近世城郭は織田信長に始まり豊臣秀吉が発展させて、徳川家康で終焉するようだ。
家康亡き後は時折城持ち大名が領地換えになってその地にまともな城がない時や幕府のにらみを効かせるために必要になった時など特別な場合を除き築かれることがなくなった。
関が原の戦いから豊臣家滅亡までの間に徳川家の後押しで築城を始めた城。そして築城主はその後どんな運命が待っていたのだろう。
東軍豊臣恩顧の主な大名の行く末
関ヶ原の戦いで東軍に付いて、家康臣下となり、領地が大幅に加増された秀吉恩顧の大名たちの場合。
徳川家康は、西軍方について敗者となった豊臣縁故の大名の地に、東軍に付いた豊臣縁故の大名を配置する。旧藩主の統治が色濃く旧藩主を慕う領民が多い中で、領国安定のために奮闘し、成果が現れた頃には、亡くなる。
徳川家は安定政権づくりの為、積極的に婚姻政策を採る。
徳川家に縁あるお姫様との結婚により、夫婦仲むつまじく、嫡男が生まれ、跡を継ぎ、その子が元気で優秀なら、そしてお姫様についてきた徳川からの家臣と直参の家臣をうまくまとめて家臣段一丸となって徳川の血を引く嫡男を支える体制が出来れば安泰となる。
お家安泰のために、いろんな試練があり、生き残りに細心の注意が払われた。
関ヶ原の戦いで没収した領地が十分で、諸大名への恩賞が出来たので最初は大判振る舞いだった。それで良かった。
しかし大坂の陣の頃から、恩賞のための領地がなくなる。秀頼の所領は65万石しかなく、幕府のために大坂方と戦う武将に恩賞は出せない事態がうまれた。
また豊臣色が消えていくと、今度は長期安定政権のために、外様大名へのお目付け役として全国各地に、譜代・親藩の大名を配置しなければならなくなる。
そのための領地も圧倒的に不足する。有力大名を改易しなければ幕府の権威は保てないのであり、2代将軍秀忠・3代将軍家光にとって有力大名改易は避けて通れない道であった。そこで幕府は死の直前の養子は認めないということにした。いわゆる末期養子の禁止である。幕府の狙い通りこの政策で改易となった大名は多い。そしてこのころ、なぜか大名の突然死があいつぐ。時代小説などで幕府隠密が活躍し、毒殺説が唱えられる。
秀忠が将軍に就任ころには、関ヶ原に自ら参陣したの大名の多くは、進んで隠居し、跡目を徳川に近い後継者に譲り、その後は若き藩主の教育に力を注ぐスタイルが流行する。
諸大名は、それぞれ、突然死や後継藩主が若く統治能力不足とみなされたり、また家臣の間でのお家騒動などおおよそ改易をにつながりかねない事態をさけるため、必死であった。幕府とって無益な大名となる評価されると容赦なく改易が待っているこの時代は、戦国の世とは、別の意味で、厳しいサバイバルであった。
外様大名が、徳川幕府の創設期に堅固な名城を築くと命取りになる場合が多いことについてすでに述べたが、(6.名城を造ればリストラの運命)ここでは、サバイバルの成功例と失敗例の対比でみる。
個別大名の明暗
池田輝政
播磨姫路に旧領の3.5倍、52万石で移封。
姫路城大幅改修するが、正室督姫が家康娘であり関ヶ原の戦い以前から親交が深く、すでに督姫との間に家康の孫となる子供がおり夫婦仲良くお家は安泰。督姫は再婚で、先妻との間にすでに嫡男が生まれていたが、両者を藩主として待遇 鳥取藩と岡山藩となる。豊臣家滅亡前に 1564~1613年 50歳で死す。
黒田長政
福岡藩52万石 福岡城
いち早く東軍に属し、調略で、秀吉子飼いの諸将東軍に誘いまとめ役となった。正室は蜂須賀正勝の娘だったが、離縁し、徳川家康養女栄姫を継室に迎え忠誠を示す。1568~1623年 55歳没 お家安泰
山内一豊
高知藩24万石 高知城
大坂方の状況を綿密に記した密書を家康の差し出す。居城掛川城を東軍に提供など積極的に東軍に貢献。豊臣家滅亡前に1605年 60歳没 2代山内忠義1592~1664、秀忠養女と婚姻。嫡男に恵まれる。 お家安泰
藤堂高虎
伊勢・伊賀35万石
豊臣大名の動向を密通、寝返り工作をしたりと、東軍勝利に貢献。信頼されて、外様でも徳川幕藩体制の中枢に参加する。大坂の陣での決死の働きは有名。外様大名としての忠勤に励む。 1630年 75歳没 お家安泰。
加藤嘉明
松山城主20万石から1627年に会津藩40万石へ
