萩城四方山話

1.尾崎の局、毛利輝元の母 1527年- 1572年

毛利家の居城は吉田郡山城から、広島城へ、そして萩城に変わる。広島城・萩城を築城した輝元は吉田郡山城で生まれる。

輝元の母、尾崎の局は毛利隆元に嫁ぐ。
隆元は西国の覇者、元就(1497-1571)と妻、妙玖(みょうきゅう)(1499年-1546年1月2日)の間に生まれた嫡男だ。

母妙玖は1499年、安芸国の有力国人、吉川国経(吉川家嫡男)の娘として小倉山城(山県郡北広島町)で生まれる。
山陰地方の覇者、尼子経久(あまごつねひさ)の妻が国経の妹であり、妙玖の叔母になる。尼子氏嫡男、政久の母となり、吉川家は尼子氏の中でも存在感を増している。妙玖が生れた頃、吉川家は経久の義父の家柄として毛利家を上回る勢力だった。

1517年、尼子勢・武田勢と大内勢とが有田中井手(山県郡北広島町有田)の戦いを始めた。尼子氏対大内氏が後ろに控えているが、旧安芸守護の権威を取り戻したい武田元繁の領地拡大の戦いだ。その時、尼子経久は武田元繁を討ち果たした元就の卓越した戦術に目を留める。
経久は元就を味方に取り込もうと妙玖との結婚を持ち掛けた。吉川家と毛利家は領地を接し、元就の叔母、松姫は妙玖の兄、元経(1459-1522)に嫁いでいる。

毛利家は当主の元就の兄、興元(1492-1516)が亡くなったばかりで、家中が混乱していた。経久には、この機会に乗じて毛利家への影響力を強める狙いもあった。
毛利家では興元の嫡男、幸松丸(1515-1523)が後を継ぎ、元就が当主になる見込みはない。当主ではない元就には吉川家の娘との縁談は良縁だ。喜んで承諾する。
翌年、妙玖は元就の居城、多治比猿掛城(安芸高田市吉田町多治比)に嫁ぐ。当然、元就はしばらく、経久の配下に付く。

興元は幸松丸の後見として義父、高橋久光(1460-1521)と元就を指名し亡くなった。高橋氏は尼子方の石見(島根県西部)の有力国人だ。久光は外祖父として、すぐに毛利家の実権を握ってしまう。この時は、元就はどうすることもできず、ただ見ているだけでしかなかった。
妙玖と元就とは夫婦仲もよく、1519年に長女が生まれた。久光は、幼子の元就長女を孫嫁にすると高橋家に引き取る。
妙玖は長女と離れるのはつらかったが、両家の絆になるのだと言い聞かせ見送る。

1521年、高橋久光が亡くなる。ひたすらこの日を待っていた元就の出番が来た。押さえつけられていた悔しさが怨念となり、復讐心に変わる。
久光を継いだ若き興光(おきみつ)には元就に対抗できる力はなく、元就の入念な謀略に一族は分断され、かき回され滅ぼされた。だが、長女は殺された。
元就は長女の救出に積極的でなく高橋家を油断させるために最後まで利用した、と妙玖は感じた。ここで元就は尼子氏とは完全に決別した。   
妙玖には衝撃的な出来事だった。

続いて、1523年に待望の嫡男、隆元が多治比猿掛城で生まれ、1525年に次女、五龍局、1530年に元春、1533年に隆景と誕生する。
1523年、甥、幸松丸が亡くなり元就は毛利家の家督を継ぐ。妙玖は毛利家の居城、吉田郡山城に移り、奥を仕切る立場になる。
元就は26歳、周辺では一目置かれる存在であり武将として抜きんでて居た。待ちかねた当主の座だ。妙玖は複雑な気持ちだったが、毛利家当主の妻の座に責任を持つしかない。だが、いばらの道が待っていた。

1531年に父国経が亡くなり甥の興経(おきつね)が後を継ぐと、元就は吉川家を配下と扱い始める。興経は元就の態度が気に入らず、尼子氏・大内氏の間をうじうじと動く。
妙玖は吉川家を乗り越え、先を見ているような元就に不安を覚え、吉川家を守って欲しいと頼むが、元就は関心を持たない。

元就は周防の戦国大名、大内家に急速に近づき従い尼子勢との戦いを進めていく。
1537年には、13歳の隆元を大内家当主、義隆の本拠、山口に人質に出した。隆元は、義隆に気に入られ、西の京と言われるほどに高い文化を誇る山口で贅沢にもてなされた。

元就の戦いぶりは見事で、徐々に脅威を与えるまでになる。
ついに、1540年、尼子勢が元就を倒すと総力を挙げて吉田郡山城に攻め込んでくる。毛利勢だけではとても食い止められず、大内家の後ろ盾を頼む。その時、隆元が大内家の為に尼子氏と戦うようにと、吉田郡山城に戻ることを許され初陣となる。
妙玖は成長した隆元と再会し無事を喜ぶ。だが、隆元の大内氏を信奉する姿に寂しさを覚える。吉川家が元就の説得に応じず、尼子方に付いたのも悲しい。

広大な吉田郡山城に城下の領民を集め籠城戦で迎え撃つと決める。妙玖には始めて目の前で起きる血なまぐさい戦いだ。もちろん、女主としてひるむことなく先頭立って兵を鼓舞し、女子供を率い一丸となってできることは何でもする。

援軍の大内勢が到着し、毛利勢は尼子勢を追い返した。大勝利に家中は沸く。
妙玖は隆元の戦いぶりを目の当たりにし、毛利家嫡男を生み育てるという第一義の役割が終わったとしみじみ思う。
そして隆元が、尾崎局(おざきのつぼね)(1527年- 1572年)と出会い、義隆が結婚を持ち掛けたと嬉しそうに話すのを聞く。隆元と尾崎局は惹かれあっていた。

大内義隆は元就の勝利を喜び、尼子氏を倒すと燃えて1542年、第一次月山富田城の戦いに出た。元就・隆元も従う。だが、月山富田城で対峙している最中、元就の説得に応じ大内方に従ったはずの吉川勢が尼子方に裏切った。陣中での裏切りに大内勢・毛利勢は大混乱し敗退だ。
富田城からの悲惨な撤退戦(七騎落ち)は元就・隆元にここが討死の地と思わせたほどだ。逃げ戻った元就は負け戦の責任のすべてが吉川家の裏切りにあると激昂した。

妙玖は吉川家は高橋家と同じ運命だと覚悟を決める。元就の執念深さ、獲物は必ず捕まえる冷徹さ、味方をもだます巧妙な謀(はかりごと)を見続けている。
また、水面下で隆元と尾崎局との結婚の話が進み、妙玖は役割が終わったと感じる。
1545年の秋、妙玖は元就の偉大さと冷たさを感じつつ47歳で亡くなる。

