広島城四方山話

1.やや、浅野長政の妻 1552-1616

浅野家は江戸初期1619年から幕末まで変わらず安芸広島藩を治め広島城を居城とした
秀吉の妻ねねの妹ややが浅野長政の妻となり飛躍的に伸びる。典型的な蛍大名だ。
長政は秀吉の義弟として重職に取り立て江戸時代には42万石の雄藩として繁栄を続けた。実質、豊臣後継者になる。

やや(・・)は1552年、尾張朝日村(愛知県清洲市)に生まれる。父は杉原定利(ー1593年3月8日)、母は朝日だ。次女に生まれ、長女がねね(・・)で、兄に家定がいる。
杉原定利は杉原家の分家になる。母、朝日の実家が杉原家の本家で、兄家次が当主を引き継ぐ。朝日は分家の定利と従兄弟(いとこ)同士で結ばれた。
本家の家次も分家の定利も織田家に仕える武士であり、家次から木下姓を名乗る。

母、朝日は夫、定利の出世が遅いのにやきもきしながら、3人の子育てに忙しくしていた。そんな時、母の姉、七曲(ななまがり)から「ねねを養女に欲しい」と頼まれる。
七曲は浅野長勝と結婚し、15年が過ぎたが子に恵まれず「養子を取り後継ぎにしよう」と話し合い決める。そして長勝が姉の子、長政(1547-1611)を養子にし、七曲は杉原家から養女を迎え長政の嫁にし、浅野家を継がせるのが良いと考えた。長勝・七曲の両方が納得できることであり、長勝の姉の嫁ぎ先、安井家では、すでに嫡男が決まり長政を養子に出すの望んでいた。安井家は浅野家より裕福で、浅野家の将来にも役立つはずだ。

浅野家は、浅野(一宮市浅野)に城を築き周辺を勢力下におく土豪だ。始祖をたどれば、清和源氏頼光に繋がり美濃国守護、土岐氏の庶流になる名門だ。
だが、長勝は信長に仕える織田家弓衆に過ぎない。弓の腕前は抜群で信長も高く評価し、弓衆をまとめる役目を与えられていたが。

長勝の姉は安井重継に嫁ぎ、三人の男の子が生まれた。
安井家も信長に従い、丹羽郡に宮後城(江南市宮後町)を築き居城とし勢力を持っていた。木曽川の水運を仕切る有力な川並衆の一族でもあり、大きな利益を得ていた。

木曽川流域は尾張の織田氏と美濃の斎藤氏の領地争いが激しく続いた地域だ。川並衆も両陣営からの求めに応じて戦いがあれば武将として戦う。傭兵であり、示される利益に応じて敵味方になることも再々だ。だけど、普段はそれぞれ昔から縁戚関係が続く親しい間柄だ。そのため、命を賭けるほどには戦わず、なかなか決着はつかず、織田氏は怒るが。信秀・信長が出るまでは美濃との縁が強い。

川並衆を率いるのは蜂須賀(はちすか)氏だった。その当時の武士の家格では杉原家が一番下で、上に浅野家があり、その上に安井家となる。そのまた遙か上に蜂須賀家がおり、尾張清洲の西、蜂須賀村(愛知県海部郡美和町)を治め、独立した勢力を保っていた。

木曽川の終点で伊勢と尾張を結ぶ水陸の交通の要の地、津島をまとめるのが大橋家だ。海でも川でも陸でもと幅広い交易で莫大な利益を上げた。大橋家の富と権力は織田信秀(信長の父)の脅威となるほどで、津島の支配者でもある。

安井重継の姉は蜂須賀正利(まさとし)(1504年-1553年)に嫁いだ。正利は大橋氏から正室を迎えていたので、側室だったが。
蜂須賀家の領地は美濃の斉藤氏の勢力下に近く親しい関係だ。その上、大橋家の娘婿となり関係を強め、両家で大勢力となる。
信秀は今押さえつけなければ脅威になると考え、斎藤氏に従うこともある蜂須賀氏を敵とみなし攻め追い払う。狙うのは、大橋家を配下にし水運を握り、津島を支配することだ。   
信秀の狙い通り、土地を奪われた正利は大橋重長や美濃衆と計り、織田勢と戦い領地を取り戻すと、大橋家に向かい世話になる。

重継の姉と子の小六(正勝)(1526年-1586年7月8日)は行き場を失い、安井家に戻される。正勝が六歳の時だ。
大橋重長は織田信秀と争うが、結局、信秀の娘、蔵を正室に迎え和睦せざるを得なかった。次第に大橋家ら津島衆は織田家の配下に入っていく。

安井家に引き取られた小六は重継の弟のように育ち、群を抜いた才知で頭角を現し川並衆をまとめていく。正利の亡くなった1553年、蜂須賀家の後継が決まると、重継は小六を養子とし安井家の跡継ぎとする。浅野家の血筋を受け継ぐわが子より蜂須賀家の血筋を受け継ぐ小六が後継にふさわしいと家中が一致した。
重継も小六の指揮下に入ると宣言した。安井家は蜂須賀家に吸収される。
長政は21歳上になる小六を尊敬しながら育ち、浅野家に養子入りする。

七曲は杉原家の中で最も頭が良いと評判のねねを養女に希望した。母、朝日は喜んで応じる。ねねは8歳になると清洲の叔母、七曲の家に移り住む。
長政はまだ安井家に居り、時々浅野家を訪ねる日が続く。長政とねねは兄と妹のように仲良しだったが、ねねは秀吉と出会い二人で結婚を決めてしまう。
困った七曲は、ねねの妹のややを養女にして、長政と結婚させる。
長政はねねから急にややに婚約者が変わったことに戸惑いいらだつ。ややも申し訳なくしばらくはぎこちない関係が続く。それでも、長勝、七曲は結婚式を執り行う。

秀吉・ねねは、ややより早く結婚し、秀吉は信長に従い順調に出世していく。そして、長政を、迷惑をかけたと義弟として引き立てていく。次第に、ややとの仲も親密になる。  
ねねもややに過去を謝り「共に信長様に仕えるために、夫(秀吉)を支えてほしい」と頼む。
秀吉が長浜城主になると、長政・ややはようやく秀吉一族として秀吉に仕える決意をする。同じように杉原氏・安井氏・蜂須賀氏も秀吉から望まれ家臣となる。

1576年、長政29歳で、嫡男、幸長(1576-1613)が生まれる。
その後も、杉原本家の長房(1574-1629)の妻となる長女豊姫。
秀吉側近の堀秀政の二男、親良(1580-1637)の妻となる次女。
1586年、2男長晟(1586-1632)。
1588年、3男長重(1588-1632)。
伊勢桑名藩主松平定綱(1592-1652)の妻となる三女、智相院(-1633)と次々生まれる。出足は悪かったが、浅野家は子だくさんで笑顔に包まれ長政・ややは理想的な夫婦となる。

