小督局(こごうのつぼね)の父は氷見貞英(ひみさだひで)、母は水野忠政の娘だ。 1560年、不運が起きる。今川義元対織田信長の桶狭間の戦いが始まった。 氷見貞英は余りの損害に茫然とするばかりだったが、舅の水野氏に促され家康に従う。だが、家康は冷たく、知立城を取り上げ水野氏に預けた。 小督局は2年間、城主の姫の暮らしから神官の娘となり仕える侍女も減り、身の回りのことも一人で出来るようになる。適応力に優れ、自由に勉学に励む時間を持て不自由は感じていなかった。だが、父母一族は昔の栄華を取り戻したいと言いつつ、苦渋の暮らしを続けた。 父母は、前々から小督局を家康に仕えさせたいと水野氏に頼んでいた。ようやく機会が訪れたと大喜びだ。小督局は氷見家のために価値ある働きをするよう励まされ、心得を教えられて岡崎城の人となる。 1570年、家康は徳川と名乗り、浜松城を居城とする。たまに岡崎城を訪れるだけになり、しかも、築山殿と会えばいつも口論になった。 小督局と家康の愛は、築山殿の周囲では許されない。家康は築山殿を妻として扱わず、築山殿に仕える侍女たちは家康に反感を持っていた。家康が築山殿を訪れた時もよそよそしくして、築山殿の哀れな姿は家康のせいなのだとささやかに見せつけた。 小督局は、岡崎城内での家康との数日の逢瀬だけで、その後家康から愛情をかけられることはない。だが、小督局は秀康を妊娠した。このままでは、家康からも築山殿からも見放され、どこにも居場所がない。 岡崎三奉行の一人であり氷見氏と長年の付き合いのある家康譜代の重臣、本多重次を頼ると決める。重次はすぐに事情を察し暖かく自邸に迎えた。 中村家は、岡崎城から離れた浜松城に近い宇布見(浜松市西区雄踏町)に屋敷を与えられている。 小督局は中村家屋敷内に住まいを用意された。中村家は主君の愛妾として最高のもてなしをする。小督局は感激し、家康の子を身ごもった幸せを感じる。 秀康が生まれても、家康は本多重次に小督局母子を預けたままだった。本多重次は小督局母子を引き取るが、小督局は不安定な身分にいらだち、家康との対面を取り計らうように言う。重次は岡崎城主、信康側近の兄重富に相談し、重富は信康に事情を話す。 1579年、小督局の周辺はざわめき緊迫する。 小督局や重次、氷見家の人々は信康が亡くなり、秀康が嫡男になると期待した。家康からの言葉を待ち侘びるが、何もない。小督局は予期していたが、寂しく秀康との暮らしを続ける。 時が移り、信長の時代から秀吉の時代になる。1584年、織田信雄・家康連合軍は秀吉勢を相手に、小牧・長久手の戦いを始める。家康は個別の戦いでは勝利するが、大将である織田信雄が秀吉と戦い敗北し和解を結んでしまう。大義名分がなくなり家康も秀吉に敗北した形で兵を引く。家康は勝者、秀吉との和議交渉を始める。 家康は、敗者としての人質を要求され、ためらうことなく秀康を秀吉に送ると決める。 浜松城内には秀吉との徹底抗戦を叫ぶ家臣も多く、秀康の安全が確保される和議が結ばれたわけではない。 小督局は恐れていた通りだ、家康は秀康を守る気がないのだと改めて気づく。家康は次々側室を迎え、子たちも誕生している。秀康は必要ないのだ。 家康に人質として大坂城に行きたいと申し出る。家康も拒否する理由はない。秀吉は人質を好むし秀康の生母となれば大歓迎だ。 小督局は家康の側室として扱われることはなかったが、秀吉は家康の側室であり秀康の母だと丁寧に扱う。名だけの形式的な側室だが、初めて側室として扱われ心が弾む。 |
