鳥取城
築城年 天文14年(1545)
幕末(慶応3年)の城主 池田因幡守慶徳
石高 32万5000石
所在地 鳥取市東町
秀吉による兵糧攻めにより草木まで食べつくし藩主吉川経家は、城兵一同の助命と引き換えに、切腹する鳥取城攻めは有名
末広がりに広がる城跡は、美しい石垣で築かれ山上まで、登るのも楽しい
■CG復元鳥取城
山頂を中心とした山上の丸は、久松山を大きく切り開きその廻りを高い石垣で囲っている。
山上の本丸に二重天守や月見櫓を建て、山下の本丸には、天守櫓・古井戸・多聞櫓・月見櫓等を設けて天球丸・二の丸・三の丸を階段状に築く。1692年山上の本丸天守が焼失。以後山下の二の丸御三階櫓が鳥取城の象徴となる。享保5年(1720)石黒火事で城内ほとんどの建物が消失して再建された。山上の天守がある鳥取城全容。(遺構 天守・櫓・門・石垣・内堀等々数多く日本最大の遺構)
■特徴
鳥取城飢え殺し という織田信長陣営対毛利輝元陣営の戦いが鳥取城であった。1581年(天正九年)攻める羽柴秀吉は、兵糧攻め作戦を取り毛利陣営を追い詰める。籠城(ろうじょう)する兵士1000人家族農民3000人という人たちが食料を断たれて3ヶ月草木まで食べつくす無残な修羅場と城内はなった。もはや限界と、毛利家から送られた藩主吉川経家は、城兵一同の助命と引き換えに、切腹する。
今日の鳥取城は、関ヶ原の戦いの軍功で鳥取城主となった池田長吉によって拡張整備された。中世城郭を、近世城郭として改修し6万石の居城として、整備した。その鳥取城に、突然本家がやってくる。播磨姫路にあった池田宗家、池田輝政の嫡孫池田光政が因幡伯耆二ヶ国32万5千石で入国する。そして鳥取城はまた拡張して、石高に見合った城郭とするべく整備された。
戦国時代の山城が拡張を続け発展して近世城郭として今に残る貴重な城。
そののち岡山から池田光仲が鳥取藩主となり入国する。代わって池田光政が岡山藩主となり鳥取城を去る。池田輝政嫡流は姫路→鳥取→岡山と移った利隆→光政の流れであり、岡山→鳥取と移ってきた忠継→忠雄→光仲は分家筋なのだが、鳥取の光仲の池田家は、池田輝政と再婚した家康の娘督姫との間の子から始まっており三葉葵の紋の使用を許されているし、若干石高も高い。実質は嫡男として待遇されたことになる。忠継・忠雄の二人男子が生まれたが、岡山藩主となった兄忠継が早くして亡くなり、弟忠雄がその跡を継ぐも若くして亡くなりその子光仲が継ぐことになり、幼少ということで、鳥取藩主となる。督姫の子供たちには次々と不運が起きる。しかし分家ながら本家以上の石高で、以後鳥取藩主として明治まで続く。家康の娘督姫の力の影響が大きい。家康に、愛されていた娘であったのだろう。一時は池田輝政とその子たちの領国を合わせて、西国将軍とまでいわれるほどの勢力であった。
■見所
拡張拡張で統一性のないお城になったみたいだけど、日本海に近い山陰の城として圧倒的な存在感がある。末広がりに広がる城跡は、石垣も美しく山上まで、登るのも楽しい。悲惨な戦国時代の戦闘風景。古い城廓を生かしつつ新しい時代にも対応していく城廓の様子を感じることができる