3.徳川の姫たち底力…寝所に通いつめる大名
こうした中、外様大名つぶしで幕府に一番の貢献をしたのが、ほかならぬ振姫親子であった。
輿入れ先で次々と家内騒動を引き起こし、会津若松藩60万石、続いて伊予松山藩24万石、熊本藩52万石と言う具合に大藩を改易に追い込み結果的に136万石を豊臣恩顧の外様大名から召し上げたのである。輿入れに同行する家臣団は、幕府により慎重に選ばれ、輿入れ先の直臣との間に亀裂を生じさせる役目を担っていただろうが、振姫親子は、刺客の役目を見事果たした。

反対の例もある。

振姫の姉督姫(とくひめ)の場合である。1594年29歳の時秀吉に命じられて、三河吉田15万石の藩主池田輝政(てるまさ)と再婚する。北条氏に嫁いでいた督姫とっては再婚であった。
輝政は、若き信長にいつも従っていた信長の乳兄弟池田恒興(つねおき)の次男で当時池田家を継いでいた。実家である徳川の天下となって、督姫の株は、うなぎのぼりにあがつた。
輝政は関ヶ原の戦いでの戦功はそこそこだった割りに、京大坂に近い播磨姫路52万石の太守に大抜擢される。外様大名は遠く西国へ封じられるのが定石であったことを思えば、異例中の異例のことであり、まさしく督姫パワー全開といわざるをえない。

輝政は督姫と迎えて6年間、子に恵まれていない。この6年は、秀吉が存命していた。興味深いことに 関ヶ原を契機に徳川の天下が明らかになるや一転して督姫の間に子つまり家康の孫ができ始めるのである。これが意味するところは想像するしかない…。
ともかく婿殿は、30代後半から足しげく寝所に通い次々子達を儲け、最盛期は、岡山藩28万石・淡路洲本6万3千石・因幡鳥取藩6万石・本家52万石とあわせて一族で92万石余の大大名に上り詰めた。「西国将軍」呼ばれ、豪壮華麗な姫路城を築いた。傍に督姫は得意満面で君臨していた。
督姫の死後は威光は落ち、岡山藩30万5千石の岡山城主と鳥取藩31万5千石の鳥取城主だけとなってしまった。


会津若松城の四方山話
1.振姫の執念|2.徳川一門の処遇と幕府の下心|3.徳川の姫たち底力…寝所に通いつめる大名
4.「東慶寺の闘い」|5.名君とは…|<前に戻る 1.2.3.4.5. >次を読む 

会津若松城の四方山話
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