福井城四方山話

1.小督局ーお万の方・長勝院ー 結城秀康の母 1548-1619

小督局(こごうのつぼね)の父は氷見貞英(ひみさだひで)、母は水野忠政の娘だ。
家康の母、お大の方の妹が小督局の母になる。母親が違う、異母姉妹なのだ。父は三河国知立(ちりゅう)神社の神官、氷見氏の当主だ。
 氷見氏は神主だが、武力を持ち、戦功をあげ領地を増やし知立城(愛知県知立市西町)を築き居城とした西三河の豪族でもある。
この地の有力者、松平氏・水野氏に従っていたが、今川氏の勢力拡大につれて押され、仕方なく今川方に属した。

 1560年、不運が起きる。今川義元対織田信長の桶狭間の戦いが始まった。
知立城は今川氏先発隊の本陣とされた。今川勢が知立城に入った時、義元は後方の桶狭間で討ち取られた。
勝ち戦に気勢を上げる織田軍は知立城に突入する。攻撃を受けた今川勢は、戦いどころではなく散り散りに逃げた。残された氷見家の手勢も戦う意思がないのに逃げるところもなく戦うしかない状態になる。知立城は織田勢の思うままで、氷見氏勢はさんざんに打ちのめされ城は炎上した。

氷見貞英は余りの損害に茫然とするばかりだったが、舅の水野氏に促され家康に従う。だが、家康は冷たく、知立城を取り上げ水野氏に預けた。
小督局は、12歳で炎に包まれた城から着の身着のまま知立神社に逃げる。悲惨な体験を心に刻んだ。氷見家は知立神社で神主を務めながら、細々と家康に仕えるしかない。

小督局は2年間、城主の姫の暮らしから神官の娘となり仕える侍女も減り、身の回りのことも一人で出来るようになる。適応力に優れ、自由に勉学に励む時間を持て不自由は感じていなかった。だが、父母一族は昔の栄華を取り戻したいと言いつつ、苦渋の暮らしを続けた。
その時、お大の方の頼みを受けて母方の水野氏の使いがやってくる。築山殿が亀姫(家康の長女)の侍女を探しているで、来るようにとのことだった。お大の方は築山殿を厳しく監視するつもりだった。
わずかな供しか連れず岡崎城に着いた築山殿母子が暮らすために、侍女が必要だった。そのために、お大の方の身内の侍女を築山殿母子の側に置きたいと考えた。
そこで、妹一族のためになればと小督局を推した。
築山殿に目通りする。神官の娘として知識教養を積み、きらめく才知の女人に育っていた小督局だ。築山殿も断る理由もなく、岡崎城で仕えることになる。

 父母は、前々から小督局を家康に仕えさせたいと水野氏に頼んでいた。ようやく機会が訪れたと大喜びだ。小督局は氷見家のために価値ある働きをするよう励まされ、心得を教えられて岡崎城の人となる。
主君の正室に選ばれたうれしさで胸いっぱいだ。小督局は一生懸命、築山殿と亀姫に奉公する。次第に築山殿・亀姫の側近く仕えるまでに信頼される。
だが、家康は浜松城に移る。小督局の実家が取り立てられ、知立城に戻れるよう願ったが、叶わなかった。

1570年、家康は徳川と名乗り、浜松城を居城とする。たまに岡崎城を訪れるだけになり、しかも、築山殿と会えばいつも口論になった。
長年の冷遇に恐れを知らない度胸をつけた築山殿だ。帰る家もなく、守る家もなく、父母も家康に殺されたと捨て身で家康に挑む。築山殿から悪口雑言を浴びせられいらだつ家康は、小督局に目に留める。
小督局は、きりっとした整った顔立ちで華やかな美人ではないけれど知的な落ちつきと堂々とした風格があった。
小督局26歳は家康の心を掴み1574年、家康の次男秀康の母となる。築山殿に仕えて12年の歳月が経っていた。

 小督局と家康の愛は、築山殿の周囲では許されない。家康は築山殿を妻として扱わず、築山殿に仕える侍女たちは家康に反感を持っていた。家康が築山殿を訪れた時もよそよそしくして、築山殿の哀れな姿は家康のせいなのだとささやかに見せつけた。
お大の方に選ばれた侍女も多いが、12年の歳月で皆、築山殿の支持者に変わったのだ。
築山殿も共に苦境に耐えながら、信康・亀姫を育て岡崎城に一定の力を持った今、仕える者たちに感謝し、裏切るはずがないと信じていた。
その時、小督局が家康の子を妊ったことを知り、信じられず激怒した。

 小督局は、岡崎城内での家康との数日の逢瀬だけで、その後家康から愛情をかけられることはない。だが、小督局は秀康を妊娠した。このままでは、家康からも築山殿からも見放され、どこにも居場所がない。
氷見家には小督局を守る力はない。身重の身体を自分の力で守るしかないと、覚悟を決める。あてがあるわけでなく、胸中は混乱し、絶望の涙も流れる。落ち着くように落ち着くようにと何度もつぶやく。冷静にならなければならない。
家康の子を授かることは無事生まれれば非常に値打ちがあるのだ。身体の変化とともに授かった命への湧き上がる愛情もある。どうしても身を守りたい。

 岡崎三奉行の一人であり氷見氏と長年の付き合いのある家康譜代の重臣、本多重次を頼ると決める。重次はすぐに事情を察し暖かく自邸に迎えた。
そして家康と連絡を取る。家康は一瞬迷うが、築山殿からは守るしかないと中村家に預けるよう指示する。

中村家は、岡崎城から離れた浜松城に近い宇布見(浜松市西区雄踏町)に屋敷を与えられている。
源範頼(頼朝の弟)の末裔になる名門であり、大和国広瀬郡中村郷に在地し名字とした。1481年頃、今川家から招かれ領地を得て重臣として仕える。2年後、本拠を宇布見(浜松市西区雄踏町)とし、屋敷を構える。以後、浜名湖の軍船を任され、水軍を率い戦う。
義元死後、家康からの誘いに乗り今川家から離れた。それからは、家康の浜松城奪取の先導を務め、浜松城入りを実現する大きな働きをした。家康は浜松城を居城とすると、中村正吉を今切軍船兵糧奉行とし浜名湖の水運・水軍を任せた。