ややは、ねねからうらやましいと言われた。ねねはややの子たちを可愛がり、仲の良い姉妹だ。それでも、ねねのように表舞台で、活躍しようとは思わない。
ややは子たちの養育を中心に生きたいと長政に言い、内助に徹し控えめな生き方を貫く。

信長の死後、後継となった秀吉は全国を制覇していく。各地の大名に臣従を求め最小限の戦いで全国の平定を進めていく。多くの大名は秀吉の力がどの程度か探りつつ恭順の意を示していく。そして、戦って敗北の上従う場合も、戦わずして従う場合も、少しでも勢力を保ったままで和議を結びたいと必死の駆け引きとなる。
秀吉から派遣された取り次ぎ人の評価次第で、加増されたり改易されたりと天と地の開きがあるのもよく知っている。

西国諸大名の取り次ぎを命じられた石田三成はその調整に大きな成果を上げ、次々有力大名を配下にしていった。秀吉の評価は上がった。
だが三成だけでは、続々と臣従を表明する大名に追い付かず、長政が関東の諸大名との取り次ぎをする役目を与えられる。秀吉は三成と長政の政治手腕を競わせた。

 長政は三成ほどの切れはないが、複雑で名門揃いの関東の諸大名に対し誠実に相手を重んじ取り次ぎの役目を担った。長政は精力的に利害を調節し、秀吉に忠誠を尽くすよう求め、領地を査定していくが、独立心の旺盛な武将ぞろいで難航する。「時間が掛かりすぎる。早く従わせるように」と秀吉は機嫌悪く言い放った。

長政は下野(しもつけ)の戦国大名、宇都宮国綱に3男、長重を婿養子に送り込む事で宇都宮家を配下に置こうとした。宇都宮家・小山(おやま)家・結城家との交渉を通じて、それぞれの一族に魅力を感じ縁戚となることで秀吉に仕えさせたいと考えた。だが結局、秀吉は強硬路線で押さえ込み、長政の思いは実らなかった。

しばらく後、長政が思い通りには仕切れなかったと悔やむ関東7か国を新領となった、家康はうまく治める。以後も長政は関東諸大名の取次の役目をこなしていく。
秀吉の弟、秀長が1591年、亡くなると秀吉は長政に秀長の代わりを期待した。長政も懸命に働き、秀吉の取次には長政に頼むしかないと評判にもなった。だが、秀吉の満足する行政担当能力ではなかった。
ここから、合議制で政権実務を担う5奉行制が生まれていく。
長政も、秀吉の義弟でありながら、家康の底知れない実力に打たれ近づいていく。

家康も長政と秀吉の隙間風を感じ、長政との友好関係は価値あると積極的に近づく。反対に、秀吉の思いにうまく答える三成に対して、家康は厳しく対応し敵対して行く。


2.慶雲院、浅野幸長の妻 -1616

1576年、幸長は秀吉の領地近江長浜城下、近江国浅井郡小谷(滋賀県長浜市湖北町)で生まれる。待ち焦がれた嫡男の誕生に「最高の男子だ」とややとともに家中で浮かれ、酔いしれた。秀吉の側近として頭角を現していた時であり、浅野家は日の出の勢いだと笑いが止まらない。
秀吉・ねねもわが子のように喜んだ。
 
 ねねは幼い時から幸長を長浜城に呼び寄せ可愛がった。いずれ、養子の秀勝(信長4男)に仕えさせるつもりだ。
秀勝の側近には、ねねに近い身内を集めたいと考え、兄や妹の子たちを適任だと、秀勝を支える一族の姿を思い描き、ねねには最高の時だった。
幸長はねねの期待に応える頭のいい子だった。だが、小姓として仕え始めて間もなく、肝心の秀勝は亡くなる。秀吉が代わって幸長を側近く召し抱える。

幸長の初陣は、1590年の北条征伐(小田原の役)で父に従っての岩槻城を攻めだ。幸長は秀吉が感心する勇猛な戦いぶりを示した。秀吉は褒め、同じ年齢の前田利家とまつの五女、与免姫との婚約を決めた。
秀吉は、幸長を豊臣一門として、長政から独立した武将として扱い始める。
幸長は前田利家を尊敬しており婚約を喜んだ。だが、与免姫は結婚前1593年、16歳で亡くなる。文禄の役で朝鮮に渡り、必死で戦っていた時だ。

 秀吉はすぐに幸長と池田輝政の妹、慶雲院との婚約を決め、結婚させた。豊臣秀次の妻、若御前も輝政の妹だ。幸長は輝政、秀次と義兄弟としての縁戚付き合いを始める。ここから秀次との深い縁が生まれ、秀吉は幸長を秀次付きとする。
幸長は輝政、秀次との親密さを増すと同時に、慶雲院との夫婦仲を深める。慶雲院は、池田家と浅野家を結ぶ架け橋の役目を浮き浮きと楽しそうに果たす。

1593年、秀吉は幸長に期待し、長政とともに甲斐国(山梨県甲府市)21万5千石(長政に5万5千石、幸長に16万石)を与える。
秀吉は政権を支える重要な人材として幸長を長政より重く見た。長政・ややは17歳のわが子の下に付けとばかりの秀吉の扱いにいい気はしない。秀吉の長政への評価を痛いほど知らされ、情けない。
だが、幸長への評価がうれしくもある。あまりにも分不相応な高待遇に慢心しないよう、親として注意し見守る。幸長は才能のある猛将であり、誇れる嫡男だとよくわかっている。それでも、秀吉の側近として遠くに行ってしまったような寂しさを感じる。

賢明な幸長は、両親の苦悩を感じ分別を持って接する。だが、関白となった秀次の弟のような存在となり、秀次の側近中の側近として深く政治に関わっていく。
秀頼の誕生とともに、秀次に災いがふりかかる。秀次は居場所をなくす危機感を持ち、関白として存在を示し、権力を持ち続けようとする。朝廷との調停役を果たす菊亭晴季(きくていはるすえ)(1539年- 1617年5 月3日)を頼りにし、娘一の台を妻に迎えた。   
若御前と離縁し、輝政は秀次から離れていく。幸長への秀次の信頼度は高まるが、秀次は謀反を疑われ殺される。