1546年、元就は妙玖の死を悼み、義隆の養女、尾崎局と隆元の婚約が整ったのを機会に隠居表明する。尾崎局は長門守護代、内藤興盛の娘であり、義隆のいとこになる。
元就は主君の姫を迎える隆元こそ当主だと高らかに表明する。義隆や大内家重臣は元就の大内家への忠誠心の表れだと喜んだ。ここから大内家重臣と元就の距離感がなくなり親近感を増す。元就は隠居後も実権を掌握したままだが。

以後は、尾崎局が窓口になり元就の意を受けた者たちが頻繁に山口と安芸を行き来する。吉川家を乗っ取り安芸を手中にした元就は、きしみ始めている大内家の内情を探り、重臣の分断化をもくろみ、諜報活動に主力を移していく。

そして、元就はいろいろ理由をつけて結婚を延ばす。
山口に使者をだし結婚準備が整わないと言い続け大内氏の動向を探る。尾崎局も元就の動きに何か考えがあるのだと感じる。だが、尾崎局への丁寧な対応に、結婚を待ち焦がれながらも、準備に手間取っているのだろうと待つ。元就の目的が少しづつわかってくる。
だが、大内家中も隆元にも不満が募る。特に、隆元は「出会って以来12年の歳月が経っている。結婚を急いで欲しい」と元就に頼む。隆元は元就の慎重さが納得できない。

元就は安芸を治めるのに大内氏の名が有効であることを今更のように感じ、毛利家の勢力拡大の為に、大内氏の名を使う。吉川興経を無理やり隠居、殺害に追い込んだ時も大内氏の命令だと押し切った。義隆の命令を娘、尾崎局を通じて伝えるという構図で勢力の拡大を図った、尾崎の局は、元就の大義名分の役目を果たしているのを自覚している。また、大内家は元就の思うように命令を出す。元就は大内家の内情をほぼつかんだ。

周囲に押され元就は結婚を認める。
1549年、尾崎局22歳は隆元と結婚する。元就は吉田郡山城内に尾崎丸を築き新婚屋敷を建て歓迎した。ここから尾崎局と呼ばれるようになる。

翌1550年、元就は大内氏の命令として井上元兼らの悪事を暴き殺した。もちろん、尾崎の局の名を使い義隆の命令を受けた。井上一族は元就の家督引き継ぎを実現させた大恩ある同格の国人でもあった。元就の後見人を気取り、配下に収まらなかった。尾崎の局が、元就に与える大義の価値は偉大だった。
ここで、毛利家は有力国人の集合体の長から、有力国人を家臣としていく体制を整える。毛利家の絶対化を図り成功する。次の狙いは大内家に取って代わることだ。尾崎の局ももう気づいていた。

 隆元は山口で大内家重臣の内藤興盛や江良房栄、人質仲間の天野隆綱などと親交を結び、同年代の陶隆房(陶晴賢)や弘中隆包らとも親しくした。
帰国後は元就自ら彼らと緊密に連絡を取り合う。隆元は元就から無視されていると感じ
信頼されていないと疑いを持ち始める。

1551年、陶隆房(陶晴賢)が大内義隆を殺す。尾崎局は元就の予想通りになったと直感する。元就の長年の企ては大内家の内紛による滅亡だったのだ。このような展開までは読み切れず、恐ろしさに身が震える。
元就は常日頃、内藤家があるから大内氏との連絡を密にできると感謝している。内藤家と敵対することはないだろうが、内藤家・陶家の縁戚関係は長く入り組んでいる。将来が不安になる。

元就はすぐに、陶隆房(陶晴賢)支持の使いをだし、代わりに安芸の国をまとめる権限を与えてほしいと頼む。山口の治安維持と新しい体制づくりに忙しい陶隆房(陶晴賢)は了解する。以後元就は、大内氏の名を自由に使い、大内氏に臣従する国人を直接毛利家の配下としつつ、陶氏打倒の準備を固める。

尾崎の局は1553年に輝元、続いて津和野の局を生み、隆元との夫婦仲はよかった。
元就は準備が整い、1555年、陶氏勢に囲まれた吉見氏の救済のために、陶隆房(陶晴賢)へ叛旗ののろしを上げる。

吉見正頼(まさより)(1513 年- 1588年6 月15日)は津和野(三本松)城を居城とする石見の有力国人だ。吉見頼興(正頼の父)と大内義興(義隆の父)は京での足利将軍家の家督争いで共に戦って以来親しい関係が続き、正頼は大内義興の娘婿になる。陶隆房の謀叛の時、義隆は姉婿、正頼を頼ろうとした。だが、嵐で船が動かせず殺されている。
正頼は義隆を助けられなかったことを恥じ、陶隆房に屈せず対決した。元就と連絡を取り合って陶氏勢を引き付けた。勢力を津和野に残したまま陶隆房は元就に向う。  

元就の作戦は成功し厳島に陶隆房をおびき出し、討ち果たす。以後、元就は破竹の進撃を続け、1557年に大内氏を滅亡に追い込み、西国の雄になる。
尾崎の局は自分の果たした役割の大きさと、元就の偉大さに言葉もない。


2.南の方、毛利輝元の妻 1558-1631

1563年、隆元が急死した。尾崎局は元就と隆元のわだかまりを感じていたので、来るべき時が来たと驚かない。
元就はすぐに、輝元10歳を後継とし尾崎局を嫡男の母として毛利家の奥を任せる。母子の立場を確固とした。そして、輝元の教育を二人三脚で行い、元就と尾崎局は助け合う。

1571年、元就は亡くなる。その翌年、1572年、尾崎の局は45歳で亡くなる。
尾崎の局は毛利家と大内家中とを結び付け、毛利家の飛躍のために養家を滅亡に追いやる大きな仕事を成し遂げた。少しの胸の痛みと快感に浸り、会心の笑みを湛え逝く。

元就は輝元の妻に次女の五龍局の三女、南の方を決めていた。
五龍局(1525-1574)は元就と妙玖の間に生まれ育った唯一の姫になる。妙玖は殺された長女の分も合わせ惜しみなく愛を降り注いだ。五龍局は父母の愛を一身に受けて育ち、恐れを知らない、強くたくましい姫に育つ。
母、妙玖は亡くなるとき、五龍局は母の分身であり姉のためにも、毛利家のために尽くしてほしいと言い残した。五龍局に宍戸家の毛利家に果たす役割が大切なこと、その陰に高橋家の滅亡の歴史があることも話した。

