5.築城の波及効果
■築城の波及効果
城の建築は各地から銭で集められた職人達が競争して腕をふるう場である。
そこでは技術交流があり競争がある。その結果新しい方法が開発され技術が向上した。
各地から集まった職人達の技術向上が進む。

■鉱山開発技術の飛躍的向上
多くの人が各地から集められ報酬を支払わなければならない。
そのために銭となる金・銀・銅等がどうしても必要とされた。
その結果鉱山開発技術が進んだ。そして日本は世界有数の金銀産出国となった.。

■用水土木技術の絶対的必要性と進歩
大規模な城下町を造るためには、都市計画がされて、治水・用水等が整備されなければならない。その技術は、以後耕地新田の開発・灌漑治水工事に活用されることとなる。
当時の世界最高水準にまで達していたほどの素晴らしい技術革新の時代でもあった。

■築城技術の向上
天守という高層建築には新技術が要求される。精度の高い石垣が築かれなければ高層建築は建たない。石垣の積み方・石の切り出し方に工夫がされて、石垣の精度が高くなり、信頼性が出た。
その結果近世城郭は土台を用いて石垣の端に柱を立て、柱も貫穴などの間隔を一定にした規格品となった。そして大量生産と工期短縮の一種のプレハブ的建築が可能となった。
それまでは石垣の精度も悪く土地の状況を見ながらの慎重なその場あわせの建築だった。
これらの総合技術が今日も残る日本の華麗な城郭建築および城下町建設工事に開花した。

土木学会で編集した「明治以前日本土木史」によると古代から徳川時代の終りにあたる1867年までに行われた主要土木工事のなかで、約35%が1596年から1672年までに集中しているそうだ。
明治以前の用水土木工事は、戦国期から江戸時代初頭のあいだに、その半数が集中しているのである。しかもその内容をみると第一線級の大河川にたいする巨大土木工事がこの時期に集中しており、それまで洪水の氾濫原として放置されたままになっていた大河川下流の沖積層平野が、広大・肥沃な農耕地(主として水田)につくりかえられている。こうして人は、丘や山から低地=平地に降りた。他の時代には類がないほど土木技術が大きく発達した結果だ。

■森林保護と林業振興
築城には大量の木材が必要。そんな城が、関ケ原合戦前後から江戸時代前期に日本各地で建築ラッシュとなった。良木は奪い合い状態となり、領内の材木だけで自国の築城をまかないきれなくなる藩も出てきた。各大名はコメの生産に力を入れるのと同様に林業政策にも力を注がなくてはならなかった。
加賀藩では杉、ケヤキ、ヒノキなど重要樹木七種を決めて、伐採を禁止・保護した「七木の制」(しちぼくのせい)が知られる。また、木曽地方では他国へのヒノキ材持ち出しが禁止された。徳川幕府が天領と呼ばれる直轄地の多くを山間地に求めたのも、鉱山を確保したほかに建築用材確保に目的があったのだ。

■経済学の発展
築城は、国を挙げての大事業。経済的に合理的効率よく築城を進めなければならない。
経済的破綻は、領民の一揆をもたらし、藩の滅亡にもなる。
しかし、うまくすれば多くの人々に経済的恩恵をもたらし、郷土の誇り、安定した治世の実現にも通じる。
そのため築城には経済の理解が必要ともなる。
そこで、現在の簿記のようなものが重要視されはじめ、豊臣秀吉も重視した。
目に留まったのはとびきり計算の早い、頭のいい少年当時16歳の石田三成、以後経済の知識を深めることで権力を握ることとなった。
築城の名手藤堂高虎も経済を一生懸命勉強し、秀長の家来のなかでも高い評価を得た。
各藩それぞれ経済に明るい武将が力を持つことにつながる。

泰平の世であった近世城郭の時代では、落雷や火事といった災害や事故で城郭の一部が失われることがあっても、そのほとんどは、明治の大量破脚まで存続し破脚を免れた城郭は、第二次世界大戦の空襲などで壊滅的被害を被ることになる。
戦乱の時代に終止符を打った織豊期末期から江戸初期に築城された近世城郭は、明治維新という体制変革という時期には無用の長物と化し政治=軍事的役目を終えた。
江戸幕藩体制の平和な時代の象徴こそ近世城郭の姿であった。
城が壊されたのは明治の初めの廃城令・第2次世界大戦の米軍攻撃による被災が大きい。残念。

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