浅野家は江戸初期1619年から幕末まで変わらず安芸広島藩を治め広島城を居城とした やや(・・)は1552年、尾張朝日村(愛知県清洲市)に生まれる。父は杉原定利(ー1593年3月8日)、母は朝日だ。次女に生まれ、長女がねね(・・)で、兄に家定がいる。 母、朝日は夫、定利の出世が遅いのにやきもきしながら、3人の子育てに忙しくしていた。そんな時、母の姉、七曲(ななまがり)から「ねねを養女に欲しい」と頼まれる。 浅野家は、浅野(一宮市浅野)に城を築き周辺を勢力下におく土豪だ。始祖をたどれば、清和源氏頼光に繋がり美濃国守護、土岐氏の庶流になる名門だ。 長勝の姉は安井重継に嫁ぎ、三人の男の子が生まれた。 木曽川流域は尾張の織田氏と美濃の斎藤氏の領地争いが激しく続いた地域だ。川並衆も両陣営からの求めに応じて戦いがあれば武将として戦う。傭兵であり、示される利益に応じて敵味方になることも再々だ。だけど、普段はそれぞれ昔から縁戚関係が続く親しい間柄だ。そのため、命を賭けるほどには戦わず、なかなか決着はつかず、織田氏は怒るが。信秀・信長が出るまでは美濃との縁が強い。 川並衆を率いるのは蜂須賀(はちすか)氏だった。その当時の武士の家格では杉原家が一番下で、上に浅野家があり、その上に安井家となる。そのまた遙か上に蜂須賀家がおり、尾張清洲の西、蜂須賀村(愛知県海部郡美和町)を治め、独立した勢力を保っていた。 木曽川の終点で伊勢と尾張を結ぶ水陸の交通の要の地、津島をまとめるのが大橋家だ。海でも川でも陸でもと幅広い交易で莫大な利益を上げた。大橋家の富と権力は織田信秀(信長の父)の脅威となるほどで、津島の支配者でもある。 安井重継の姉は蜂須賀正利(まさとし)(1504年-1553年)に嫁いだ。正利は大橋氏から正室を迎えていたので、側室だったが。 重継の姉と子の小六(正勝)(1526年-1586年7月8日)は行き場を失い、安井家に戻される。正勝が六歳の時だ。 安井家に引き取られた小六は重継の弟のように育ち、群を抜いた才知で頭角を現し川並衆をまとめていく。正利の亡くなった1553年、蜂須賀家の後継が決まると、重継は小六を養子とし安井家の跡継ぎとする。浅野家の血筋を受け継ぐわが子より蜂須賀家の血筋を受け継ぐ小六が後継にふさわしいと家中が一致した。 七曲は杉原家の中で最も頭が良いと評判のねねを養女に希望した。母、朝日は喜んで応じる。ねねは8歳になると清洲の叔母、七曲の家に移り住む。 秀吉・ねねは、ややより早く結婚し、秀吉は信長に従い順調に出世していく。そして、長政を、迷惑をかけたと義弟として引き立てていく。次第に、ややとの仲も親密になる。 1576年、長政29歳で、嫡男、幸長(1576-1613)が生まれる。 西国諸大名の取り次ぎを命じられた石田三成はその調整に大きな成果を上げ、次々有力大名を配下にしていった。秀吉の評価は上がった。 長政は三成ほどの切れはないが、複雑で名門揃いの関東の諸大名に対し誠実に相手を重んじ取り次ぎの役目を担った。長政は精力的に利害を調節し、秀吉に忠誠を尽くすよう求め、領地を査定していくが、独立心の旺盛な武将ぞろいで難航する。「時間が掛かりすぎる。早く従わせるように」と秀吉は機嫌悪く言い放った。 長政は下野(しもつけ)の戦国大名、宇都宮国綱に3男、長重を婿養子に送り込む事で宇都宮家を配下に置こうとした。宇都宮家・小山(おやま)家・結城家との交渉を通じて、それぞれの一族に魅力を感じ縁戚となることで秀吉に仕えさせたいと考えた。だが結局、秀吉は強硬路線で押さえ込み、長政の思いは実らなかった。 しばらく後、長政が思い通りには仕切れなかったと悔やむ関東7か国を新領となった、家康はうまく治める。以後も長政は関東諸大名の取次の役目をこなしていく。 家康も長政と秀吉の隙間風を感じ、長政との友好関係は価値あると積極的に近づく。反対に、秀吉の思いにうまく答える三成に対して、家康は厳しく対応し敵対して行く。 |
