江戸城四方山話

1.太田道灌(どうかん)江戸城を築く

道灌は1432年相模守護代太田資清(すけきよ)と正室長尾景仲(かげなか)娘との嫡男だ。

祖父、長尾景仲は白井長尾氏の当主で山内上杉氏の筆頭家老・武蔵守護代で嫡男が景信だ。
白井長尾氏と上杉謙信の生家、越後守護代・越後長尾氏とは同族で婚姻関係も続き親しい。

父、太田資清は山内上杉家の分家、扇谷(おうぎがや)上杉家の筆頭家老・相模守護代だ。
長尾景信と太田資清は義兄弟で同格に見えるが、主君が本家と分家の違いがあり差が出た。
彼らの子達、道灌と景春は将来を約束されたが優秀ゆえ運が逃げる宿命のライバルとなる。

道灌は幼少時から飛び抜けた賢さで、鎌倉の建長寺や足利学校で学び、秀才だ皆が認めた。
成長し、戦さに臨んでも驚くほど強く、軍学も極めた文武両道の天才武将だと名声が響く。
1456年扇谷上杉家の筆頭家老・相模守護代となり、思うままに、主家を率い仕切っていく。

この時代、古河公方足利氏を擁する派と関東管領上杉氏派とが対立し争いを繰り返した。
道灌は上杉氏側の軍事の総責任者として、幾多の戦いに勝ち、優位に戦いを進めていた。
そして、戦略上、防御と攻撃の拠点が必要と次々と要衝の地に城を築き、兵を配置した。

房総(千葉県)の守護千葉氏を押さえ配下にする為、利根川下流に城が必要だと考えた。
そこで武蔵(隅田川より東・神奈川県北東)と下総の境、隅田川の河口を適地と決める。
かっての秩父江戸氏の居館跡で江戸の桜田の高台に江戸城を築き、江戸湊を開き整備する。
道灌25歳、関東制圧の拠点として海上交通の要所に江戸城が完成し得意満面で居城とする。

道灌は城内で上杉氏の軍備の増強と兵士の戦闘力の強化に取り組み、成果を上げていく。
騎馬武者による一騎討ちの戦いは古い、集団での戦いに変えると足軽の戦力化に取り組む。
武士と農民の間だと軽く見られた足軽に長槍・弓などの訓練をし、武士の心得も教える。
こうして足軽が主要な戦闘集団となり、道灌の軍事力は質量共に飛躍的に拡大していく。

戦の合間には学問の普及にも取り組み、京から迎えた文人から古典や和歌や漢詩を学ぶ。
連歌会、お茶会などよく催し、文武両道の鍛錬こそ武士に必要と率先して遊び、楽しむ。

1466年山内上杉家の当主が亡くなり、越後上杉家から顕定(あきさだ)を婿養子とし迎える。
景信の妻は越後守護代、頼景の娘であり顕定を迎え権力を握ると反対派を押さえ実現した。

翌年、扇谷上杉家を16歳の政真(まさざね)が継ぎ、道灌は思う存分破竹の進撃を続ける。
ところが1473年親子のように親しかった政真は討ち死にし子はなく、政真の叔父を迎える。
当主は分家から入った定正27歳となるが、政真とは違い、道灌に口出ししっくりいかない。

一方、顕定を当主にしたと恩に着せ専横に振る舞った景信が亡くなり、顕定は大喜びだ。
顕定は覇権を確立する絶好の時だと考え、嫡男景春を筆頭家老とせず弟忠景を任命した。

顕定に忠誠を誓う忠景に家老職を与え、景春を排除し景信の影響力を取り除こうとした。
景春は勇猛果敢な並外れた武将で父以上に有名であり、顕定は悪夢の再来になると嫌った。
しかし景春は筆頭家老の地位を叔父に取られ、顕定に裏切られたと深く恨み、戦いを挑む。

道灌も心配し戦いを避けるべきで、景春をせめて武蔵国守護代にと顕定に頼み拒否された。
景春は古河公方の支持を得、反上杉氏の国人衆を巻き込み決起し有利に戦いを進める。
越後から来たよそ者、顕定は人気がなく上野(こうずけ)国(群馬県)に追われて逃げる。

