9. 近世城郭は奥御殿が嫌い
江戸城とその他の城郭との決定的違いは、奥御殿である。すなわち、他の城郭は奥御殿が質素であることだ。
御殿は、儀礼の場として表御殿・藩主の居住部分である中御殿・藩主の家族の住まいである奥御殿で構成されている。
しかし参勤交代制度が実施されると各大名の本拠は次第に江戸に移った。そのため各藩つまり国許には女主はいなくなってしまった。いわゆる御台所と呼ばれるお金を管理し内政を仕切る人は、江戸から出れなくなってしまったのである。
藩主の在城時は、身の回りの世話をする人がいたかもしれないが、藩主にとっても1年交代での参勤交代が続くと「領地に出向いて江戸に帰る」という感じだったのだろう。経済的にも無駄なことだということで国許の奥御殿は質素になってしまう。

1635年3代将軍家光の時代に参勤交代制度が武家諸法度の中で決められ、1642年には、譜代大名にも義務付けられて徳川幕府の大名統治は完成したといわれる。
いうまでもなく、参勤交代とは、大名を江戸に一定期間交代で参勤させて、謀反などを起こすことを抑止する大名統制の制度だ。
参勤交代とは、諸大名が主君である将軍のために大名本人と石高にあわせて決められた兵とともに、江戸に出向き忠誠心を示す軍事行動でもあった。

もともと戦国時代に行われていた城下在番・人質徴収の政策に始まり、豊臣政権もまた各大名に参勤を命じ,妻子の大坂居住を勧めた.。

多くの外様大名が自発的に江戸参勤・人質提出をしていたが、あくまで自発的だった。それまで家族の本拠はあくまで各藩内にあった。裏切りませんという証明のために江戸に行く・人質を出すということだった。
囚われ人的な存在から忠誠心を示すパフォ-マンス的な人質まで境界線はあいまいだが江戸初期までは、通例や慣習のようなもであった。
しかし制度が出来上がって妻子は必ず江戸定住になってしまうと、各大名にとって妻子がいて親戚だったり友達だったりの大名も多くいるし、情報も豊富で、住みよい江戸が本拠になるのに時間は、かからなかった。願いどうり江戸で養育されるとは限らないが、地元で子供が生まれたりしても養育は江戸を希望することになる。

参勤交代の移動の際に大名行列という大掛かりな行進を行う必要があった。このために費用がかさみ、参勤交代は大名の財政を圧迫させた。参勤交代のために、街道や宿場が整備され、大名行列が消費する膨大な費用によって街道筋の人々は繁栄する。大量の大名の随員が地方と江戸を往来したために、彼らを媒介して江戸の文化が全国に広まった。

江戸での純消費生活は,国もとと同じくらいの経費を要し,大名は貨幣経済への依存度を強め、ますます財政を圧迫させる。藩の財政窮乏は江戸から遠い西国大名に早く認められ,寛永期には伊達氏などの外様大名が弱体化し全国的な傾向になる。

自藩の米を売るために江戸・大坂・京都に蔵屋敷や大坂米奉行をおき,京に衣料・美術工芸品・雑貨などの商いのために京都調物奉行をおき少しでも多くの貨幣獲得のために奮闘する。
商業の中心となった江戸・大坂・京都は消費生活の場として異常な都市化をとげ,あらゆる文化,遊里や盛り場が栄えていく。

参勤交代当初は、各藩に経済的余裕を持たせないように、お金を使わすという政策だったのだが、時を経て、借金をして参勤交代するということになる。
各藩にとって、戦いのない時の軍事行動・人質政策は、慢性的な借金財政を招き、結果的に幕府崩壊の大きな要因になっていく。

どうして江戸幕府を維持するために妻子の江戸定住が必要だったのか。
戦国時代ほとんどの武将は、夫婦二人三脚で豊臣秀吉の妻・前田利家の妻・山之内一豊の妻とかのように戦い抜いて領地を広げていった。お家の繁栄のために妻の存在は、重要だった。
それゆえ一族の繁栄に欠かせない妻は、人質として価値もあった。当然幕府も幕府への敵対を防ぐために、妻および嫡男の江戸在府をきめた。正室を国もとから切り離すことで国もとに対する影響力を少なくしたのだ。
そして戦国時代のような戦いを支える女性の活躍の場が少なくなった。
結婚すれば結婚先の国許に嫁いで行くのが当たり前だったのに、江戸にある大名屋敷から近くの大名屋敷に移り住むのが結婚になってしまったのだ。
戦国時代のように実家のために生きるか、婚家のために生きるかという緊張感・使命感・期待感が薄れてしまった。

どちらかが滅びる時最も被害を受けるのは残された妻子だったから細心の注意を払って両家の将来に対する展望を持たなくてはいけなかった。
正室として表立った政治家としての力は戦国時代ほどではなくなるが、江戸に常時住むということは社交・情報にかんしては以前より活躍する場が増したということ。
そして子供たちに対する影響力も増すということ。
江戸に定住する正室による次期藩主・いい結婚相手を探すお姫様達の教育には重要な役割影響を持つ。そして江戸藩邸の建築・生活様式には影響力があった。幕末参勤交代制度がなくなり妻子が国元に帰ってくる。

急ごしらえの御殿・付帯の屋敷とかてんやわんやで建てられる様子が目に浮かぶ。
こんなことでも変革の波や幕府の弱体化を地方でも体験し、新しい時代を全国的に迎える準備ができていくのだ。

天守の再建もままならない江戸城にあって、築城期から幕末までで一番変わったのは、大奥である。初期の春日の局の頃は、数百人といわれた大奥に住んだり働く人が幕末の篤姫の頃は、3000人といわれる。江戸幕府の歴史の中で、大きく勢力を伸ばし、江戸城内で最も建物を増やしたのは大奥だった。

同時に各大名は、江戸に上屋敷・中屋敷・下屋敷などの土地を幕府から与えられていたのでその藩邸内で、せっせと増やしていたのは女性たちの居住場所=奥であった。

平時においても、やはり姫たちは力をもっていた。

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