1585年初め、秀吉は秀康を大歓迎で迎えた。家康が嫡男を人質に送ってきたと解釈したのだ。小牧長久手の戦いは秀吉勢の痛手が大きく、家康に致命傷を与えることはできなかった。痛手を負わず、戦力も落としていない家康は、形式的に臣下の礼を取るだけで反撃の機会をうかがっているのではないかと、疑った。秀康が送られてきて、家康が敗北を認めて真に臣従する意思があるのだと確認し、気分を良くした。 ところが続いて、嫡男の安全を見届ける口実で家康が大坂城を訪れ、秀吉に臣従するはずが動かない。秀吉は家康が秀康を嫡男とはみなしていないと知る。秀康は殺されてもいい人質でしかないのだ。 11歳の秀康は緊張して大阪城入りしたが、想像以上の秀吉の優しさがうれしかった。 その後、天下人、秀吉の権勢の前に家康も屈服し、大坂城に秀吉に会いに来る。秀康も役目を果たしたと安心して、文武の修行に励む。秀康は洗練された京大阪の文化を好み、家康に付けられた家臣より、秀吉からつけられた家臣や、秀吉の近くにいる武将と深い交わりを持つ。 1590年、秀吉は秀康を連れて小田原攻めに出陣する。秀康の初陣だ。代わりに、京での人質に、秀忠を要求され、秀忠は大坂入りする。 結城家が秀吉に臣従し和議を結ぶ際、下総国(千葉県北部・茨城県の一部)10万石を結城晴朝に安堵された。また、和議に伴い養女、鶴姫と秀康の結婚を合意した。 そして結婚式が執り行われる。秀康16歳は鶴姫の婿となる。家康の嫡男だという意識は持ち続けたが、結城家を継ぐことにも誇りを持つ。勇猛な坂東武者の血筋を受け継ぎ、名将となると自信がみなぎっていた。 ただ、秀康は秀吉に従い、戦いに明け暮れる。鶴姫は下総国にとどまり共に過ごすときは少ない。しかも秀康は京・大阪で長く育ち、上方(かみがた)の雰囲気がなじんでいた。 京屋敷で過ごす秀康の心を射止めたのは側近中川一茂の娘、岡山の方だ。鶴姫への妻としての尊厳を壊すことはないが側に置くようになる。 家康は秀吉家臣を嫌う。情報漏れを警戒し近づけないようにする。だが、秀康は岡山の方を愛した。家康には気に入らない受け入れがたい女人だ。 その後、秀吉の死、豊臣方・徳川方に分かれての関が原の戦いへと時代が移る。 家康率いる東軍が大勝利し、豊臣家は天下人から65万石の一大名になった。そして得た領地を豊臣系の大名に大判ふるまいし、分け与えた。秀康には越前福井藩(北の庄)67万石と大幅加増し与えた。秀康も家康の子にふさわしい待遇だと受けた。秀頼に対しては厳しすぎる処置だと思うが。 下総国10万石の家中には、家康系の家臣、豊臣系の家臣、結城系の家臣が入り混じっていた。秀吉の死・家康の大勝利でそれぞれの力関係は微妙に変わっていく。 こうして徳川系・豊臣系・結城系家臣に加え、関ヶ原後に秀康が選び集めた新参の家臣団が出来ていく。家臣団が統制がとれないほどに膨張して7年、藩政がまだ安定しないうち秀康33歳で亡くなる。突然の死だった。6男1女が残された。 秀康は、秀吉の側に居た時代に岡山の方と、もう一人お駒の方を見染めて傍に置いた。お駒の方との間に、喜佐姫と3男直政が生まれた。 次いで、三好氏一族の娘お品の方(品量院・父三好長虎)に目を留める。 秀康の最後の側室が、お奈和の方で、末っ子6男直良(1605-1678)を生む。 嫡男忠直は、まだ12歳だったがしっかりと父、秀康の死を受け止めた。岡山の方(清涼院)の実家中川氏一族が支える。
