2.徳川一門の処遇と幕府の下心
振姫は会津若松城に心を残しながらも江戸城に戻ったとき一人娘と一緒だった。
兄秀忠は「姫にお似合いの婿を見つけたので養女にして嫁がせたい」と上機嫌で言う。下心あるときのいつもの笑顔があった。婿殿は、熊本52万石の藩主加藤忠広でまだ12歳であった。幼い藩主を助けるために、幕府の指導・後見が必要された。
言うまでもなく名城熊本城を築いた猛将加藤清正は忠広の父である。
1614年大坂の陣の前に、幕府が付けた家臣と共に秀姫は熊本城に輿入れし、将軍の娘として盛大な結婚式を挙げる。
1615年江戸城に残る振姫に、大坂城の炎上が伝えられ、豊臣家の滅亡を知ったころ、今度は、家康が振姫自身にお似合いの婿殿を見つけたと上機嫌で言ってきた。婿殿は、紀伊和歌山37万石の藩主浅野長晟(ながあきら)だった。
秀吉の正室ねねの妹婿から始まる、豊臣家ゆかりの大名で、表面的にはとても友好だが、存続か改易か思案中の外様の有力大名であった。

ねねの甥になる長晟はこのとき30歳であったが生き残りにすさまじい執念を燃やしていた。すでに36歳になっていた振姫を迎え、盛大な結婚式を挙げ、主君の姫としての礼を忘れない。揚げ足を取られないよう、うやうやしく、たいせつに宝物のように新婚生活を送る。
二人の愛の深さに奇跡が起きて、振姫は高齢ながら身ごもり、嫡男(光晟みつあきら)が誕生するが、振姫は床上げすることなく、長晟の愛に感謝しつつ世を去った。
心底より驚喜した長晟は、振姫の身代わりとして誕生した嫡男の件を将軍秀忠の報告し、浅野家の後継として正式に幕府に届け出た。
この事態に家康亡き後の幕府権力の確立のために必死の将軍秀忠も長晟の藩主としての器量を認めざるを得ず、浅野家は安泰となった。

しかし政権の確立を急ぐ将軍秀忠の悩みは晴れない。妻お江から迫られている次男忠長の処遇もあり、その後も大名駒を注意深く動かしながら、三人の弟達(家康晩年の子達)の処遇を改めて決め、万全の幕府体制を作り上げようと腐心していた。

すなわち広島に封じられた豊臣恩顧の大名福島正則を難癖つけて改易し、入れ代わりに長晟を5万石加増し安芸広島藩42万石とし西国広島城に移した。
依然として忠長をどこに遇するか思案のしどころであったが、家康9男義直は尾張藩53万石藩主として名古屋城に封じ、家康10男頼宣は、駿府藩50万石藩主として駿府城を、家康11男頼房はは水戸藩25万石藩主として水戸城を与えた。

妻お江は忠長に尾張徳川家を与えるよう願うが、秀忠と幕閣は、安土城を築いた織田信長の父祖の地を家光と仲の悪い忠長に与えるのは危険と判断し織田嫡流の姫を忠長の正室とすることを条件に、家康の最も好んだ地、駿河国50万石を与えることに決める。忠長に追い出される頼宣は、必死の抵抗をし、5万石上乗せで55万石で紀伊国和歌山に入封する。
すると名古屋城にいる義直は、弟より少ない石高では兄の面子が保てないと言い、交渉上手の知恵者義直は62万石に加増される。
頼房も余りにも少なすぎると言い3万石ほど上乗せされる。
こうして大判振る舞いしながら一門の処遇を決定するが、徳川一門を上手く率いるためにはまだ石高が不足し、外様大名への風当たりは、強くなる一方で幕府による厳しいあら探しが終わる事はなかった。

会津若松城の四方山話
1.振姫の執念|2.徳川一門の処遇と幕府の下心|3.徳川の姫たち底力…寝所に通いつめる大名
4.「東慶寺の闘い」|5.名君とは…|<前に戻る 1.2.3.4.5. >次を読む 

会津若松城の四方山話
1.振姫の執念 2.徳川一門の処遇と幕府の下心 3.徳川の姫たち底力…寝所に通いつめる大名
4.「東慶寺の闘い」 5.名君とは…
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