4.「東慶寺の闘い」

「東慶寺の闘い」など歴史の書物には出てこない。それはさておき、千姫の話に移ろう。督姫の姪になる千姫は炎上する大坂城脱出しその後秀忠の江戸城に暮らしていた。
秀頼のたった一人の忘れ形見、奈阿姫を抱きしめ誰にも渡さないと頑張り、愛する夫の子を我が子として守り抜き、豊臣家の血筋を残すことなく生涯独身であることを条件に助命が叶えられた。

千姫は、尼寺を探し、女人救済の寺として有名な鎌倉の東慶寺に奈阿姫を預けた。千姫は、家康に生涯独身で生きる奈阿姫を励まして欲しいと懇請した。こてに応えた家康は奈阿姫に「何か望むものはあるか」と聞いた。
奈阿姫(天秀)は修行すれば女から離縁出来る「東慶寺法が末永く続くことのみ望みます」と答え、家康はこの願いを聞き届けた。家康からのお墨付があることが、奈阿姫(天秀)にとって最も価値あることだと考えた千姫はまだ七歳の奈阿姫(天秀)、代わって家康に返書を出した。このお墨付が後にものを言うことは、このときは誰も知らなかった。

その後も千姫は奈阿姫を励まし続け経済的にも援助した。こうして東慶寺は徳川家ゆかりのりっぱな寺となり、そして有名な縁切寺となった。

さて蒲生家から引き継いだ会津40万石の藩主加藤明成は、痛んでいた会津若松城を最終的に改修した城主であった。城造りが好きで、父と共に名城を築くのを誇りとしていた。
父嘉明は、秀吉の信頼厚く天下取りに大きく貢献し、賤ケ岳(しずがたけ)七本槍の一人でもある名将で、関が原の戦いでは東軍に付き、四国松山藩20万石の藩主なった。
そして築いた松山城は、武将としてのあるだけの知恵と資金をつぎ込んだ名城であった。
ところが40万石に加増されて、1627年に天災以後、修復ままならない悲惨な状況の会津藩へ、転封となった。

大藩の引っ越しには家臣たちも付き従い大変な費用がかかる。しかも加藤家の居城となる会津若松城は、100万石の居城として築かれた広大な城郭であった。この転封の目的が城の修復であったことは言うまでもない。加藤家もこのことを察知して固辞するが所詮幕府の意向に逆らえない。

莫大な費用をかけ、身に余る100万石の大城郭を40万石の力で嘉明・明成は必死で頑張り修復した。
しかし、藩主の過酷な税の取立てに対し、領民が激しい抵抗をした。
家中の重臣も意見が分かれ、家老掘主文(ほりもんど)は明成の藩政を見直すよう強く進言したが、職を追われた。その上、身の危険を感じた主文(もんど)は、家族、親類縁者、家臣を連れて鎌倉へ逃げた。すかさず明成は、主文(もんど)らを討とうと追手を差し向けた。
逃げ切れないと悟った主文(もんど)は、妻子を東慶寺の奈阿姫(天秀)に託し、身軽になって高野山へ向かった。
明成は、東慶寺に主文(もんど)の妻子が居ることを探し出し、奈阿姫(天秀)に妻子を差し出すように要求した。
奈阿姫(天秀)は、頑として明成の要求には屈せず、事の次第を千姫に一報した。
家康のお墨付を後ろ盾にされては、大名、明成も渋々引き下がる以外なかったのである。
しかし、ことはそれだけでは、おさまらなかった。

千姫と家光はとても仲の良い姉弟であった。千姫から事情を聞いた家光は、さっそく大老酒井忠勝を呼び協議させた。その結果、加藤家に幕府に逆らう不穏な動きがありと認められ、同時に明成の藩主として統治能力に問題ありとの裁定となり会津藩は加藤家から召し上げられた。こうして千姫親子は「東慶寺の闘い」に一方的に勝利にした。
加藤家は、極悪非道な藩主の改易として人々の拍手喝采を浴びて支持された。
千姫親子の後詰である幕府の計略にかかった豊臣恩顧の外様大名、また一人が消えた。

会津若松城の四方山話
1.振姫の執念|2.徳川一門の処遇と幕府の下心|3.徳川の姫たち底力…寝所に通いつめる大名
4.「東慶寺の闘い」|5.名君とは…|<前に戻る 1.2.3.4.5. >次を読む ページTOP

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