会津若松城四方山話・・・振姫の執念

1.振姫の執念

会津若松城は、蒲生氏郷(かもううじさと)が秀吉に命じられて豊臣の威光を東国に輝かすために築いた。

ところで会津若松城の縄張りは秀吉の大坂城と酷似してところがある。この点から氏郷は、秀吉の忠実な家臣であったことは疑いない。氏郷は5年の在城の後文禄4年(1595)2月7日、伏見において40歳の若さでで亡くなった。

秀吉は嫡男秀行(ひでゆき)と家康の三女振姫(ふりひめ)を結婚させ引き続き会津若松城を治めさせた。
しかし、嫡男秀行は若干12歳で会津若松城92万石は治めきれず、家中内紛が続き宇都宮に移封される。かわって上杉景勝が1598年3月に越後から入ってきた。景勝は会津、仙道、米沢、庄内、佐渡など百二十万石の地を与えらが、この年8月に秀吉が亡くなると、徳川家康と対立し大坂から帰国し臨戦態勢に入った。しかし関ヶ原の戦いのあっけない敗戦をうけ家康に謝罪し許されるが、米沢に転封された。

会津若松城に執着していた振姫(ふりひめ)はこの機に秀行の返り咲きを猛烈に願い、関ヶ原の戦い後、その甲斐あって会津藩60万石で晴れて入城する。

名君にはほど遠い秀行だったが振姫と協力しながら何とか藩主としての勤めを果たしていた。
ところが、1611年大地震で七階建ての自慢の天守が傾き、その他大きな被害を受けた。
大城郭を維持するには途方もなくお金が掛かり、父氏郷が想いを込めて築いた城を、満足に修復できないと嘆きながら秀行は翌年29歳で亡くなる。

振姫は、我が子忠郷(たださと)10歳の後見として、父家康の威光にかけて、名城を復活させると意気込み強引に改修を進めようとした。
そこに立ちはだかったのは、石田三成と縁続きの優秀な家老岡重政であった。慢性的赤字となっていた藩財政を「ここは、緊縮財政で乗り切るしかない」と振姫に異を唱えたのである。
この事態に気の強い振姫はまたまた父家康に資金援助と岡重政の処分を願い出た。 京都二条城で秀頼との会見を終え、豊臣家の滅亡を決意し最終シナリオを構想する家康はこれに応じた。すぐに岡重政を駿府城に呼びつけ、詮議の後、切腹を命じる。
豊臣恩顧の大名、蒲生氏はここで存亡の危機に直面する。

家康は大事な我が娘、振姫にはすぐに江戸城に戻るよう命じ、幼い忠郷は孤立無援で会津若松城に残される。それでも振姫が生きている限り、蒲生家は一応大事には、いたらなかった。
しかし振姫が1617年和歌山の地で亡くなってからは徐々に幕府の締め付けが始まり、いたぶられた挙句、1634年逝った。蒲生家は無嗣改易になった。


2.徳川一門の処遇と幕府の下心

振姫は会津若松城に心を残しながらも江戸城に戻ったとき一人娘と一緒だった。
兄秀忠は「姫にお似合いの婿を見つけたので養女にして嫁がせたい」と上機嫌で言う。下心あるときのいつもの笑顔があった。婿殿は、熊本52万石の藩主加藤忠広でまだ12歳であった。幼い藩主を助けるために、幕府の指導・後見が必要された。
言うまでもなく名城熊本城を築いた猛将加藤清正は忠広の父である。
1614年大坂の陣の前に、幕府が付けた家臣と共に秀姫は熊本城に輿入れし、将軍の娘として盛大な結婚式を挙げる。
1615年江戸城に残る振姫に、大坂城の炎上が伝えられ、豊臣家の滅亡を知ったころ、今度は、家康が振姫自身にお似合いの婿殿を見つけたと上機嫌で言ってきた。婿殿は、紀伊和歌山37万石の藩主浅野長晟(ながあきら)だった。
秀吉の正室ねねの妹婿から始まる、豊臣家ゆかりの大名で、表面的にはとても友好だが、存続か改易か思案中の外様の有力大名であった。
ねねの甥になる長晟はこのとき30歳であったが生き残りにすさまじい執念を燃やしていた。すでに36歳になっていた振姫を迎え、盛大な結婚式を挙げ、主君の姫としての礼を忘れない。揚げ足を取られないよう、うやうやしく、たいせつに宝物のように新婚生活を送る。
二人の愛の深さに奇跡が起きて、振姫は高齢ながら身ごもり、嫡男(光晟みつあきら)が誕生するが、振姫は床上げすることなく、長晟の愛に感謝しつつ世を去った。
心底より驚喜した長晟は、振姫の身代わりとして誕生した嫡男の件を将軍秀忠の報告し、浅野家の後継として正式に幕府に届け出た。
この事態に家康亡き後の幕府権力の確立のために必死の将軍秀忠も長晟の藩主としての器量を認めざるを得ず、浅野家は安泰となった。