秀吉は秀次を憎み、自らがつけた側近にもかかわらず秀次側近に厳しい処分を下した。幸長も連座責任を問われる。だが、秀吉は幸長をいずれ秀頼に仕えさせたいとの思いもあり、能登(石川県北部)への流罪とする。
前田利家の管理下に置かれるが、厚くもてなされる。利家は秀吉に幸長を許すよう願う。。前田利家は義父になる人だったこともあり、婚約者亡き後も親しくしていた。また幸長の処分には徳川家康も関わっており、家康は秀吉に「早急に許し、側近くで働かせるべきでは」と強く願い許しをこう。
こうして幸長は許される。この間の前田家・徳川家との付き合いの中で、幸長は秀次を落とし込めた大きな要因は石田三成だと確信する。三成への怒りがこみ上がる。

秀吉が亡くなり、朝鮮からの撤退が決まる。幸長は朝鮮での戦いのさなかだった。
勝ち戦とは言えないまでも、朝鮮に城を築き橋頭堡を長く守り、朝鮮支配も可能だと信じて戦っていた時の撤退だ。文禄の役・慶長の役と共に戦った加藤清正・福島正則らの武断派とは盟友であり、考えを同じくした。
負け戦のようなみじめな混乱の中で、日本に戻る。撤退の責任は、三成らの戦略・戦術の弱さにあると、深く心に刻む。
撤退の途中、それぞれが秀吉政権の中枢に位置する武将だと自認し、秀吉後の政権がどうあるべきかを話し合う。冷静に判断できる状況ではないが、秀頼の側に三成を置いてはいけないとの思いは共通だ。

日本国内では家康はすでに動いていた。幸長の帰りを待っていたように家康の娘婿、池田輝政が熱心に働きかけてくる。輝政33歳が幸長23歳に、義兄として家康の言葉を伝える。「浅野家当主として高く評価している。家康の力になって欲しい」と。
にこやかに間に立つのは妻、慶雲院だ。

幸長は豊臣家のために三成を除く必要があると考え、家康が政権運営を主導することに賛同する。1600年、徳川家康率いる東軍に属して池田輝政らと岐阜城を攻め、関ヶ原の戦いでは南宮山の毛利秀元、長束正家などの西軍主力勢に備えた。豊臣勢の押さえに、秀頼のいとこ(養母ねねの甥)幸長が立ちはだかり、効果は大だった。

家康の縁戚だと扱われた幸長と違い、長政は前田家と同じ豊臣恩顧の扱いだった。家康襲撃事件に関与したと追及され三男、長重を人質として江戸に置く。謹慎の後、後詰の秀忠に従い中山道を進んだ。華々しい戦いはない。

戦後の論功行賞では、幸長は秀吉の甥であり豊臣家の後継にもふさわしい武将だと扱われた。浅野家が家康に従い、豊臣恩顧の諸大名が家康支持に傾くのに役立ったと評価した。
家康は、秀吉の後継が家康であるとの証明のためにも、従う浅野家の存在は必要だと考える。そこで、秀吉時代の2・5倍増という法外な恩賞、紀伊国和歌山37万6千石を幸長に与えた。

父長政、弟長重は江戸詰とされ、人質となる。幸長は浅野家当主として、与えられた膨大な領地を守るために、幕府に尽くさなければならない。
幸長は、ねねの甥であることで豊臣家後継とみなされ利用されていると知っていたが、浅野家が雄藩になることで豊臣家の存続に力を尽くせると解釈した。豊臣家は守りたい。
和歌山藩は大坂城にも近い豊臣恩顧の土地柄だ。この地で豊臣色をなくし家康支持にまとめることは多くの困難が待ち受ける。ここで浅野家の力を見せなければ豊臣家は守れないと、幸長は気を引き締める。知将として抜群の指導力を発揮し治安維持に成功する。家康の期待に応えた。
以後、豊臣家と徳川家の間に立ち、予想外に凋落してしまった豊臣家の存続に奮闘する。

 家康は秀吉と同じく、幸長を父長政より技量、才覚ともに優れていると評価した。まだ豊臣家が健在であり、浅野家を家康の縁戚として取り込む必要があると、幸長の娘二人に結婚話を持ち込む。

家康の娘督姫の夫が、輝政で、幸長の妻であり姫たちの母は輝政の妹、慶雲院だ。
家康は「(督姫の姪になる幸長の娘春姫、花姫を)娘とも思っている」と機嫌良く言う。
まず、1609年、家康の九男、義直(1600-1650)と長女春姫(1603 年-1637年6 月15日)とが婚約する。義直は家康に溺愛され尾張藩53万石藩主となる。家康は義直を尾張藩の居城、名古屋城には行かさず側を離さず、駿府城で自ら英才教育をして、家光に万が一あれば義直を将軍にしたいとまで思う、素晴らしい英知の持ち主だ。最愛の子、義直の妻に春姫が選ばれた。
続いて、次女花姫と松平忠昌(1598-1645)の婚約を決める。家康は忠昌を養子としていた。後に、越前福井藩主となる。家康二男、秀康の二男ながら、秀康の後継とまでするお気に入りだ。
ここで、幸長は家康の大切な親族と扱われる。

家康は豊臣家の後継を浅野家とみなし深い縁戚を結ぶ。大坂城の秀頼が豊臣後継ならば、家康も豊臣後継にふさわしいのだと見せつける。豊臣恩顧の諸大名へ秀頼離れを促す。
それでも、婚約だけで結婚まではさせず、浅野家が豊臣家との?がりを断ち家康への忠誠心をどこまで発揮するか幸長を試すが。幸長は家康縁戚になる代わりに、重い任務も負わされた。

まず、大坂城に籠ったまま臣下の礼をとらない秀頼をいかなる理由をつけても、家康の居城で、家康の下座に座らせるよう望まれた。幸長も秀頼が下座に座ることで豊臣家が存続できるならばやむを得ないと考える。1611年、加藤清正と協力し二条城での家康と秀頼の対面を実現させる。この時点で、豊臣家は徳川家に従ったと皆が納得する。
家康は愛想よく迎え、にこやかに秀頼に接した。全国の諸大名を完全に支配下に置いた証となる。
幸長は家康の望みを果たし、役目が済んだ。

 幸長は家康の天下を認めながらも豊臣家の存続を願った。1611年、長政は64歳で亡くなると、1613年、幸長も和歌山城で37歳で急死する。大坂の陣の前年だった。
秀頼は大切な庇護者を失い、家康の思うがままの企てに乗せられ、滅亡していくしかない。

 それからの宇喜多家の活躍はめざましい。家老の岡氏、戸川氏らが宿場宿場に馬と食料を準備し、小西行長が石田三成に渡し秀吉軍に行き渡らせた。
お福は、秀吉勢2万の大軍が短期間で京に戻れたのは宇喜多家の力が大きく、きっと秀吉は恩に感じるだろうと胸を張った。秀吉は、光秀を討ち果たした。