小督局は中村家屋敷内に住まいを用意された。中村家は主君の愛妾として最高のもてなしをする。小督局は感激し、家康の子を身ごもった幸せを感じる。
家康からの連絡は何もなくても、家康の子と認められたのだと心躍らせて秀康を生む。
家康は秀康の誕生を望まなかった。築山殿から守っただけで、小督局に愛情はなく忘れていた存在だ。秀康を自分の子かどうかも疑った。秀康を迷惑と感じるだけで次男と認める気にはならない。
用心深い家康は、側室として生活を共にした上で生まれた子でないと、我が子と認めることは出来ない。

 秀康が生まれても、家康は本多重次に小督局母子を預けたままだった。本多重次は小督局母子を引き取るが、小督局は不安定な身分にいらだち、家康との対面を取り計らうように言う。重次は岡崎城主、信康側近の兄重富に相談し、重富は信康に事情を話す。
1577年、家康も嫡男、信康の頼みには断れず、秀康と対面ししぶしぶわが子と認める。
その後も小督局と秀康は本多重次に預けられたままだった。
築山殿も信康の成長を頼もしく思い静観していたが、小督局も秀康も認めることはなかった。

1579年、小督局の周辺はざわめき緊迫する。
築山殿・信康が殺され、岡崎城の信康家臣の再編がなされた。浜松城と並び立っていた岡崎城がただの支城となり多くの家臣が浜松城に移るよう命じられる。この時、小督局も秀康も浜松城に入る。

 小督局や重次、氷見家の人々は信康が亡くなり、秀康が嫡男になると期待した。家康からの言葉を待ち侘びるが、何もない。小督局は予期していたが、寂しく秀康との暮らしを続ける。
浜松城に居場所があるだけでも、恵まれている。いつかきっと秀康が認められる日が来ると希望を捨てることはないが。

時が移り、信長の時代から秀吉の時代になる。1584年、織田信雄・家康連合軍は秀吉勢を相手に、小牧・長久手の戦いを始める。家康は個別の戦いでは勝利するが、大将である織田信雄が秀吉と戦い敗北し和解を結んでしまう。大義名分がなくなり家康も秀吉に敗北した形で兵を引く。家康は勝者、秀吉との和議交渉を始める。

家康は、敗者としての人質を要求され、ためらうことなく秀康を秀吉に送ると決める。

浜松城内には秀吉との徹底抗戦を叫ぶ家臣も多く、秀康の安全が確保される和議が結ばれたわけではない。
小督局は呆然とする。秀康の命を秀吉に差し出したとしか思えなかった。今後の交渉次第で、秀康の命は奪われるかもしれないのだ。小督局は耐えるしかない。 
それでも、心のどこかで秀吉が求めている大坂城に出向いて公然と臣従の礼とるのではないかと思う。家康が秀康に会いに出向くはずだと信じた。
だが、家康は動かない。秀吉は怒り秀康の命も危ない状況となる。

 小督局は恐れていた通りだ、家康は秀康を守る気がないのだと改めて気づく。家康は次々側室を迎え、子たちも誕生している。秀康は必要ないのだ。
ここで、小督局は覚悟を決める。万が一のときは秀康と共に共に死ぬ決意で秀康の命を守ると。母子共々の死を家康は避けるかもしれないとの淡い望みもあるが。

家康に人質として大坂城に行きたいと申し出る。家康も拒否する理由はない。秀吉は人質を好むし秀康の生母となれば大歓迎だ。
小督局は大坂城に着くと、秀康と涙の対面となり、二度とそばを離れないと熱く語る。だが秀康は、嬉々として大坂城での暮らしを楽しんでいた。命の危険は全く感じていない。小督局は取り越し苦労だったとまた涙があふれだす。秀康の側にいることが一番気持ちが安らぎ、自分らしく過ごせると悟る。何があろうと秀康を守れる限り守る。この生き方を貫くと決めた。

 小督局は家康の側室として扱われることはなかったが、秀吉は家康の側室であり秀康の母だと丁寧に扱う。名だけの形式的な側室だが、初めて側室として扱われ心が弾む。


2.鶴姫、結城秀康の妻 1575-1621

1585年初め、秀吉は秀康を大歓迎で迎えた。家康が嫡男を人質に送ってきたと解釈したのだ。小牧長久手の戦いは秀吉勢の痛手が大きく、家康に致命傷を与えることはできなかった。痛手を負わず、戦力も落としていない家康は、形式的に臣下の礼を取るだけで反撃の機会をうかがっているのではないかと、疑った。秀康が送られてきて、家康が敗北を認めて真に臣従する意思があるのだと確認し、気分を良くした。

 ところが続いて、嫡男の安全を見届ける口実で家康が大坂城を訪れ、秀吉に臣従するはずが動かない。秀吉は家康が秀康を嫡男とはみなしていないと知る。秀康は殺されてもいい人質でしかないのだ。
同時に、秀康に従い大坂に来た小栗重国ら家臣の中にある反家康の思いを感じる。信康付の家臣で謹慎処分を受けた家臣が多いと感じる。秀吉はすぐに秀康家臣の分断を企て、松平家(徳川家)筆頭家老の家柄、石川数正ら一部重臣を自らの臣下に取り込む。

 11歳の秀康は緊張して大阪城入りしたが、想像以上の秀吉の優しさがうれしかった。
浜松城では他の子たちに比べ明らかに差別され、家康のそっけなさが悲しかった。家康と比べ秀吉は身体いっぱいで愛情表現し、心を動かされ胸が熱くなった。
秀吉は家康の秀康への評価を知っても、変わらず秀康を可愛がり養子とする。小督局に対しても生母として尊厳を持って扱い、秀康を安心させた。

その後、天下人、秀吉の権勢の前に家康も屈服し、大坂城に秀吉に会いに来る。秀康も役目を果たしたと安心して、文武の修行に励む。秀康は洗練された京大阪の文化を好み、家康に付けられた家臣より、秀吉からつけられた家臣や、秀吉の近くにいる武将と深い交わりを持つ。

1590年、秀吉は秀康を連れて小田原攻めに出陣する。秀康の初陣だ。代わりに、京での人質に、秀忠を要求され、秀忠は大坂入りする。
秀吉の全国平定の最後の仕上げだ。
華々しく秀吉の権威を見せつけると、秀康らを引き連れ出陣する。
関東の諸武将は北条氏も含め秀吉を認め礼を尽くしていた。小田原城主、北条氏は戦いを挑む気はなかった。だが、秀吉の臣下に付かねばならないという忠誠心が薄かった。秀吉が求める当主の上洛への動きが遅すぎた。かって、家康も同じ対応だったが、時代は変わっていた。
秀吉の権威を見せつける舞台の悪役にされてしまった。
秀吉は所領安堵を求め臣下に付く諸将に上洛を求めたが、小大名や所領がまだ定まらない武将には、秀吉の陣に参陣することで代わりとした。いつどのような形でどれだけの手勢を引き連れ、秀吉の指示に従い戦うかで忠誠心を図り、所領を決めるつもりだ。