道灌は様子を見、扇谷上杉氏が山内上杉家を超えた力を持つ時が来たのだと奮い立った。
道灌と景春は従兄弟同士で景春と定正妻は兄妹と縁は深いが、敵味方に別れ戦いが始まる。

扇谷上杉家に道灌、白井長尾氏に景春ありと賞された知謀の猛将同士の戦いは激しく続く。
だが道灌の戦略が秀でて、激戦を繰り返しながらも景春は追い詰められ敗色が濃くなる。
1478年ついに、古河公方は景春を見限り上杉氏との和睦を求めた。景春は後ろ盾を失う。

道灌の活躍で景春は敗れ、山内上杉家は力をなくし扇谷上杉家との力関係は逆転した。
定正は顕定を凌いだと確信し、道灌は独力で勝ち抜き上杉家の危機を救ったと思う。

道灌は定正に、ここで一気に山内上杉氏を抜き上に立ち和睦の席に着くように、進言する。
しかし山内上杉家顕定と越後上杉家が古河公方との和睦を成立させ、定正は関われない。

その結果、定正は分家の協力者とされただけで力を発揮できず扇谷上杉家に恩賞が少ない。
道灌は扇谷上杉家の力を示せない主君のふがいなさを叱り、山内上杉家との戦いを勧める。
山内上杉家顕定と扇谷上杉家定正とは緊迫した関係となり、道灌は戦いの勝利を確信する。
道灌は山内上杉家を倒すと言うが、定正は道灌に追い出されるのではないかと恐怖する。

顕定は道灌と戦えば負けるのは明らかで調略しかないと定正に道灌の謀反の動きを告げる。
長く道灌の存在を恐れ、嫌った定正は思い当たり、間違いないと顕定の言葉を信じた。
1486年夏、道灌は主君、定正に謀られ、だまし討ちに遭い、殺される。

道灌は遊び心にあふれ、人を食った独特の世界観で、皆を引きつけ魅了した。
翻弄される凡人は、道灌の度量の大きさが理解できず、疑心暗鬼に陥ってしまうが。
戦場でも、ユーモアあふれる歌を創り、温かい人情話が得意で、多くの伝説を作る。


2.北条早雲の姉、北川殿、今川家を守る

道灌44歳は駿河(静岡県中部と北東部)に勢力を伸ばし北条早雲20歳と緊迫の出会をする。

1476年初春、駿河守護、今川義忠が突然亡くなり、後継を巡り身内同士の争いが始まる。
嫡男氏親(うじちか)は不適だと従兄弟小鹿範満(おしかのりみつ)が自ら後継を主張した。
氏親は幼く家中をまとめきれず小鹿範満こそ今川家当主に最適だと家中の大勢が支持した。

道灌は駿河および今川家に強い影響力を持つ、と考え味方を増やしており好機到来と喜ぶ。
その頃、道灌が仕える上杉氏は堀越公方を支え筆頭家老が一族の上杉政憲(まさのり)だ。
上杉方の軍事は道灌が仕切っており、堀越公方に属する人々は皆道灌を頼りにしていた。
政憲の孫が小鹿範満だ。範満も道灌の軍事力を頼る事で、優位に家督継承を進めていた。

道灌はここで一気に駿河を押さえると政憲と共に、駿河守護の館(やかた)に乗り込んだ。
駿河館(静岡市)を軍勢で取り囲み堀越公方の命令だ、と小鹿範満を今川氏後継とする。

一方、5歳の氏親の母北川殿は突然の夫義忠の死、範満の後継者への名乗りにただ驚いた。
しかも今川家中は嫡男がいるのに範満の家督の引き継ぎに賛同していると知り呆然とする。

北川殿は室町幕府将軍側近の伊勢貞親(さだちか)の姪で、義忠が恋し望まれて駿河に来た。
1468年義忠は北川のほとりに都の姫に似合いの館を建て住まいとして、北川殿と呼ばれた。
翌年には姫が、続いて1471年には氏親が生まれ幸せな暮らしが続いたが、夫は急死した。

今川氏は遠江国守護でもあったが斯波氏に奪われ、義忠は取り戻すと遠江に侵攻していた。
今川家の復権を目指し軍事力重視の政策を取り続け、勝ち戦だったがまさかの討死となる。

