淀城
築城年 元和9年(1623)
幕末(慶応3年)の城主 稲葉美濃守正邦
石高 10万2000石
所在地 京都市伏見区淀本町
遺構(天守台・石垣・内堀が残されている)
天守は二条城から移築され四隅を二重櫓に囲まれる美しい景観を持つ
淀川を往来する船旅で見る城の景観は浮城として名所となっていた
■CG復元淀城
天守台の四隅に二重櫓を配する特異な美しい景観を持つ。本丸、二の丸、三の丸の他に多数の櫓が設けられて、二重三重の堀をめぐらしていた。天守は二条城から移築。淀川と木津川を外堀に取り込んで築かれた水城で、淀川を往来する船旅で見る城の景観は浮城として名所だった。(遺構 天守台・石垣・内堀が残されている)
■特徴
淀城は、1619年 秀吉の隠居城だった伏見城が徳川3代将軍家光の将軍宣下に伴い廃城となったため、伏見城に代わる京都護衛の役割を担うため築城された。
2代将軍秀忠は松平定綱に淀の古城を改めて新城を築かせた。淀の地は、桂川、宇治川、木津川の3川が合流する水陸の要所であったから。
淀城は、伏見城の建築物や二条城の旧天守などを移築し、1625年に完成した。
淀城の建設には伏見城の部材の一部が使用されたが、伏見城には、古淀城の部材も流用されており、豊臣政権時代末から江戸時代にかけて、京都の南では城を造っては壊し、壊しては造るを繰り返し部材も何度も繰り返し使われていたということだ。
秀忠・家光時代の淀城は、将軍が上洛した際の寝所として使われていた。
そして京・大坂の押さえとして徳川幕府の要職にある譜代大名が代々治めている。
1723年以降は、春日局の子孫である稲葉氏十万二千石の居城となった。稲葉家は西国に睨みを利かせる畿内随一の藩として幕府内で要職を占めた。しかしその所領は山城のほかに摂津・河内・近江・下総・越後などに分散していて、山城にあった所領は2万石にも満たなかったと言われている。このため、藩政においても財政基盤の脆弱さから財政は苦しかった。
幕末の12代藩主正邦は老中であり佐幕派とされる。そして佐幕急進派の藩主は、第一次・第二次長州征伐への淀藩士派兵を決定するが、穏健派の藩首脳部の反対によって断念するという事態になった。
老中を抱える藩として1868年1月鳥羽・伏見の戦いには淀城より出兵、激しい戦いを繰り返した後、数名の戦死者を記録するも、藩首脳部は京都朝廷との密約成立により朝廷に恭順。
旧幕府軍が淀城を頼って退却した際、淀城の門は閉ざされていた。以後幕府軍は敗走を重ねることとなる。
あの徳川大事の春日の局の嫡流稲葉家は幕末薩長軍についたのだった。
■見所
淀の古城は 秀吉側室淀君の居城として有名な城だが、今の淀城とは少し離れている。
城址公園として憩いの場とはなっているが、都市化が進み美しい水城を連想するのは難しい現況だ。