1529年に元就は高橋氏を滅ぼした。高橋氏の領地を手に入れた元就は、その一部を手土産に隣国(安芸高田市甲田町)の有力国人、宍戸氏に同盟を持ち掛ける。宍戸氏と高橋氏は領地を巡り争っていた。その紛争の地を譲ると申し出て、元就が高橋氏を倒したことを見せつける。
宍戸氏と毛利氏も領地を巡り争いが続いていた。元就は安芸の盟主をめざすために宍戸家を味方にする必要があり、単身乗り込んで誠意を見せつつ同盟を願った。
宍戸氏は元就を力を見極め見込み、和解する。この時、五龍局と宍戸隆家とが婚約する。1534年、結婚。
ここで毛利・宍戸連合軍が誕生し、宍戸家は常に元就に従う。そして勇猛な働きをする。同格の名門、宍戸家が下に付き毛利家の家格を上げ、元就を安芸の盟主へと押し上げる。

五龍局は9歳で結婚し母の思いは理解できなかったが、夫、隆家(1518-1592)との仲は申し分なかった。夫は温厚な性格で、五龍局を敬い、けんかをすることはない。7歳年上の兄のようでもあり、いつもにこやかに五龍局の思うようにさせた。
二人の間には、嫡男、元秀。長女、次女、三女と4人の子が生まれた。

隆元には一男一女しか生まれなかったこともあり、元就は五龍局の子たちを大切にし毛利家の子として扱う。毛利家の為に重要な役割を果たすようにと言い結婚相手を決める。
長女は小早川隆景のために、瀬戸内水軍を統合する河野通宣に嫁がせる。
次女は吉川元春の嫡男、元長に嫁がせる。
三女、南の方は5歳年上の毛利家嫡男、輝元(1553年2月4日-1625年6月2日)だ。元就は南の方を幼い時からじっと見つめ、輝元と似合いだと決めた。
元就は五龍局の才覚を高く評価し、五龍局を受け継ぐ南の方の賢さを見込んだ。毛利家の当主の妻に選ぶほどに、宍戸家の毛利家への忠誠心は強く貢献度は高かった。
1568年、南の方10歳は幼なじみの兄のような輝元15歳に嫁ぐ。

結婚後、南の方は尾崎局と輝元の住む尾崎丸で暮らす。
義母、尾崎局は別棟だがすぐ側におり、洗練された輝くばかりの美しさを保っていた。
尾崎局は激動の世を生き抜いていたが、苦労の影を見せることはない。京仕込みのゆっくりした味わい深い言葉で南の方に話しかけ、豪華な衣装をまとい、山口から持ち込んだ数多くの蔵書を読み聞かせた。南の方は尾崎局の知識の深さと、喜怒哀楽を抑えた涼しげな表情振る舞いに圧倒される。
義母の抑揚を抑えながらも流れるような読み聞かせに、うっとりとしいつまでも聞いていたいとねだった。義母を尊敬し少しでも近づきたいと時間があれば側に行く。

 尾崎の局は元就の屋敷とも再々行き来する。結婚後は南の方も義母に従う。
南の方は、元就に幼い時から時々会い可愛がられた記憶があったが、近寄りがたい雲の上という思いがある。初めは緊張して言葉も出なかったが、次第に、孫娘として甘えていく。
「英雄、元就と仲良しだ」と一人得意になり、尾崎の局も「偉大な祖父をよく見ておきなさい」と笑う。

 1571年元就は病に伏せ、南の方も看病に出向き尽くしたが、亡くなる。
翌年、義母尾崎局が病に倒れる。今度は毛利家当主の妻としての力を見せる時が来たと、心を込めて看病する。死期を悟った尾崎局は初めて噛みしめるようにゆっくりと自分の生きた時代を振り返りながら話し、覚えておくようにと言い残した。南の方が目を見開き、声を弾ませ尾崎局と共に過ごせた期間は4年だった。

祖父、義母を亡くし、夫輝元は戦が続き留守がちだ。その寂しさを癒したのは、怒ったり褒めたり優しく諭したり、変幻自在に表情の変わる母、五龍局だ。再々、吉田郡山城に南の方を訪ねて、吉田郡山城を出ることのない南の方に城外の様子をおもしろそうに大きな声で話す。頼りがいのある、肩で風を切って歩くような堂々とした母だった。だが、1574年亡くなる。
16歳で南の方は母も義母も亡くし孤独をかみしめる。父や兄・姉は遠慮があるのかめったに訪ねてこない。心のままに思い切り話せる人がいなくなった。

夫、輝元との愛が救いだ。ゆっくり話すときは限られるが、幼なじみの良さで、すぐに気持ちが通じ合い優しく包まれ落ち着ける。ただ、南の方とは違い、輝元はうるさい人たちが亡くなりせいせいしたと大見得を切る。南の方の寂しさを共に感じることはない。輝元は強がりばかり言いながら、毛利家を率いると張り切った。
南の方も尾崎の局の言葉を思い出しながら、毛利家を背負うという責任をうれしく誇らしくとらえ始める。
二人は若く前向きに進んでいく。生まれながらの御曹司と、宍戸家の娘では立場が違う所もあるが。

同時に、南の方に嫡男の誕生を期待され、責任が重くのしかかる。中国を制覇し九州四国に及ぶ広大な領地を持つ大大名、毛利家の後継を生むのが南の方の役目だ。
そして子が授かるが、姫で死産だ。再び子が授かったがまた姫で死産だった。南の方は毛利家の女人として最高位の道を順調に進んでいたが、初めて経験する大きな挫折だ。

輝元も広大な領地を治めきれず毛利家の覇権主義は行き詰まり、縮小守りの体制とならざるを得なくなった。しかも、東から信長勢がじわじわと迫り、人知れず毛利家の限界も感じる。二人に毛利家を受け継ぐ重圧がのしかかる。

輝元は天下の大勢を見極め毛利家を守る道を選ぶ。1582年、信長に従う和議を結んだ。和議成立には人質を送り、相互に婚姻を結ぶのが原則だ。その人選、支度に、南の方の判断は大きな影響力を持つ。
南の方は奥の責任者として忙しくなる。初めて中央政治にかかわり、毛利家の安泰の為に重臣たちと相談し、悩みながら決めるのだ。

秀吉は信長死後の織田家のとりまとめに忙しく、当初は形式的な用件だけで人質が決められた。秀吉の天下が定まると、正式な領土の確認、人質・婚姻による縁戚づくりとなる

南の方は25歳、子はいない。秀吉が求める人質は毛利家嫡男だ。
南の方は「気心の知れた宍戸家の甥姪を養子に迎えたい」と輝元に話す。母、五龍局を亡くし毛利一門としては存在感の薄らいだ宍戸家を支えたい。輝元も口うるさい毛利方の叔父の子より、扱いやすい宍戸家からの養子を望み、考えは一致した。

 まず1585年初め、織田信長の四男、秀吉嫡男の秀勝(1568年-1586年1月29日)と輝元の娘(南の方の姪)との結婚式となる。秀吉が嫡男の妻に毛利家の姫を望み、毛利家への厚い信頼を示す。嫁入り支度も整わない大坂城での形式的な式だが。すぐに、毛利家での入念な嫁入り支度が始まるが、嫁入り前に秀勝は亡くなり、南の方はがっかりだ。
同時に信長の養女と宍戸元続(南の方の甥)との結婚が決まる。こちらは毛利家への監視の役目もあり、信長の養女は豊臣・織田家臣を引き連れ五龍城に入り結婚式を執り行う。