 結城家が秀吉に臣従し和議を結ぶ際、下総国(千葉県北部・茨城県の一部)10万石を結城晴朝に安堵された。また、和議に伴い養女、鶴姫と秀康の結婚を合意した。
結城晴朝には嫡男がいない。そこで、秀康を娘婿養子に迎え、結城家の存続と安泰を図ることを受け入れていた。事前の和議を実行に移す場が小田原の陣だ。結城家も勇んで参陣し、秀康は10万石の結城家の次期当主となり、婚約した。

北条家改易後、秀吉は家康に関東8か国240万石を与えた。隣接する秀康の10万石と合わせ、家康は250万石の大大名になる。秀吉は家康への監視役の役目を結城家、秀康に負わせたつもりだった。

 そして結婚式が執り行われる。秀康16歳は鶴姫の婿となる。家康の嫡男だという意識は持ち続けたが、結城家を継ぐことにも誇りを持つ。勇猛な坂東武者の血筋を受け継ぎ、名将となると自信がみなぎっていた。

ただ、秀康は秀吉に従い、戦いに明け暮れる。鶴姫は下総国にとどまり共に過ごすときは少ない。しかも秀康は京・大阪で長く育ち、上方(かみがた)の雰囲気がなじんでいた。
鶴姫は姫を生み、次は結城家の血を引く嫡男を期待されたが姫は亡くなる。鶴姫も上洛し京に住まうようになるが、秀康と鶴姫の間が微妙になる。
また、結城家は秀吉よりは隣国の家康を頼り従う関係となっていくが、秀康は秀吉の養子であるとの立場を変えなかったことも影響する。

 京屋敷で過ごす秀康の心を射止めたのは側近中川一茂の娘、岡山の方だ。鶴姫への妻としての尊厳を壊すことはないが側に置くようになる。
中川一茂は播磨を支配した赤松氏に繋がる平野城主、真島氏の一族だ。早くから秀吉に仕え、秀吉に推挙され秀康に仕えた。

 家康は秀吉家臣を嫌う。情報漏れを警戒し近づけないようにする。だが、秀康は岡山の方を愛した。家康には気に入らない受け入れがたい女人だ。
鶴姫に子が生まれないまま、岡山の方は1595年、忠直。続いて1597年忠昌と生む。
秀康は秀吉が喜び、家康が喜ばないのを承知で長子、忠直を嫡男と定める。わが身を不安定なままにした家康に対抗し、側室との子であっても早々と後継に決めた。

 その後、秀吉の死、豊臣方・徳川方に分かれての関が原の戦いへと時代が移る。
秀康はすぐに家康に従う。秀吉が亡くなった以上、豊臣家に義理だてる必要はない。秀忠が後継と思われているが、家康の長子として嫡男にふさわしい働きをすると奮い立つ。
家康は秀康には用心深い。豊臣方に通じる恐れありと直接東軍とはせず、上杉征伐を任せ東国の押さえに使う。秀康も家康が政権を主導すると天下に示す戦いであり、豊臣家がつぶされるとまでは考えない。

家康率いる東軍が大勝利し、豊臣家は天下人から65万石の一大名になった。そして得た領地を豊臣系の大名に大判ふるまいし、分け与えた。秀康には越前福井藩(北の庄)67万石と大幅加増し与えた。秀康も家康の子にふさわしい待遇だと受けた。秀頼に対しては厳しすぎる処置だと思うが。

 下総国10万石の家中には、家康系の家臣、豊臣系の家臣、結城系の家臣が入り混じっていた。秀吉の死・家康の大勝利でそれぞれの力関係は微妙に変わっていく。
その上、急激に領地が増えたため家臣団の充実を迫られ、秀康は地元や浪人となった名将を次々召し抱える。
中でも佐々成政の名参謀として名を馳せた久世但馬守を重く召し抱えた。成政失脚後に秀次に仕え、秀次失脚後に召し抱えたのだが。久世但馬守は秀康懐刀となり権勢をふるう。

こうして徳川系・豊臣系・結城系家臣に加え、関ヶ原後に秀康が選び集めた新参の家臣団が出来ていく。家臣団が統制がとれないほどに膨張して7年、藩政がまだ安定しないうち秀康33歳で亡くなる。突然の死だった。6男1女が残された。

秀康は、秀吉の側に居た時代に岡山の方と、もう一人お駒の方を見染めて傍に置いた。お駒の方との間に、喜佐姫と3男直政が生まれた。
家康が岡山の方もお駒の方も気に入らないのを知っていた。秀吉死後は本多富正らの推す家康に配慮した側室を受け入れる。
4男吉松(1604-1609)の母は富正の推したお布佐の方だ。富正の養子とし預けた。

次いで、三好氏一族の娘お品の方(品量院・父三好長虎)に目を留める。
三好政勝(1536‐1632年1 月31日)は秀吉に仕え秀吉死後、家康に仕え旗本に取り立てられている。同じように、秀康が越前福井藩に呼び寄せた三好氏一族がいた。
阿波三好氏は小笠原家から分かれ、一時期、京大阪を制するほどの力を持った勇猛な武将だ。小笠原家は家康も優遇した家柄だ。
お品の方は鶴姫に仕え、結城晴朝も鶴姫も了解した上で秀康に仕えた。三好政勝の縁者になり、家康が嫌うことはない。
1604年、5男、直基が生まれる。すぐに晴朝が引き取り、鶴姫が養母として育てる。秀康は直基を結城家の後継と決め、鶴姫の夫としての役目を果たしたと、謝りながら笑顔で直基を託す。
鶴姫は直基をわが子だと慈しみ、秀康死後間もなく直基を父に託し公家、烏丸光広(1579 年-1638年8 月22日)と再婚する。烏丸光広は、秀康や筆頭家老、本多富正(直基の妻の父)が京に在したとき親しくし、鶴姫とも交流があった。鶴姫と光広の間に男子が生まれたが、また幼くして亡くなる。
晩年は直基や本多富正と過ごし、1621年、結城家の行く末に安心して福井で亡くなる。
烏丸光広は後水尾天皇に信任され、後に勝姫の子たちが京に嫁ぐ時にも力を尽くす。