また今川家の家督相続を巡る争いは以前からあり、義忠の死で内政重視の譜代の臣が喜ぶ。
そして範満は譜代の臣に推され家中をまとめ、北川殿に従う家臣は少なく敗北は明らかだ。
北川殿親子は身の危険を感じ、義忠を支援する長谷川氏を頼り小川鄕(焼津市)に逃れる。

北川殿は夫義忠の愛に満足し譜代の臣の敬意を得る努力が足らなかったと初めて反省する。
このままでは氏親は亡き者にされ今川家は範満に乗っ取られる、と覚悟し反撃を始める。
伊勢氏を通じ幕府前将軍義政に訴えて今川家の家督は氏親が受け継ぐとのお墨付きを得る。

将軍に仕える北川殿の弟早雲がお墨付きを持ち、幕府の使者として駿河に到着し調停する。
道灌の軍勢が取り囲む緊迫した中、駿河館で道灌44歳と早雲20歳の対決となる。
早雲は道灌を前にし堂々と、氏親が成人するまでは範満が家督代行する、と折衷案を出す。

将軍の実質的力は弱く、範満を当主にした今川家の動きは変えられないと承知での案だ。
ただ将軍の権威はあり、早雲は筋は通した。

道灌も早雲の正論に納得せざるを得ず、形より中身を取り、氏親の家督相続を認めた。
道灌は範満に背後で守り続けるので氏親成人後も家督を譲る必要はないと諭し撤兵する。

北川殿は氏親の成人まで身を守る方法を考え、守りの固い丸子城(静岡市)の館に移る。
安全が確保出来る城に落ち着くと、閉じこもるだけでなく積極的に範満の館にも出向く。
味方もいるし家督を引き継ぐ時を考え、氏親と譜代の家臣とのつながりを大切にしたのだ。

京にいる弟早雲や公家を招く事も度々で足利一門としての権威を保つ付き合いも続ける。
娘を正親町(おおぎまち)三条家に嫁がせ公家との繋がりも深め嫡流として将来に備える。

氏親が15歳、約束の時が来たが、範満の治世は安定し、予想していたが譲る気配はない。
もはや、奪い取るしかないと弟早雲や氏親に臣従する譜代の臣を集め反撃の機会を待つ。

運良く道灌の死の報が届き、これで範満に勝てると喜ぶが、焦らず内部崩壊を仕掛ける。
道灌の後ろ盾を失った範満は動揺し、家臣も早雲の誘いに乗る者も増え、分裂していく。

機は熟し、早雲が譜代の臣を率い1487年末、範満を襲い、討ち果たし駿河館を取り戻す。
こうして晴れて、北川殿は義忠の意志を継ぎ、駿河館に入り、氏親が今川家当主となる。

北川殿は早雲への恩賞に伊豆国との国境近い興国寺城(現沼津市)を与え防備を任せる。
そして駿河守護代として氏親を補佐し、今川家の覇権に力を尽くすよう頼む。

早雲は、憎しみが募る上杉氏打倒の戦いを慎重に進めるが、好機が到来し、飛躍が始まる。
伊豆国を治める堀越公方政知が1491年亡くなり長子茶々丸と嫡男潤との家督騒動が起きた。

狂人とされて幽閉されていた茶々丸が、山内上杉氏に支えられ牢を出て、反撃を始めた。
政知の正室日野氏とその子潤を殺し、強引に堀越公方となり、幕府の意向に逆らった。
正室は日野富子の縁者で同母弟義澄は足利将軍に迎えられる伊勢氏に縁のある大切な人だ。

早雲は伊豆への侵攻、北条氏への攻撃を準備し、一部始終を見て将軍から大義名分を得た。
謀反人茶々丸を成敗せよ、との命で伊豆国に出陣し茶々丸を襲い追い出し、内乱を治めた。

早雲は堀越公方を滅ぼしたが茶々丸をあえて見逃し討伐・捜索の名目で伊豆深く入り込む。
そして伊豆の国人衆をまとめ、着実に配下にし、早雲の影響力を強めていく。
1495年、相模(神奈川県の大部分)小田原城を奪い今川氏親と共に今川氏の勢力を広げる。