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秀康は勇名を馳せた知将を好み、折々に集めた。また、秀吉恩顧とされる武将とも長年の付き合いがあり、西軍とされ改易されたことに心痛め、多数召し抱える。こうして膨れ上がった新参武将の信望を集め、まとめ、率いたのが久世但馬守だ。 忠直は今村盛次の考えが好きだ。藩の行政に精通し、城下を繁栄させ富める藩政を作ると熱く語る今村盛次に全幅の信頼を置く。今村盛次は母の実家、中川氏と共に忠直側近を形成していく。 一方、秀忠は秀康が亡くなり、将軍として結城松平家に気楽に指図できるようになり緊張から解放された。いままでは兄の家系として遠慮があった。 忠直の藩主としての出発はむなしく、涙がこぼれた。秀康の葬儀の仕方を家康から怒鳴られたのだ。結城松平家の独立性を重んじる秀康は、結城家菩提寺の曹洞宗孝顕寺を自らの菩提寺とするよう遺言した。 家康は豊臣恩顧を自称する家臣は認めない。結城松平家には豊臣秀頼に同情したり、重んじる家臣がいると考えていた。まだ大坂城には秀頼は健在であり、誰一人豊臣家に味方することのないよう家臣団を再編成しようとする。 その役目を勝姫および付き従う家臣団が担う。 1611年、絢爛豪華な嫁入調度と共に勝姫一行は、江戸を出発し駿府城に入る。勝姫は家康に祝福され、忠直の良き妻になり両家の架け橋になるよう激励される。そして、福井入りした。土井利勝以下幕府の要人が付き添い、本多富正の屋敷に入り休憩する。 勝姫は休養の後、盛大な結婚式を執り行なう。勝姫10歳と忠直16歳は結ばれる。 だが、家康の指示は的確だった。結婚の翌年に、久世但馬守の家臣が今村盛次の家臣の領地の百姓を殺す事件が起きる。豪傑の久世但馬守には横暴に見える振る舞いもあった。今村盛次は久世但馬守の家中ゆえ起きた事件だと犯人の引き渡しを求める。この些細な出来事から、越前騒動が始まる。 幕府を後ろ盾にした筆頭家老、本多富正は、秀康の厚い処遇に比べ忠直に冷遇された久世但馬守をひそかに取り込むのに成功していた。 今村盛次は忠直の母、岡山の方や中川氏と、「久世但馬守と本多富正の非を明らかにすべきだ」と意志一致した。本多富正の力をそぐためにも有効だと、事の次第を忠直に報告する。忠直は家臣を不当にかばう久世但馬守を叱り、今村盛次の考えを支持した。 今村盛次は「藩主(忠直)の命令だ。久世但馬守を成敗すように」と富正に伝えた。 次に、富正は幕府に今村盛次の不祥事を訴え、家康・秀忠までも巻き込む大騒動にする。忠直にはささいな家臣の争いでしかなかったが、幕府は藩政を揺るがす一大事として裁定する。今村派を糾弾し、重い処罰を加え一掃した。 富正は秀康旧体制を引きずり、徳川家への臣従に疑問の残る久世氏・今村氏および同調する家臣たちを同時につぶし親藩の松平家にふさわしい家臣団へと変えた。 1613年、今村盛次の後任に富正のいとこ、本多成重が付け家老として送り込まれる。大義名分は幼君忠直を支えるためだ。徳川家譜代の家系、本多成重・富正の二頭体制で藩政は執り行われる。忠直は18歳の大人なのに幼少だと決めつけられ、強い屈辱を受ける。結局、誇りを傷つけられ、その上、藩政に直接携われず退けられた、怒りに震える。 忠直が形だけの藩主に祭り上げられ怒り狂った形相で勝姫を訪ねる時があっても、勝姫はにっこりと笑顔で迎えた。「時間が解決します」と気にするそぶりは見せない。二人の仲は変わらず睦まじかった。 勝姫も忠直を知れば知るほど同じ家康の孫でも成長の過程は全く違うと驚きながら、忠直の屈折した思いを理解し同情した。の考える藩政が行えるよう支えたいと思う。 1615年に勝姫は14歳で嫡男光長を生み「両家の絆の役目を果した」と誇らしく母お江に報告した。続いて1617年に亀姫が、1618年に鶴姫が生まれ、勝姫は堂々とした松平家の女主になる。この頃、二人は固く結ばれ越前福井藩は危うさを持ちながらも安泰だと思われた。 忠直も将軍の婿として、越前福井藩主として独立性を保ちつつ、幕府に忠誠を励もうとした。しかし秀忠は独立性を嫌う。忠直はただ幕府に従えばよいのだ。忠直には父秀康の言い残した、結城松平家らしい藩政を行うようにとの言葉が忘れられない。 1619年、幕府に対しある程度の影響力を持った祖母、小督局が亡くなると、幕府は忠直を追い詰めていく。 忠直は、勝姫の侍女に激怒し斬り殺す。味方と信じていたのに、忠直の行動を暴挙の振る舞い多々ありと逐一幕府に知らせていると知ったのだ。勝姫の指示に違いないと叫ぶまでになる。 それでも忠直の後を8歳の光長が継ぐだけで藩政に変化はないと思っていた。まだ幼少とはいえ勝姫が後見し立派な藩主にする自信もあった。 |