 秀吉に代わり毛利勢の監視をする役目を宇喜多勢は頼まれ引き受けた。毛利輝元も様子眺めで動かず、宇喜多勢には良い休養となった。お福は戦いのない暮らしを始めてじっくり味わった。とてもいい気分だ。

秀吉が織田家の主導権を握ったとの報が届く。お福は、秀吉の妻だった夢の一時は終わったと知る。
お福は我に返るが、秀家の目は輝いたままだ。秀家は秀吉の天下太平を願う壮大な夢を聞かされ、秀吉と共に戦うと燃えている。まだ10歳だが、藩主の自覚も出て、お福によく似た顔は愛らしい。

信長の後継者への道を進む秀吉から、自信に満ちた便りが届く。「秀家に会えないのが寂しい」とのうれしい便りだ。秀吉と共に過ごしたときから一年以上経っていた。その間、お福は幼君、秀家の母として藩政に携わる。母として宇喜多家のために生きるのに、心地よい幸せを感じた。

秀吉は天下普請で居城、大坂城を築く。宇喜多家には大坂城下に屋敷地を与えた。秀吉に命じられすぐに、宇喜多家の屋敷の建築を始める。
1584年、秀吉から養子にしたい、早く会いたいとの矢のような催促があり、秀家12歳は、お福より一足早く、大坂城に行く。続いてお福も備前大坂屋敷に移る。

秀吉からお福に、側室としての待遇で大坂城、二の丸に屋敷を与えるという申し出があった。身分も保障され、十分な手当が支払われると言う。だが、断り、庵(いおり)だけを願う。以後、お福は秀吉を庵に迎え、備前焼の茶道具でもてなし茶飲み話をする関係となる。秀吉は秀家に、直家以上の所領、岡山藩57万4千石を与えた。

 

3.振姫、浅野長晟の妻 1580-1617

長晟(ながあきら)は1586年、長政・ややの二男に生まれる。
この時、ねねはすべての愛情を注いだ秀勝の死の衝撃に耐えかねていた。幸長も秀吉の側近くに移り離れてしまった。
ねねと秀吉の仲も自由奔放な無敵の天下人と子のいない正室と化し、一心同体で助け合った伴侶かつ戦友の時代は過ぎていた。そんな時に長晟が生まれたと聞く。幸長の身代わりのように長晟を幼い時から呼び寄せた。
 
ねねは杉原家(母の実家、本家)、木下家(父定利の家、分家)、浅野家(妹ややの嫁ぎ先)の3家系を引き立て、杉原家次・木下家定(ねねの兄)・浅野長政を豊臣家の重臣にしたいと心掛けた。秀吉も一族として重用していくが、次第に冷めた評価をしていく。ねねも同意見だったが。

杉原家は、家次が近江国坂本城を与えられ、丹波福知山3万2千石藩主にまでなるが、1年余りで1584年、急死した。嫡男、長房(1574-1629)が改めて秀吉に仕え、後に但馬豊岡2万石の領主となる。秀吉から重要視されなかった。その分、秀吉との縁は薄いと、関ヶ原の戦いで西軍に属しても所領安堵される。

木下家は勝俊(家定嫡男)(1569-1649)が若狭国8万石、利房(家定次男)(1573-1637)が若狭高浜2万石、延俊(家定三男)が家定と共に姫路城2万5千石をそれぞれ得た。家定が備中足守に2万5千石を得るのは関が原の戦い後。

ねねは兄の家系を重んじたかったが、妹ややの家系、浅野家が次第に豊臣政権の中枢で頭角を現していく。秀吉は杉原家を気に入らず、木下家はねねの縁戚として優遇されるが。
次第に、ねねも木下家をねねの側近として扱い、武将としては浅野家を引き立てざるを得なくなっていく。
幸長は豊臣政権を担うべき武将であり、長晟も兄に劣らず賢いとねねはうなづく。
ねねは長晟を傍近く再々呼び、顔をほころばせながら武将としての心得を教え、学問も怠らないよう面倒を見る。長晟はわが子のようだ。
1594年、幸長が秀次付きとなると、長晟は入れ替わりに8歳から秀吉に仕えた。

長晟は兄幸長のようになると、うきうきと秀吉に仕えた。だが秀吉が亡くなり、ねねも召し抱えることはなく、兄幸長の家臣となるしかない。将来が不安になり呆然とする日を過ごす。
この頃は、家康から全く気にもかけられない存在だった。そして、家康の天下となる。

ねねは秀吉からの遺領、1万5千石を化粧料として優雅に暮らし、家康・秀忠との親しい関係も続いた。そして、終の棲家、高台寺(こうだいじ)の建立を決めた。
高台寺(京都市東山区)は家康をはじめ諸大名がこぞって支援し建立された。広大な寺領に伏見城から移築した建物をはじめ、きらびやかな堂宇が立ち並んだ。室内の装飾には桃山様式の贅を極めた蒔絵が施された。その上、蒔絵調度類が多数作られ「蒔絵の寺」と呼ばれるほどの豪華絢爛な寺となる。秀吉の冥福を祈る寺であり、ねねの菩提寺でもある。

1608年、ねねは高台寺に移り安らかな暮らしに入っていた。その時、兄の備中足守藩2万5千石藩主、家定が亡くなる。
ねねは家定嫡男、勝俊に遺領が与えられることを望み、秀忠の内意を得た。だが、家康は次男、利房に与えた。ねねは納得できず、秀忠の内諾を得ていると、安易に勝俊・利房の共同相続という名目で勝俊に与えた。利房には、ねねの領地を相続させるつもりだった。
家康は激怒した。関ヶ原の戦い時、伏見城から無断で逃げた勝俊への憎しみは、ねねの想像を超えたすさまじいものだったのだ。

ねねは、家康が家定の遺領すべて取り上げると息巻いていると聞く。兄家定が一番頼りにした勝俊にいくらかでも相続させたいと、長晟に家康との取り次ぎを頼む。
ねねは兄の一家臣として働く長晟に活躍の場を与えようと考えた。家康に近づくことで、ねねにもきっといい結果が生まれると信じたが。

 家康はねねの言い分に聞く耳を持たなかったが、取り次ぎをした長晟の態度の良さが気に入った。そこで、木下家から備中足守藩を取り上げ、長晟に与える。予想外の展開となり長晟22歳で、弟長重にはるかに遅れてようやく大名になる。
苦渋の10年を耐えて、長晟に花が開く。まだ本人はわからなかったが。

長晟は、秀忠は足守藩を木下家が引き継ぐ事をねねに認めている、と自らを戒める。
勝俊嫌いの家康により一時的に与えられた中継ぎの藩主だということを忘れてはいけないのだ。また、足守藩は木下家に返還されるべきだとも思う。
1610年から長晟は木下家に礼を尽くしつつ、足守藩主として藩政に携わる。