一方、上杉顕定と定正の争いが再燃し、定正は古河公方から離れ早雲と同盟を結んだ。
早雲は援軍を頼まれて顕定討伐の大義を得る。待っていた時が来たと勇んで討伐に向う。

ところが定正が陣中で亡くなり、後継の朝良(ともよし)は顕定に屈服してしまう。
早雲には痛手だったが無視し、扇谷上杉家との同盟は有効だ、と引き続き相模に侵攻した。

1510年越後守護代の長尾為景が顕定を殺し、勢いを得た早雲・為景・景春は同盟を結ぶ。
北条(伊勢)早雲は山内上杉家を追い詰め、相模を平定し、江戸城に近づいていく

 

3.道灌の孫の孫、勝の局、誕生

主君上杉氏を凌ぐ勢いだった太田道灌だが、死後の太田家は余りにも悲惨な状況となる。
嫡男資康(すけやす)は父の死を知り、主君定正に殺されると山内上杉家顕定の軍に加わる。
そして定正に憎しみを募らせ仇を討つと弔い合戦を挑み、顕定と共に従い戦いが始まる。

相模三浦氏を継いだ定正の兄高救(たかひら)と義同(よしあつ)親子も資康に加勢した。
ところが1494年定正が急死し、戦いの意味をなくし、弔い合戦は終ってしまう。

資康は扇谷上杉家を継いだ朝良に仕え、父道灌と同じ筆頭家老となると信じて戻る。
だが道灌時代の権力は与えられない。ただ江戸城代となりかっての栄光を目指すだけだ。

この間、資康は三浦義同の娘と結婚し、三浦家と深い縁を結び、太田家の復権を目指す。
だが鎌倉以来の名門、以前の相模守護三浦氏を追い出そうと、早雲が激しい戦いを挑んだ。
1513年資康も義父を助け戦うが戦死。1516年義同も戦死して相模三浦氏は滅びる。

資康の敗死で、後継の資高(すけたか)は扇谷上杉家での地位をまた下げられ限界を感じる。
悩み抜き遂に主家を見限り裏切り1524年江戸城を早雲の子北条氏綱に明け渡し臣下となる。

資高は氏綱の娘と結婚し北条一門として迎えられ江戸城代として力を奮うため引き渡した。
一門として優遇されたが、江戸城は任されず、城代は3人とされその一人に成り下がる。
本丸に富永氏が、二の丸に遠山氏、資高は三の丸に住むという3番目での江戸城代だ。

1547年資高の死後、康資(やすたけ)が家督を継ぐが江戸城代としては同じ地位のままだ。
遠山綱景の娘が氏康の養女として康資に嫁ぐが、太田家の北条家での地位は下がっていく。

こうした長年の恨みが募り、1561年上杉謙信が関東進出を図ると味方し、北条氏を裏切る。
しかし北条氏康の逆襲に敗北し、江戸城を奪われ、逃亡しながら戦いを続けていく。
そして安房(あわ)国(千葉県南端)の領主、里見義弘(よしひろ)の庇護を受け再起を図る。

康資は里見義弘と共に戦い上総(かずさ)国・下総(しもうさ)国にまで支配地を拡げた。
だが1578年義弘の死で、長男義頼35歳と嫡男梅王丸8歳の家督争いに巻き込まれてしまう。

古河公方足利晴氏娘が母の梅王丸は幼く家督は梅王丸に領地は二人の分割相続を遺言した。
同時に義弘は死の前1577年、後継が北条氏と戦っても勝てないと北条氏政と和睦した。

和睦の際、義頼が氏政娘鶴姫と結婚し、2年後の鶴姫の死で氏政妹菊姫と再婚と縁が深い。
義頼は庶子だが後継者として育った実績もあり、全てを受け継ぐと梅王丸を認めなかった。

義弘は梅王丸の為に万全を期したつもりだったが、北条氏が義頼を支援し介入し勝利する。
結果北条氏が強い影響力を持ち、康資は梅王丸を支援し北条氏と戦った為1581年殺された。

この時、康資に重正・お勝と二人の子が居たが、北条氏にも里見氏にも居場所をなくした。
20歳の重正は一族の資正を頼り佐竹氏に逃れ、3歳のお勝は望まれないまま里見家に残る。

しかし義頼は北条氏の横暴を嫌い菊姫が亡くなると氏政と再び争いお勝の居場所は出来る。
義頼は北条氏と戦うために、天下人となった豊臣秀吉とも手を結び生き残りを図っていく。

