豊臣大坂城

築城年 天正13年(1585)
所在地 大阪市東区大阪城
豊臣の天下が永遠に続くことを願って築かれた天下人秀吉の城
高石垣・広い堀・壮大な天守・櫓を備え当時は圧倒的に日本一の名城だった。

■CG復元豊臣大坂城

 天下を制した豊臣秀吉の居城。
石垣の壮大さ、堀の幅、天守や御殿の豪華さは当時空前のものだった。縄張りも複雑で内堀以内でも数多くの腰郭(こしくるわ)があり形状も不整形だった。郭どうしの連絡も複雑で堅固な城郭だった。総構えに築かれた秀吉大坂城の全容復元

■特徴

 豊臣の天下が永遠に続くことを願って築かれた天下人の城大坂城。信長の後継者であることを天下に誇示するために築いた大坂城は、信長の安土城に勝るものだった。
しかし 天下人秀吉の死後、1615年跡を追うかのように炎上の運命をたどる。
敗者のその後はむごいものがあり、秀吉の息のかかった事業はすべて終わってしまう。当然豊臣大坂城は跡形もなく埋め尽くされる。
でも影響を受けた武将は、数多く、秀吉時代の建築手法を引き継いだ築城が全国数多く見られる。豊臣大坂城は、地下に埋もれても、新しい時代を造ろうとした意思は、全国に広がり、技術文化が、受け継がれて発展していった。
大坂城は、その後は徳川幕府により再築された。
1600年関ヶ原の合戦以降1615年の1国1城令が交付されるまでの15年間は築城ラッシュの時代であり、大築城時代といわれている。遠くヨ−ロッパまでも伝えられた史上空前の「超高層建築ブ−ム」であった。
大坂城包囲網造りゆえの築城ラッシュといわれるが、この時代の規範になった城こそが豊臣大坂城である。

■見所

 秀吉は聚楽第や伏見で政務を執り、大坂城以外で多くの時間を過ごしていた。
大坂城には、豊臣秀吉の妻ねねが女主として、政務をこなしながらほとんどの時間を過ごしている。
北の政所ねねの生活の中心奥御殿にはねね用の囲炉裏があり、御台所としての生活がうかがわれる。
秀吉亡き後は、淀殿が女主として入城し君臨する。そして大坂城を舞台に、家康と競い合う。
大坂城下は秀頼の時代が最も繁栄し20万人の人々が集う日本一の都市だった。
秀吉との約束を守り、家康の孫であり、秀忠の第1子千姫が入城する。1603年7才で11才の豊臣秀頼と結婚。大坂城の人となる。
家康の悲願である、折あらば豊臣家を滅ぼすという、大役を果たすために。もちろん自分の役どころをよく理解している優秀な千姫。
無事成し遂げて、大坂城落城に先立ち、城を脱出する。
大坂城のもっとも栄華を極めた時をねねが築き、秀吉没後は大坂城を最も有効に生かして大城下町として発展させた淀殿に引き継ぎ、淀殿・秀頼は大坂城炎上自害までの16年間を過ごす。
千姫は大坂城入り後12年を過ごし、滅び行く大坂城を見続けそして見届けながら大坂城を去る。
大坂城は、城外で活動することは少なかったであろう女たちの城だ。
自由に城から出入りできない女主にとって情報量は限られるかもしれないが、それぞれの生き方を個性的に貫いた。