長晟は、家康は弟、長重を気に入っていると思い込んでいた。今まで家康から相手にされず、ひたすら兄に従い豊臣信奉者の多い和歌山藩内の治安維持と安定のために働いた。
幸長は常日頃「浅野家が一丸となって家康様に尽くすしか生き残りはない」と長晟に話した。そして、「幕府の信を得つつ秀頼様を支え豊臣家を守るのが、秀吉様に引き立てられた浅野家の進むべき道だ」と。兄を尊敬する長晟はうなずき、兄に尽くす。
ところが、ねねの頼みに応じ思いもかけず足守藩主になった。そして兄と離れ独立した。

長晟は兄、幸長に「妻を迎えたい」と願ったこともある。幸長も考えたが、家康の養女を妻にした長重に負けない結婚相手を見つけるのは難しかった。家康に「長晟の妻に家康ゆかりの姫を迎えたい」と願ったが返事がなく、長晟に答えられなかった。
この頃の長晟は、中途半端な扱いで、一家臣として生きていくしかないと、あきらめに似た悲哀を感じていた。

1613年、幸長が亡くなる。長晟は兄の突然の死を疑いながらも淡々と受け止めた。幸長に嫡男はなく、次男長晟か三男長重のどちらかが家督を継ぐよう、幕府が決めるはずだ。

長晟は秀吉に可愛がられた過去があり、長重は秀忠に気に入られていた。長晟は長重が後を継ぐだろうと覚悟した。
豊前小倉藩主、細川家も秀忠に仕えた3男忠利が兄を差し置いて後継になった。家康が気に入るかどうかで幕府への忠誠心を量られる。豊臣家がまだ存在する以上、家康の近くで忠誠を尽くすのが大名の存続に一番大切なことだから。
また、長政が長重を一番可愛がっていたのを、譜代の臣はよく知っている。長政が推すだろう長重こそ後継ぎにふさわしいという雰囲気がある。長晟派対長重派との内紛が起こりかねない緊迫した状況になるが長晟は平静だ。

家康は長晟をすぐ下の弟が後継にふさわしいと指名した。
豊臣家滅亡のシナリオが出来ており、豊臣家恩顧の諸大名を秀頼から引き離す為に当分、ねねを味方とする必要があった。
だが、相続の件以後は良好な関係ではなく、長晟をねねへの抑えと木下家復権の使者とすると決めた。用心深い家康がねねとの関係を重視した結果だ。
長晟も家康の意図をよく理解した。父・兄の死を教訓にし、長重をけん制しつつ、諍いを起こす事なく細心の注意で家中を治める。ねねとの関係はいつも良好だ。

豊臣家と徳川家は険悪な雰囲気になっていた。秀頼は和歌山藩内に潜む浪人や、浅野家臣に、好条件での仕官の誘いを頻繁にしていた。一獲千金を夢見て大坂城入りする武将が次々出てくる。
長晟は浅野家を守るために、豊臣系の家臣を厳しく選抜し封じ込める。また、明らかな豊臣支持派を処刑し、高圧的な政策を取りながら、藩内を幕府支持派で固める。ねねのさびしそうな顔を思えばつらいが、やむをえない。
次いで、大坂の陣が始まる。長晟は精鋭部隊を引き連れ豊臣方と勇猛果敢に激しく戦い忠誠心を見せつける。家康は長晟の藩主としての働きに満足し、戦功を高く評価した。

 家康は豊臣家の存在を嫌ったが、秀吉の天下が15年以上続き皆が臣従したのは事実だ。そのため、秀吉を拒否するのではなく、受け継ぐのが家康だと表明することで、内乱を最小限に収めて強固な江戸幕府を築こうとした。豊臣家を引き継ぐ家系として浅野家を選び、長晟は家康の眼鏡に叶った。
家康は長晟への恩賞に、養女ではなく実の娘、三女振姫との結婚を言い渡した。浅野家中には家康養女と結婚した長重こそ後継者だとの根強い声がある。その声を知る家康は、娘婿、長晟こそ浅野家嫡流であり、和歌山藩主であると示そうとした。長晟は家康の後ろ盾を得て、万全な藩主の地位を築く。

1616年、振姫36歳と長晟30歳の結婚式が執り行われる。年を重ねたが、長年夢見た最高の妻だ。長晟は振姫を敬い惜しみない愛情を注ぐ。
振姫は多くの修羅場をくぐり抜けた涼しい目をしていた。それでも、年下の長晟をじっと見て、表情をゆるめる。今まで家康の娘として気負いすぎたような気がした。年下だが、振姫を見つめる目はしっかりしている。素直に愛し合う。
長晟は逞しい身体だった。長く忘れていた男と女の愛に酔いしれた。長晟の母ややが亡くなり、長晟が江戸に出向いたときは寂しく待つ。
和歌山城内の振姫の屋敷、玉御殿の建築がまだ続いており、あれやこれや指示し気がまぎれるが、長晟の戻りが待ち遠しい。長晟が戻り、毎日のように振姫を訪れる。振姫は年を重ねたが、初めて心から気楽に愛せる人に巡り合ったとはしゃぎ嬉しそうに長晟に言う。長晟はそっと優しく抱きしめ離さない。1617年、家康の孫である嫡男、光晟が生まれる。
振姫は高齢出産となるため、藩政に関わることもなく、和歌山の名所を巡り、光恩寺に詣で安産を祈願し、心安らかに出産に備える。
なのに、振姫は光晟に乗り移ったかのように、いたずらっぽい笑顔を残して亡くなる。

長晟は悲痛にくれるが、光晟が後継だと高らかに宣言した。幕府は光晟を徳川一門とし、安芸広島藩42万石への国替えを命じる。
長晟は広島城に入り若い頃の不遇の一時期を経て浅野家最高の時を築いたと、しみじみ幸せを味わう。2年にも満たない短い逢瀬だったが、幸運の女神、振姫に巡り合えたことに感謝しながら。


4.臺雲院、浅野長重の妻 1590-1627

長重は1588年に生まれた長政・ややの末の男子だ。
長政は41歳だ。前年、ようやく一国一城の主になった時で、武将として自信に満ち、ややと成し遂げた喜びに包まれていた。長政・ややを祝福するように、元気な産声を上げた。二人は、長重をとても可愛がった。

秀吉は主に話し合い路線で全国平定を進めた。この方法では臣従すれば、多少領土を削るが基本は安堵となってしまう。戦い奪い取る場合に比べ秀吉政権の領土は増えない。
そのため、長政は義弟として京都奉行や鉱山の管理など大きな権限を持つが、領地は近江国2万石だけだった。1587年に若狭国小浜8万石を得て、ようやく秀吉の重臣として面子が立った。

