6.名城を造ればリストラの運命
 石高の割りにがんばり、今も人々を楽しませる名城を築いた大名の行く末は、あまり芳しくない。築城が集中した中国地方を例にみてみよう。

■津山藩森家
1604年から1616年まで13年の歳月をかけて鶴山の上に大城郭を築き上げた。
太平の世には似合わない高石垣で築かれた大城郭津山城。

藩主森忠政は織田信長に仕えた森蘭丸の弟である。兄森長可の戦死後家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えていた。 関ヶ原の戦いは東軍で戦い、領地は2.5倍にUP。
西国美作18万6千石の大大名となり津山に城を築く。
1代森忠政  京都でご馳走を食べて後、急死
2代森長継(ながつぐ)  忠政の娘の子である
3代森長武(ながたけ)  長継の嫡子早死のため孫の成長までの中継ぎのはずだったが
            30歳での隠居は不本意でお家騒動となる。
4代森長成(ながなり)  成長した長継の直系の孫、子なし、改易。

前の藩主森長継が87歳で健在でいたため、名誉ある森家の家柄を考慮し、長継に備中西江原(のち赤穂藩)に2万石ながら名跡復興を許される
改易の理由は、表向きは藩主の発狂というけれど、大大名として徳川家の養女を正室に迎えたけれど嫡男が生まれず、堅固な大城郭は幕府は気に入らず、結局幕府に必要のない外様大名とみなされ改易となる。
大名として存続を許されるが信長時代の栄光に比べさびしい小大名となる。

■広島藩福島家
豊臣秀吉の側近である福島正則。
1600年の関ヶ原の戦いの功によって尾張国清洲城24万石から倍増する、49万8000石余の広島城主となった。しかし徳川氏から豊臣恩顧の大名として警戒されていた。
1617年春の長雨で太田川が洪水となり、城囲いをはじめ広島の町中の堤防、橋梁が決壊、流失した。その後、幕府の許可を得ないで修築した罪として改易を伝えられ、福島の家臣4000余人の大半が浪人することとなる。
徳川幕府が豊臣恩顧の大名を事あらば取り潰そうとしていた時代に良い口実を与えたのである。毛利時代の広島城でも大きすぎるぐらいなのに、広島城を整備拡充し惣構えの櫓を築いたり、亀居城を造ったり軍備増強に努めてしまった。
1代 福島正則
 福島正之  実子が遅く生まれたため、それまでの養子。
 三原城主。乱交により殺害
 福島正友  実子で長男・早くに死亡。
2代 福島忠勝  実子で正則の後継ぎ。

徳川幕府と親戚になり存続を図るのが大藩の常識。徳川家康の姪であり養女の、満天姫との婚姻の記録があるが、相手が誰であるかいつ頃か確証がない。
どちらにしても徳川家との婚姻はうまくいかなかったのである。
戦国時代を生き抜いた福島正則は信州川中島で64歳で死去。


■松江藩堀尾家
名城松江城を5年の歳月をかけて築く。
豊臣政権下で、要職を占め、遠江浜松城12万石の大名に抜擢されている。
関ヶ原の戦いでは、吉晴の子忠氏が家康の会津征伐に従っており、終始東軍として活躍した。
隠岐・出雲を与えられ領地は2倍にUP24万石を領した。しかし西国に移される。
忠氏が築城中に亡くなり、孫の忠晴が初代藩主となる。
堅固な大城郭の築城に幕府は、警戒していた。
忠晴が、1633年に死去。死ぬ直前に従兄弟を後継ぎにしようとしたが幕府に認められず堀尾家は断絶してしまう。
徳川家との婚姻により嫡男は生まれなかった。冬の陣で活躍するも、幕府からは忠義を認められず。山内一豊の同僚だったが、明暗を分けた。


■伯耆国米子城主中村家
名城米子城を完成する。
豊臣政権下で、要職を占めた中村一氏。
関が原の戦い東軍として参戦。しかし直前に死亡し、後を継いだ一忠は12歳。
駿河国14万石から18万国へと加増されたが、西国へと移封される。
幕府から注視されていたにもかかわらず、米子騒動を起こしたり、治世にも問題があった。
徳川家康養女の正室に男子無く、側室の男子はいたが、養子を認められず断絶。
太平の世の堅固な米子城は美しいが、その後は城主のいない城となる。

中国地方ではないが、熊本城を築いた加藤家も断絶。親分の顔色を伺いながら名城を築くことこそ至難のワザであった。

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