米子城

築城年 天正19年(1591)
幕末(慶応3年)の城主 荒尾近江成富因州家家老
石高 1万5000石
所在地 鳥取県米子市久米町
吉川広家が築城に着手し中村一忠が完成させた17万5千石の城郭
湊山山頂に五重天守と四重櫓が並び立つ山陰一の名城


■CG復元米子城

 湊山山頂に五重天守と四重櫓を中心とする本丸を構え、二の丸・三の丸を整備して二重の堀をめぐらすなどして、壮大な平山城が1601年完成した。西北の内膳丸、東の飯山を控え、山すその二の丸を藩主居館とし、その下の三の丸には内堀にかこまれたて作事場、米倉、馬小屋などを建てた。本丸には典型的な望楼型天守で大きな入母屋破風がある大小二基の天守が並びそびえていた。大天守の高さは約20mの四重五階、小天守は高さ約15mの四重堂々たる城郭だった。

■特徴

 前面の展望と背景の港を格好の立地とした毛利一族の吉川広家が築城に着手したが、関ヶ原の戦いにより転封となる。同時に駿河国から伯耆(ほうき)国17万5千石で中村一忠が移封され築城を続け完城する。米子城が湊山を中心とする近世城郭としてほぼ完成したのは、慶長6年(1601年)で、松江城に先立つ事10年、近世当初の城郭としての特色を誇る名城だった。
並び立つ天守を持つ堂々たる城郭で山陰一の名城と言われた。

中村一忠は、8年後の慶長14年(1609)、20歳の若さ急死。中村家は断絶となる。父中村一氏は秀吉が北近江の小谷城主になった1573年ごろから仕え譜代の家臣のいない秀吉にとって直参衆として信頼厚く駿府城主として17万5千石の大名にまでなったのである。
関が原の戦いでは東軍に属したが直前死亡、嫡男一忠が後を引き継ぐ。そして駿府城主から米子城主へと変わり入城する。
西軍に属した恩賞はなく遠く離れた地に移された。
有力大名として2代将軍秀忠養女と結婚。しかし男子には恵まれず、徳川との縁籍関係は身を結ばなかった。
徳川家康よりの付家老横山大膳との対立等の内紛。
豊臣縁故の大名として折りあらば改易をねらわれていた中村家ゆえ当然の結果となる。

慶長15年(1610年)、加藤貞泰が美濃国から転入し、7年足らずで伊予国大洲に転封となり、元和3年(1617年)に因幡・伯耆の両国の領主となった池田光政の一族である池田由之が城預りとなりました。その後、寛永9年(1632年)、池田光政が備前の領主、池田光仲が因幡・伯耆両国の領主へ国替えとなり、池田光仲の家老の荒尾成利が城預りとなり幕末まで荒尾氏が11代にわたり米子城を管理した。
18万石の居城が、徳川時代は、支城としての存在となる。

■見所
 
歴代藩主米子荒尾氏が「梅雨晴れや朝日に匂う久米ヶ城」とうたった米子城本丸の威容は、藩主が居城していた鳥取城を凌ぐものがあった。
元和元年(1615年)に、江戸幕府が発した「一国一城令」において例外として存続が許された全国の支城の中で、米子城のような天守をそなえたものは稀有な存在だった。
その後、明治時代に入って、城郭の建物は姿を消し、内外の濠も埋められた。
本丸の石垣の上に立って朝夕の眺望を見れば、並び立つ天守の威容と美しさが浮かんでくる。