 南の方は、ここまでは毛利家・宍戸家の為だと喜んで支度した。だが、秀吉は南の方と輝元の養子として、いとこ(元就4男の子)の秀元(1579-1650)を指定した。秀元は飛びぬけた英才の持ち主であり文武両道に優れている。
輝元は叔父たちの藩政への関与を減らしていきたいと考えており反対だが。小早川隆景が秀吉との取り次ぎを担っており、隆景の推す秀元は毛利家嫡男として大坂城に行く。

南の方は情けなくてならなかった。まだ27歳なのに秀吉から子は生まれないと断定された気がした。それでも次第に、秀元や甥姪の養母として毛利家の奥を束ねる事が自分に似合っている気がしてくる。子のいない寂しさが吹っ切れていく。

 二重に結び付いた縁組で天下人、秀吉に次ぐ地位を固めたと輝元と共に喜んだ時もあった。だが、秀勝が亡くなると、秀吉が口癖のように輝元の支えで天下を取れたと大げさに言ったのは口先だけだと思え始める。家康が天下第二の権力者への道を歩んでいた。

ここから、南の方は分相応に毛利家の安泰のために働こうと決める。尾崎の局は元就の遺志、毛利の両川を尊重したが、内藤家・宍戸家・吉見家(娘婿)も尊重され存続することを南の方に願った。
南の方は内藤家・宍戸家・吉見家の庇護者としても、毛利家全体を見渡し奥をまとめなければならない。後に岡山藩主となる小早川秀秋の妻、古満姫(宍戸元秀の娘)を気に入り養女とし子を育てる楽しみも味わう。

 

 

3.園子の方(二の丸殿)、毛利秀就の母 1573-1604

輝元は秀元に家督を譲りたくなかった。南の方との間の子はあきらめたが、後継を望む気持ちは強い。重臣達から、数多くの側室候補が持ち込まれ考え込む。

 南の方は母親譲りの堂々とした威厳に満ちており誰に対しても分け隔てはない。
秀元との関係も良く母として信頼関係を築き、毛利家後継にふさわしい能力があると見た。ただ輝元の気持ちも理解でき、側室捜しを割り切れない思いながらも、悠然と見守る。 

輝元が側室に迎えたいと脳裏に浮かぶのが児玉元良(もとよし)の娘、園子の方だった。
後に、輝元との間に3人の子、秀就(長男)、就隆(次男)、竹姫(吉川広正の妻)を生む。
輝元との間に子が授かった唯一の女人でもある。それほどに愛が深かった。

児玉家は武蔵(埼玉・東京周辺の関東地方)七党の一族、児玉氏を先祖とする。
1221年の承久の乱で戦功を挙げ、恩賞で安芸国豊田郡竹仁村の地頭となる。後に一族が在地し領主となった。南北朝時代には足利直冬に従い、その後大内氏に従い、そして毛利時親に従って譜代重臣となり続いた。嫡流は児玉就光の家系だが、児玉元良は就光の叔父就忠の嫡男になる。
1562年、就忠は尼子家重臣、湯原春綱(ゆはらはるつな)を毛利家に寝返りさせる説得の責任者となり成功する。和議の条件で元良は春綱の娘と結婚する。春綱が尼子氏を裏切り尼子攻めが有利に進む。
湯原氏は源頼朝の挙兵から参陣し、恩賞として駿河・近江・相模の地頭職となり、その後、出雲島根の地を与えられて、在地した名門の武将だ。
元兼、唯景、園子の方が生まれる。

元就は就忠を深く信頼し側近として重用した。隆元も元就の勧めで五奉行(行政を担う最高組織)の一人とする。
1562年、就忠が亡くなると元良が後を継ぎ、五奉行の一人となる。隆元亡き後の輝元に仕え、武勇に優れ数々の戦いで戦功をあげ側近中の側近となる。元良は輝元の幼い頃から従い気心の知れた主従だ。

 元良の娘、園子の方に杉家から縁組を申し込まれる。
かって、杉家は陶(すえ)家・内藤家と並ぶ大内三家老と称される家柄だった。大内氏一族でもある。本拠は豊前(福岡県東部から大分県北部)だが、山口に屋敷を持ち、杉八家と呼ぶ分家を起こし、それぞれの家系が大内家の重職を担い栄光の最盛期を迎えていた。
その時1551年、陶晴賢(すえはるたか)の謀反が起き義隆に重く用いられた杉諸家は混乱し、時代の波に押し流される。

義隆に一番重用されたのは筑前(福岡県西部)守護代、杉興連(おきつら)(1506年-1551年)の家系だった。大内貿易を取り仕切り、大内家に莫大な財をもたらすと共に、自らも利益を得て杉家の中で最も栄華を謳歌していた。興連は義隆(よしたか)の側近くに居て、山口脱出にも従ったが、義隆は殺されてしまい領地に逃げ戻る。だが、陶晴賢は逃さず追いつめ、その子隆景とともに殺す。杉興連家はここで絶える。
杉興連の悲惨な最期を知り、他の五家は陶晴賢(すえはるたか)に従った。しかし周防国(山口県の東南部)にそれぞれの領地があり、元就の反撃が始まると最前線になる。
まず、玖珂郡を領地とした杉隆泰の家系が元就の侵攻を受け敗れ滅びた。以後次々、元就の大内氏掃討戦の中で滅び去る。 

 残り2家が陶氏に従わず、元就に臣従し生き延びる。
杉家の本家になるのが、杉重矩の家系で豊前守護代だった。義隆の重臣ではあるが距離を置き、陶晴賢と共に謀反を起こし義隆を倒した。だが、すぐに陶晴賢との勢力争いが起きて、重矩は殺された。
怒った嫡男重輔(しげすけ)(?-1557年4月3日)は時期を待ち陶晴賢亡き後の陶氏一族を攻めた。しかし1557年、山口の町が炎上する熾烈な戦いの末、陶方の内藤隆世(内藤家嫡流・尾崎の局の甥)に殺される。
残された重輔嫡男、重良(しげよし)(1554年-1579年3月30日)はわずか3歳だ。
ここで、家中は元就に従い陶晴賢と戦うと決め和議を結ぶ。和議の条件で、重良と福原広俊(元就の母の実家)の娘が婚約した。ここで元就は杉本家を毛利家に取り込んだ。そして、大内氏一族として尊重し優遇することを約す。大内領の最西部、豊前を毛利方とし、豊前から陶晴賢打倒の火の手を上げることに成功した、大内領最北部、石見から反撃する吉見氏と合わせ、東から迫る元就の山口攻め包囲網が完成し難なく山口を制する。