秀康の最後の側室が、お奈和の方で、末っ子6男直良(1605-1678)を生む。
織田信清(織田信長のいとこ)の嫡男、津田信益が父だ。津田信益は秀吉に仕え、茶々の信頼を得た。秀吉死後は家康に従い、次いで秀康の家臣として越前福井藩に従う。 
津田信益は家康との連絡も取り持った。お奈和の方の妹の於佐井(貞正院)の方も家康との取次ぎをした。津田信父娘は家康に気に入られていた。於佐井(貞正院)の方は秀康死後、家康に望まれ、お江(秀忠の妻)の娘和子姫(東福門院)に仕える。
直良は家康の認める秀康の子となる。 
お奈和の方・於佐井(貞正院)の方は美貌と才知で高名が知れ渡っていた。秀康の愛は深くお奈和の方もその愛に応えた。1609年、秀康を追うように亡くなる。

 嫡男忠直は、まだ12歳だったがしっかりと父、秀康の死を受け止めた。岡山の方(清涼院)の実家中川氏一族が支える。
秀康は岡山の方にも忠直にも「結城家は、家康の最長子の家系であり、本来は家督を継ぐべきはずなのだ。理由なく家康は後継に弟秀忠を指名した。」と話した。そして「秀忠が2代将軍になった以上、将軍を継げないが嫡流としての誇りを持って生きるように」と忠直に再三説いた。
忠直は、父の教えを真剣に聞き「将軍家に負けない誇れる働きをする」と答えた。その言葉に微笑んでうなずいた秀康だった。
忠直は、元気だった父のあまりに早い死は納得できなかった。それでも、父の遺志を受け継ぎ名君になると固く決意する。

 

 

3.勝姫、松平忠直の妻 1601-1672

秀康は勇名を馳せた知将を好み、折々に集めた。また、秀吉恩顧とされる武将とも長年の付き合いがあり、西軍とされ改易されたことに心痛め、多数召し抱える。こうして膨れ上がった新参武将の信望を集め、まとめ、率いたのが久世但馬守だ。
だが、戦争のない時代に育ち藩主となった忠直は、武功派として名高い久世但馬守や、幕府の顔色ばかり見ると思える筆頭家老、本多富正とは気が合わない。

忠直は今村盛次の考えが好きだ。藩の行政に精通し、城下を繁栄させ富める藩政を作ると熱く語る今村盛次に全幅の信頼を置く。今村盛次は母の実家、中川氏と共に忠直側近を形成していく。
今村家は近江に勢力を持った京極家の重臣だ。浅井氏と同格だったが、京極氏が凋落すると浅井氏に従い、秀吉に従う。そして秀康に重用された
ここから、秀康の元ではバランスを保っていた家臣団がきしみ始める。

 一方、秀忠は秀康が亡くなり、将軍として結城松平家に気楽に指図できるようになり緊張から解放された。いままでは兄の家系として遠慮があった。
秀忠には家康が後継に秀康ではなく秀忠を選んだ理由がわからない。秀忠が秀康より特別優秀とも思えない。
だが、将軍になった以上、徳川将軍家の絶対性を守るために、結城松平家を親藩であり臣下である松平一門とするしかないが、思うようにはできなかった。

忠直の藩主としての出発はむなしく、涙がこぼれた。秀康の葬儀の仕方を家康から怒鳴られたのだ。結城松平家の独立性を重んじる秀康は、結城家菩提寺の曹洞宗孝顕寺を自らの菩提寺とするよう遺言した。
だが、家康は徳川家は浄土宗だと言い、やり直しを命じた。やむなく、忠直が立ち会い、墓を掘り起し改葬した。亡骸を埋葬した後に、寺を建立し菩提寺、浄光院とする。
亡き父の意思を捻じ曲げられ、父の望まない地に埋葬されたのだ。忠直は深く傷ついた。
秀康の残された子たちの行く末など秀康の遺志はあまり考慮されず、幕府主導で決められた。忠直は、父の時代とは違う幕府の干渉、高圧的な態度を感じる。

家康は豊臣恩顧を自称する家臣は認めない。結城松平家には豊臣秀頼に同情したり、重んじる家臣がいると考えていた。まだ大坂城には秀頼は健在であり、誰一人豊臣家に味方することのないよう家臣団を再編成しようとする。

 その役目を勝姫および付き従う家臣団が担う。
忠直は秀忠とお江の3女、勝姫と1609年正式に婚約し、入念に結婚準備が進められる。秀康の生存中から結婚の話はあったが、秀康は答えを出さないままだった。

1611年、絢爛豪華な嫁入調度と共に勝姫一行は、江戸を出発し駿府城に入る。勝姫は家康に祝福され、忠直の良き妻になり両家の架け橋になるよう激励される。そして、福井入りした。土井利勝以下幕府の要人が付き添い、本多富正の屋敷に入り休憩する。
富正は筆頭家老として家康から付けられた重臣とともに、幕府の考えを土井利勝らと再度確認する。

 勝姫は休養の後、盛大な結婚式を執り行なう。勝姫10歳と忠直16歳は結ばれる。
忠直は今村盛次に繋がる浅井家出身のお江の娘、勝姫とは共通するものを感じ、心惹かれた。思いを共有できるはずだと希望を持って結婚する。
勝姫は無邪気な、母親譲りの整った顔立ちの将軍の姫だった。暗い影はどこにもなかった。忠直の思いは理解できないが、自由奔放に育った強い個性は共通だと感じた。結婚生活は兄と妹のように仲がよく順調だった。

だが、家康の指示は的確だった。結婚の翌年に、久世但馬守の家臣が今村盛次の家臣の領地の百姓を殺す事件が起きる。豪傑の久世但馬守には横暴に見える振る舞いもあった。今村盛次は久世但馬守の家中ゆえ起きた事件だと犯人の引き渡しを求める。この些細な出来事から、越前騒動が始まる。

幕府を後ろ盾にした筆頭家老、本多富正は、秀康の厚い処遇に比べ忠直に冷遇された久世但馬守をひそかに取り込むのに成功していた。
久世但馬守は、藩主の信頼厚い次席家老、今村盛次・中川一茂が相手では勝ち目がないと考える。だが、屈服はしたくない。そこで、「今村盛次の厳しい追及をかわしたい」と本多富正を頼る。
待ち構えていた富正は「取り合うことはない」と答えた。久世但馬守は不安を抱きながらも従い、今村盛次へ拒否を通告する。

