会津若松城は、蒲生氏郷(かもううじさと)が秀吉に命じられて豊臣の威光を東国に輝かすために築いた。 ところで会津若松城の縄張りは秀吉の大坂城と酷似してところがある。この点から氏郷は、秀吉の忠実な家臣であったことは疑いない。氏郷は5年の在城の後文禄4年(1595)2月7日、伏見において40歳の若さでで亡くなった。 秀吉は嫡男秀行(ひでゆき)と家康の三女振姫(ふりひめ)を結婚させ引き続き会津若松城を治めさせた。 会津若松城に執着していた振姫(ふりひめ)はこの機に秀行の返り咲きを猛烈に願い、関ヶ原の戦い後、その甲斐あって会津藩60万石で晴れて入城する。 名君にはほど遠い秀行だったが振姫と協力しながら何とか藩主としての勤めを果たしていた。 振姫は、我が子忠郷(たださと)10歳の後見として、父家康の威光にかけて、名城を復活させると意気込み強引に改修を進めようとした。 家康は大事な我が娘、振姫にはすぐに江戸城に戻るよう命じ、幼い忠郷は孤立無援で会津若松城に残される。それでも振姫が生きている限り、蒲生家は一応大事には、いたらなかった。 |
振姫は会津若松城に心を残しながらも江戸城に戻ったとき一人娘と一緒だった。 しかし政権の確立を急ぐ将軍秀忠の悩みは晴れない。妻お江から迫られている次男忠長の処遇もあり、その後も大名駒を注意深く動かしながら、三人の弟達(家康晩年の子達)の処遇を改めて決め、万全の幕府体制を作り上げようと腐心していた。 すなわち広島に封じられた豊臣恩顧の大名福島正則を難癖つけて改易し、入れ代わりに長晟を5万石加増し安芸広島藩42万石とし西国広島城に移した。 妻お江は忠長に尾張徳川家を与えるよう願うが、秀忠と幕閣は、安土城を築いた織田信長の父祖の地を家光と仲の悪い忠長に与えるのは危険と判断し織田嫡流の姫を忠長の正室とすることを条件に、家康の最も好んだ地、駿河国50万石を与えることに決める。忠長に追い出される頼宣は、必死の抵抗をし、5万石上乗せで55万石で紀伊国和歌山に入封する。 |
こうした中、外様大名つぶしで幕府に一番の貢献をしたのが、ほかならぬ振姫親子であった。 振姫の姉督姫(とくひめ)の場合である。1594年29歳の時秀吉に命じられて、三河吉田15万石の藩主池田輝政(てるまさ)と再婚する。北条氏に嫁いでいた督姫とっては再婚であった。 輝政は督姫と迎えて6年間、子に恵まれていない。この6年は、秀吉が存命していた。興味深いことに 関ヶ原を契機に徳川の天下が明らかになるや一転して督姫の間に子つまり家康の孫ができ始めるのである。これが意味するところは想像するしかない…。 |
「東慶寺の闘い」など歴史の書物には出てこない。それはさておき、千姫の話に移ろう。督姫の姪になる千姫は炎上する大坂城脱出しその後秀忠の江戸城に暮らしていた。 千姫は、尼寺を探し、女人救済の寺として有名な鎌倉の東慶寺に奈阿姫を預けた。千姫は、家康に生涯独身で生きる奈阿姫を励まして欲しいと懇請した。こてに応えた家康は奈阿姫に「何か望むものはあるか」と聞いた。 その後も千姫は奈阿姫を励まし続け経済的にも援助した。こうして東慶寺は徳川家ゆかりのりっぱな寺となり、そして有名な縁切寺となった。 さて蒲生家から引き継いだ会津40万石の藩主加藤明成は、痛んでいた会津若松城を最終的に改修した城主であった。城造りが好きで、父と共に名城を築くのを誇りとしていた。 大藩の引っ越しには家臣たちも付き従い大変な費用がかかる。しかも加藤家の居城となる会津若松城は、100万石の居城として築かれた広大な城郭であった。この転封の目的が城の修復であったことは言うまでもない。加藤家もこのことを察知して固辞するが所詮幕府の意向に逆らえない。 莫大な費用をかけ、身に余る100万石の大城郭を40万石の力で嘉明・明成は必死で頑張り修復した。 千姫と家光はとても仲の良い姉弟であった。千姫から事情を聞いた家光は、さっそく大老酒井忠勝を呼び協議させた。その結果、加藤家に幕府に逆らう不穏な動きがありと認められ、同時に明成の藩主として統治能力に問題ありとの裁定となり会津藩は加藤家から召し上げられた。こうして千姫親子は「東慶寺の闘い」に一方的に勝利にした。 |
会津藩加藤家が丹精込めて修築した名城、会津若松城に、待ち構えていたように家光の弟保科(ほしな)正之(まさゆき)が入った。親藩の城、会津若松城の誕生である。善政で有名な保科正之である。確かにそうであったかもしれないが、泥をかぶって消えてくれる者がいればあとは、楽である。以後、会津若松城はこの時の姿のまま幕末まで維持された。 同じように改易された熊本藩加藤家は、家光の弟忠長と親しくしており、弟忠長を押し立てて謀反の疑いがあり、また領地・家臣の統治能力にも問題ありとの理由での改易であった。 数万の大軍を擁して遠方まで攻め込み、雌雄を決する国盗りもあれば、一通の上意で国を失うこともある。いずれも戦いに違いない。後者の戦いにおいてとりわけ徳川の姫たちは政治の檜舞台に立ち、まるで最終兵器であるが如く敢然と闘い勝利した。 姫たちの国盗りであった。 |