1576年、幸長は秀吉の領地近江長浜城下、近江国浅井郡小谷(滋賀県長浜市湖北町)で生まれる。待ち焦がれた嫡男の誕生に「最高の男子だ」とややとともに家中で浮かれ、酔いしれた。秀吉の側近として頭角を現していた時であり、浅野家は日の出の勢いだと笑いが止まらない。 幸長の初陣は、1590年の北条征伐(小田原の役)で父に従っての岩槻城を攻めだ。幸長は秀吉が感心する勇猛な戦いぶりを示した。秀吉は褒め、同じ年齢の前田利家とまつの五女、与免姫との婚約を決めた。 秀吉はすぐに幸長と池田輝政の妹、慶雲院との婚約を決め、結婚させた。豊臣秀次の妻、若御前も輝政の妹だ。幸長は輝政、秀次と義兄弟としての縁戚付き合いを始める。ここから秀次との深い縁が生まれ、秀吉は幸長を秀次付きとする。 1593年、秀吉は幸長に期待し、長政とともに甲斐国(山梨県甲府市)21万5千石(長政に5万5千石、幸長に16万石)を与える。 賢明な幸長は、両親の苦悩を感じ分別を持って接する。だが、関白となった秀次の弟のような存在となり、秀次の側近中の側近として深く政治に関わっていく。 秀吉は秀次を憎み、自らがつけた側近にもかかわらず秀次側近に厳しい処分を下した。幸長も連座責任を問われる。だが、秀吉は幸長をいずれ秀頼に仕えさせたいとの思いもあり、能登(石川県北部)への流罪とする。 秀吉が亡くなり、朝鮮からの撤退が決まる。幸長は朝鮮での戦いのさなかだった。 日本国内では家康はすでに動いていた。幸長の帰りを待っていたように家康の娘婿、池田輝政が熱心に働きかけてくる。輝政33歳が幸長23歳に、義兄として家康の言葉を伝える。「浅野家当主として高く評価している。家康の力になって欲しい」と。 幸長は豊臣家のために三成を除く必要があると考え、家康が政権運営を主導することに賛同する。1600年、徳川家康率いる東軍に属して池田輝政らと岐阜城を攻め、関ヶ原の戦いでは南宮山の毛利秀元、長束正家などの西軍主力勢に備えた。豊臣勢の押さえに、秀頼のいとこ(養母ねねの甥)幸長が立ちはだかり、効果は大だった。 家康の縁戚だと扱われた幸長と違い、長政は前田家と同じ豊臣恩顧の扱いだった。家康襲撃事件に関与したと追及され三男、長重を人質として江戸に置く。謹慎の後、後詰の秀忠に従い中山道を進んだ。華々しい戦いはない。 戦後の論功行賞では、幸長は秀吉の甥であり豊臣家の後継にもふさわしい武将だと扱われた。浅野家が家康に従い、豊臣恩顧の諸大名が家康支持に傾くのに役立ったと評価した。 父長政、弟長重は江戸詰とされ、人質となる。幸長は浅野家当主として、与えられた膨大な領地を守るために、幕府に尽くさなければならない。 家康は秀吉と同じく、幸長を父長政より技量、才覚ともに優れていると評価した。まだ豊臣家が健在であり、浅野家を家康の縁戚として取り込む必要があると、幸長の娘二人に結婚話を持ち込む。 家康の娘督姫の夫が、輝政で、幸長の妻であり姫たちの母は輝政の妹、慶雲院だ。 家康は豊臣家の後継を浅野家とみなし深い縁戚を結ぶ。大坂城の秀頼が豊臣後継ならば、家康も豊臣後継にふさわしいのだと見せつける。豊臣恩顧の諸大名へ秀頼離れを促す。 まず、大坂城に籠ったまま臣下の礼をとらない秀頼をいかなる理由をつけても、家康の居城で、家康の下座に座らせるよう望まれた。幸長も秀頼が下座に座ることで豊臣家が存続できるならばやむを得ないと考える。1611年、加藤清正と協力し二条城での家康と秀頼の対面を実現させる。この時点で、豊臣家は徳川家に従ったと皆が納得する。 幸長は家康の天下を認めながらも豊臣家の存続を願った。1611年、長政は64歳で亡くなると、1613年、幸長も和歌山城で37歳で急死する。大坂の陣の前年だった。 それからの宇喜多家の活躍はめざましい。家老の岡氏、戸川氏らが宿場宿場に馬と食料を準備し、小西行長が石田三成に渡し秀吉軍に行き渡らせた。 秀吉に代わり毛利勢の監視をする役目を宇喜多勢は頼まれ引き受けた。毛利輝元も様子眺めで動かず、宇喜多勢には良い休養となった。お福は戦いのない暮らしを始めてじっくり味わった。