毛利家の居城は吉田郡山城から、広島城へ、そして萩城に変わる。広島城・萩城を築城した輝元は吉田郡山城で生まれる。 輝元の母、尾崎の局は毛利隆元に嫁ぐ。 母妙玖は1499年、安芸国の有力国人、吉川国経(吉川家嫡男)の娘として小倉山城(山県郡北広島町)で生まれる。 1517年、尼子勢・武田勢と大内勢とが有田中井手(山県郡北広島町有田)の戦いを始めた。尼子氏対大内氏が後ろに控えているが、旧安芸守護の権威を取り戻したい武田元繁の領地拡大の戦いだ。その時、尼子経久は武田元繁を討ち果たした元就の卓越した戦術に目を留める。 毛利家は当主の元就の兄、興元(1492-1516)が亡くなったばかりで、家中が混乱していた。経久には、この機会に乗じて毛利家への影響力を強める狙いもあった。 興元は幸松丸の後見として義父、高橋久光(1460-1521)と元就を指名し亡くなった。高橋氏は尼子方の石見(島根県西部)の有力国人だ。久光は外祖父として、すぐに毛利家の実権を握ってしまう。この時は、元就はどうすることもできず、ただ見ているだけでしかなかった。 1521年、高橋久光が亡くなる。ひたすらこの日を待っていた元就の出番が来た。押さえつけられていた悔しさが怨念となり、復讐心に変わる。 続いて、1523年に待望の嫡男、隆元が多治比猿掛城で生まれ、1525年に次女、五龍局、1530年に元春、1533年に隆景と誕生する。 1531年に父国経が亡くなり甥の興経(おきつね)が後を継ぐと、元就は吉川家を配下と扱い始める。興経は元就の態度が気に入らず、尼子氏・大内氏の間をうじうじと動く。 元就は周防の戦国大名、大内家に急速に近づき従い尼子勢との戦いを進めていく。 元就の戦いぶりは見事で、徐々に脅威を与えるまでになる。 広大な吉田郡山城に城下の領民を集め籠城戦で迎え撃つと決める。妙玖には始めて目の前で起きる血なまぐさい戦いだ。もちろん、女主としてひるむことなく先頭立って兵を鼓舞し、女子供を率い一丸となってできることは何でもする。 援軍の大内勢が到着し、毛利勢は尼子勢を追い返した。大勝利に家中は沸く。 大内義隆は元就の勝利を喜び、尼子氏を倒すと燃えて1542年、第一次月山富田城の戦いに出た。元就・隆元も従う。だが、月山富田城で対峙している最中、元就の説得に応じ大内方に従ったはずの吉川勢が尼子方に裏切った。陣中での裏切りに大内勢・毛利勢は大混乱し敗退だ。 妙玖は吉川家は高橋家と同じ運命だと覚悟を決める。元就の執念深さ、獲物は必ず捕まえる冷徹さ、味方をもだます巧妙な謀(はかりごと)を見続けている。 1546年、元就は妙玖の死を悼み、義隆の養女、尾崎局と隆元の婚約が整ったのを機会に隠居表明する。尾崎局は長門守護代、内藤興盛の娘であり、義隆のいとこになる。 以後は、尾崎局が窓口になり元就の意を受けた者たちが頻繁に山口と安芸を行き来する。吉川家を乗っ取り安芸を手中にした元就は、きしみ始めている大内家の内情を探り、重臣の分断化をもくろみ、諜報活動に主力を移していく。 そして、元就はいろいろ理由をつけて結婚を延ばす。 元就は安芸を治めるのに大内氏の名が有効であることを今更のように感じ、毛利家の勢力拡大の為に、大内氏の名を使う。吉川興経を無理やり隠居、殺害に追い込んだ時も大内氏の命令だと押し切った。義隆の命令を娘、尾崎局を通じて伝えるという構図で勢力の拡大を図った、尾崎の局は、元就の大義名分の役目を果たしているのを自覚している。