一方、北条氏は織田信長に臣従したが信長の死を知り上野国を奪い返し信長勢を追い払う。
信濃にも進出し真田昌幸・木曾義昌などを取り込み信濃を占領し秀吉の意に逆らっていた。
信濃を巡って家康と対決したが、氏政も家康も戦う余裕はなく和議を結び友好関係を選ぶ。
氏政は嫡男氏直と家康娘督姫(とくひめ)と結婚させ、領地も240万石となり栄華を誇る。

氏政は秀吉に臣従の意は表すが過去の経緯から厳しい措置を予期し京・大坂に出向かない。
秀吉は怒り1590年大軍を擁して小田原征伐に向かい、氏政・氏直は戦わずして降伏する。
しかし秀吉は降伏だけでは許さず北条氏を改易とし、以前から親しい里見氏は存続させた。
里見家で天下の情勢とは離れて慎ましく暮らすお勝だが、江戸城に住みたいと思い始める。

お勝は秀吉が家康に北条氏の領地を与え家康は250万石の大名となったと聞き希望を持つ。
江戸城が家康の居城と知ると、お勝は家康に仕え、太田家の再興の為に働くと決意する。


4.勝利の女神、勝の局の勇姿

道灌と同じく、北条氏政も江戸を東国水運の要として、関東全域支配の拠点と考えた。
しかし、江戸城を改修することもなく滅亡し、同じ思いの家康が江戸の開発を引き継ぐ。

1590年8月末に、にわか改修が出来ただけの粗末な江戸城に家康は晴れやかに入城した。
道灌が築城、居城とし栄華を誇ったが、以後は城代が入り管理されただけで荒れていた。

家康は新たに臣従を望む北条家旧臣を受け入れると、一族揃いお目見えする場を用意した。
事前に家康側近と打ち合わせし、許され認められた者しか家康の前に出る事はないのだが。
家康に好かれ側室となれば一族の繁栄を望めると、選りすぐりの才色兼備の姫も同行した。

気品のある顔立ち輝く瞳でじっと周囲を見渡している、12歳の勝局が家康の心を捕らえた。
江戸城に似合いの姫だと遠山利景(としかげ)に言い勝局に微笑み、家康47歳は側室に選ぶ。

心憎い配慮で引き合わせたのはお勝の親戚で、家康の育ての親お久の娘婿遠山利景だった。
遠山綱景の孫直景と子川村秀重は北条方の江戸城代だが降伏し、遠山利景の本家筋になる。
利景は遠山氏や太田氏一族が家康家臣に新たに召し抱えられる事を願いお勝を伴ったのだ。

幼少の家康は人質生活が続いたが、祖父清康の妹お久が常に離れず付き従い大切に育てた。
そのため、家康はお久を母と信じて側を離れず駿府でも母として仕え、成長後岡崎に戻る。
家康は母を長く奪ったと娘を妹と思い利景と結婚させた。利景を側近く召し抱え重用する。
利景は秀重の姉婿が太田康資で姪のお勝を紹介された時、一目で太田家嫡流だと直感した。

勝局は初めて登城した江戸城、大勢の武将が珍しく、背筋を延ばし周りに見とれていた。
江戸城を居城と決めた家康は江戸城築城主の嫡流の姫に目を奪われ、ときめき見続けた。

里見氏でそっと隠れるように育った苦労を感じさせない道灌嫡流の雄々しさが輝いていた。
家康は感動して側室としたが、太田道灌嫡流の娘は作り事だ、との噂を聞き疑い始める。

真偽を突き止める気はないが、出会いの時の華やいだ弾む心は急激に失せ、冷静になる。
その目で勝局を見ると、幼さないただの少女に見えて長沢松平家の正綱との結婚を決めた。
勝局は凍付くが、1891年家康近習で有能な正綱が年齢も近く似合いだ、と結婚させられた。

勝局は耳を疑う噂を聞き悔しくて耐えきれず、結婚は本意でないと正綱屋敷を飛び出した。
実家に戻り、下げ渡された屈辱を母に訴え理由を聞くと、敗者の一族への不安だと答えた。
道灌嫡流を受け継ぐ姫だと誇りを持ち続ける事が疑いを晴らす唯一の道だと、励まされる。

勝局の勝手な振る舞いに一族は厳しい処分を覚悟しおびえたが、素直に考えを利景に話す。
そして、家康への想いを伝えて欲しい、と利景に頼み全てを任せ静かに本を読み謹慎する。
家康は怒るどころか反省し喜んだと伝えられ勝局は当然だと思い、一族は胸をなで下ろす。

