしい有能な若者を選び家臣団が出来る。
忠長は頼次・正利を特に信頼し二人は競い合い仕え、利勝は忠長の将来に良いと見ていた。

秀忠が知識教養に優れていると選んだのはお清の夫朝倉宣正(のぶまさ)で筆頭家老とした。
信長に滅ぼされた越前の大名朝倉義景(よしかげ)の父の弟の家系で、秀忠に仕えていた。
利勝は忠長に対しては春日局と同じ地位を完璧に築き、公私ともに忠長と深く関わった。

続いて秀忠から実子とは認める事は出来ないが1611年に生まれた正之の面倒を頼まれる。
利勝は家康との幼い頃の関係が思い浮かび重なり、熱い思いがこみ上げ正之が愛おしい。

ついに家康・正信が亡くなり秀忠・利勝の時代となり利勝の手腕にすがり諸大名が群がる。
それでも利勝はいつも変わらず、にこやかに話を聞き冷静に判断し諸問題を解決していく。
私利私欲に走らず、諸大名と幕府の公正な取り次ぎを心がけ、秀忠との息はぴったりだ。

利勝は幕府の職制や組織作りに取り組み一国一城令や武家諸法度など諸制度の制定を急ぐ。
幕府の体制を盤石にしつつ諸大名の統制・リストラで将軍権力の絶対化が望まれる使命だ。

また利勝は預かった正之を冷静に見続け秀忠の子に違いないと確信し保科氏の養子とする。
秀忠が正式に三男と認める日まで、将軍の子にふさわしく育つように、物心両面で支える。
この頃は秀忠の公私に深く関わり、土井家の将来は将軍家と共にあると高らかに自負した。

そして1623年秀忠は家光に将軍を譲り、大御所として幕府を率いる新しい時代を迎える。
だが、家光より忠長を溺愛した母お江が1626年亡くなると兄弟対立が明らかになっていく。
家光22歳、忠長20歳で母と別れ家光は忠長を高飛車に目下の家臣として扱い忠長は戸惑う。
母親っ子の忠長は兄弟仲良くと育って家光は横暴だと怒るが家光は母を吹っ切り自立した。

忠長は秀忠に救いを求めるが反対に自重を命じられ苦しい日々が続き次第に追い込まれた。
自暴自棄に陥り、お清の方も今は耐える時と諫めるが、情緒不安定が加速し5年が過ぎる。

この間、家光は勝ち誇ったように次々忠長の誇りを傷つける命令を出し気弱な性格を笑う。
病がちになった秀忠は徳川家のために家光を選び忠長を謹慎させ、兄に従うよう命じた。

利勝は三代将軍家光を忠長・正之で支える構図を描き体制造りをしたが厳しい事態となる。
1632年3月秀忠が亡くなり家光は忠長への恨みを晴らすと、駿河・甲斐55万石を没収した。
続いて幽閉し切腹を命じ、1634年1月28歳で繊細で学問を愛した忠長は無念だと命を絶つ。

家康が幕府の安泰の為に利勝に課した使命だと忠長を罰したが、やりきれない苦しさだ。
忠輝・忠長と後見を任されていた二人を、すがる眼差しを見ながら断ち切り処罰したのだ。

秀忠との深い信頼で忠輝の命は守れたが、家光には抑えが効かず忠長は無残な死だった。
ただ、外様大名へ幕府の権威を見せつけ再編も果たし利勝は堂々と家光の威光を高めたが。

家光は忠長側近も合わせて謹慎、蟄居、改易とした。まず近親に預けられ謹慎処分となる。
有馬頼次は連姫の元に戻り忠長死後隠居するが子の吉政は紀州藩に仕え後には大名になる。

朝倉宣正も蟄居し、忠長の改易が決まると同じく改易となり、隠居し利勝の元で過ごす。
利勝の妹婿であり利勝が庇い、宣正の嫡男宣親(のぶちか)を古河藩の家老とし代々続く。

母お江は忠長の妻に叔父織田信長の孫の娘になるお昌の方を選び1623年末結婚させていた。
兄家光の結婚と少し遅れての結婚の行事だ。兄の妻孝子姫は夏には江戸入りし輿入りした。
翌年祝言を挙げ本丸入りし、正式のお披露目の婚礼はその翌年1625年と長く続く婚礼だ。

忠長は兄と比べて控えめな結婚だがお江には可愛い嫁で結婚支度を上機嫌で用意し迎えた。
2万石に成り下がった織田家の姫をお江は55万石の妻として恥ずかしくないよう支度した。
結婚後は、駿府城を好み留守がちな忠長を寂しく待つお昌の方だが、お江は大事に慈しむ。

お昌の方は心から慕ったお江を亡くし、穏和な忠長が神経質に逆上する様子を見続けた。
恐怖の時もあるがお昌の方を愛する時もあり忠長を支える強い力を持ちたいと祈る日々だ。

だが祈りもむなしく最悪の事態を江戸屋敷で迎え、21歳で子が授からないまま残された。
忠長に従い駿府城で仕えたお清の方が江戸に戻りお昌の方は最後の様子を聞き涙を流した。

お昌の方に咎めなく、お江に代わり信長縁者として千姫が援助し手助けするようになる。
そして千姫の力を借り、忠長の屋敷を東慶寺(鎌倉市)に移し受け継がれる事が実現した。
忠長・お昌の方が信仰する薬王寺(鎌倉市)に永代供養を頼み莫大な寄進をし心を静めた。

お昌の方とお清の方は追い詰められた忠長の姿が目に焼き付き江戸の菩提寺の建立を急ぐ。
お昌の方の住まいの近く本郷水道橋に、忠長に似た繊細で美しい堂宇(どうう)を建立する。
建立者はお昌の方だが、お清の方が寺を守ると、寺名を二人の名を併せて昌清寺とする。