また、大内家は元就の思うように命令を出す。元就は大内家の内情をほぼつかんだ。 周囲に押され元就は結婚を認める。 翌1550年、元就は大内氏の命令として井上元兼らの悪事を暴き殺した。もちろん、尾崎の局の名を使い義隆の命令を受けた。井上一族は元就の家督引き継ぎを実現させた大恩ある同格の国人でもあった。元就の後見人を気取り、配下に収まらなかった。尾崎の局が、元就に与える大義の価値は偉大だった。 隆元は山口で大内家重臣の内藤興盛や江良房栄、人質仲間の天野隆綱などと親交を結び、同年代の陶隆房(陶晴賢)や弘中隆包らとも親しくした。 1551年、陶隆房(陶晴賢)が大内義隆を殺す。尾崎局は元就の予想通りになったと直感する。元就の長年の企ては大内家の内紛による滅亡だったのだ。このような展開までは読み切れず、恐ろしさに身が震える。 元就はすぐに、陶隆房(陶晴賢)支持の使いをだし、代わりに安芸の国をまとめる権限を与えてほしいと頼む。山口の治安維持と新しい体制づくりに忙しい陶隆房(陶晴賢)は了解する。以後元就は、大内氏の名を自由に使い、大内氏に臣従する国人を直接毛利家の配下としつつ、陶氏打倒の準備を固める。 尾崎の局は1553年に輝元、続いて津和野の局を生み、隆元との夫婦仲はよかった。 吉見正頼(まさより)(1513 年- 1588年6 月15日)は津和野(三本松)城を居城とする石見の有力国人だ。吉見頼興(正頼の父)と大内義興(義隆の父)は京での足利将軍家の家督争いで共に戦って以来親しい関係が続き、正頼は大内義興の娘婿になる。陶隆房の謀叛の時、義隆は姉婿、正頼を頼ろうとした。だが、嵐で船が動かせず殺されている。 元就の作戦は成功し厳島に陶隆房をおびき出し、討ち果たす。以後、元就は破竹の進撃を続け、1557年に大内氏を滅亡に追い込み、西国の雄になる。 |
1563年、隆元が急死した。尾崎局は元就と隆元のわだかまりを感じていたので、来るべき時が来たと驚かない。 1571年、元就は亡くなる。その翌年、1572年、尾崎の局は45歳で亡くなる。 元就は輝元の妻に次女の五龍局の三女、南の方を決めていた。 1529年に元就は高橋氏を滅ぼした。高橋氏の領地を手に入れた元就は、その一部を手土産に隣国(安芸高田市甲田町)の有力国人、宍戸氏に同盟を持ち掛ける。宍戸氏と高橋氏は領地を巡り争っていた。その紛争の地を譲ると申し出て、元就が高橋氏を倒したことを見せつける。 五龍局は9歳で結婚し母の思いは理解できなかったが、夫、隆家(1518-1592)との仲は申し分なかった。夫は温厚な性格で、五龍局を敬い、けんかをすることはない。7歳年上の兄のようでもあり、いつもにこやかに五龍局の思うようにさせた。 隆元には一男一女しか生まれなかったこともあり、元就は五龍局の子たちを大切にし毛利家の子として扱う。毛利家の為に重要な役割を果たすようにと言い結婚相手を決める。 結婚後、南の方は尾崎局と輝元の住む尾崎丸で暮らす。 尾崎の局は元就の屋敷とも再々行き来する。結婚後は南の方も義母に従う。 1571年元就は病に伏せ、南の方も看病に出向き尽くしたが、亡くなる。 祖父、義母を亡くし、夫輝元は戦が続き留守がちだ。その寂しさを癒したのは、怒ったり褒めたり優しく諭したり、変幻自在に表情の変わる母、五龍局だ。再々、吉田郡山城に南の方を訪ねて、吉田郡山城を出ることのない南の方に城外の様子をおもしろそうに大きな声で話す。