土井氏は美濃守護土岐(とき)氏庶流、三河碧海郡(へきかいぐん)土居に在地し名となる。 こうして早乙女利昌は家康の家臣らしい名に変り、利勝を養子にするよう命じられた。 土井氏は家康にはさほど重要ではない武将だが、その後異例の出世をしていくが訳がある。 利勝は何も言わないが、生まれた時に家康から短刀を与えられたと養父から聞き受け取る。 1573年春に生まれた利勝は、すぐに家康の母お大の方の兄水野信元に渡され三男となった。 武田信玄亡き後、勝頼が武田家を率いていたが、かっての威力は消え落ち目は明らかだ。 信元は織田信秀の勢いを見通し今川義元を裏切り、信長の代では主従ではない同盟と思う。 その後信長は格段に勢力を伸ばし絶対服従を求めるが、信元は独立性もある同盟だと思う。 家康も信長と同盟を結び信元と同じ立場だ。慎重に動かないと同じ運命だと背筋が凍った。 だが、家康の親代わりを自称し家康に指図し苦々しく感じていた信元の死は有益だった。 信長の暴挙で、家康は有力国人水野氏の一族・家臣を難なく配下とし家臣の層を厚くする。 利勝は養父信元の死で水野氏に居場所がなくなり、家康は利昌の養子となるよう命じる。 家康は利勝を我が子とはしないが、側近く置き重臣にも顔見せし誰の目にも特別の存在だ。 1579年秀忠が生まれ、6歳の利勝は子守役に抜擢され家康と秀忠を行き来しながら仕える。 利勝は家康の心を先読みする知恵もあり、家康がはっと感心しついほおをゆるめてしまう。 次第に家康の望むとおりに、秀忠の守り役にふさわしい技量を身につけていく。 |
利勝が浜松城で家康に仕えていた頃、岡崎城で信康の謀反という、大変な事態が起きた。 家康は水野信元の謀反騒動から信長の意図を学び、対処の仕方は分かり落ち着いて考える。 家康は岡崎衆を家康家臣団に再編する良い機会と考え犠牲と痛みを伴いながら成し遂げる。 一方、信長には信康を殺すことで信長にも痛みを与え、家康は侮れない存在だと誇示した。 家康が徳川一門から信康に付けた筆頭家老、松平康忠(やすただ)は長沢松平家当主だった。 夫婦仲の善し悪しもあり妻の縁が絶対ではないが家康は情報が漏れる恐れが大きいと見た。 家康の祖父清康は、彗星のように三河統一をほぼ成し遂げ、直ぐに消えてしまった英雄だ。 碓井姫は祖父・矢田姫は父広忠の愛娘で長沢松平家とは深い縁で結ばれ一門では力がある。 康忠は強い責任感で信康を見守り岡崎城を仕切り、岡崎衆を率いる優秀な家老となった。 落ち度のない信康の無念の死に呆然としていた康忠へ追い打ちをかけて蟄居謹慎を命じる。 家康は康忠の叔父松平近清に康忠の嫡男康直を後見し、長沢松平家を率いるよう命じる。 康直は近清に見守られ成長し長沢松平家を継ぐ。近清は任を果たして亡くなった。 ここに利勝は、三河国碧海郡土居を領地とし土井家の主君筋になる広孝との縁が繋がる。 家康は広孝の願いに応え、利勝17歳と長沢松平家近清の娘お光の方との結婚を決める。 お光の方の上品な雰囲気が好きで、気持ちの良いくつろぎの暮らしを得た、と結婚を喜ぶ。 家康の関東入りに伴い康直は武蔵深谷1万石を得て一門として重んじられ、利勝も安心だ。 その間、利勝は松平康忠・本多広孝から徳川家の内部抗争の歴史を聞き、使命を感じた。 そして長沢松平家の度重なる不運は信康の不運と重なるようだ、とつらく寂しく感じた。 |
利勝は土井家を実家ではなく自らが始祖だと自覚し、実家は妻の長沢松平家だと考えた。 なのに、実家とした長沢松平家の宗家は康直が亡くなり絶える。利勝はまだ20歳だった。 家康も同意したが、ちょうど七男松千代が生まれ、長沢松平家の養子に入れる事に決める。 ところが1599年松千代は5歳で亡くなり、康直妻は家康に申し訳なく、自責の念で苦しむ。 大喜びで迎えた忠輝だが、養親、皆川広照らの家臣が家康から命じられ付き従ってきた。 長沢松平家1万石の蓮姫なのに家康養女として7千石の破格の化粧料で、有馬豊氏に嫁ぐ。 1620年、関ヶ原の戦い、大坂の陣と特別の戦功はない豊氏だが筑後久留米藩21万石を得る。 忠輝も順次加増され、1603年には家康の子にふさわしく信州川中島12万石藩主となる。 だが長沢松平家家中は険悪な雰囲気なのに、新たに政宗・長安からの家臣が入り混じった。 長沢松平家譜代の臣・皆川広照らは、忠輝に軽視され、立場をなくし緊張感が高まる。 利勝もあわてるが、幕府の将来にも影響する一大事件であり、家康の考えをじっと待つ。 家康は忠輝を咎めず予想を超える、越後75万石の大大名とし、利勝は家康の心が読めた。 お光の方もたまらず長沢松平家一族・譜代の臣の名誉ある存続を願い利勝の助けを求める。 利勝は忠輝に控えめな政治を求めるが、幕府の為に働いていると意気盛んで聞き入れない。 一方、利勝は秀忠の理解者であり優秀な参謀として不可欠な存在となり権力を握り始める。 かって関ヶ原の戦いの戦後処理で、西軍とされた大名は穏便な処分を求め、陳情が続いた。 今また、豊臣家に対しての、家康と正信との慎重に張り巡らされた、はかりごとを見た。 そして家康の死後、家康の思いに従い忠輝改易の処罰を下したのは苦しみ悩んだ利勝だ。 翌1617年、利勝の妻お光の方は長沢松平家が絶えたことを嘆き、蓮姫を頼み、亡くなる。 |