しかし政権の確立を急ぐ将軍秀忠の悩みは晴れない。妻お江から迫られている次男忠長の処遇もあり、その後も大名駒を注意深く動かしながら、三人の弟達(家康晩年の子達)の処遇を改めて決め、万全の幕府体制を作り上げようと腐心していた。

すなわち広島に封じられた豊臣恩顧の大名福島正則を難癖つけて改易し、入れ代わりに長晟を5万石加増し安芸広島藩42万石とし西国広島城に移した。
依然として忠長をどこに遇するか思案のしどころであったが、家康9男義直は尾張藩53万石藩主として名古屋城に封じ、家康10男頼宣は、駿府藩50万石藩主として駿府城を、家康11男頼房はは水戸藩25万石藩主として水戸城を与えた。

妻お江は忠長に尾張徳川家を与えるよう願うが、秀忠と幕閣は、安土城を築いた織田信長の父祖の地を家光と仲の悪い忠長に与えるのは危険と判断し織田嫡流の姫を忠長の正室とすることを条件に、家康の最も好んだ地、駿河国50万石を与えることに決める。忠長に追い出される頼宣は、必死の抵抗をし、5万石上乗せで55万石で紀伊国和歌山に入封する。
すると名古屋城にいる義直は、弟より少ない石高では兄の面子が保てないと言い、交渉上手の知恵者義直は62万石に加増される。
頼房も余りにも少なすぎると言い3万石ほど上乗せされる。
こうして大判振る舞いしながら一門の処遇を決定するが、徳川一門を上手く率いるためにはまだ石高が不足し、外様大名への風当たりは、強くなる一方で幕府による厳しいあら探しが終わる事はなかった。

 

3.徳川の姫たち底力…寝所に通いつめる大名

こうした中、外様大名つぶしで幕府に一番の貢献をしたのが、ほかならぬ振姫親子であった。
輿入れ先で次々と家内騒動を引き起こし、会津若松藩60万石、続いて伊予松山藩24万石、熊本藩52万石と言う具合に大藩を改易に追い込み結果的に136万石を豊臣恩顧の外様大名から召し上げたのである。輿入れに同行する家臣団は、幕府により慎重に選ばれ、輿入れ先の直臣との間に亀裂を生じさせる役目を担っていただろうが、振姫親子は、刺客の役目を見事果たした。 反対の例もある。

振姫の姉督姫(とくひめ)の場合である。1594年29歳の時秀吉に命じられて、三河吉田15万石の藩主池田輝政(てるまさ)と再婚する。北条氏に嫁いでいた督姫とっては再婚であった。
輝政は、若き信長にいつも従っていた信長の乳兄弟池田恒興(つねおき)の次男で当時池田家を継いでいた。実家である徳川の天下となって、督姫の株は、うなぎのぼりにあがつた。
輝政は関ヶ原の戦いでの戦功はそこそこだった割りに、京大坂に近い播磨姫路52万石の太守に大抜擢される。外様大名は遠く西国へ封じられるのが定石であったことを思えば、異例中の異例のことであり、まさしく督姫パワー全開といわざるをえない。

輝政は督姫と迎えて6年間、子に恵まれていない。この6年は、秀吉が存命していた。興味深いことに 関ヶ原を契機に徳川の天下が明らかになるや一転して督姫の間に子つまり家康の孫ができ始めるのである。これが意味するところは想像するしかない…。
ともかく婿殿は、30代後半から足しげく寝所に通い次々子達を儲け、最盛期は、岡山藩28万石・淡路洲本6万3千石・因幡鳥取藩6万石・本家52万石とあわせて一族で92万石余の大大名に上り詰めた。「西国将軍」呼ばれ、豪壮華麗な姫路城を築いた。傍に督姫は得意満面で君臨していた。
督姫の死後は威光は落ち、岡山藩30万5千石の岡山城主と鳥取藩31万5千石の鳥取城主だけとなってしまった。


4.「東慶寺の闘い」

「東慶寺の闘い」など歴史の書物には出てこない。それはさておき、千姫の話に移ろう。督姫の姪になる千姫は炎上する大坂城脱出しその後秀忠の江戸城に暮らしていた。
秀頼のたった一人の忘れ形見、奈阿姫を抱きしめ誰にも渡さないと頑張り、愛する夫の子を我が子として守り抜き、豊臣家の血筋を残すことなく生涯独身であることを条件に助命が叶えられた。