今村盛次は忠直の母、岡山の方や中川氏と、「久世但馬守と本多富正の非を明らかにすべきだ」と意志一致した。本多富正の力をそぐためにも有効だと、事の次第を忠直に報告する。忠直は家臣を不当にかばう久世但馬守を叱り、今村盛次の考えを支持した。

今村盛次は「藩主(忠直)の命令だ。久世但馬守を成敗すように」と富正に伝えた。
今村盛次は藩政の主導権を握っている証を見せつけ、富正を指揮下に置くと考えた。
富正は、「盟友だ。今村盛次の横暴から必ず守る」と答えた久世但馬守に対して、一転して藩主の命に従わない不忠者として屋敷を囲み殺す。富正の巧妙な仕掛けで、久世但馬守と今村盛次の分断は成功し、新参家臣の信望の高い久世一族は滅ぶ。

次に、富正は幕府に今村盛次の不祥事を訴え、家康・秀忠までも巻き込む大騒動にする。忠直にはささいな家臣の争いでしかなかったが、幕府は藩政を揺るがす一大事として裁定する。今村派を糾弾し、重い処罰を加え一掃した。

富正は秀康旧体制を引きずり、徳川家への臣従に疑問の残る久世氏・今村氏および同調する家臣たちを同時につぶし親藩の松平家にふさわしい家臣団へと変えた。
忠直はなすすべもなく、側近を失う。外祖父、中川一茂の信濃配流の処分は許し難かった。

 1613年、今村盛次の後任に富正のいとこ、本多成重が付け家老として送り込まれる。大義名分は幼君忠直を支えるためだ。徳川家譜代の家系、本多成重・富正の二頭体制で藩政は執り行われる。忠直は18歳の大人なのに幼少だと決めつけられ、強い屈辱を受ける。結局、誇りを傷つけられ、その上、藩政に直接携われず退けられた、怒りに震える。

 忠直が形だけの藩主に祭り上げられ怒り狂った形相で勝姫を訪ねる時があっても、勝姫はにっこりと笑顔で迎えた。「時間が解決します」と気にするそぶりは見せない。二人の仲は変わらず睦まじかった。
忠直も勝姫との親密な仲を守ることで、将軍の娘婿であることを演じ続けた。勝姫を通じてのみ、藩主として復権できると信じたのだ。
は復権を目指し挫折を繰り返しながらも、次第に一定の影響力を持つ藩主になっていく。処分された家臣達も元通りには出来ないが復権させていく。

勝姫も忠直を知れば知るほど同じ家康の孫でも成長の過程は全く違うと驚きながら、忠直の屈折した思いを理解し同情した。の考える藩政が行えるよう支えたいと思う。
勝姫は忠直との良い関係が、父や祖父から託された両家の架け橋の役目を果すことだと、忠直を愛し続ける。
小督局も岡山の方も幕府には恨みはあるが、諍いを起こすつもりはなく忠直が藩主として藩政を行えることを願い、勝姫と距離を置きながらも仲睦まじいことを願った。

1615年に勝姫は14歳で嫡男光長を生み「両家の絆の役目を果した」と誇らしく母お江に報告した。続いて1617年に亀姫が、1618年に鶴姫が生まれ、勝姫は堂々とした松平家の女主になる。この頃、二人は固く結ばれ越前福井藩は危うさを持ちながらも安泰だと思われた。

 忠直も将軍の婿として、越前福井藩主として独立性を保ちつつ、幕府に忠誠を励もうとした。しかし秀忠は独立性を嫌う。忠直はただ幕府に従えばよいのだ。忠直には父秀康の言い残した、結城松平家らしい藩政を行うようにとの言葉が忘れられない。

1619年、幕府に対しある程度の影響力を持った祖母、小督局が亡くなると、幕府は忠直を追い詰めていく。
忠直は幕府に敵対する意図はなくただ名君足らんと藩政に対し修養を積むだけだ。だが、大坂の陣での活躍も認められることがなく、ただ命令に従うだけでは面白くない気持ちがある。忠直の行動はことごとく幕府への忠誠心に欠けると判断される。
忠直は信頼する有力な忠臣もなく次第に追い詰められ自暴自棄に陥っていく。
将軍家への不満を露わにし、抵抗する姿勢が見えだすと、勝姫とも気まずい関係となる。

忠直は、勝姫の侍女に激怒し斬り殺す。味方と信じていたのに、忠直の行動を暴挙の振る舞い多々ありと逐一幕府に知らせていると知ったのだ。勝姫の指示に違いないと叫ぶまでになる。
勝姫は「夫忠直を信じ、余裕を持って藩政を執り行えるよう配慮して欲しい。藩主として十分能力がある。」と母お江に訴えるが答えはない。
勝姫の願いもむなしく、秀忠は1623年忠直に豊後国府内藩(大分市)での隠居を命じた。勝姫も忠直の流罪はやむを得ないと思いつつ、父秀忠の冷たすぎる仕打ちは予想外で信じられず、やるせなく悲しい。

 それでも忠直の後を8歳の光長が継ぐだけで藩政に変化はないと思っていた。まだ幼少とはいえ勝姫が後見し立派な藩主にする自信もあった。


4.土佐姫、松平光長の妻 1617-1677

勝姫の願いはすぐに打ち壊された。
秀忠はまだ旧体制を引きずる家臣が残っていると、容赦なく結城松平家の再編を進める。

秀康の死後、忠直の弟忠昌(1598年1 月21日- 1645年9 月20日)は家康の養子となり駿府城・江戸城で育つ。家康は側室、勝の局を忠昌の養母とし預け、器量を見る。家康・勝の局に従順で素直であり、親藩にふさわしい藩主になると満足する。
忠昌は父の死後1万石を与えられ分家した。大坂の陣で活躍し、兄弟のように育った徳川頼房の国替えの後を受け継ぎ、常陸下妻藩3万石を得る。次は、松平忠輝の国替えの後を引き継ぎ信濃松代藩12万石へ、そして、1618年に忠輝改易の後を受けて越後高田藩26万石藩主となり、浅野幸長の娘花姫(1605-1623)と結婚した。順調に出世していたが、頼房・忠輝の生きざまを見て、分相応に生きることのむつかしさを感じていた。

そこに越前福井藩に国替えだと吉報が入る。光長が越前福井藩主になったが、幼なすぎると越後高田藩26万石に国替えを命じられ、代わりに忠昌が入るのだ。
本家と分家が入れ替わった国替えだ。忠昌には破格の待遇だが、秀忠の孫光長には屈辱だ。