頼りがいのある、肩で風を切って歩くような堂々とした母だった。だが、1574年亡くなる。 夫、輝元との愛が救いだ。ゆっくり話すときは限られるが、幼なじみの良さで、すぐに気持ちが通じ合い優しく包まれ落ち着ける。ただ、南の方とは違い、輝元はうるさい人たちが亡くなりせいせいしたと大見得を切る。南の方の寂しさを共に感じることはない。輝元は強がりばかり言いながら、毛利家を率いると張り切った。 同時に、南の方に嫡男の誕生を期待され、責任が重くのしかかる。中国を制覇し九州四国に及ぶ広大な領地を持つ大大名、毛利家の後継を生むのが南の方の役目だ。 輝元も広大な領地を治めきれず毛利家の覇権主義は行き詰まり、縮小守りの体制とならざるを得なくなった。しかも、東から信長勢がじわじわと迫り、人知れず毛利家の限界も感じる。二人に毛利家を受け継ぐ重圧がのしかかる。 輝元は天下の大勢を見極め毛利家を守る道を選ぶ。1582年、信長に従う和議を結んだ。和議成立には人質を送り、相互に婚姻を結ぶのが原則だ。その人選、支度に、南の方の判断は大きな影響力を持つ。 秀吉は信長死後の織田家のとりまとめに忙しく、当初は形式的な用件だけで人質が決められた。秀吉の天下が定まると、正式な領土の確認、人質・婚姻による縁戚づくりとなる 南の方は25歳、子はいない。秀吉が求める人質は毛利家嫡男だ。 まず1585年初め、織田信長の四男、秀吉嫡男の秀勝(1568年-1586年1月29日)と輝元の娘(南の方の姪)との結婚式となる。秀吉が嫡男の妻に毛利家の姫を望み、毛利家への厚い信頼を示す。嫁入り支度も整わない大坂城での形式的な式だが。すぐに、毛利家での入念な嫁入り支度が始まるが、嫁入り前に秀勝は亡くなり、南の方はがっかりだ。 南の方は、ここまでは毛利家・宍戸家の為だと喜んで支度した。だが、秀吉は南の方と輝元の養子として、いとこ(元就4男の子)の秀元(1579-1650)を指定した。秀元は飛びぬけた英才の持ち主であり文武両道に優れている。 南の方は情けなくてならなかった。まだ27歳なのに秀吉から子は生まれないと断定された気がした。それでも次第に、秀元や甥姪の養母として毛利家の奥を束ねる事が自分に似合っている気がしてくる。子のいない寂しさが吹っ切れていく。 二重に結び付いた縁組で天下人、秀吉に次ぐ地位を固めたと輝元と共に喜んだ時もあった。だが、秀勝が亡くなると、秀吉が口癖のように輝元の支えで天下を取れたと大げさに言ったのは口先だけだと思え始める。家康が天下第二の権力者への道を歩んでいた。 ここから、南の方は分相応に毛利家の安泰のために働こうと決める。尾崎の局は元就の遺志、毛利の両川を尊重したが、内藤家・宍戸家・吉見家(娘婿)も尊重され存続することを南の方に願った。
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輝元は秀元に家督を譲りたくなかった。南の方との間の子はあきらめたが、後継を望む気持ちは強い。重臣達から、数多くの側室候補が持ち込まれ考え込む。 南の方は母親譲りの堂々とした威厳に満ちており誰に対しても分け隔てはない。 輝元が側室に迎えたいと脳裏に浮かぶのが児玉元良(もとよし)の娘、園子の方だった。 児玉家は武蔵(埼玉・東京周辺の関東地方)七党の一族、児玉氏を先祖とする。 元就は就忠を深く信頼し側近として重用した。隆元も元就の勧めで五奉行(行政を担う最高組織)の一人とする。 