2代明成 会津若松城の改修を行い、現在のような難攻不落名城にする。そのためお家騒動により1643年 会津領を没収。正室徳川家康の養女は1636年に若くして亡くなり、縁組はうまくいかず。1682年 嫡子明友、祖父の功で再度取り立てられ近江水口2万石藩主として存続する。1563~1631年 69歳没
堀尾忠氏
松江(出雲・隠岐)24万石 松江城築城
豊臣家滅亡前に1605年27歳で亡くなる。堀尾忠晴6歳で藩主 1599年~1633年 34歳没 無嗣改易。正室徳川家康の養女との間には男子に恵まれず、縁組はうまくいかず。
福島正則
安芸広島49万石城主となるが、 広島城無断修築をとがめられる。1619年改易。改易先の川中島で 1624年 64歳没 没収。徳川家康の養女と嫡男は結婚するも縁組はうまくいかなかった。嫡男が誰か、どうして亡くなったか正確にはわからない。改易の前に徳川家康の養女(満天姫)は江戸に帰る。
加藤清正
熊本52万石 熊本城築城。
豊臣秀頼と徳川家康の謁見に同席した後に謎の死。豊臣家滅亡前に1611年 49歳で急死。2代忠広(1601? ~1653)、秀忠養女と婚姻するもお家騒動を起こす。結果的に徳川家との信頼関係を築けなかった。1632年 改易
浅野幸長
広島藩(関が原の戦い後すぐは和歌山藩) 42万石 広島城主
徳川家・豊臣家の融和に力を尽くした。豊臣家滅亡前に1613年 38歳没。弟長晟(1586~1632)が二代藩主となり家康娘と婚姻、嫡男生まれる。3代藩主である嫡男と3代将軍家光の養女満姫との結婚は夫婦仲良く子宝に恵まれ2代に渡る徳川家との縁組は、うまくいき、浅野藩は安泰となった。
細川忠興
肥後熊本54万石 小倉城
前田利家娘と結婚していた嫡男細川利隆を、離縁の後廃嫡し、家康に人質として差し出していた3男忠利を跡継ぎとする。1620年隠居 1645年83歳没 安泰。2代藩主忠利は2代将軍秀忠の養女と結婚し、仲むつまじく嫡男にも恵まれる。
田中吉政
筑後柳川 32万石
石田三成を捕らえた功労あり。江戸に向かう途中の山城国伏見において急死。豊臣家滅亡前に1609年没 1546年~1609年 62歳。忠政が家督を継ぐが1620年36歳で急死。 無嗣改易(むしかいえき)秀忠養女と結婚するも男子に恵まれなかった。
小早川秀秋
備前・美作55万石
豊臣家滅亡前に1602年21歳没 無嗣改易。正室の毛利輝元養女との間には子がなく、名門、小早川家は断絶した。1591年からの付家老稲葉正成は 家光の乳母春日の局の夫、家康の東軍に味方することに尽力したという。
最上義光
出羽57万石 豊臣家滅亡前に11546~1614年69歳で亡くなる。嫡男義康を廃し、家康に近い次男・家親が家督を継ぐしかし1617年 急死。1622義光の孫・義俊の代に内紛のため所領を没収、近江一万石となる。その後、五千石となり家名だけ残る。
前田利長
加賀、能登、越中3ヶ国(現在の富山県、石川県の全域)、120万石 金沢城を築城。
弟利常に家督を譲り、1605年44歳 で隠居する。豊臣家滅亡前に1614年 53歳 没。 利常は秀忠の娘と結婚。多くの子宝に恵まれ夫婦仲良く 安泰
中村一忠
伯耆(ほうき)鳥取米子藩18万石 米子城築城。家康養女と婚姻。女児のみ生まれる。 豊臣家滅亡前に1609年 20歳急死 無嗣改易。
蜂須賀 家政
阿波徳島藩 17万石
関ヶ原の戦いのとき阿波を豊臣家に返上し、高野山にこもり隠居。1559年?~1638年 79歳で 没する。嫡男・蜂須賀至鎮を徳川方に従軍させ、家康養女と婚姻。
夫婦仲良く、所領そのまま 安泰。
大枚はたいて築城し、挙句の果てに改易では、たまらない。
以上見てきたように各藩がお家安泰のために知恵を絞ったことがわかる。
豊臣縁故の大名藩主は、徳川幕府成立に大きな貢献をした大名以外は、おおむね豊臣家滅亡の前に亡くなってしまう。そして幕府によって改易の準備がされていく。藩主としての能力も必要だったが、徳川家系の姫と結婚し嫡男が授かることはそれ以上に重要なことであった。徳川家との縁戚関係によって徳川幕府の信頼を得ることがもっとも安泰の近道であった。
徳川将軍は誰でも養女として縁付けるわけではない。養女は姪か孫までで、しかも気に入って能力ありと認めたお姫様のみを養女としているようだ。
そのお姫様と夫婦仲が悪いということはそれだけで藩主として不適格となった。
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