輝元の時代になると、輝元は毛利一族を重んじ、杉本家を大内一族とみなし冷たい対応を取る。元就との約束を破ったと杉家中に不満が起きる。
重良も輝元の一家臣としての扱いに耐えきれず、毛利家を裏切り大友氏に従い戦いを挑む。だが、九州での戦いで討ち死。杉本家は妻の実家、福原氏の元で細々と家系を守り続けることになる。

残りの一家、杉元相(もとすけ)(1522年-1585年)だけが輝元の時代も生き残る。隆元(1523-1563)が山口で暮らした時の世話係で、心のこもったもてなしに友情が芽生える。以後、隆元と遠慮のない友人関係が続いていた。その縁で、隆元が味方になるよう誘い、杉家一族の中で最も早く元就に臣従した。
大内氏滅亡後、杉一族がかって領した野上庄を与えられ、周防一の井手(周南市徳山)城を居城とし、分家ながら杉家第一の地位となる。

嫡男元宣が後を継ぎ、妻に望んだのが園子だ。児玉家も家格としては申し分ないと思い結婚話は進む。輝元の許可も得て1585年、園子の方12歳で結婚する。
結婚後、杉元宣は妻、園子の方との縁で児玉家と同格の譜代気取りだ。その上、名門杉家にふさわしい処遇を求め始める。輝元には杉元宣は一家臣にすぎない。
輝元は毛利家の主君筋だとの意識を拭い去れない旧大内氏の重臣を嫌った。大内氏打倒に功を上げたとしても過去のことであり輝元の治世に意味はない。

隆元が気に入った杉元相だが、元就が特別重視することはなかった。輝元も杉元宣を特別評価する点はない。それより、輝元は園子の方の幼いころの美しさが目に焼き付いており、結婚を許可したことを悔いるようになる。吉田郡山城内の児玉家の屋敷を訪れたことは何度かあるし、城内でも見かけたことがあった。
結婚後も近隣に鳴り響く園子の方の美貌も刺激的だ。元宣に園子の方はふさわしくない、側に置きたい想いが増していく。

 1589年、輝元の意を受けて側近、佐世元嘉(させもとよし)(1546年-1620年)が園子の方を杉家から引き離す策を練る。
佐世氏は出雲守護、京極氏の一門であり尼子氏の筆頭家老だった。尼子義久の毛利家への投降に従い、毛利家に仕える。佐世元嘉は輝元付きとされ、輝元の信頼を得て頭角を現し内政に大きな権限を与えられた。輝元の熱き思いを感じ、叶えたいと動いた。

まず杉家家臣、杉山元澄・椙山(すぎやま)土佐・清兵衛親子らを引き込む。園子の方の乳母であり、結婚にも付き従った久芳局(くぼのつぼね)には児玉元兼(園子の方の兄)が内々に計画を話し協力するよう命じた。
こうして、園子の方は久芳局がぴったり寄り添い、杉家の家臣に守られて、航路で元宣の力の及ばない廿日市(広島県)まで連れ出され、そこで毛利家家臣に引き渡された。

妻を奪われた元宣は、秀吉に輝元の悪行を直訴すると息巻く。そして航路大坂に向かうが、小早川隆景の命で待ち構えた毛利家家臣に行く手を阻まれ、謀反人として殺される。
輝元は杉一族を謀反人だと厳しく罰した。元相系杉家は断絶。杉山元澄、椙山土佐・清兵衛親子らを処刑。乳母、久芳局も責任を取り自害。輝元側近以外はすべて口封じされる。

園子の方は16歳で夫元宣と死別し自由の身となり、吉田郡山城内の児玉家に戻る。
結婚生活4年だった。最近は、夫元宣と兄元兼の軋轢を感じることが多かった。
園子の方を得て元宣は自信を深め権勢欲が増していた。輝元を怒らせていると聞き、いずれ夫は処罰されるとの予感はあり覚悟していた。
それでも、多数の犠牲者の出たことを知り混乱し取り乱した。父母や幼い頃から仕えた侍女に囲まれ、生まれ育った屋敷で少しづつ夫・乳母らを亡くした衝撃を癒す。
落ち着いた頃を見計らって、父母から輝元の熱い思いを聞かされる。父母の晴れがましく名誉だと喜んでいる顔を見ると、杉家の末路に責任を感じながらも、父母に愛され主君に愛される幸せを感じる。
長く実家に居るには迷惑だし、父母の勧めは絶対だ。輝元の愛を受け入れると答える。

輝元は築城を始めたばかりの広島城、二の丸に急ぎ屋敷を建てるよう命じる。完成を待ちかね1590年、園子の方を冷静を装いながら興奮を隠しきれない様子で丁寧に迎える。ここから二の丸殿と呼ばれるようになる。
20歳年下の娘のような愛する人を得て輝元は輝き、大坂城にも匹敵する名城、広島城の完成に向けて積極的に動く。その様子を園子の方はうれしく見つめる。輝元は秀吉に従い京大阪に在し留守がちだが、広島に戻れば園子の方と共に過ごす。
1595年、広島城で秀就が生まれる。輝元は初めての実子の誕生に歓喜する。続いて1600年、竹姫(1600-1644)が生まれ、園子の方は子たちに恵まれ、輝元の愛を独占した。

輝元が、広島城を追われるときも、ずっと側に従う。輝元は高嶺(こうのみね)城(山口市)に新たな居城を築くつもりで、近くの仮屋敷に移り住む。そこで1602年、就隆が誕生する。
だが、幕府との折衝は難航し、輝元の思いは実らず萩城の築城が決まる。この間築城が遅れ、ようやく1603年から築城が初まる。
園子の方親子の御殿を急がせたが、1604年9 月24日、園子の方は31歳で萩城の御殿が完成する直前、亡くなる。
輝元は嘆き悲しんだが、園子の方は14年の結婚生活に満足していた。


4.喜佐姫、毛利秀就の妻 1598-1655

輝元は嫡男、秀就と秀元(1579年11月25日‐1650年11月26日)との調整にとまどる。秀元は秀吉に気に入られて、順調に栄進を続けていた。ようやく、秀元は周防・長門20万石を分けられ分家独立し、秀就が嫡男として豊臣秀頼に近侍することになる。
秀吉が亡くなりばたばたしたが、1599年、秀就は4歳で秀頼のもとに行く。

そして関ヶ原の戦いが始まる。父輝元は西軍総大将となり西軍は敗れた。輝元と共に秀就は広島城を退出し謹慎する。それでも、家康に敵対した西軍総大将だと責任を取らされる。毛利家は120万石から長州藩(周防・長門)37万石へと国替えだ。同時に輝元は隠居し、初代藩主は秀就5歳になる。
だが、秀就は藩主でありながら嫡男扱いで江戸詰めを命じられ、江戸から動くことのない人質扱いだ。藩政は輝元と秀元が行なう。