とてもいい気分だ。 秀吉が織田家の主導権を握ったとの報が届く。お福は、秀吉の妻だった夢の一時は終わったと知る。 信長の後継者への道を進む秀吉から、自信に満ちた便りが届く。「秀家に会えないのが寂しい」とのうれしい便りだ。秀吉と共に過ごしたときから一年以上経っていた。その間、お福は幼君、秀家の母として藩政に携わる。母として宇喜多家のために生きるのに、心地よい幸せを感じた。 秀吉は天下普請で居城、大坂城を築く。宇喜多家には大坂城下に屋敷地を与えた。秀吉に命じられすぐに、宇喜多家の屋敷の建築を始める。 秀吉からお福に、側室としての待遇で大坂城、二の丸に屋敷を与えるという申し出があった。身分も保障され、十分な手当が支払われると言う。だが、断り、庵(いおり)だけを願う。以後、お福は秀吉を庵に迎え、備前焼の茶道具でもてなし茶飲み話をする関係となる。秀吉は秀家に、直家以上の所領、岡山藩57万4千石を与えた。 |
長晟(ながあきら)は1586年、長政・ややの二男に生まれる。 杉原家は、家次が近江国坂本城を与えられ、丹波福知山3万2千石藩主にまでなるが、1年余りで1584年、急死した。嫡男、長房(1574-1629)が改めて秀吉に仕え、後に但馬豊岡2万石の領主となる。秀吉から重要視されなかった。その分、秀吉との縁は薄いと、関ヶ原の戦いで西軍に属しても所領安堵される。 木下家は勝俊(家定嫡男)(1569-1649)が若狭国8万石、利房(家定次男)(1573-1637)が若狭高浜2万石、延俊(家定三男)が家定と共に姫路城2万5千石をそれぞれ得た。家定が備中足守に2万5千石を得るのは関が原の戦い後。 ねねは兄の家系を重んじたかったが、妹ややの家系、浅野家が次第に豊臣政権の中枢で頭角を現していく。秀吉は杉原家を気に入らず、木下家はねねの縁戚として優遇されるが。 長晟は兄幸長のようになると、うきうきと秀吉に仕えた。だが秀吉が亡くなり、ねねも召し抱えることはなく、兄幸長の家臣となるしかない。将来が不安になり呆然とする日を過ごす。 ねねは秀吉からの遺領、1万5千石を化粧料として優雅に暮らし、家康・秀忠との親しい関係も続いた。そして、終の棲家、高台寺(こうだいじ)の建立を決めた。 1608年、ねねは高台寺に移り安らかな暮らしに入っていた。その時、兄の備中足守藩2万5千石藩主、家定が亡くなる。 ねねは、家康が家定の遺領すべて取り上げると息巻いていると聞く。兄家定が一番頼りにした勝俊にいくらかでも相続させたいと、長晟に家康との取り次ぎを頼む。 家康はねねの言い分に聞く耳を持たなかったが、取り次ぎをした長晟の態度の良さが気に入った。そこで、木下家から備中足守藩を取り上げ、長晟に与える。予想外の展開となり長晟22歳で、弟長重にはるかに遅れてようやく大名になる。 長晟は、秀忠は足守藩を木下家が引き継ぐ事をねねに認めている、と自らを戒める。 長晟は、家康は弟、長重を気に入っていると思い込んでいた。今まで家康から相手にされず、ひたすら兄に従い豊臣信奉者の多い和歌山藩内の治安維持と安定のために働いた。 長晟は兄、幸長に「妻を迎えたい」と願ったこともある。幸長も考えたが、家康の養女を妻にした長重に負けない結婚相手を見つけるのは難しかった。家康に「長晟の妻に家康ゆかりの姫を迎えたい」と願ったが返事がなく、長晟に答えられなかった。 1613年、幸長が亡くなる。長晟は兄の突然の死を疑いながらも淡々と受け止めた。幸長に嫡男はなく、次男長晟か三男長重のどちらかが家督を継ぐよう、幕府が決めるはずだ。 長晟は秀吉に可愛がられた過去があり、長重は秀忠に気に入られていた。長晟は長重が後を継ぐだろうと覚悟した。 家康は長晟をすぐ下の弟が後継にふさわしいと指名した。 豊臣家と徳川家は険悪な雰囲気になっていた。秀頼は和歌山藩内に潜む浪人や、浅野家臣に、好条件での仕官の誘いを頻繁にしていた。一獲千金を夢見て大坂城入りする武将が次々出てくる。 家康は豊臣家の存在を嫌ったが、秀吉の天下が15年以上続き皆が臣従したのは事実だ。そのため、秀吉を拒否するのではなく、受け継ぐのが家康だと表明することで、内乱を最小限に収めて強固な江戸幕府を築こうとした。豊臣家を引き継ぐ家系として浅野家を選び、長晟は家康の眼鏡に叶った。 1616年、振姫36歳と長晟30歳の結婚式が執り行われる。年を重ねたが、長年夢見た最高の妻だ。長晟は振姫を敬い惜しみない愛情を注ぐ。 長晟は悲痛にくれるが、光晟が後継だと高らかに宣言した。幕府は光晟を徳川一門とし、安芸広島藩42万石への国替えを命じる。 |