幸長はすでに秀吉に仕え、重宝され側を離れられないほどだ。ねねはまだ2歳の長晟を再々呼び寄せ離さないほどのお気に入りだ。「二人とも(秀吉・ねねに)取られてしまった」と長政はほろ苦さを感じていた。ややも嬉しくもあり、さびしくもあった。

ややは「長重だけは成長するまで手元を離さない」と言う。浅野家は出世し小浜城から、甲斐甲府城と居城を移すがやや長重らを連れて行き伸び伸びと育てる。京に在中を義務付けられる大名が多い中、ややは自由だ。子育てにはねねの妹で良かったと思う時も多い。

天下人の妻ねねとは立場が違うが、姉妹として気軽に話す。ねねが伏見と大坂を自由に行き来するように、ややも京と甲斐を行き来したいとねねに言えば認められる。
反面、義理になる長政は秀吉・ねねはもちろん、やや・幸長にも気を使う。窮屈だろうとかわいそうに思う時もある。ややは表には出ないが、奥を守り、日々を自由に楽しむ。

1598年、長重10歳で秀吉は亡くなる。ややの自由な暮らしは急変した。
家康が「長重を秀忠に仕えさせたいがどうか」と言ってくる。長重は早く父母のもとを離れ、兄たちに倣い武将として働きたいと思っていたが、二人は返事を延ばした。
1599年になると、政権はますます混迷し長政は家康の暗躍にはめられて、家康暗殺の謀議を図ったとされ謹慎処分となる。三男、長重(1588-1632年10月16日)は秀忠に仕えるために江戸に行く。家康に人質として差し出したのだ。長重はややの手から離れ、嬉々として出立したが。

長政は家康の力を高く評価していたが、家康のあまりの強引さに引くものを感じる。しかし家康の動きは的確で早い。豊臣政権は家康中心で運営されるしかないと考えた。
それでも、家康に屈するのは、秀頼への裏切りに通じないかとも悩む。誠実な武将なのだ。秀吉の望みは家康を核にした豊臣政権なのだと自らに言い聞かせる。

 長政が家康に従った行為は秀吉恩顧の諸大名に影響を与え、秀吉政権の行方を見守っていた諸大名が家康になびく一因となる。前田家のまつ、細川家の忠利と続々と江戸に人質として送られており、雪崩を打ったように家康支持者が増えていく。

関ヶ原の戦いが終わった。だが、長政の考えた家康を中心にした豊臣政権は実現されず、豊臣政権は崩壊し家康の天下になった。長政は秀頼の心情を思い、家康に隠居を願う。
秀吉も家康も嫡男幸長を武将としての器量は長政より上だと評価していた。浅野家の中心は幸長に移っている。家康は長政にしばらく伏見で家康の側に居るよう言うだけだ。

長重は秀忠の小姓としてよく働き、関ヶ原の戦いでは人質として江戸にいた。
豊臣家一門、浅野家の人質だと、他の豊臣恩顧の大名ゆかりの人質から一目置かれ、江戸城内を得意げに闊歩した。長重は秀吉から特別可愛がられた記憶はなく、主君は秀忠だけで、豊臣家の行く末に関心はない。それでも戦い後、よく役目を果たしたと褒められ、特に厚く恩賞が下される。
1601年、13歳で下野真岡藩(栃木県真岡市)二万石を与えられ大名になり、家康の養女、臺雲院(だいうんいん)との結婚が決まる。

臺雲院は家康の姪になる。
家康の母お大の方の娘(家康の異父妹)天桂院と松平一門の竹谷(たけのや)松平家、家清(1566-1611)の間に生まれた娘だ。臺雲院は家康の娘としての格式で嫁入り支度がされ化粧料も用意される。長政の三男、長重には法外な好待遇だ。
長政は恐縮し後が怖いと思う。だが、長重は「秀忠様に仕えた功績が認められたのだ。」と舞い上がり元気はつらつだ。兄長晟はただの浅野家家臣だが、弟の長重は家康の娘婿であり大名となった。13歳で兄をはるかに出し抜きいい気分だった。

1605年になると、天下の情勢は家康の思い通りになった。長政が家康の側で豊臣後継を気取る必要はなくなる。そこで、長政は人質を兼ねて江戸桜田屋敷を与えられ、ややと共に移る。
ややもかっての天下人の義妹としての気ままな暮らしは終わったと知る。幕府の意向に沿って動きは制限されるのだ。ねねと「今生でお会いできるのは最後」と別れを惜しむ。
それでも、江戸詰めの長重の側での暮らしが始まるのは楽しい。長年心待ちした暮らし でもある。
1606年、長政はようやく隠居を認められ、長重に隣接する地、常陸真壁藩(茨城県桜川市真壁町)5万石を隠居料として与えられた。長政は大喜びで、幕府の許しを得て再々真壁に戻り、ここが終の棲家だと弾んだ声で話しながら城づくり、城下の整備に励む。
ややは江戸を離れることはできないが、長政の笑顔に真壁を思い描く。

長重は父母の側で浅野家の分家として一家をなした自覚にあふれ、秀忠に仕えた。父母に一番愛された子であるのが誇らしくうれしい。

家康は豊臣家を好きではないが、秀頼が健在な限り豊臣一族との縁戚はまだ必要と考えていた。
長重のいとこ木下延俊(ややの兄家定の三男)の娘と松平家一門、桜井忠重(1601-1639)とを結婚させている。延俊(1577年-1642 年2月6日)は、細川忠興の妹、加賀姫を妻にした縁で細川家とともに行動し、豊臣縁者でありながらも信頼され、一門扱いされた。
長重の妹、智相院は松平定勝(お大の方の子、家康異父弟)の三男定綱と結婚した。長重の妻のいとこでもある。

長重は妻、臺雲院との仲はよく1610年、嫡男、長直が江戸屋敷で生まれる。
長政(1547-1611)も家康の孫の誕生だと祝福し、徳川一門の家柄になったと大満足だ。
翌1611年、長政64歳は笑顔を浮かべ後を長重に託し領地、下野国塩原で亡くなる。
長重が葬儀一切を兄、幸長の指示を受けながら真壁で取り仕切る。父、長政の遺志だ。長政の遺領を長重が受け継ぐ。

続いて、1613年兄、幸長が亡くなる。
長重25歳は浅野本家を継ぐ時が来たと興奮状態だ。父長政は長重が浅野家を継ぐことを願っていた。兄、幸長を引き継ぐ力を持っている自信があり、後継になりたいし、なれるはずだと考える。最悪でも次兄、長晟と浅野家は二分割されると予測する。
だが、長晟がすべて引き継いだ。