忠直に近い独立心旺盛の家臣の力を弱め分断するために、幕府の裁量で二つの藩に家臣団を分けた。秀康色は薄らぎ、より親藩にふさわしい陣容になるはずだ。
そして、3人の弟、直政、直基、直良を分家し、所領を分け与え、越前福井藩は50万石になる。
それでも、結城松平家一族としては徳川御三家より石高の高い90万石を超えており、家康長子の家系としてバランスを保った。

 勝姫は江戸に戻ると父秀忠に、光長(1616年1 月18日-1707年)は福井藩主だったのに国替えは許せないと怒り狂いながら訴える。秀忠の巧妙な藩政への介入に忠直が対抗できるはずはなく流罪となり、それで十分だ。光長に罪はないと必死だ。

だが、秀忠・お江はいずれ勝姫の思いを叶えるからと優しく言うだけだ。
光長は忠直の意向で、土佐姫(毛利秀就と忠直の妹喜佐姫の娘)との婚約が決まっていた。勝姫は光長の復権をでも助けとなるよう、姉、千姫と相談し娘二人の結婚相手を決める。
長女亀姫(1617 年5月7日-1681年3 月7日)は高松宮好仁親王と婚約させる。妹、中宮和子姫の義弟(後水尾天皇の弟)であり、亀姫は秀忠養女となる。
次女鶴姫は姉、完子姫(母、お江の長女)の子九条道房と婚約させる。いとこ同士だ。
1630 年、長女亀姫、大御所徳川秀忠の養女として高松宮好仁親王妃となる。
1631 年、光長15歳と土佐姫(1617~1677)14歳の結婚式が執り行われる。
1632 年、次女鶴姫、将軍徳川家光の養女として九条道房に嫁ぐ。
二人を将軍の養女として嫁がせ、勝姫は誇らしく肩の荷をおろす。千姫・勝姫・和子姫・完子姫姉妹の連携による縁組だ。以後もずっと続いていく。

勝姫は将軍の姫らしく落ち着いていくが、光長は違った。悲運の父の面影をよく覚えている。流罪となった後は、折々母、勝姫から事のいきさつを聞き父に同情し無念の思いを胸に秘めて育ち、忘れることはない。
土佐姫も、母喜佐姫から親藩でありながら、幕府から外様のような扱いを受けた結城松平家の歴史を詳しく聞いていた。結婚当初、勝姫から理不尽な幕府の処遇への怒りを聞き心打たれた。
光長と土佐姫は共通の思いを持ち、幕府に対し懐疑的になっていく。
「わが子(光長)は結城家嫡流としての扱いを受けるべきだ」と勝姫は二人に言い続け、若い二人は信じた。勝姫は無理だと知っていたが。

1634年、嫡男、綱賢(つなかた)(1634年4月8日-1674年3月7日)が生まれる。1636年、国姫(1636-1671)が生まれる。
1638年、稲姫が生まれる。
土佐姫は3人の子たちに囲まれ、夫、光長や義母、勝姫との仲もよく、幸せだった。
ただ、光長が秀康・忠直を尊敬し、思いを受け継ぐと土佐姫に話すのは心配だが。光長の言動に幕府の監視の目が光るのを感じるが、平穏無事に過ぎていく。
だが、光長が折あらば、越前福井藩に戻りたいと口癖のように言い出した時は、土佐姫も不安に思い、その言葉は避けた方がいいと暗にたしなめる。将軍家光が健在で、将軍の姉、勝姫が光長にすべての愛情を注いでいるうちは幕府も表立って何も言わなかった。

1650年、忠直が府内で亡くなる。光長は流罪の人であっても丁寧に葬るように家臣を送る。そして、豊後で生まれた3人(永見長頼、永見長良、勘姫)の遺児を光長が弟妹として高田藩に引き取る。ここから、勝姫との間がきしみ始める。

忠直は幕府から5千石を与えられた流人だった。日々の暮らしは恵まれていたが、行動は制限され自尊心の強い忠直には苦しい暮らしだった。お蘭の方との出会いで落ち着きを取り戻し、3人の子を儲けた。
光長は「生まれた子たちの将来をあきらめながらも、恥ずかしくない暮らしをさせたかったはずだ。3人の弟妹には生まれてよかったと思える暮らしを与えたい」と父、忠直の思いを土佐姫に話す。土佐姫もにっこりとうなずく。

勝姫は、子たちを引き取ることに反対した。だが、光長は3人とも国元に置いた。そこで勝姫は弟妹とは扱わず家臣扱いするように言うが、可愛がり祖母の名を継がせ、藩主一族として温かい待遇をする。
だが、勝姫は養母にならないし、一族とは認めないとはっきり言った。
ここから、結城松平家嫡流の尊厳を守る戦いは勝姫が抜け、光長(1616-1707)と土佐姫独自の戦いとなる。

1651年、光長が慕い尊敬した土佐姫の父、秀就(1595-1651)が亡くなる。
父、忠直・義父、長州藩主秀就と亡くし、寂しいながらも光長と土佐姫が主導する時代が来た。光長は、秀就に代わり毛利家を継いだ義弟、綱広(1639-1689)の後見的立場になり、新しい関係を築く。

越後高田藩政への勝姫の影響力は大きかった。土佐姫の子たちの結婚相手も勝姫が主に決めている。
1653年、綱賢はいとこの九条道房の娘豊光院と結婚する。
1655年、国姫が松平光通に嫁ぐ。
勝姫は、越前福井藩主に孫の国姫が嫁ぎその子が藩主になれば、嫡流としての尊厳が保たれるし、それでいいと考えた。光長と土佐姫の望みはあくまで嫡流として越前福井藩主に戻ることだったが。
この年、土佐姫の母、喜佐姫は57歳で亡くなる。母の分身だと思い生きてきた土佐姫には、後ろ盾がなくなった寂しさだ。光長はあまりに自己中心的で、幕府との関係は気まずく孤立していくようで、ますます心配になる。
1658年、娘稲姫が伊予国宇和島藩主、伊達宗利に嫁ぐ。

光長は勝姫の存在が大きく思うような藩政が行えないとぼやく。土佐姫は子たちもそれぞれ片付き、幕府に嫌われている光長は隠居すべきだと考え、頼む。だが、綱賢に藩主の座を譲るそぶりは見せない。
それでも、綱賢に子が生まれないのを心配するぐらいでしばらくは落ち着いた暮らしだ。