1603年、新たな毛利家の概要が決まり、徳川幕府の外様大名としての歩みが始まる。
秀就は、徳川ゆかりの花嫁との婚約が決まり徳川一門となる。国元では居城は萩と決まり築城が始まる。

翌年、新生毛利家の息吹を感じながら、秀就の結婚を祝い、母園子の方は亡くなる。
秀就は母と共に過ごす時は少なかった。大坂から伏見へそして江戸へと移り母の思い出はわずかでおぼろげだ。9歳の時、江戸屋敷で母の死を聞く。
遠く離れた秀就を一番気にかけていたと聞くと、大切な人を失ったのだとやりきれなく寂しい。側に居たかった。
こみ上げる悲しさはないが、孤独な江戸暮らしの中で、寄る辺のない存在なったのだと取り残されたみじめさも感じる。

秀就の妻となる喜佐姫(1598~1655)は家康の孫であり将軍秀忠の養女となる。
実父は家康の二男、結城秀康だ。秀康と輝元は秀吉の元でよく顔を合わせた。21歳輝元が年上であり、父のような優しさで、秀康と接した。父家康との葛藤を感じ力づけたこともある仲だ。
輝元は秀康の娘と秀就の結婚をうれしく思い、また徳川家の養女を迎えることは毛利家の安泰に繋がると複雑な思いながらも喜んだ。

 1607年、秀康が34歳で亡くなる。輝元は驚き、身辺を慎重に見まわすようになる。
秀康の死で延期されたが、1608年、喜佐姫は毛利家江戸桜田屋敷に嫁ぐ。毛利秀就(ひでなり)(1595-1651)は13歳、喜佐姫は10歳だ。
ここから、毛利家は徳川家ゆかりの藩となり、越前松平家の一門となる。喜佐姫は100人近い従者を引き連れての嫁入りで、幕府からの監視役の役目も負う。彼らへの俸給の支払いは毛利家の負担だ。

喜佐姫の母は摂津国(大阪府)三谷長基の娘、お駒の方(月照院)(1577-1648)だ。三好氏の一族で、三好長基が阿波国美馬郡三谷村に在住し、三谷と名乗り名字とする。
豊臣秀次の養父となった三好康長の孫になる。秀次に仕えていた。
三好氏は鎌倉時代、阿波守護になった小笠原氏の庶流で室町時代は阿波守護代の家柄だ。阿波国三好郡に在し名とし、阿波から畿内・丹波・播磨まで支配下に置く戦国大名となる。

秀次は謀反の罪で処刑される。秀康は、秀吉を養父として慕っていたが秀次への処罰は納得できず、三谷長基親子を匿う。そしてお駒の方への愛が芽生え、1598年、喜佐姫が生まれる。秀吉の生前は公にせずに秀吉死後、秀康はわが子として認める。

家康も豊臣家を憎む秀次縁者だと、喜佐姫を庇護することに賛成した。家康が秀康につけた朝日重政に世話をさせる。秀次付きだった秀吉恩顧の大名の取り込みの一助になる。

関ヶ原の戦い後、天下を掌握した家康は秀康を越前国北ノ庄(福井)藩67万石藩主とする。秀康はお駒の方母子を晴れて北ノ庄(福井)城に呼ぶ。1601年、摂津から福井への旅の途中、近江伊香郡中河内(滋賀県余呉町)で弟、直政(1601年9 月1日-1666年3 月8日)が生まれる。同じく、朝日重政が世話し、1605年、家康は直政を朝日重政の養子とする。秀康の子だとしても母方の素性は家康の孫にはふさわしくないと考えたのだ。

朝日家は武田家家臣だった。木曾義仲の末裔になり遠江で袴田氏を名乗っていたが、家康の命で改姓した。朝日重政は菅沼定利、続いて家康に仕え認められ秀康付きとなる。
直政の養父となり一心に仕え秀康からの信頼も厚くなる。直政にすべてをかけ育てる。
だが、秀康死後、重政は家康の直政への仕打ちに怒り出奔する。直政の弟直基、直良は家康から将来を約束されたが、直政は秀康の子としての扱いを受けていないと怒った。

喜佐姫は秀康の成長した唯一の娘であり、政略結婚の駒としても家康の眼鏡に叶った。そのため、秀康亡き後、将軍の姫として嫁入り支度され堂々と嫁ぐ。
喜佐姫も母や弟、直政の待遇に不満を持つ。家康が弟を認めるよう養父秀忠に頼む。
1611年、ようやく直政は家康と対面し、結城松平家の一族と認められる。
直政は優秀だった。大坂の陣で活躍し大名の道が開けた。喜佐姫・毛利家の後押しで1638年、出雲松江18万6,000石へ加増移封され国持大名となる。
この間、直政は養父、朝日重政を呼び戻す。陽が当たらなかった生母お駒の方や実家、三谷家にも礼を尽くす。両家とも松江藩家老となり続く。

秀就と喜佐姫はそれぞれの生母の境遇を話した。結ばれるときは劇的で、二人の愛は強かった。お園の方は若くして亡くなり同情されたが、お駒の方は耐える時が長かった。それでも、家康死後は、満ち足りた時間を過ごした。
喜佐姫の母を大切にしたいとの思いに秀就もうなづく。

園子の方もお駒の方も家中で歓迎された側室ではなかった。氏素性も何ら恥ず所はなく名門の出で、輝く美貌の持ち主だったが。出会いが誇るべきところではなかったためだ。比べて、秀就と喜佐姫は家中の待ち望んだ結婚だ。二人は幸せな結びつきに感謝する。

秀就は結婚により大人として、長州藩主としての自覚を持つ。そして、国元に戻り父輝元に会い、長州藩をもっと知りたいと考える。

毛利家中・輝元・秀就らが揃い、幕府に秀就の参勤交代を願い働きかけた。だがあまり話は前に進まない。萩を動けない高齢の輝元も秀就に会いたい思いは強く、秀元を使者にした。秀元は官位も高く、家康の覚えもよく説得力もあり、すぐ江戸に出向き交渉する。
だが、輝元が望む秀就の代わりに秀元が江戸詰めとなることでは幕府は納得しない。

秀就の弟、就隆を江戸詰めとすることで幕府と折り合い、1611年、秀就は初めて国入りする。長く別れたままだった父輝元と10年ぶりの対面だ。輝元は藩主として受け継ぐべきことを嬉々として、また悲壮感を持って教える。

若き藩主として意気揚々と秀就は江戸に戻るが、そこには幕府との交渉を一切仕切る秀元(1579-1650)が大きく構えていた。秀就は任せるしかなかった。
秀就は大人だと思っていたが、秀元はいつまでも秀就の後見人を気取り藩政を牛耳る。腹立ちは日増しに増していく。