1604年秀忠に嫡男家光が生まれ幕府将軍の世襲が可能になり、利勝に再び守り役を命じる。 利勝は妻を大切にし、子は生れなくても側室は持たず、我が子の誕生はまだまだ先だ。 秀忠が家光の家臣団の構成を考えたが、家康がより熱心に自ら人選し家光側近を決めた。 続いて生まれた二男忠長には家康は干渉せず、秀忠の指示で利勝が近習らを決めていく。 秀忠が知識教養に優れていると選んだのはお清の夫朝倉宣正(のぶまさ)で筆頭家老とした。 続いて秀忠から実子とは認める事は出来ないが1611年に生まれた正之の面倒を頼まれる。 ついに家康・正信が亡くなり秀忠・利勝の時代となり利勝の手腕にすがり諸大名が群がる。 利勝は幕府の職制や組織作りに取り組み一国一城令や武家諸法度など諸制度の制定を急ぐ。 また利勝は預かった正之を冷静に見続け秀忠の子に違いないと確信し保科氏の養子とする。 そして1623年秀忠は家光に将軍を譲り、大御所として幕府を率いる新しい時代を迎える。 忠長は秀忠に救いを求めるが反対に自重を命じられ苦しい日々が続き次第に追い込まれた。 この間、家光は勝ち誇ったように次々忠長の誇りを傷つける命令を出し気弱な性格を笑う。 利勝は三代将軍家光を忠長・正之で支える構図を描き体制造りをしたが厳しい事態となる。 家康が幕府の安泰の為に利勝に課した使命だと忠長を罰したが、やりきれない苦しさだ。 秀忠との深い信頼で忠輝の命は守れたが、家光には抑えが効かず忠長は無残な死だった。 家光は忠長側近も合わせて謹慎、蟄居、改易とした。まず近親に預けられ謹慎処分となる。 朝倉宣正も蟄居し、忠長の改易が決まると同じく改易となり、隠居し利勝の元で過ごす。 母お江は忠長の妻に叔父織田信長の孫の娘になるお昌の方を選び1623年末結婚させていた。 忠長は兄と比べて控えめな結婚だがお江には可愛い嫁で結婚支度を上機嫌で用意し迎えた。 お昌の方は心から慕ったお江を亡くし、穏和な忠長が神経質に逆上する様子を見続けた。 だが祈りもむなしく最悪の事態を江戸屋敷で迎え、21歳で子が授からないまま残された。 お昌の方に咎めなく、お江に代わり信長縁者として千姫が援助し手助けするようになる。 お昌の方とお清の方は追い詰められた忠長の姿が目に焼き付き江戸の菩提寺の建立を急ぐ。 お昌の方とは宗派が違うが末永く菩提が弔われるためにお清の方は浄土宗の寺院を勧めた。 |
捨て身の想いが実り、10年間待ち続け、ようやく家康の寵愛を一身に受ける身になる。 そして家康65歳、子種をあきらめかけた時、勝局に市姫が授かり元気に生まれ、大喜びだ。 出産は家康の長年の夢だった隠居城、駿府城の完成直後で、祝賀の続く最高の時だった。 勝局は30歳になり側室として役目を果たし太田家の安泰も約束され成し遂げた喜びに浸る。 すぐに冷静に貴重品の持ち出し金銀の警護を侍女達や家臣に命じ、貴重品は完璧に守った。 再び築城が始まり、江戸城の改修を見続けた勝局は水を得たように案を出し仕切っていく。 秀忠の養母として江戸城に留まる阿茶局に代り、駿府城の奥を仕切る責任者となった。 家康は勝局をねぎらい手腕に報いると、亡くなった結城秀康の次男忠昌の養母に抜擢する。 家康の私的な諸事を全て預かり忙しく充実した暮らしが一転、市姫をわずか3歳で亡くす。 家康とぎくしゃくした間の側室お万の方の第2子、11男頼房(よりふさ)の養母となった。 家康の子、孫合わせて3人の母となり子がいなくても家康側室の第一の地位を不動にする。 勝局の性格は厳格で禁欲的な、質実剛健を身を持って実践し、皆の手本となる人だった。 皆を奮い立たせる気迫のこもった説教は得意で、駿府城の女主としての威厳が溢れて来る。 また家光を将軍にする為に決死の覚悟で江戸から駿府に来た春日局の思いを一目で見抜く。 次第ににこやかな表情が増えたが、判断力が早く確かで皆が素直に従う威圧感は変らない。 憧れ続けた故郷の江戸城に落ち着き、秀忠が丹精込め築いた豪壮な江戸城の姿に感心する。 秀忠は公正な行き届いた仕事ぶり、家光は揺るぎない気迫に中性的な魅力、を勝局に見た。 勝局には近寄りがたい雰囲気があるが、兄重正の子、資宗(すけむね)には甘く可愛がった。 勝局は江戸城に住まうが常に道灌と共にあり鎌倉扇ガ谷の道灌屋敷跡に英勝寺を建立する。 |