勝姫の願いはすぐに打ち壊された。 秀康の死後、忠直の弟忠昌(1598年1 月21日- 1645年9 月20日)は家康の養子となり駿府城・江戸城で育つ。家康は側室、勝の局を忠昌の養母とし預け、器量を見る。家康・勝の局に従順で素直であり、親藩にふさわしい藩主になると満足する。 そこに越前福井藩に国替えだと吉報が入る。光長が越前福井藩主になったが、幼なすぎると越後高田藩26万石に国替えを命じられ、代わりに忠昌が入るのだ。 忠直に近い独立心旺盛の家臣の力を弱め分断するために、幕府の裁量で二つの藩に家臣団を分けた。秀康色は薄らぎ、より親藩にふさわしい陣容になるはずだ。 勝姫は江戸に戻ると父秀忠に、光長(1616年1 月18日-1707年)は福井藩主だったのに国替えは許せないと怒り狂いながら訴える。秀忠の巧妙な藩政への介入に忠直が対抗できるはずはなく流罪となり、それで十分だ。光長に罪はないと必死だ。 だが、秀忠・お江はいずれ勝姫の思いを叶えるからと優しく言うだけだ。 勝姫は将軍の姫らしく落ち着いていくが、光長は違った。悲運の父の面影をよく覚えている。流罪となった後は、折々母、勝姫から事のいきさつを聞き父に同情し無念の思いを胸に秘めて育ち、忘れることはない。 1634年、嫡男、綱賢(つなかた)(1634年4月8日-1674年3月7日)が生まれる。1636年、国姫(1636-1671)が生まれる。 1650年、忠直が府内で亡くなる。光長は流罪の人であっても丁寧に葬るように家臣を送る。そして、豊後で生まれた3人(永見長頼、永見長良、勘姫)の遺児を光長が弟妹として高田藩に引き取る。ここから、勝姫との間がきしみ始める。 忠直は幕府から5千石を与えられた流人だった。日々の暮らしは恵まれていたが、行動は制限され自尊心の強い忠直には苦しい暮らしだった。お蘭の方との出会いで落ち着きを取り戻し、3人の子を儲けた。 勝姫は、子たちを引き取ることに反対した。だが、光長は3人とも国元に置いた。そこで勝姫は弟妹とは扱わず家臣扱いするように言うが、可愛がり祖母の名を継がせ、藩主一族として温かい待遇をする。 1651年、光長が慕い尊敬した土佐姫の父、秀就(1595-1651)が亡くなる。 越後高田藩政への勝姫の影響力は大きかった。土佐姫の子たちの結婚相手も勝姫が主に決めている。 光長は勝姫の存在が大きく思うような藩政が行えないとぼやく。土佐姫は子たちもそれぞれ片付き、幕府に嫌われている光長は隠居すべきだと考え、頼む。だが、綱賢に藩主の座を譲るそぶりは見せない。 1672年、勝姫71歳は江戸屋敷で亡くなる。 光長はまだまだ藩主を続けるつもりで考えがあった。綱賢は嫡男であり江戸屋敷を離れることはなかった。そのため、光長は国元に戻ると弟、永見長頼(ながみながより)(1630年3月3日-1667年10月3 日)をわが子のように扱った。1667年、長頼が亡くなると、その子、綱国(1662-1735)を孫のように可愛がる。そこで綱国を嫡男として養子に迎えようと考えた。 1677年、土佐姫60歳は人生とは思い通りにはならないものだと笑いながら亡くなる。綱国が元気に成長し15歳になり、後継になるだろうと高田藩の安泰を確信していた。 |