長重は1588年に生まれた長政・ややの末の男子だ。 秀吉は主に話し合い路線で全国平定を進めた。この方法では臣従すれば、多少領土を削るが基本は安堵となってしまう。戦い奪い取る場合に比べ秀吉政権の領土は増えない。 幸長はすでに秀吉に仕え、重宝され側を離れられないほどだ。ねねはまだ2歳の長晟を再々呼び寄せ離さないほどのお気に入りだ。「二人とも(秀吉・ねねに)取られてしまった」と長政はほろ苦さを感じていた。ややも嬉しくもあり、さびしくもあった。 ややは「長重だけは成長するまで手元を離さない」と言う。浅野家は出世し小浜城から、甲斐甲府城と居城を移すがやや長重らを連れて行き伸び伸びと育てる。京に在中を義務付けられる大名が多い中、ややは自由だ。子育てにはねねの妹で良かったと思う時も多い。 天下人の妻ねねとは立場が違うが、姉妹として気軽に話す。ねねが伏見と大坂を自由に行き来するように、ややも京と甲斐を行き来したいとねねに言えば認められる。 1598年、長重10歳で秀吉は亡くなる。ややの自由な暮らしは急変した。 長政は家康の力を高く評価していたが、家康のあまりの強引さに引くものを感じる。しかし家康の動きは的確で早い。豊臣政権は家康中心で運営されるしかないと考えた。 長政が家康に従った行為は秀吉恩顧の諸大名に影響を与え、秀吉政権の行方を見守っていた諸大名が家康になびく一因となる。前田家のまつ、細川家の忠利と続々と江戸に人質として送られており、雪崩を打ったように家康支持者が増えていく。 関ヶ原の戦いが終わった。だが、長政の考えた家康を中心にした豊臣政権は実現されず、豊臣政権は崩壊し家康の天下になった。長政は秀頼の心情を思い、家康に隠居を願う。 長重は秀忠の小姓としてよく働き、関ヶ原の戦いでは人質として江戸にいた。 臺雲院は家康の姪になる。 1605年になると、天下の情勢は家康の思い通りになった。長政が家康の側で豊臣後継を気取る必要はなくなる。そこで、長政は人質を兼ねて江戸桜田屋敷を与えられ、ややと共に移る。 長重は父母の側で浅野家の分家として一家をなした自覚にあふれ、秀忠に仕えた。父母に一番愛された子であるのが誇らしくうれしい。 家康は豊臣家を好きではないが、秀頼が健在な限り豊臣一族との縁戚はまだ必要と考えていた。 続いて、1613年兄、幸長が亡くなる。 長重は失意の中で、大坂の陣に臨む。豊臣家と決別し、家康の孫の家系としての力を見せるしかないと勇気を奮い起こし豊臣方と戦う。兄、長晟に負けない働きをすると必死だ。 1622年、長重は秀忠から大坂の陣の褒賞だと常陸国笠間藩(茨城県笠間市)5万3千石余りへの加増を言い渡された。旧領真壁5万石に新地3千石余が加わっただけだが。 1627年、長重の妻、臺雲院が亡くなる。長重の宝を失った寂しさだった。 1632年10月16日、長重44歳で妻を追うように亡くなる。思い通りにならないむごい人生だったと振り返り、すべて胸に納めたままで。嫡男、長直(1610年-1672年9月15日)にはただ常陸国笠間藩を守り抜くようにとだけ遺言する。長直は守れず播磨国赤穂藩に移されるが。 長直の嫡男が長友だ。長友の嫡男が長矩、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)となる。 |