輝元も秀元の権勢を気に入らない。だが、秀元は幕府の外様つぶしの動きを止めることが出来る毛利藩最大の力を持っている。幕府との折衝役を幕府が望んだこともあり、しばらくは秀元に任せるしかない。
そこで、将来の秀就藩政を考えて、唯一の溺愛する娘、竹姫(秀就の妹)と吉川広家の嫡男、広正(1601-1666)との婚約を決めた。秀就と広正が連携して藩政を担うべきだと考えた。1616年、2人は結婚する。
就隆には秀元の娘、松菊子と婚約させた。就隆は江戸詰めで秀就を支えるはずであり、秀元との連携は欠かせないとの思いだ。だが、秀就は納得していない。

問題を抱えながらも秀就と喜佐姫は幸せを身体いっぱいに感じ、声をはずませ結婚生活を送る。そして、喜佐姫が大人になり、子たちが授かる。
喜佐姫19歳で長女、土佐姫(1617~1677)が生まれる。以後、長男、松寿丸。次男、和泉。次女、竹姫。三男、宮市丸。三女、娘。四男、綱広。と4男3女が生まれた。
だが、松寿丸・和泉・宮市丸と3人の男子が生まれて喜んだのもつかの間、皆亡くなる。いつも前向きで快活な喜佐姫が、がっくりと意気消沈した。

喜佐姫姉弟にやさしかった兄忠直の嫡男、光長と土佐姫の婚約が決まった時は秀就と共に喜んだ。だが、1623年、忠直は流罪、光長が越後高田26万石藩主に格下げされる。このとき喜佐姫は、結城松平家は取り潰されると思い詰め、声も出なかった。

1625年、輝元72歳が亡くなり、1631年、南の方が亡くなる。
輝元は就隆の徳山藩、娘竹姫の子広嘉(1621年8 月23日‐1679年9 月20日)に藩主継承権を与えるつもりだった。そのために竹姫を側近くから離さずにいたが。南の方は反対だ。だが、養子秀元の長府藩を重んじる幕府の意向に沿うしかなく、秀就の後見を秀元に託し亡くなった。
輝元・南の方が生存中は調整役を担い秀元対秀就の波風は最小限で収まったが、その死と共に秀就は秀元排除に動く。
1632年、妹婿、広正に国元の藩政を任せ、秀元を排除した。
1633年、秀元は娘婿、就隆を擁し抵抗するが、秀就は就隆の妻、松菊子を離縁させ、秀元を排除した。
秀就はこの時点で一応、藩主権を確立するが秀元の影響力は幅広く深く、以後もずっと苦しめられる。広正は岩国藩主で本藩、長州での影響力を伸ばすことはできず、就隆も長州藩に深くかかわるよりは独自の藩政を目指し、関係は微妙だ。

実家のごたごた、毛利家の内紛と続くと喜佐姫は気弱になって、秀就に側室を持ち男子が授かるよう願ったこともあった。秀就は取り合わなかったが。
そして奇跡が起きる。綱広(1639-1689)が生まれた。喜佐姫41歳となり、最後の子だと覚悟し渾身の願いを込めた子が、元気な産声を上げ、すくすく育った。ようやく二人に微笑みがこぼれる。
次女、竹姫が後の関白、鷹司房輔(ふさすけ)(1637-1700)と婚約し、慶事が続く。房輔の妹は後に将軍綱吉の妻になる。
結局、喜佐姫の子たちは一男二女が育っただけだが、秀就はこれで良いと言い、喜佐姫も嫡男を生む最大の役目は果たしたとほっとする。
秀就は綱広を嫡男(次期藩主)として幕府に届け、長州藩は名実ともに松平一門となる。

綱広の成長を見守りながら、秀就は自信に満ちた名君の顔をし思う存分に藩政に威力を発揮する。喜佐姫とも満ち足りたひと時を過ごした。だが、喜佐姫の幸せは短かった。
1650年の秀元の死を見届けると、1651年、秀就56歳は満足した顔で亡くなる
これからは、喜佐姫の責任が重くなる。


5.千姫(高寿院)、毛利綱広の妻 1638-1669

秀就は綱広の妻は越前福井藩主、忠昌の娘千姫と決め、幕府の了解を得て婚約していた。

喜佐姫の実家松平家は、嫡男の兄忠直が強制的隠居となり、弟の忠昌が後を継ぎ越前福井藩主となる。忠直の嫡男光長は、忠昌の旧領、越後高田藩主となる。家臣の納得のいかない国替えであり、家中は動揺していた。
土佐姫と忠直の嫡男、光長と結婚しており、綱広には忠昌の娘千姫と決めた。どちらも、いとこ同士だ。実質の本家になる忠昌の家系と、嫡流の忠直の家系との均衡を保つ結婚とし、両松平家の仲を取り持とうとした。
竹姫は忠直の娘、鶴姫(喜佐姫の姪)の娘婿、九条兼晴の兄、鷹司房輔との結婚だ。鷹司家は将軍家・天皇家との縁戚が続いている。

 喜佐姫は綱広と千姫の結婚が毛利家の安泰に繋がると信じ、華やかに盛大に式を執り行う。こうして、越後高田藩松平家と越前福井藩松平家と強い縁を結び、弟を長州藩の近くの松江藩主とし母の幸せを見届けた。望みどおりの生き方ではなかったがもう十分だ。秀就の元に行ってゆっくり話がしたいと思う。
1655年、喜佐姫は江戸屋敷を離れることなく、眠るように57歳で亡くなる。

綱広は12歳で父の後を継ぐ。年少とはいえ生まれながらの藩主として育ち自信に満ちていた。自尊心も人一倍強く、越前松平家との強い結びつきもあり、親藩の一門だと意識した。幕府に対しても言いたいことは言う、自由奔放ぶりを発揮していく。

綱広(1639~1689)と千姫(高寿院)(1638~1669)に喜佐姫は結城松平家の苦渋の歴史を何度も話した。そして、越前福井藩と越後高田藩が良い関係を築くよう力を尽くしてほしいとくれぐれも頼む。若い二人はその言葉をそのまま聞き、毛利家と結城松平家は助け合い、支えるとうなずく。二人の仲は睦まじい。

綱広の姉土佐姫と松平光長(1616年1月18日-1707年12月10日)の夫婦仲もよかった。将軍秀忠を祖父にもつ光長は越後高田藩26万石へ転封させた幕府に恨みを持っていた。母勝姫は秀忠と正室お江の間に生まれた将軍の姫であり、光長以上の怒りに震えた。

しかも、光長は父の隠居後、家督相続を認められ一度は越前福井67万石藩主として、北の庄(福井)城へ入城している。光長は誇りを持って父の跡を継ごうとしたが、すぐに越後高田藩に格下げの国替えだ。屈辱に耐えながら土佐姫を迎えた。