1655年、国姫(1636-1671)は松平光通(みつみち)(1636年6月10日-1674年4月29日)に嫁いだ。19歳どうしの遅い結婚だった。 光通は父、光長が終生願い続けた越前福井藩の藩主だ。 国姫は、物心が付いた時から、越前福井藩主の妻になるのだと言われ、当然と思い育つ。そして、祖母勝姫が付きっ切りで19歳で嫁ぐ日まで将軍家の血筋を受け継ぐ姫として最高の教育を受けさせた。 光通の父、忠昌(1598-1645)は花姫(1605-1623乾御前)と結婚したが、1623年に亡くした。その直後、越前福井藩を継ぎこの地を福井とし、北ノ庄城が福井城と呼ばれる。 結城松平家筆頭の後継者、忠昌の再婚相手として最適とされたのが、秀康の妻鶴姫の再婚相手、烏丸光広(からすまるみつひろ)(1579年-1638年8 月22日)の縁戚、広橋兼賢の娘道姫だ。 忠昌に断る理由もなく道姫と再婚。嫡男、光通と毛利家に嫁ぐ千姫が生まれる。 1645年、忠昌が48歳で亡くなり、光通は9歳で後を継ぐ。 1651年、家光が亡くなり、家綱の時代となった。それでも、結婚式が定まらず業を煮やした勝姫は、姉千姫に頼む。千姫は家光の決めた婚約ゆえ先延ばしは出来ないと強く幕府に訴える。そしてようやく、結婚式となる。 国姫は江戸屋敷で京都から招かれた識者に学んだ。特に、和歌の達人とまで言われるほどに才能を発揮した。光通も公家の母を持ち、勉強熱心で文教を奨励し、文化的素養も深く二人の日々の暮らしは波長が合い、特別の言葉を交わさなくても思いが通じ合った。 国姫は祖母・父や、福井藩家中の期待を痛いほど感じ、男子を生むと張り切っていたが、以後子が生まれないまま、結婚後15年以上の月日が過ぎる。 まじめで責任感の強い国姫は35歳になりもう子を産むことはできないと悟る。 光通は結婚後に生まれた直堅を国姫への裏切り行為となったと、深く悔いて家臣に預けたままにした。そして、わが子とは認めないと、勝姫・光長に約束をしていた。 1673年、越前大野藩主、松平直良(秀康6男)を頼り逃げる。 直堅の母、お三の方は片桐氏の出身だ。 また、お奈和の方の妹於佐井の方は尾張61万石藩主、徳川義直の後妻になる。津田家は尾張徳川家とも縁が深く、大野藩主直良も鼻が高く勢いもあり、直堅を難なく守る。 だが、光通は国姫を愛し、勝姫・光長へも筋を通したいと考えた。直堅を直良に託し、後継から外す。そして、すべての責任は自分にありと、1674年、38歳で自殺する。 昌勝は、伊予松山藩15万石藩主、松平定行(家康の異父弟、松平定勝の嫡男)の娘、菊姫を妻とした。まぎれもなく、将軍家の一門としての格式をもつ親藩同士の婚姻だ。 だが、重臣たちの中に長子、昌勝が家督を継ぐべきだとの声が上がる。直堅も直系であり支援する重臣もいる。ここから、藩主、昌親。兄、昌勝。長男、直堅。と三つ巴の家中騒動が起こる。譜代の家臣団の結束が弱く、すぐに内紛が起きる。 忠直と忠昌の兄弟対決が光長と光通に尾を引き、まだ渦巻いている状態だ。幕府から付けられた重臣は冷静を保ち、光通の為に一致団結する気配を見せない。 藩主、昌親と兄、昌勝の対立は続く。昌親は思うような藩政を行えない。 しかし犠牲は大きかった。越前福井藩は秀康が67万石を得ていた。 吉品は藩主に返り咲くが、子がなく後継者を決める必要があった。長年の葛藤から、兄昌勝(1636年4月16日-1693年8月28日)の家系には譲りたくない。 光通は、勝姫・光長の思いを生かして昌親を後継にし、昌親も光通の思いを生かして越前福井藩を守りたかった。だが、幕府は越前福井藩を25万石の親藩とし、再編を終えた。
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