お昌の方とは宗派が違うが末永く菩提が弔われるためにお清の方は浄土宗の寺院を勧めた。
お清の方は忠長の菩提を弔う暮らしを続け、織田家屋敷に戻ったお昌の方が再々訪れる。


5 土井利勝 ー春日局の時代へと移るー

捨て身の想いが実り、10年間待ち続け、ようやく家康の寵愛を一身に受ける身になる。
いつもの端正な冷たくも見える表情の中にも、うれしさが端々にこぼれ懐妊を待つ。

そして家康65歳、子種をあきらめかけた時、勝局に市姫が授かり元気に生まれ、大喜びだ。
勝局も、女が元気な子を生む年齢の上限と家康が言う、30歳直前での誕生に涙が溢れる。

出産は家康の長年の夢だった隠居城、駿府城の完成直後で、祝賀の続く最高の時だった。
誕生直後に市姫は伊達政宗から嫡男忠宗との結婚を願われ、家康は上機嫌で認め婚約する。

勝局は30歳になり側室として役目を果たし太田家の安泰も約束され成し遂げた喜びに浸る。
その時、駿府城が燃え上がる。家康自慢の城が燃え落ちていく様子を厳しく目に刻んだ。

すぐに冷静に貴重品の持ち出し金銀の警護を侍女達や家臣に命じ、貴重品は完璧に守った。
城炎上時の差配の見事さで家康は全幅の信頼を置き勝局は奥の花から駿府城の顔に変わる。

再び築城が始まり、江戸城の改修を見続けた勝局は水を得たように案を出し仕切っていく。
火事を防ぎ、守りを堅くする、家康がくつろげる奥のしつらえをてきぱきと創り上げる。

秀忠の養母として江戸城に留まる阿茶局に代り、駿府城の奥を仕切る責任者となった。
長く阿茶局を見続け、補佐をした経験もあり、官僚としての統率力には自信があり得意だ。

家康は勝局をねぎらい手腕に報いると、亡くなった結城秀康の次男忠昌の養母に抜擢する。
嫁いで去る姫の母では高い地位は保てないと、忠昌を引き取り与え、徳川一門とする為だ。

家康の私的な諸事を全て預かり忙しく充実した暮らしが一転、市姫をわずか3歳で亡くす。
だけど悲嘆に暮れる勝局への家康の愛情は深く、子を生む以上の大役を次々に与え任せた。

家康とぎくしゃくした間の側室お万の方の第2子、11男頼房(よりふさ)の養母となった。
こうして家康の孫忠昌、子頼房の側近に太田家一族がなり、勝局は一族の繁栄を確信する。
続いて家康の次女督姫が亡くなり娘振姫が養女となり、市姫の身代わりだと思い育てる。

家康の子、孫合わせて3人の母となり子がいなくても家康側室の第一の地位を不動にする。
それでも、おごることなく暮らしを変えることもなく三人の子を厳しくしつけ、見守る。
彼らは仙台藩主の妻、水戸藩主、福井藩主として幕府の安定に尽くす有用な人材に育つ。

勝局の性格は厳格で禁欲的な、質実剛健を身を持って実践し、皆の手本となる人だった。
小袖をこまめに洗濯させて新しいものを着ず、もったいないを連発し、無駄を許さない。
倹約し富を蓄える事がご奉公と日頃から説き、幕府の繁栄のため働くのが生き甲斐だ。

皆を奮い立たせる気迫のこもった説教は得意で、駿府城の女主としての威厳が溢れて来る。
駿府城の内政に大きな権限を持ち金蔵(かねぐら)の鍵も預かり、確実にお金を残していく。

また家光を将軍にする為に決死の覚悟で江戸から駿府に来た春日局の思いを一目で見抜く。
身分の高い女性が単独で遠距離を来るわけがない、と疑う家臣を一喝しすぐに招き入れた。
記憶は不確かだったが春日局の話を聞き本物だと、家康との対面を叶え思いを遂げさせた。

次第ににこやかな表情が増えたが、判断力が早く確かで皆が素直に従う威圧感は変らない。
大坂の陣でも家康の側に控え、守り神としての勇姿を披露し天下人家康を引き立てる。
ついに家康の死を迎え駿府城の財政責任者として全てを秀忠に引き渡し、江戸城に移る。

憧れ続けた故郷の江戸城に落ち着き、秀忠が丹精込め築いた豪壮な江戸城の姿に感心する。
道灌の血を引く勝局だと颯爽と江戸城を歩くが、もう誰も非難出来る者はなく良い気分だ。
まだ40歳、家康に仕え残された側室侍女の行く末を見守り将来を保証しなければならない。

秀忠は公正な行き届いた仕事ぶり、家光は揺るぎない気迫に中性的な魅力、を勝局に見た。
家光は生前の家康の様子を聞きたくて時々呼び、勝局も懐かしそうにおもしろく聞かせる。
こうして秀忠・家光に重用され江戸城北の丸に屋敷を得て春日局と隣り合って仲良く住む。

勝局には近寄りがたい雰囲気があるが、兄重正の子、資宗(すけむね)には甘く可愛がった。
資宗を養子とし家光の小姓とし後には掛川藩5万石を得、幕府の重職を担い、老中も出す。

勝局は江戸城に住まうが常に道灌と共にあり鎌倉扇ガ谷の道灌屋敷跡に英勝寺を建立する。
そして菩提寺とし氏素性を疑う人が多くても江戸城築城主の道灌の嫡流として生き続けた。

 

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