土佐姫も光長のつらい胸の内を理解した。
まもなく、二人の間に嫡男、綱賢(つなかた)(1634年4月8日-1674年3月7日)が生まれる。土佐姫は役目を果たし肩の荷が下りる。綱賢はいとこ(勝姫の娘、鶴姫の子)九条道房の娘梅姫(豊光院)を妻にする。
嫡男を得て、光長は福井藩復帰にますます燃える。土佐姫は光長に時期を待つ方がいい、今は高田藩政に真剣に取り組むべきだと頼むが。
続いて、国姫(くにひめ)1638-1671年がうまれる。国姫は、忠昌嫡男、光通(みつみち)(1636-1674)と結婚する。

光通は千姫の兄だ。こうして同世代の長州藩主、綱広と千姫・越前福井藩主、光通と国姫・越後高田藩主、綱賢と梅姫はそれぞれの藩江戸屋敷を行き来する親しい仲となる。
綱広には義兄にもなる光長だが、父とも思い尊敬していく。光長は我が子綱賢・国姫への影響力はもちろん大きい。

綱広と千姫には1男4女が生まれる。
長女良姫・次女品姫・長男吉就は育ったが、3女姫と末の姫は生まれてまもなく亡くなる。その上、1669年、千姫も末姫の出産後の経過が悪く亡くなってしまった。
千姫を愛する綱広にはむごい出来事だった。それでも子たちが残り、光長との関係は変わらず、ますます反骨精神を受け継いでいく。

綱広は子たちを幕府の気に入る結婚相手ではなく、綱広が気に入った相手と結婚させる。良姫は家光の娘、千代姫と尾張藩光友との二男、松平義行に嫁ぐ。松平義行は宗家に何かあれば藩主を継ぐ家柄だが、尾張支流高須藩3万石藩主でしかない。
品姫は越後村上藩5万石藩主、内藤弌信(かずのぶ)の継室となる。弌信の養父は信良であり、養母は松平直基(母、喜佐姫の弟)の養女になる。
嫡男、吉就(1668~1694)の妻は小浜藩10万3千石藩主、酒井忠隆(1651-1686)の娘亀姫(長寿院)とする。忠隆は幕府大老酒井忠勝の孫になり幕政に影響力を持つ。
綱広の叔父就隆(秀就の弟)の嫡男元賢(もとかた)の妻が忠隆の妹だ。幕府との関係を深め、分家の周防徳山藩4万石藩主、就隆の家系との縁も深めたいとの思いだ。

だが次第に、幕府は綱広の影響力の拡大と、光長の強い結びつきを嫌う。
1674年、綱賢が嗣子のないまま、42歳で亡くなる。光長はまだ健在だ。
そこで、光長は高田藩後継候補に、
父忠直の次男永見長頼の嫡男、松平綱国(つなくに)(1662 年-1735年3 月28日)。
父忠直の三男、永見長良。
父忠直の娘、勘姫の夫である主席家老、小栗正矩の子長治。
綱広の娘婿(土佐姫の姪婿)、松平義行(尾張徳川光友の次男)。
を挙げ、家中の意見を聞く。光長は綱広の娘婿を後継にしたかったが、家中に反対が多くあきらめる。そこで、影響力を行使できる12歳の綱国と決める。
光長は綱広をわが子のように思っており、綱広も同じ思いで高田藩政に介入する。

幕府は忠昌の家系を嫡流扱いし、この縁での養子を後継者とすべきと考え、反対だ。
しかも、光長は越前福井藩主であるべきだとの思いが強く、高田藩政に熱心ではなく、藩内をまとめ切れず、家中を一丸となって幼君、綱国を支える体制を作れない。
また、光長が任せ、実質藩政を仕切ったのは小栗正矩であり、正矩は我が子長治(勘姫の婿)に藩政を仕切らせたい。永見長良は幼君にいちばん近い血筋であり後見すると争いが始まる。小栗正矩派と永見長良派との覇権争いが起きる。
幕府も府内で生まれた子たちを藩主の家系とは考えないし、外様の長州藩主、綱広と結びつく光長に対しても高田藩主としての資質を疑った。
1681年、小栗正矩親子は切腹、一派は流罪。永見長良は八丈島への島おくり、一派は流罪と幕府は裁断した。光長は城地没収。高田藩は改易との厳しい決定も併せて行う。
秀康の嫡流は幕府への忠誠心がないと、忠直・光長・綱国と3代にわたり流罪となる。

続いて、幕府は綱広につながる連座責任を追及し、処罰した。
直政(喜佐姫の弟)の娘駒姫を妻とする姫路藩15万石藩主、直矩(秀康五男、直基の嫡男)も関与したと豊後国日田藩7万石と格下げされ国替えだ。
松平直政の次男、出雲広瀬藩3万石藩主、近栄(ちかよし)(1632年11月10日- 1717年10月23日)も関与したと1万5千国と減らされた。
将軍綱吉は家康が決めた松平一門であり改易するつもりはないが、幕府への忠誠心を問い、絶対臣従の意思表示をさせていく。

1686年、直矩は山形藩9万石となり許さ、1692年には白河藩15万石と元に戻る。
形は元通りだが、度重なる国替えで莫大な借金を負い苦しい財政を強いられる。近栄も3万石に復帰する。

光長は幕府に屈することを良しとしなかったが、嫡流家をつぶすことは家臣一族の為に避けたいと、幕府の意向に沿う。1687年、許され3万石を与えられる。
1693年、綱国を廃嫡し、1694年、幕府の推す、直矩三男、宣富(のぶとみ)を養子とする。1697年、光長が隠居し、1698年、結城松平家嫡流は津山藩10万石として復興する。

長州藩毛利家も連座を疑われる。
毛利綱広に対して、幕府は光長と同罪だとみなしたが、簡単には連座責任は問えない雄藩だ。やむなく、家中を通じて隠居を迫る。
1682年、綱広は大勢を見極め勝算はないとあきらめ嫡男、吉就(よしなり)(1668年3月3日-1694年3月2日)に家督を譲る。
1689年、綱広50歳は母喜佐姫の思いに応えられなかったと失意の中で亡くなる。

綱広は福井藩松平家にも介入し三男、元重を養子に送り込んだ。藩主に就任するはずだったが失敗し、元重を引き取る。
綱広は、毛利家の覇権を目指したが、激変する状況の中で吉就・吉広が後継となるがいずれも子が生まれない。元重には後継の資格がないとされ男子はいたが後継にはなれない。
こうして、嫌っていた長府藩、秀元の家系、吉元に長州藩主の座を譲り渡す。秀元が家中の信奉を得たゆえだが、周防徳山藩、就隆の家系、元次との後継争いは妻の力が大きい。
藩主に迎えられた吉元の母は岡山藩主、池田光政(妻は千姫の娘勝姫)の娘であり、妻は岡山藩主、綱政(光政・勝姫の嫡男)の娘だ。家光の姉、千姫の威光はまだ輝いていた。
元次の母は家中の尊敬を得られる家系ではなく、家中での準備も整わなかった。

 

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