元良の娘、園子の方に杉家から縁組を申し込まれる。 義隆に一番重用されたのは筑前(福岡県西部)守護代、杉興連(おきつら)(1506年-1551年)の家系だった。大内貿易を取り仕切り、大内家に莫大な財をもたらすと共に、自らも利益を得て杉家の中で最も栄華を謳歌していた。興連は義隆(よしたか)の側近くに居て、山口脱出にも従ったが、義隆は殺されてしまい領地に逃げ戻る。だが、陶晴賢は逃さず追いつめ、その子隆景とともに殺す。杉興連家はここで絶える。 残り2家が陶氏に従わず、元就に臣従し生き延びる。 輝元の時代になると、輝元は毛利一族を重んじ、杉本家を大内一族とみなし冷たい対応を取る。元就との約束を破ったと杉家中に不満が起きる。 残りの一家、杉元相(もとすけ)(1522年-1585年)だけが輝元の時代も生き残る。隆元(1523-1563)が山口で暮らした時の世話係で、心のこもったもてなしに友情が芽生える。以後、隆元と遠慮のない友人関係が続いていた。その縁で、隆元が味方になるよう誘い、杉家一族の中で最も早く元就に臣従した。 嫡男元宣が後を継ぎ、妻に望んだのが園子だ。児玉家も家格としては申し分ないと思い結婚話は進む。輝元の許可も得て1585年、園子の方12歳で結婚する。 隆元が気に入った杉元相だが、元就が特別重視することはなかった。輝元も杉元宣を特別評価する点はない。それより、輝元は園子の方の幼いころの美しさが目に焼き付いており、結婚を許可したことを悔いるようになる。吉田郡山城内の児玉家の屋敷を訪れたことは何度かあるし、城内でも見かけたことがあった。 1589年、輝元の意を受けて側近、佐世元嘉(させもとよし)(1546年-1620年)が園子の方を杉家から引き離す策を練る。 妻を奪われた元宣は、秀吉に輝元の悪行を直訴すると息巻く。そして航路大坂に向かうが、小早川隆景の命で待ち構えた毛利家家臣に行く手を阻まれ、謀反人として殺される。 園子の方は16歳で夫元宣と死別し自由の身となり、吉田郡山城内の児玉家に戻る。 輝元は築城を始めたばかりの広島城、二の丸に急ぎ屋敷を建てるよう命じる。完成を待ちかね1590年、園子の方を冷静を装いながら興奮を隠しきれない様子で丁寧に迎える。ここから二の丸殿と呼ばれるようになる。 輝元が、広島城を追われるときも、ずっと側に従う。輝元は高嶺(こうのみね)城(山口市)に新たな居城を築くつもりで、近くの仮屋敷に移り住む。そこで1602年、就隆が誕生する。 |
輝元は嫡男、秀就と秀元(1579年11月25日‐1650年11月26日)との調整にとまどる。秀元は秀吉に気に入られて、順調に栄進を続けていた。ようやく、秀元は周防・長門20万石を分けられ分家独立し、秀就が嫡男として豊臣秀頼に近侍することになる。 そして関ヶ原の戦いが始まる。父輝元は西軍総大将となり西軍は敗れた。輝元と共に秀就は広島城を退出し謹慎する。それでも、家康に敵対した西軍総大将だと責任を取らされる。毛利家は120万石から長州藩(周防・長門)37万石へと国替えだ。同時に輝元は隠居し、初代藩主は秀就5歳になる。 1603年、新たな毛利家の概要が決まり、徳川幕府の外様大名としての歩みが始まる。 翌年、新生毛利家の息吹を感じながら、秀就の結婚を祝い、母園子の方は亡くなる。 秀就の妻となる喜佐姫(1598~1655)は家康の孫であり将軍秀忠の養女となる。 1607年、秀康が34歳で亡くなる。輝元は驚き、身辺を慎重に見まわすようになる。 