1672年、勝姫71歳は江戸屋敷で亡くなる。
光長は56歳になっていたが母の重しがなくなり、自由の身となったと上機嫌だ。光長はまだまだ藩主としてするべきことがあるとやる気満々なのだ。
ところが1674年、綱賢は子のないまま、42歳で亡くなる。
土佐姫はがっくりとうなだれた。唯一の男子が亡くなり嫁いできた意味をなくしたと世をはかなむ。光長はすでに58歳、後継者をすぐに選ばなければならない。
土佐姫はこれが天命だったと悟り、光長に幕府に相談するよう促す。

光長はまだまだ藩主を続けるつもりで考えがあった。綱賢は嫡男であり江戸屋敷を離れることはなかった。そのため、光長は国元に戻ると弟、永見長頼(ながみながより)(1630年3月3日-1667年10月3 日)をわが子のように扱った。1667年、長頼が亡くなると、その子、綱国(1662-1735)を孫のように可愛がる。そこで綱国を嫡男として養子に迎えようと考えた。
土佐姫は「幕府は弟(長頼ら)たちを正当な血筋とはみなしていない。後継にするのは避けた方が良いのでは」と頼むが光長は押し切り、綱国を江戸屋敷に引き取る。
土佐姫は仕方なく養母として面倒を見る。それでも、久しぶりに幼子の成長を見守るのは楽しい。
だが、国元では長頼の弟長良と妹婿小栗正矩が綱国の後見をめぐって争いを始める。

1677年、土佐姫60歳は人生とは思い通りにはならないものだと笑いながら亡くなる。綱国が元気に成長し15歳になり、後継になるだろうと高田藩の安泰を確信していた。
幕府が、高田藩の改易をもくろんでいるとは考えもしない。


5.国姫、松平光通の妻 1636-1671

1655年、国姫(1636-1671)は松平光通(みつみち)(1636年6月10日-1674年4月29日)に嫁いだ。19歳どうしの遅い結婚だった。

光通は父、光長が終生願い続けた越前福井藩の藩主だ。
国姫も、祖母・父から思いは聞いた。父の願いは夢だとしても、嫡男を生んで孫を藩主にすることで父の夢を叶えたいと深く決意していた。

国姫は、物心が付いた時から、越前福井藩主の妻になるのだと言われ、当然と思い育つ。そして、祖母勝姫が付きっ切りで19歳で嫁ぐ日まで将軍家の血筋を受け継ぐ姫として最高の教育を受けさせた。
国姫も祖母の思いに応え、天性の抜群の記憶力を生かし、素直で感受性豊かな姫に育つ。勝姫は国姫の成長に目を細め自信満々だ。だが結婚までの道のりは長かった。

光通の父、忠昌(1598-1645)は花姫(1605-1623乾御前)と結婚したが、1623年に亡くした。その直後、越前福井藩を継ぎこの地を福井とし、北ノ庄城が福井城と呼ばれる。
忠昌の再婚相手として、いろいろの名が挙がる。だが、兄の嫡男を差し置いて弟が藩主になったと反発の声が聞こえていた。忠昌は福井藩の治世の安定がまず第一だと、断った。   
福井藩政が落ち着くと忠昌の後継者が必要とされてくる。忠昌は妻を決めなくても側室でいいと考えていたが、幕府や重臣は、藩をまとめるには妻が必要と探す。

結城松平家筆頭の後継者、忠昌の再婚相手として最適とされたのが、秀康の妻鶴姫の再婚相手、烏丸光広(からすまるみつひろ)(1579年-1638年8 月22日)の縁戚、広橋兼賢の娘道姫だ。
道姫の父方の祖父も、母方の祖父も烏丸光康の娘を母とする。光広(光康の孫)の父光宣の兄弟なのだ。広橋兼賢は鶴姫の義理のいとこでもある。
また、広橋家は幕府と朝廷の取次役、武家伝奏を務め、幕府の意向に沿い働いた。幕府は広橋家の役割を認め、道姫との再婚を勧めた。

忠昌に断る理由もなく道姫と再婚。嫡男、光通と毛利家に嫁ぐ千姫が生まれる。
忠昌には道姫との結婚前から仕えた側室、お幾久の方(白石信継の娘)との間に、光通よりわずか2か月、年上の長子、昌勝(1636年4 月16日-1693年8 月28日)が生まれていた。また、他の側室との間にも子が生まれたが、側室、お奈津の方(浦上氏)との間に生まれた5男、昌親(1640-1713)だけが成長した。
忠昌の男子で育ったのは光通と昌勝、昌親の3人だけだった。

1645年、忠昌が48歳で亡くなり、光通は9歳で後を継ぐ。
兄、昌勝に松岡藩5万石・弟、昌親に吉江藩2万5千石を分与するよう遺言した。
その時、勝姫・光長はすぐにでも光通と国姫の結婚を幕府に願った。幕府は、勝姫・光長の福井藩復帰にかける熱い思いをよく知っており、光長が娘婿、光通に与える影響力を考え結婚を先延ばしにした。
家康から忠昌系福井藩を守るよう付けられた、本多一族・酒井一族等家老家が策を練った結果だ。結婚を引き延ばされ大人になった光通には仕える女人を幾人か配した。その中で片桐氏お三の方と愛が芽生えた。

1651年、家光が亡くなり、家綱の時代となった。それでも、結婚式が定まらず業を煮やした勝姫は、姉千姫に頼む。千姫は家光の決めた婚約ゆえ先延ばしは出来ないと強く幕府に訴える。そしてようやく、結婚式となる。
光通は片桐氏お三の方を遠ざけたが、結婚の翌年、直堅(なおかた)が生まれた。

国姫は江戸屋敷で京都から招かれた識者に学んだ。特に、和歌の達人とまで言われるほどに才能を発揮した。光通も公家の母を持ち、勉強熱心で文教を奨励し、文化的素養も深く二人の日々の暮らしは波長が合い、特別の言葉を交わさなくても思いが通じ合った。
しかし、二人の間には長女布与姫(1657~1699)。次女市姫が生まれただけだった。市姫はすぐに亡くなった。

 国姫は祖母・父や、福井藩家中の期待を痛いほど感じ、男子を生むと張り切っていたが、以後子が生まれないまま、結婚後15年以上の月日が過ぎる。
家中に、国姫に男子が生まれない以上、直堅を嫡男とするべきだという声が出てくる。
勝姫は反対した。国姫を完璧に育てた自信のある勝姫には国姫の子以外に家督を継がせることはできない。

