米沢城

  • 築城年 慶長13年(1608年)
  • 幕末(慶応3年)の城主 上杉弾正大粥斉憲
  • 所在地 山形県米沢市
  • 石高 15万石

■CG復元米沢城

 往時の本丸・二の丸城郭全容。(現況は、土塁・水堀が現存するのみ。)
本丸を二の丸が方形状に囲み、三の丸が外回りに大きく取り巻く典型的な輪郭(りんかく)式の城。
城下と一体となった典型的平城。縄張りも簡略である。


■特徴

 敗れた上杉氏の居城として整備される。関が原の戦いの前の上杉氏の居城は会津若松城であり、120万石の大大名だった。その時米沢城は上杉家の支城だった。関ヶ原の戦いで西軍に属し減封左遷されて領地は30万石となってしまった。そして支城が本城となる。

なせばなる、なさねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。と和歌を読んだ、上杉藩第九代藩主鷹山公(ようざんこう)は、幕末期、疲弊した藩の財政を建て直した名君として有名である。
幕末、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中心に立って官軍に抗した。
降伏後は、城内のほとんどの建物は壊され、官軍に抗した制裁を受けることとなってしまう。県名・県庁もいち早く官軍側についた山形県となった。
米沢の地を大きく発展させたのは、伊達家。伊達家は、伊達・信夫地方に本拠地を置いていたが1548年に本拠を米沢城に移した。その後米沢城を核として領地を広げ米沢の地も繁栄する。伊達政宗(17代)もこの城で生まれ伊達家の全盛期を築くことになるが、1590年に政宗は豊臣秀吉から岩出山城(宮城県)への移封を命じられ、米沢を去る。その後、豊臣秀吉の奥羽仕置後、蒲生(がもう)氏・上杉氏の支城的役割の後、名門上杉氏の居城となって幕末まで存続する。

■見所

 今訪れても城という緊張感はない。上杉謙信が奉られている地という風情。徳川幕府により、上杉氏は120万石から30万石そして15万石と減封されて、耐え難い苦労をしたのもかかわらず、折あらば徳川に戦いを挑むという、長州のような心意気は感じられない穏やかな城。
赤穂浪士の討ち入りの相手、吉良家当主の実家でもある。仇討ちが世間でもてはやされる中、吉良家を守りながらも、藩の存続を第一とするこんな難しい役どころを、このやさしい藩ができるのだろうか。赤穂浪士に軍配があがり、上杉家の血を引く吉良家当主にはむごい仕打ちが待っていたのは当然かもしれないと感じる。
そして幕末、外様大名として冷たい仕打ちを受けてきて、江戸幕府に忠義立てすることはないのに幕府側についてしまう。結局、官軍と戦い、明治新政府には賊軍側の地として重用されることはない。
風光明媚なこの地、助け合いの和を尊び変革に対しては慎重な風土気質を感じる。
堀端を歩けば心休まるやさしい城だ。城としての威圧感・戦闘性を感じることは少ない。厳しい自然環境の中で生きているせいなのか耐えることに慣れている城におもわれる。

上杉謙信以来の深い信仰心にあふれた城だ。何でも受け入れてしまう優しさ忍耐強さを感じてしまう城である。桜の優しい桃色が似合う城だ。