喜佐姫の母は摂津国(大阪府)三谷長基の娘、お駒の方(月照院)(1577-1648)だ。三好氏の一族で、三好長基が阿波国美馬郡三谷村に在住し、三谷と名乗り名字とする。 秀次は謀反の罪で処刑される。秀康は、秀吉を養父として慕っていたが秀次への処罰は納得できず、三谷長基親子を匿う。そしてお駒の方への愛が芽生え、1598年、喜佐姫が生まれる。秀吉の生前は公にせずに秀吉死後、秀康はわが子として認める。 家康も豊臣家を憎む秀次縁者だと、喜佐姫を庇護することに賛成した。家康が秀康につけた朝日重政に世話をさせる。秀次付きだった秀吉恩顧の大名の取り込みの一助になる。 関ヶ原の戦い後、天下を掌握した家康は秀康を越前国北ノ庄(福井)藩67万石藩主とする。秀康はお駒の方母子を晴れて北ノ庄(福井)城に呼ぶ。1601年、摂津から福井への旅の途中、近江伊香郡中河内(滋賀県余呉町)で弟、直政(1601年9 月1日-1666年3 月8日)が生まれる。同じく、朝日重政が世話し、1605年、家康は直政を朝日重政の養子とする。秀康の子だとしても母方の素性は家康の孫にはふさわしくないと考えたのだ。 朝日家は武田家家臣だった。木曾義仲の末裔になり遠江で袴田氏を名乗っていたが、家康の命で改姓した。朝日重政は菅沼定利、続いて家康に仕え認められ秀康付きとなる。 喜佐姫は秀康の成長した唯一の娘であり、政略結婚の駒としても家康の眼鏡に叶った。そのため、秀康亡き後、将軍の姫として嫁入り支度され堂々と嫁ぐ。 秀就と喜佐姫はそれぞれの生母の境遇を話した。結ばれるときは劇的で、二人の愛は強かった。お園の方は若くして亡くなり同情されたが、お駒の方は耐える時が長かった。それでも、家康死後は、満ち足りた時間を過ごした。 園子の方もお駒の方も家中で歓迎された側室ではなかった。氏素性も何ら恥ず所はなく名門の出で、輝く美貌の持ち主だったが。出会いが誇るべきところではなかったためだ。比べて、秀就と喜佐姫は家中の待ち望んだ結婚だ。二人は幸せな結びつきに感謝する。 秀就は結婚により大人として、長州藩主としての自覚を持つ。そして、国元に戻り父輝元に会い、長州藩をもっと知りたいと考える。 毛利家中・輝元・秀就らが揃い、幕府に秀就の参勤交代を願い働きかけた。だがあまり話は前に進まない。萩を動けない高齢の輝元も秀就に会いたい思いは強く、秀元を使者にした。秀元は官位も高く、家康の覚えもよく説得力もあり、すぐ江戸に出向き交渉する。 秀就の弟、就隆を江戸詰めとすることで幕府と折り合い、1611年、秀就は初めて国入りする。長く別れたままだった父輝元と10年ぶりの対面だ。輝元は藩主として受け継ぐべきことを嬉々として、また悲壮感を持って教える。 若き藩主として意気揚々と秀就は江戸に戻るが、そこには幕府との交渉を一切仕切る秀元(1579-1650)が大きく構えていた。秀就は任せるしかなかった。 輝元も秀元の権勢を気に入らない。だが、秀元は幕府の外様つぶしの動きを止めることが出来る毛利藩最大の力を持っている。幕府との折衝役を幕府が望んだこともあり、しばらくは秀元に任せるしかない。 問題を抱えながらも秀就と喜佐姫は幸せを身体いっぱいに感じ、声をはずませ結婚生活を送る。そして、喜佐姫が大人になり、子たちが授かる。 喜佐姫姉弟にやさしかった兄忠直の嫡男、光長と土佐姫の婚約が決まった時は秀就と共に喜んだ。だが、1623年、忠直は流罪、光長が越後高田26万石藩主に格下げされる。このとき喜佐姫は、結城松平家は取り潰されると思い詰め、声も出なかった。 1625年、輝元72歳が亡くなり、1631年、南の方が亡くなる。 実家のごたごた、毛利家の内紛と続くと喜佐姫は気弱になって、秀就に側室を持ち男子が授かるよう願ったこともあった。秀就は取り合わなかったが。 |