長重は失意の中で、大坂の陣に臨む。豊臣家と決別し、家康の孫の家系としての力を見せるしかないと勇気を奮い起こし豊臣方と戦う。兄、長晟に負けない働きをすると必死だ。
長晟より活躍したと自信があったが、恩賞は少なかった。
長晟には、家康の実の娘との結婚という値千金の恩賞が与えられた。長重は頭を打ちのめされたような屈辱を必死で耐える。

1622年、長重は秀忠から大坂の陣の褒賞だと常陸国笠間藩(茨城県笠間市)5万3千石余りへの加増を言い渡された。旧領真壁5万石に新地3千石余が加わっただけだが。
以前から、「幕府の為によく働いた」と秀忠から長重に大幅加増の上での国替えを伝えられていた。だが、長重は父長政の思い出の地を離れたくないと、固辞し続けた。
長重は父長政の遺志を認めない秀忠、幕府に対し積もり積もった欲求不満があった。後々を思えば軽はずみな判断だが。秀忠は不満に思いながらも長重の思いを理解したが。

1627年、長重の妻、臺雲院が亡くなる。長重の宝を失った寂しさだった。
松平一門としての縁が薄れたと肩を落とす。江戸城内での序列は浅野本家、長晟と分家の長重では歴然とした差がついている。兄の先を行っていると豪語した昔が懐かしく、また恥ずかしい。長晟も長重の思いを汲み、精一杯思いやるがかえって煩わしい。

1632年10月16日、長重44歳で妻を追うように亡くなる。思い通りにならないむごい人生だったと振り返り、すべて胸に納めたままで。嫡男、長直(1610年-1672年9月15日)にはただ常陸国笠間藩を守り抜くようにとだけ遺言する。長直は守れず播磨国赤穂藩に移されるが。

長直の嫡男が長友だ。長友の嫡男が長矩、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)となる。
長矩(ながのり)は赤穂藩も守れず改易された。


5.阿久里姫、浅野内匠頭長矩の妻

長晟は兄、幸長に「妻を迎えたい」と願い、幸長も考えた。だが実らなかった。
備中足守藩主となっても、兄の指示をおとなしく待っていた。だが、予想外の幸運で浅野本家の家督を継いだ。

その時、「もう誰にも遠慮はしない」と公然と京都屋敷に愛する女人を入れる。
日下(くさか)秀柴の娘だ。1614年5月4日、山城国(京都府南部)の実家に戻り長子、長治が生まれる。腹心、沢田公夏を守り役とし、いずれは嫡男にするつもりだ。
振姫との結婚前であり、光晟が生まれる三年前だった。

日下(三輪)秀柴(-1617年)は明智家の縁戚であり、細川家の重臣になる。武将として勇猛でありながらも、吉田神道家・稲荷神社の神職、羽倉家に繋がる学識に優れた家柄だ。妻として不服はなかった。
だが、和歌山藩主の妻として幕府の許しを得る自信はなかった。長治を嫡男と申し出る時が来れば、公にすればいいと軽く考えそのままにしていた。
ところが、大坂の陣が終わると、長晟は振姫と婚約する。予期しない吉事に家中は喜びに包まれ、長晟も正直、胸が高鳴った。だが、振姫を迎えるためには、長治や生母は不要の人だ。申し訳なく胸に迫る思いがあるが、結婚を前に二人とも隠す。

まず長晟がすべき事は外様の浅野家、和歌山藩を守ることだと、ためらいなく振姫を迎える。振姫は結婚後まもなく家康の孫、光晟(みつあきら)を生み、亡くなる。
長晟は嘆き悲しみ大切に祀る。以後妻を迎えることはない。

光晟を嫡男と幕府に届けると、振姫に気を遣った日々から解放されたのだと、じわじわ安堵感が広がっていく。長治を引き取らなくてはならないと使者を出す。生母は再婚しており迎えることはできないが、弟、窪田秀正が付き従う。
長晟は長治と対面する。ずっと嫡男とするつもりだった大切なわが子だ。「苦労を掛けたがもう心配はない」と優しく言葉をかける。

1619年、西国、安芸広島藩に大幅加増の42万石で国替えとなる。
長晟は光晟の無邪気な笑顔と長治の恥じらう笑顔を見ながら、運の良さに身震いするほど感動し、必ず浅野家を守ると誓う。
広島は不穏な情勢だった。幕府のだまし討ちとも思える前藩主、福島正則の改易に同情する領民や、浪人となった家臣縁者が数多く残っているのだ。反幕府行動をとりかねない広島の地の治安を維持し、親徳川の地にするのが、長晟の藩主としての使命だ。
長晟は和歌山藩でも同じことをしてきた。今度はより力強く家康の孫、光晟を前面に押し出し幕府と協力して治安維持に努め、広島での浅野藩政を築いていく。

 この時、浅野家筆頭家老で後継に長重を推した浅野知近を、長晟に不忠だと親子共に成敗する。長重支持派を藩内から一掃し長晟体制を構築し、家中を引き締めるが藩政の安定に一番必要だと冷たく決断した。

光晟と家光養女、満姫(前田利常・秀忠娘、珠姫の三女)(1619~1698)との婚約が決まる。家光との関係は良好で、広島藩浅野家は前途洋々だ、と確信する。
そして、長年の懸案、弟長重との和解を目指す時だと考える。長重の娘うわ姫と長治の結婚を決める。
長治に叔父、長重を大切にうわ姫を妻とし慈しむよう、また浅野一族の安泰の為に光晟を主君として仕えるよう話す。1631年、江戸麻布屋敷で結婚式を挙げる。

 翌1632年、宿願を果たして、長晟は幸運に恵まれた生涯に感謝し亡くなる。前後して、将軍秀忠、長重も亡くなる。不幸が続き両浅野藩は慌ただしくなるが、後継の家康の孫、長直、光晟が威厳を持って家督を受け継ぐ。新しい藩主を支えると、家中はまとまった。

長晟は家康の孫、光晟が生まれた故に安芸広島藩を与えられた事を忘れないが、長治への愛情に変わりはない。長晟の遺領のうち備後三次藩5万石を長治に分け支藩とするようと遺言した。長治の思いは複雑だったが。

うわ姫と長治の仲は良かった。長治は光晟に何事かあれば浅野家本家を継ぐのはわが家系だと胸を張る。うわ姫は浅野本家を継ぐはずだったのは実家だと言う。それぞれの家系の不運を話し合うと後は笑いあうだけだが。長治とうわ姫は男子が生まれたらきっと夢がかなうと、男子が生まれるのを期待した。