長晟は兄、幸長に「妻を迎えたい」と願い、幸長も考えた。だが実らなかった。 その時、「もう誰にも遠慮はしない」と公然と京都屋敷に愛する女人を入れる。 日下(三輪)秀柴(-1617年)は明智家の縁戚であり、細川家の重臣になる。武将として勇猛でありながらも、吉田神道家・稲荷神社の神職、羽倉家に繋がる学識に優れた家柄だ。妻として不服はなかった。 まず長晟がすべき事は外様の浅野家、和歌山藩を守ることだと、ためらいなく振姫を迎える。振姫は結婚後まもなく家康の孫、光晟(みつあきら)を生み、亡くなる。 光晟を嫡男と幕府に届けると、振姫に気を遣った日々から解放されたのだと、じわじわ安堵感が広がっていく。長治を引き取らなくてはならないと使者を出す。生母は再婚しており迎えることはできないが、弟、窪田秀正が付き従う。 1619年、西国、安芸広島藩に大幅加増の42万石で国替えとなる。 この時、浅野家筆頭家老で後継に長重を推した浅野知近を、長晟に不忠だと親子共に成敗する。長重支持派を藩内から一掃し長晟体制を構築し、家中を引き締めるが藩政の安定に一番必要だと冷たく決断した。 光晟と家光養女、満姫(前田利常・秀忠娘、珠姫の三女)(1619~1698)との婚約が決まる。家光との関係は良好で、広島藩浅野家は前途洋々だ、と確信する。 翌1632年、宿願を果たして、長晟は幸運に恵まれた生涯に感謝し亡くなる。前後して、将軍秀忠、長重も亡くなる。不幸が続き両浅野藩は慌ただしくなるが、後継の家康の孫、長直、光晟が威厳を持って家督を受け継ぐ。新しい藩主を支えると、家中はまとまった。 長晟は家康の孫、光晟が生まれた故に安芸広島藩を与えられた事を忘れないが、長治への愛情に変わりはない。長晟の遺領のうち備後三次藩5万石を長治に分け支藩とするようと遺言した。長治の思いは複雑だったが。 うわ姫と長治の仲は良かった。長治は光晟に何事かあれば浅野家本家を継ぐのはわが家系だと胸を張る。うわ姫は浅野本家を継ぐはずだったのは実家だと言う。それぞれの家系の不運を話し合うと後は笑いあうだけだが。長治とうわ姫は男子が生まれたらきっと夢がかなうと、男子が生まれるのを期待した。 光晟は1635年、満姫と結婚する。江戸城より桜田浅野家上屋敷への輿入れだ。浅野本家は将軍家と一層強い縁戚になる。 長直は1645年西国、赤穂に国替えになる。 支藩の広島三次藩でも果たせない夢を見続ける二人がいた。 うわ姫と長治は男子の誕生をあきらめるしかないと話し合う。どんなに子を願っても現実は冷たい。長治は、三次藩政に熱い思い入れを持って取り組み、成果を上げたと自負している。三次藩を守るため、養子を迎える苦渋の決断をする。 1657年、長治43歳でうわ姫と共に、光晟の次男、長尚(1644-1666)を養子にする。本家を継ぐどころか、本家から養子を迎えてしまったと二人は顔を見合わせ苦笑いだが。 長治とうわ姫は、人生とはこんなものかと悟り始め、老境に入っていく。落ち着いた静かな日々だ。その時、1669年、阿久里(あぐり)姫(1669-1714)が三次で生まれる。長治55歳で授かった最後の子だ。 1672年、赤穂浅野藩主、長直(1610年-1672年9月15日)が亡くなり、嫡男、長友(1643年11月4日-1675年2月20日)が後継になる。 長治は老い先は短いと感じ、阿久里姫を広島藩本家からの養子、長照(ながてる)の養女とする。娘を養子の娘としたのだ。 1675年2月13日、 長治61歳はうわ姫に看取られ、長照に後を託し江戸で亡くなる。 豊臣家と徳川家で争った頃を知る長老は皆亡くなり、徳川幕府の権威はゆるぎない天下泰平の時代だ。光晟(1617 年-1693年5 月27日)は藩主を退き隠居の身だった。 父の死の翌年1676年、阿久里姫は7歳まで過ごした三次を後にし三次藩江戸今井、下屋敷に向う。母お石の方(壽光院)がずっと付き添い心強くわくわくする出立だ。江戸への旅も楽しくご機嫌だった。 1678年、阿久里姫9歳は結婚に備え、赤穂藩江戸鉄砲州、上屋敷に移る。長矩の母、祖母と次々亡くなり女主人がいない淋しい状況が続き、阿久里姫主従を待ちわびていた。 |