千姫は、尼寺を探し、女人救済の寺として有名な鎌倉の東慶寺に奈阿姫を預けた。千姫は、家康に生涯独身で生きる奈阿姫を励まして欲しいと懇請した。こてに応えた家康は奈阿姫に「何か望むものはあるか」と聞いた。
奈阿姫(天秀)は修行すれば女から離縁出来る「東慶寺法が末永く続くことのみ望みます」と答え、家康はこの願いを聞き届けた。家康からのお墨付があることが、奈阿姫(天秀)にとって最も価値あることだと考えた千姫はまだ七歳の奈阿姫(天秀)、代わって家康に返書を出した。このお墨付が後にものを言うことは、このときは誰も知らなかった。

その後も千姫は奈阿姫を励まし続け経済的にも援助した。こうして東慶寺は徳川家ゆかりのりっぱな寺となり、そして有名な縁切寺となった。

さて蒲生家から引き継いだ会津40万石の藩主加藤明成は、痛んでいた会津若松城を最終的に改修した城主であった。城造りが好きで、父と共に名城を築くのを誇りとしていた。
父嘉明は、秀吉の信頼厚く天下取りに大きく貢献し、賤ケ岳(しずがたけ)七本槍の一人でもある名将で、関が原の戦いでは東軍に付き、四国松山藩20万石の藩主なった。
そして築いた松山城は、武将としてのあるだけの知恵と資金をつぎ込んだ名城であった。
ところが40万石に加増されて、1627年に天災以後、修復ままならない悲惨な状況の会津藩へ、転封となった。

大藩の引っ越しには家臣たちも付き従い大変な費用がかかる。しかも加藤家の居城となる会津若松城は、100万石の居城として築かれた広大な城郭であった。この転封の目的が城の修復であったことは言うまでもない。加藤家もこのことを察知して固辞するが所詮幕府の意向に逆らえない。

莫大な費用をかけ、身に余る100万石の大城郭を40万石の力で嘉明・明成は必死で頑張り修復した。
しかし、藩主の過酷な税の取立てに対し、領民が激しい抵抗をした。
家中の重臣も意見が分かれ、家老掘主文(ほりもんど)は明成の藩政を見直すよう強く進言したが、職を追われた。その上、身の危険を感じた主文(もんど)は、家族、親類縁者、家臣を連れて鎌倉へ逃げた。すかさず明成は、主文(もんど)らを討とうと追手を差し向けた。
逃げ切れないと悟った主文(もんど)は、妻子を東慶寺の奈阿姫(天秀)に託し、身軽になって高野山へ向かった。
明成は、東慶寺に主文(もんど)の妻子が居ることを探し出し、奈阿姫(天秀)に妻子を差し出すように要求した。
奈阿姫(天秀)は、頑として明成の要求には屈せず、事の次第を千姫に一報した。
家康のお墨付を後ろ盾にされては、大名、明成も渋々引き下がる以外なかったのである。
しかし、ことはそれだけでは、おさまらなかった。

千姫と家光はとても仲の良い姉弟であった。千姫から事情を聞いた家光は、さっそく大老酒井忠勝を呼び協議させた。その結果、加藤家に幕府に逆らう不穏な動きがありと認められ、同時に明成の藩主として統治能力に問題ありとの裁定となり会津藩は加藤家から召し上げられた。こうして千姫親子は「東慶寺の闘い」に一方的に勝利にした。
加藤家は、極悪非道な藩主の改易として人々の拍手喝采を浴びて支持された。
千姫親子の後詰である幕府の計略にかかった豊臣恩顧の外様大名、また一人が消えた。


5.名君とは…

会津藩加藤家が丹精込めて修築した名城、会津若松城に、待ち構えていたように家光の弟保科(ほしな)正之(まさゆき)が入った。親藩の城、会津若松城の誕生である。善政で有名な保科正之である。確かにそうであったかもしれないが、泥をかぶって消えてくれる者がいればあとは、楽である。以後、会津若松城はこの時の姿のまま幕末まで維持された。

同じように改易された熊本藩加藤家は、家光の弟忠長と親しくしており、弟忠長を押し立てて謀反の疑いがあり、また領地・家臣の統治能力にも問題ありとの理由での改易であった。
しかし改易の根拠はいずれも、はっきりしたものではなく、加藤家の改易も、豊臣恩顧の加藤清正の家系をつぶすために言いがかりをつけた幕府の裁定と思われる。二人の加藤が消えたがその評判は明暗を分けた。すでに指摘したように会津の加藤が悪評であるのに大して肥後の加藤はすこぶる評判がいいのである。事実がそうであったかもしれないが、跡に入封される領主にとって、どちらがやりやすいか考えてみれば答えは、すぐわかる。偉大な先代のあとは、とかく、やりにくいのである。細川氏は気を使ったに違いない。

数万の大軍を擁して遠方まで攻め込み、雌雄を決する国盗りもあれば、一通の上意で国を失うこともある。いずれも戦いに違いない。後者の戦いにおいてとりわけ徳川の姫たちは政治の檜舞台に立ち、まるで最終兵器であるが如く敢然と闘い勝利した。

姫たちの国盗りであった。

 

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