徳川大坂城
築城年 寛永6年(1629)
所在地 大阪市東区大阪城
幕末(慶応3年)の城主 大坂城代
石高 幕府直轄
徳川政権の絶対性を誇示する高石垣・巨大石で築かれた難攻不落の巨城
将軍が訪れることのほとんどなかった城代が管理する城。
■CG復元徳川大坂城
堀の深さ・石垣の高さは秀吉大坂城の2倍とし、3段構成だった本丸石垣を高石垣一段で築いた。石材には美しい形のそろった花崗岩の大石を使用し、本丸正面の石材は巨大である。外堀・内堀の石垣は幾重にも折れ厳重な防備がなされた。
本丸には、要所に天守をはじめ三重櫓11・二重櫓2を配し、三重櫓は高さ18mを越え高知城天守と同規模で天守級の櫓が林立することになった。又櫓群は多門櫓で結ばれるという厳重さであった。
出入り口も厳重な枡形虎口で内側一の門に櫓門外側二の門には高麗門(こうらいもん)が配され多門櫓で繋ぐという厳重さであった。
完成した城は、豊臣天守より約20mも高い白亜の天守・城内には三重櫓12・二重櫓15を擁し、巨大な石垣や広大な堀を持つ難攻不落の天下の名城が築き上げられた。徳川大坂城全容復元
(遺構 多門櫓・千貫櫓・乾櫓・一番櫓・六番櫓・硝煙蔵・金蔵・金明水井戸屋形・桜門・石垣・内堀)
■特徴
大坂城築城は、豊臣氏滅亡後、2代将軍秀忠により、1620年から始まり元和6-9年・寛永1-3年・寛永5-6年の3期にわたって築城工事が進められた。
西国・北陸の諸大名による天下普請である。家康の新任厚かった名築城家藤堂高虎が総奉行として監督する。
高度に発達した石垣築造技術により史上最大の石垣の高さ15間を誇り石垣の巨大さも史上類がなく強烈な威厳を示す。
徳川政権の絶対性を誇示する巨城として再現された。豊臣時代の遺構はすべて地中に埋もれてしまった。
その後は有力譜代大名が城代として管理した。
幕末に、十四代将軍家茂(いえもち)十五代将軍慶喜(よしのぶ)と最後の将軍達が 在城し、維新の舞台のひとつとなるが、三代将軍家光が数日滞在しただけで将軍が訪れることもなく幕末を迎えてしまう。
城の規模の割には、徳川時代を通じて さびしい存在の城。
■見所
日本一の町として、栄華を極めた後の築城。
徳川秀忠は、大坂を幕府を脅かす存在にさせないために天下普請として多くの人を動員し、天下を治める徳川家による徳川の城を築く。以後に続く各藩の財政難の始まりのような無駄な公共事業のようにも感じるが。
豊臣色を一掃しようと思っても、大坂人にとっては、いつも太閣さんは輝いてるのに。大坂城は天下人豊臣秀吉の城。これが一番似合っている。
今は、昭和6年に復興された鉄筋コンクリ−トの天守が、そびえている。大坂城天守として一番長寿で一番身近な天守である。よく言えば豊臣プラス徳川の天守でええとことりの昭和の天守だ。わるくいえば簡単に適当に創られた模擬天守だ。
でもいまや立派に憩いの場としての城址公園にあるシンボル。豊臣秀吉も徳川秀忠も納得しているかのように美しく輝いている。