秀就は綱広の妻は越前福井藩主、忠昌の娘千姫と決め、幕府の了解を得て婚約していた。 喜佐姫の実家松平家は、嫡男の兄忠直が強制的隠居となり、弟の忠昌が後を継ぎ越前福井藩主となる。忠直の嫡男光長は、忠昌の旧領、越後高田藩主となる。家臣の納得のいかない国替えであり、家中は動揺していた。 喜佐姫は綱広と千姫の結婚が毛利家の安泰に繋がると信じ、華やかに盛大に式を執り行う。こうして、越後高田藩松平家と越前福井藩松平家と強い縁を結び、弟を長州藩の近くの松江藩主とし母の幸せを見届けた。望みどおりの生き方ではなかったがもう十分だ。秀就の元に行ってゆっくり話がしたいと思う。 綱広は12歳で父の後を継ぐ。年少とはいえ生まれながらの藩主として育ち自信に満ちていた。自尊心も人一倍強く、越前松平家との強い結びつきもあり、親藩の一門だと意識した。幕府に対しても言いたいことは言う、自由奔放ぶりを発揮していく。 綱広(1639~1689)と千姫(高寿院)(1638~1669)に喜佐姫は結城松平家の苦渋の歴史を何度も話した。そして、越前福井藩と越後高田藩が良い関係を築くよう力を尽くしてほしいとくれぐれも頼む。若い二人はその言葉をそのまま聞き、毛利家と結城松平家は助け合い、支えるとうなずく。二人の仲は睦まじい。 綱広の姉土佐姫と松平光長(1616年1月18日-1707年12月10日)の夫婦仲もよかった。将軍秀忠を祖父にもつ光長は越後高田藩26万石へ転封させた幕府に恨みを持っていた。母勝姫は秀忠と正室お江の間に生まれた将軍の姫であり、光長以上の怒りに震えた。 しかも、光長は父の隠居後、家督相続を認められ一度は越前福井67万石藩主として、北の庄(福井)城へ入城している。光長は誇りを持って父の跡を継ごうとしたが、すぐに越後高田藩に格下げの国替えだ。屈辱に耐えながら土佐姫を迎えた。 土佐姫も光長のつらい胸の内を理解した。 光通は千姫の兄だ。こうして同世代の長州藩主、綱広と千姫・越前福井藩主、光通と国姫・越後高田藩主、綱賢と梅姫はそれぞれの藩江戸屋敷を行き来する親しい仲となる。 綱広と千姫には1男4女が生まれる。 綱広は子たちを幕府の気に入る結婚相手ではなく、綱広が気に入った相手と結婚させる。良姫は家光の娘、千代姫と尾張藩光友との二男、松平義行に嫁ぐ。松平義行は宗家に何かあれば藩主を継ぐ家柄だが、尾張支流高須藩3万石藩主でしかない。 だが次第に、幕府は綱広の影響力の拡大と、光長の強い結びつきを嫌う。 幕府は忠昌の家系を嫡流扱いし、この縁での養子を後継者とすべきと考え、反対だ。 続いて、幕府は綱広につながる連座責任を追及し、処罰した。 1686年、直矩は山形藩9万石となり許さ、1692年には白河藩15万石と元に戻る。 光長は幕府に屈することを良しとしなかったが、嫡流家をつぶすことは家臣一族の為に避けたいと、幕府の意向に沿う。1687年、許され3万石を与えられる。 長州藩毛利家も連座を疑われる。 綱広は福井藩松平家にも介入し三男、元重を養子に送り込んだ。藩主に就任するはずだったが失敗し、元重を引き取る。 |