勝局は一族の為、立派に働くと勇んで対面の場に臨み、堂々と側室の座を射止めたのだ。
家康に仕える以外の生き方はなく、家康が認めるまで動かないと胸を張って決意を伝える。

勝局は家康から再び召し出され、家康の一番若い側室として毅然として江戸城入りした。
家康は丈夫で賢い子を生む母性の強い美女を求め続けてきて、勝局は違った雰囲気だった。
勝局は中性的な崇高さを感じる引き締まった身体を持ち、たおやかな風情は感じないのだ。
妖艶な美貌のお茶阿(ちやあ)の方や従順で芯の強いお久の方が刺激的で楽しめる存在だ。

なぜか思うほど家康に寵愛されないと、勝局はまた挫折を味わい、傷つき、情けなく悩む。
このままでは太田家の復権は叶わない、家康に愛されるために何をすべきか考え続ける。

置き忘れられた過去の暮らしとは違い、華やかで活気のある今の暮らしは楽しいがつらい。
家康の訪れがない自由な時間は道灌に思いをはせて江戸城の拡張改修の様子を眺め続けた。

好奇心が満たされ充実した日々だが、江戸城から自由に出られず一族と離されて寂しい。
そんな勝局の親代わりが遠山利景だ。母方の遠縁だけなのに心のこもった気配りをされた。
しかも太田氏縁者を家康や結城秀康の家臣として取り立て、家康側室の威光はあるのだ。

家康は利景を信頼し、側近でもある側室阿茶局に利景の娘龍の方を侍女として仕えさせた。
阿茶局は秀忠の養母としても権勢を誇り、江戸城の奥を家康好みに仕切る女傑で有名だ。
龍の方は阿茶局に妹のように可愛がられ側近として働き勝局の母親代わりにもなり心強い。

それでも命令違反の出戻り事件もあり、江戸城築城主の姫として飾りの側室のまま過ぎる。
勝局は阿茶局や龍の方の側に付き従い学問にも励み暮らすが、家康の愛は感じられない。
武芸が大好きで鍛えた細身の身体は美しいと思うのにこのまま生涯を終えるのではと焦る。

そんな時、江戸に戻る時間がない家康から他の側室と共に京の伏見屋敷に呼び寄せられた。
久しぶりの逢瀬に1596年松姫に恵まれたが、生まれた時から病弱で2歳になる前亡くなる。
そしてまた数ある側室の一人になってしまい、やりきれない日々を過ごすことになる。

だが秀吉の死により、天下分け目の戦いを感じ勝の局の血が騒ぎ、決意の時と思い定めた。
家康の危急の時は常に側にいる阿茶局にずっと側に居たいと頼むと、心を読むように笑う。

そして武者姿に身を包み家康の影武者になる覚悟だとりりしく気取って関ヶ原に付き従う。
家康のふくよかな姿とは違い、勝局の馬上の勇姿は颯爽として美しく東軍の士気を高める。

並み居る武将の拍手喝采を受けて、家康は上機嫌で勝利を招く幸運の姫だ、と褒めた。
言葉通りの大勝利で勝の名こそふさわしいとの家康の愛の一声で、勝局と呼ばれ始める。


5.勝の局、父祖の城、江戸城へ戻る

捨て身の想いが実り、10年間待ち続け、ようやく家康の寵愛を一身に受ける身になる。
いつもの端正な冷たくも見える表情の中にも、うれしさが端々にこぼれ懐妊を待つ。

そして家康65歳、子種をあきらめかけた時、勝局に市姫が授かり元気に生まれ、大喜びだ。
勝局も、女が元気な子を生む年齢の上限と家康が言う、30歳直前での誕生に涙が溢れる。

出産は家康の長年の夢だった隠居城、駿府城の完成直後で、祝賀の続く最高の時だった。
誕生直後に市姫は伊達政宗から嫡男忠宗との結婚を願われ、家康は上機嫌で認め婚約する。

勝局は30歳になり側室として役目を果たし太田家の安泰も約束され成し遂げた喜びに浸る。
その時、駿府城が燃え上がる。家康自慢の城が燃え落ちていく様子を厳しく目に刻んだ。