まじめで責任感の強い国姫は35歳になりもう子を産むことはできないと悟る。
1671年、祖母・父に対し申し訳ないと自殺する。
国姫は、愛する夫、光通が直堅を後継にしたいと考えていると知り、実現させたかった。身を引くことで夫光通の思いが実現すると信じた。
光通は衝撃を受けながらも、妻の思いをうれしく思う。だが、勝姫・光長に対抗できる力はなく沈黙を守る。

光通は結婚後に生まれた直堅を国姫への裏切り行為となったと、深く悔いて家臣に預けたままにした。そして、わが子とは認めないと、勝姫・光長に約束をしていた。
だが、勝姫・光長は、国姫を死に追いやった責任をとるべきだと、直堅を犯罪人として追及していく。直堅も国姫の死に責任を感じ、身の危険も感じた。

1673年、越前大野藩主、松平直良(秀康6男)を頼り逃げる。
直良の母お奈和の方は、津田信益(織田信長のいとこ・信秀の弟の嫡男、信清が父)の長女だ。直良外祖父の家系として、越前大野藩家老、津田家となり力を持っている。

直堅の母、お三の方は片桐氏の出身だ。
直良が生まれた時、津田信益・お奈和の方に片桐家は招かれ秀康家臣となった。
かって、津田信益は秀吉に仕え、その後、片桐且元(かつもと)の世話になった。その恩に報いるために片桐一族を招いた。
後に、お奈和の方にお三の方が仕えるようになる。そして、津田家が推し、お三の方が光通に仕え直堅の誕生となった。母の縁で、直堅は叔父の直良家・津田家を最も信頼し、頼り匿われた。

また、お奈和の方の妹於佐井の方は尾張61万石藩主、徳川義直の後妻になる。津田家は尾張徳川家とも縁が深く、大野藩主直良も鼻が高く勢いもあり、直堅を難なく守る。
徳川義直の先妻は浅野幸長の娘、春姫で、忠昌の先妻は浅野幸長の娘花姫だ。忠昌と義直は義兄弟の関係でもある。直堅は伯父の元で、福井藩主になるべく修養に励む。 

だが、光通は国姫を愛し、勝姫・光長へも筋を通したいと考えた。直堅を直良に託し、後継から外す。そして、すべての責任は自分にありと、1674年、38歳で自殺する。
後継者として、弟の松平昌親(まさちか)(1640-1711)を指名した。
兄、昌勝が長子だが、家康の異母弟を祖父とする妻を迎え、徳川家と縁が深いと自慢する。弟、昌親は光通に誠実に尽くし、外様藩の津山藩主森長継の娘・万姫を妻に迎えていた。光長の後継でもあると思うと弟、昌親が藩主としてふさわしいと判断した。

昌勝は、伊予松山藩15万石藩主、松平定行(家康の異父弟、松平定勝の嫡男)の娘、菊姫を妻とした。まぎれもなく、将軍家の一門としての格式をもつ親藩同士の婚姻だ。
昌親は、津山藩18万石藩主、森長継の娘、万姫を妻にした。森家津山藩は1697年、改易された。10万石に減らされるがその後に藩主となるのが、結城松平家嫡流、光長の家系なのだ。

だが、重臣たちの中に長子、昌勝が家督を継ぐべきだとの声が上がる。直堅も直系であり支援する重臣もいる。ここから、藩主、昌親。兄、昌勝。長男、直堅。と三つ巴の家中騒動が起こる。譜代の家臣団の結束が弱く、すぐに内紛が起きる。
秀康死後、幕府が恣意的に振り分けた家臣団のゆがみがある。5大名家に分家しそれぞれに家臣団を付けたために福井藩の家中に譜代の臣が少なくなっていたこともある。そして、秀康の心を受け継ぎ親藩の一家臣にはなりきれない家臣団がまだおり、力を持っているのだ。

忠直と忠昌の兄弟対決が光長と光通に尾を引き、まだ渦巻いている状態だ。幕府から付けられた重臣は冷静を保ち、光通の為に一致団結する気配を見せない。
直良は福井藩の内紛に心を痛め、幕府に掛け合い直堅は1万石を与えられる。ここで内紛から抜け出る。後に越後糸魚川藩を与えられる。

藩主、昌親と兄、昌勝の対立は続く。昌親は思うような藩政を行えない。
そこで兄への怒りを込めて在位2年で、藩主の座を兄の嫡男、綱昌(1661-1699)15歳に譲って隠居する。
ここから、昌親は前藩主として権力を握りつつ、養父として綱昌を昌勝から引き離し思うように操る。ようやく前藩主として藩政を自由自在に握ることが出来たと喜んだ。
ところが、綱昌は父と養父の板挟みになり追い詰められ狂気の振る舞いが目立つ。1686年、幕府は改易させた。
昌親はやむなく、吉品(よしのり)と名を変え名乗り再び、藩主に返り咲く。

しかし犠牲は大きかった。越前福井藩は秀康が67万石を得ていた。
忠昌は光通の兄弟に分知し50万石になりその後加増され52万5千石まで戻した。
光通は弟たちに分知し45万石になった。
ところが、吉品は昌親発狂の責任を取らされ半地とされてしまう。忠昌から分知された領地を含めて、福井藩25万石藩主になり下がった。

吉品は藩主に返り咲くが、子がなく後継者を決める必要があった。長年の葛藤から、兄昌勝(1636年4月16日-1693年8月28日)の家系には譲りたくない。
そこで、1690年、姉千姫と毛利綱広の子、元重(1676-1706)を養子に迎え嫡男とすると決める。
だが、外様の毛利家の血筋が入ることに反対する昌勝派と毛利家が支える吉品派の対立が激化する。幕府は昌勝派を支持し、吉品は家中を抑えることはできなかった。
綱広と吉品の目論見はあえなく潰れ、1699年、松平昌方(毛利元重)を離縁し毛利家に戻す。1701年、兄の昌勝の六男、吉邦を苦渋の決断で養子とし嫡男とする。
吉品は二度藩主となり毛利家・森家と親しい関係を築いたが、結局、幕府の福井藩再編の思惑通り、領地を減らされ兄の家系が後継者となった。

光通は、勝姫・光長の思いを生かして昌親を後継にし、昌親も光通の思いを生かして越前福井藩を守りたかった。だが、幕府は越前福井藩を25万石の親藩とし、再編を終えた。

 

 

 

 

 

 

 

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