津山城
築城完成年 元和2年(1616)
幕末(慶応3年)の城主 松平三河守慶倫
石高 10万石
所在地 岡山県津山市山下
五重の天守が威容を誇り、数多くの櫓・門・殿舎がひしめき合いつつ巧みに配された名城。
巧妙に積み上げた見事な三層の石垣は現在も完全に残っている。
■CG復元津山城
巧妙に積み上げた石垣の線と戦略的な構造は平山城の典型とされる堅固な名城。天守丸には最新鋭の五重の天守が威容を誇り、数多くの櫓・門・殿舎がひしめき合いつつ巧みに配された城。津山城全容復元
(遺構 天守・櫓・門・石垣・内堀等々数多く日本最大の遺構)
■特徴
「本能寺の変」で討死した森欄丸の弟、歴戦の勇者森忠政が、美作18万6千5百石の居城として、13年を費やして築き、現在も三層の石積が完全に残っている名城。
美作は関ヶ原後、備前、美作二ヶ国を与えられていた、小早川秀秋の領地だったが、秀秋が無嗣改易されると、関が原の戦いでの戦功により信濃松代(川中島)13万7千石を与えられていた、森忠政が18万6千石で津山に入った。
森家は信長・秀吉に仕えた武勇の家柄である。忠政には実子の男子がいずれも早世していたので、重臣の関成次の長男を養子に定めていた。関成次は忠政の姉の子で妻は忠政の娘であった。二代森長継である。関家は森家の一門格となって、のちに備中新見藩の関家の創設に繋がる。長武、長成、と継ぐが、いずれも早く亡くなり、長成が急逝すると、関衆利(あつとし)を末期養子として願い出て、認められたが発狂したため、ついに森家は1697年断絶となる。
外様大名森家はいつも改易の危機にあったのに徳川の時代にはふさわしくないあまりに堅固な城を築いている。
徳川家との縁籍関係は結局実を結ばなかった。
慎重に領国経営を行い名君であることを示さなければならなかったのにできなかった。等々で結局改易されてしまう。
しかし四代前の藩主であった隠居森長継が87歳で存命であった。そのため、森家の名跡を継ぐことを許されて、備中西江原に2万石で再出仕を命じられ、23男の森長直はその後、播磨赤穂2万石の大名となる。
■見所
石垣を見ると、太平の世に渾身の力を込めて築城した森忠政の思いが伝わってくる。この地に、土木・建築の新しい技術を広めた総力戦の築城であったろう。この地の統治者としての誇りと決意が伝わってくる。。
森家のあとには、将軍家の兄筋の結城秀康家の嫡流である松平家の宗家が入城する。
越後高田藩の松平(越前)光長が越後騒動で、改易となるが、養子の松平(越前) 宣富が名家の故をもって、再興を許され、石高は10万石ながら、美作津山を与えられる。2代将軍秀忠の娘勝姫が光長の母ゆえに可能なことだった。
宣富の子浅五郎が11歳で没したため、またもや無嗣改易の危機。名家の故を以って、宣富の甥の長熙に半知5万石ながら、相続が認められる。 津山松平(越前)家は、将軍家の兄筋の結城秀康家の嫡流宗家でありながら、わずか5万石の小藩となってしまう。
元の10万石への復帰を願った松平(越前)斉孝は、庶子ではあるが実子松平慶倫があったが、子沢山で困っていた将軍家斉の16男を養子に迎え世子斉民とし、その手土産として10万石への復活を実現する。
18万石の居城津山城という大城郭を維持するために後々の各藩主が苦しんだ結果だ。
今は桜の名所美しい城跡として整備されて憩いの地となっている。