5.名君とは…

会津藩加藤家が丹精込めて修築した名城、会津若松城に、待ち構えていたように家光の弟保科(ほしな)正之(まさゆき)が入った。親藩の城、会津若松城の誕生である。善政で有名な保科正之である。確かにそうであったかもしれないが、泥をかぶって消えてくれる者がいればあとは、楽である。以後、会津若松城はこの時の姿のまま幕末まで維持された。

同じように改易された熊本藩加藤家は、家光の弟忠長と親しくしており、弟忠長を押し立てて謀反の疑いがあり、また領地・家臣の統治能力にも問題ありとの理由での改易であった。
しかし改易の根拠はいずれも、はっきりしたものではなく、加藤家の改易も、豊臣恩顧の加藤清正の家系をつぶすために言いがかりをつけた幕府の裁定と思われる。二人の加藤が消えたがその評判は明暗を分けた。すでに指摘したように会津の加藤が悪評であるのに大して肥後の加藤はすこぶる評判がいいのである。事実がそうであったかもしれないが、跡に入封される領主にとって、どちらがやりやすいか考えてみれば答えは、すぐわかる。偉大な先代のあとは、とかく、やりにくいのである。細川氏は気を使ったに違いない。


数万の大軍を擁して遠方まで攻め込み、雌雄を決する国盗りもあれば、一通の上意で国を失うこともある。いずれも戦いに違いない。後者の戦いにおいてとりわけ徳川の姫たちは政治の檜舞台に立ち、まるで最終兵器であるが如く敢然と闘い勝利した

姫たちの国盗りであった。

会津若松城の四方山話
1.振姫の執念|2.徳川一門の処遇と幕府の下心|3.徳川の姫たち底力…寝所に通いつめる大名
4.「東慶寺の闘い|5.名君とは…|<前に戻る 1.2.3.4.5. 

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