光晟は1635年、満姫と結婚する。江戸城より桜田浅野家上屋敷への輿入れだ。浅野本家は将軍家と一層強い縁戚になる。
1637年には嫡男、綱晟。1644年、次男、長尚。1652年、三男、長照と次々誕生する。

長直は1645年西国、赤穂に国替えになる。
遠い西国への移転費用は小藩には大きすぎる出費だ。しかも笠間藩には城郭があったため幕府は特別に赤穂城築城を許可した。形式的に受ければいい幕府の内意だが、長直は築城に熱心に取り組み1648年から13年の歳月をかけ、城下の整備、上水道の設備も築き上げる。あまりに大きな出費で、商工業の育成に励み赤穂塩の経営も始めるが財政は苦しい。
安芸広島藩、浅野本家と赤穂藩、浅野家とはここで明暗が分かれた。

支藩の広島三次藩でも果たせない夢を見続ける二人がいた。
長治もうわ姫も男子が生まれ三次藩、運が良ければ広島藩を引き継ぐと言い続けた。二人は長い間、父・義父の思いに応えると言い続けたが、困難だった。
長治は国元、三次に側室を持ち男子の誕生に賭けたがこちらにも生まれなかった。光晟には三人の男子が次々生まれる。しかも母満姫は将軍家光の養女であり、天下第二の加賀前田藩の姫だ。外様藩にとっては最高の嫡男であり、男子だ。
本藩の幸運と、支藩の不運を受け入れざるを得なくなる。二人とも悔し涙をそっと流す。

うわ姫と長治は男子の誕生をあきらめるしかないと話し合う。どんなに子を願っても現実は冷たい。長治は、三次藩政に熱い思い入れを持って取り組み、成果を上げたと自負している。三次藩を守るため、養子を迎える苦渋の決断をする。

1657年、長治43歳でうわ姫と共に、光晟の次男、長尚(1644-1666)を養子にする。本家を継ぐどころか、本家から養子を迎えてしまったと二人は顔を見合わせ苦笑いだが。
1666年、長尚が亡くなり、光晟の三男、長照(ながてる)(1652-1705)を新たに養子にし後継とする。

長治とうわ姫は、人生とはこんなものかと悟り始め、老境に入っていく。落ち着いた静かな日々だ。その時、1669年、阿久里(あぐり)姫(1669-1714)が三次で生まれる。長治55歳で授かった最後の子だ。
長治は忘れていた感動に酔う。阿久里姫のあどけない無邪気な笑顔に魅せられ溺愛する。
うわ姫は長治から聞くばかりだが、孫のように思え嬉しそうに相槌を打つ。阿久里姫は生母、お石の方の愛情に包まれて、自然に恵まれた風光明媚な三次でおおらかに育つ。

1672年、赤穂浅野藩主、長直(1610年-1672年9月15日)が亡くなり、嫡男、長友(1643年11月4日-1675年2月20日)が後継になる。
うわ姫は甥、長友の嫡男、長矩と阿久里姫の結婚を考える。両家の緊密な関係は父の遺志だ。長治も三次藩と赤穂藩が強い?がりを持ち、本家を支えるのは重要なことだと自嘲を込めて話し合う。

長治は老い先は短いと感じ、阿久里姫を広島藩本家からの養子、長照(ながてる)の養女とする。娘を養子の娘としたのだ。
広島藩主の弟、将軍の養女満姫を母とする長照の娘として嫁ぐことが阿久里姫の将来にふさわしいと考えた。阿久里姫は三次藩の姫というだけではなく、広島藩主の姪姫となる。

1675年2月13日、 長治61歳はうわ姫に看取られ、長照に後を託し江戸で亡くなる。
続いて、2月20日、赤穂藩主、長友が亡くなる。
長矩(1667年9月28日-1701年4月21日)8歳が赤穂藩浅野家の家督を継ぐ。

 豊臣家と徳川家で争った頃を知る長老は皆亡くなり、徳川幕府の権威はゆるぎない天下泰平の時代だ。光晟(1617 年-1693年5 月27日)は藩主を退き隠居の身だった。
しかし、長治・長友の死は浅野家の危機だと、三次藩・赤穂藩の後ろ盾にならなければと張り切り乗り出す。満姫も健在で、家光の娘であり将軍家綱の姉だと胸を張り、架け橋を買って出る。
すぐに、阿久里姫と長矩の縁組を正式に幕府に願い許可を得る。わが子が三次藩主、孫娘婿が赤穂藩主だ。徳川ゆかりの浅野3家として繋がったと光晟と満姫は自画自賛した。

父の死の翌年1676年、阿久里姫は7歳まで過ごした三次を後にし三次藩江戸今井、下屋敷に向う。母お石の方(壽光院)がずっと付き添い心強くわくわくする出立だ。江戸への旅も楽しくご機嫌だった。
養母、うわ姫は病いに臥せっていたが、初めて対面する。すくすくと育った阿久里姫は旅の様子を話し、元気づける。うわ姫は阿久里姫を待ちかねていた。嬉しそうに、二人でのくつろいだ時間を過ごし、ほっとした笑顔を見せて亡くなる。
長照は大歓迎で阿久里姫を迎え、長治の意向を守り豪華な嫁入り調度をしつらえる。阿久里姫は本家の光晟や綱晟(1637年6月21日- 1673年2月18日)からの祝福を受け、広島藩主一門であることを自覚し、結婚を心待ちにする。

1678年、阿久里姫9歳は結婚に備え、赤穂藩江戸鉄砲州、上屋敷に移る。長矩の母、祖母と次々亡くなり女主人がいない淋しい状況が続き、阿久里姫主従を待ちわびていた。
阿久里姫は母に付き添われての赤穂藩屋敷入りで、格式張った儀式ではなく近所に遊びに行く感覚だった。それでも屋敷の雰囲気は一変する。
阿久里姫の元気にはしゃぐ姿に家中が微笑み、屋敷の堅く沈んだ雰囲気が明るく変わっていく。阿久里姫は光晟・満姫の孫だと思っていた。本家の姪姫が赤穂藩を明るくすると張り切っていた。
阿久里姫の赤穂藩に果たした役割は、後世に伝えられるよりはるかに重い。

 

|ホーム城の四方山話動画空撮合成ご利用例お問い合わせ

このページのコンテンツには、Adobe Flash Player の最新バージョンが必要です。

Adobe Flash Player を取得

このページのコンテンツには、Adobe Flash Player の最新バージョンが必要です。

Adobe Flash Player を取得

このページのコンテンツには、Adobe Flash Player の最新バージョンが必要です。

Adobe Flash Player を取得

>城の四方山話 トップ