4.実戦には役にたたなかった近世城郭
巨費を投じた近世城郭が実戦に供されたことはほとんどない。
実戦に登場するのは、関が原合戦前の伏見城、大津城や大坂の陣の豊臣大坂城である。
その後は時代が下がり二百数十年後の幕末、戊辰戦争における長岡城や会津若松城・そして熊西南戦争の熊本城くらいだ。
結果的に威容を誇る近世城郭は実戦には全く役立っていない。というより、近世城郭をめぐる戦争自体がなかったのである。
近世城郭は、軍事要塞であると同時に封建制度の支配権力の象徴という政治的役割があった。
織豊期以来の軍事的緊張が多少あったとはいえ、時代の趨勢は、誰の目にも明らかなように徳川の天下であったときに、「難攻不落」の軍事要塞の存在を領民にみせつけること自体、それほど必要だったのであろうか。
大築城時代、近世城郭とは政治的=軍事的デモンストレーションや予防安全的抑止力だったのだろうか。戦争が軍事の延長であるという点では、政治も軍事も明確に区別できるものではない。むしろ同一的に把握されるべき点もある。このように考えると、少なくとも本来軍事施設であったはずの近世城郭を軍事的側面からのみ語るのは無理がある。また政治的側面からつまり権威の象徴という説明も間違いではないにしても、何かしら釈然としないのである。権威の象徴のために数十兆円もの巨費が比較的短期間に全国で消費された事実に対して「権威の象徴」ためにとか「軍事要塞」であったという簡単な説明だけでは、納得できない。
近世城郭は政治的にも軍事的にも幕藩体制の成立過程=江戸初期において触れられるだけで、その後歴史の檜舞台に登場することもない。

近世城郭のシンボルである天守だけを見てもその外壁は、厚さ30センチ以上もあり当時の鉄砲や弓矢などの攻撃には十分耐えられた。また、壁面に多数開けられた鉄砲狭間や矢狭間、出窓の下部や壁面隅部に配置された石落としなどは、攻撃的装置である。ところが軍用建築である天守には、およそ攻撃にも防御にも関係ない千鳥破風や唐破風と呼ばれる装飾的要素もある。有名な名古屋城天守の金の鯱、秀吉大坂城の金箔瓦の例もある。外観の豪華さから見れば(信長の安土城や秀吉大坂城を除く)ほとんどの天守において外観の豪華さとは裏腹にその内装はお粗末である。
敵兵の殺傷目的である戦闘攻撃的要素と外観に集中してみられる装飾的要素は、直接的=純粋軍事的には矛盾しても、領主の権威を見せつけ領民を威圧するという広い意味(政治=軍事的意味)では統一されている。
現代においても大規模な軍事演習や空母機動部隊を派遣したりする軍事的デモンストレーションは行われている。「難攻不落」の軍事要塞の存在をみせつけること自体、政治的=軍事的効果を発揮することも疑いない。参勤における、いわゆる大名行列も紛れもない軍事行進でありデモンストレーションであった。多額の出費を伴うことも城郭の場合と同様である。

平和なうえに築いた近世城郭
一般的に、大きな戦争が終わると兵士は失業し、兵站部門も衰退する。戦後の新体制も構築される。戦時の兵力編成から平時のそれに大幅に削減され、戦争が大規模であればこの傾向も強く、さらに兵農分離が確立されている場合は、なおさら大量の余剰兵力が生じる。役立たずの近世城郭も戦時エネルギーを解消するための解決法として大規模公共事業としてこれをみれば合点がいく。

多くの近世城郭が役立たずだったとして、先人を笑うことなどできない。戦艦大和はどうだ。今の時代は、どうだ。車がほとんど通行しない高速道路、大赤字の本四架橋、あげればきりがない。無駄はいけないと叫びつつ、今も昔も、平時も戦時も公共事業万歳なのである。

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