武士の夢、「築城」が終わった時、諸藩の多くは、現実的に財政破綻の状況となった。
当然、緊縮財政とならざるをえない。
新たな築城はいうまでもなく、増築や改修にしても近世城郭に生まれ変わる質とスケールを伴うからには、いずれにせよその地に空前のインフラ整備公共事業だった。では実際築城にはいくらのお金が必要だったのか。
広島城の場合
まず城の位置を決め、縄張りをする。これは武士の仕事であり直接の経費すなわち人件費はかからない。次に、普請。堀を造り石垣を築く。さらに大田川河口の干拓。土を詰めた俵と、人海戦術で夜を徹して工事する。石垣の基礎に地盤強化のため胴木(松の丸太)を埋める
石材は広島近郊の島々や山から集め、道路整備をして運ぶ
石工は安土城築城の石工集団穴生衆を招いたのか地元の石積技術者を用いたのかはっきりしないが大量の石工が集められる。次は作事といわれる建物建築である。木材は大田川上流からいかだで運んだ。
多くの大工に知行を与えていた資料がある。城地に住まわせたのだろう。左官・瓦師・鍛冶多くの職人が必要とされた
労働者、は村ごとに割り当てられたらしい。
当時の農民は夫役(ふえき)の義務がある。その日数を超えた場合、報酬が支払われた。
広島城は、連結式天守を含めて88の櫓を持つ、総面積約135万平方メ-トルの大城郭。
同時に城下建設も行なわれ、縦軸を基準に碁盤の目状に都市計画された。
現在のお金でどんなに安く見積もっても約1000億円以上の建設といわれる。
掛川城天守復元に10億円以上の費用がかかっている。天守だけでの建設費である。近世城郭は戦時を想定して大量の武器や食糧を保管する場も必要であり、同時に鉄砲など攻撃に耐えるぶ厚い壁の施設も必要である。だから城はハード面では構造的に、とにかく木材喰いであり石材喰いである。
近世城郭は、軍事的機能と同時に外見も美しく豪華でなくてはならない。
ソフト面では、創意工夫を凝らした軍事的機能と外見上(対面j所すなわち大広間等の御殿内部は、別にして天守や櫓内部は、荒削りで武骨)の美しさが高度に統一されたデザイン的優位性も不可欠である。その結果、巨費がかかる。
広島城の場合、毛利氏の歳入は、単純に一石を5万円とすれば、120万石*5万円600億円の二分の一(五公五民)つまり、300億円の歳入になる。
税率を七公三民として大幅増税したとして計算しても420億円にしかならない。
年貢以外の税収を含めても歳入の3倍以上の恐ろしい額である。
しかも、この時期は、まさに「築城ラッシュ」であり、巨額な建設工事が全国いたるところで開始される。当然人件費等も高値で推移していただろう。同時に天下普請という手伝い築城もしなくてはいけない。
終わった時はへとへとになってしまうだろう。
豊臣家滅亡の後は、参勤交代制度が待っている。藩財政の半分は、参勤交代と江戸での生活費に消えてしまうのである。
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