すぐに冷静に貴重品の持ち出し金銀の警護を侍女達や家臣に命じ、貴重品は完璧に守った。
城炎上時の差配の見事さで家康は全幅の信頼を置き勝局は奥の花から駿府城の顔に変わる。

再び築城が始まり、江戸城の改修を見続けた勝局は水を得たように案を出し仕切っていく。
火事を防ぎ、守りを堅くする、家康がくつろげる奥のしつらえをてきぱきと創り上げる。

秀忠の養母として江戸城に留まる阿茶局に代り、駿府城の奥を仕切る責任者となった。
長く阿茶局を見続け、補佐をした経験もあり、官僚としての統率力には自信があり得意だ。

家康は勝局をねぎらい手腕に報いると、亡くなった結城秀康の次男忠昌の養母に抜擢する。
嫁いで去る姫の母では高い地位は保てないと、忠昌を引き取り与え、徳川一門とする為だ。

家康の私的な諸事を全て預かり忙しく充実した暮らしが一転、市姫をわずか3歳で亡くす。
だけど悲嘆に暮れる勝局への家康の愛情は深く、子を生む以上の大役を次々に与え任せた。

家康とぎくしゃくした間の側室お万の方の第2子、11男頼房(よりふさ)の養母となった。
こうして家康の孫忠昌、子頼房の側近に太田家一族がなり、勝局は一族の繁栄を確信する。
続いて家康の次女督姫が亡くなり娘振姫が養女となり、市姫の身代わりだと思い育てる。

家康の子、孫合わせて3人の母となり子がいなくても家康側室の第一の地位を不動にする。
それでも、おごることなく暮らしを変えることもなく三人の子を厳しくしつけ、見守る。
彼らは仙台藩主の妻、水戸藩主、福井藩主として幕府の安定に尽くす有用な人材に育つ。

勝局の性格は厳格で禁欲的な、質実剛健を身を持って実践し、皆の手本となる人だった。
小袖をこまめに洗濯させて新しいものを着ず、もったいないを連発し、無駄を許さない。
倹約し富を蓄える事がご奉公と日頃から説き、幕府の繁栄のため働くのが生き甲斐だ。

皆を奮い立たせる気迫のこもった説教は得意で、駿府城の女主としての威厳が溢れて来る。
駿府城の内政に大きな権限を持ち金蔵(かねぐら)の鍵も預かり、確実にお金を残していく。

また家光を将軍にする為に決死の覚悟で江戸から駿府に来た春日局の思いを一目で見抜く。
身分の高い女性が単独で遠距離を来るわけがない、と疑う家臣を一喝しすぐに招き入れた。
記憶は不確かだったが春日局の話を聞き本物だと、家康との対面を叶え思いを遂げさせた。

次第ににこやかな表情が増えたが、判断力が早く確かで皆が素直に従う威圧感は変らない。
大坂の陣でも家康の側に控え、守り神としての勇姿を披露し天下人家康を引き立てる。
ついに家康の死を迎え駿府城の財政責任者として全てを秀忠に引き渡し、江戸城に移る。

憧れ続けた故郷の江戸城に落ち着き、秀忠が丹精込め築いた豪壮な江戸城の姿に感心する。
道灌の血を引く勝局だと颯爽と江戸城を歩くが、もう誰も非難出来る者はなく良い気分だ。
まだ40歳、家康に仕え残された側室侍女の行く末を見守り将来を保証しなければならない。

秀忠は公正な行き届いた仕事ぶり、家光は揺るぎない気迫に中性的な魅力、を勝局に見た。
家光は生前の家康の様子を聞きたくて時々呼び、勝局も懐かしそうにおもしろく聞かせる。
こうして秀忠・家光に重用され江戸城北の丸に屋敷を得て春日局と隣り合って仲良く住む。

勝局には近寄りがたい雰囲気があるが、兄重正の子、資宗(すけむね)には甘く可愛がった。
資宗を養子とし家光の小姓とし後には掛川藩5万石を得、幕府の重職を担い、老中も出す。

勝局は江戸城に住まうが常に道灌と共にあり鎌倉扇ガ谷の道灌屋敷跡に英勝寺を建立する。
そして菩提寺とし氏素性を疑う人が多くても江戸城築城主の道灌の嫡流として生き続けた。

 

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