丹波亀山城
築城年 天正7年(1579)
幕末(慶応3年)の城主 松平図書頭信正
石高 5万石
所在地 京都府亀岡市荒塚南
明智光秀は、1万3千の兵を率いて亀山城を出陣、信長を討つ。
本能寺の変出陣の城
■CG復元丹波亀山城
亀山城天守は一重目は九間半四方で、その上重を規則的に逓減させた細身で軽快な形態を持ち、各重を総塗籠にした白亜の塔。五重五階、日本初の層塔式天守で、飾り破風をまったく持たない最新鋭の形式で、最上階に高欄を巡らせ、最上重の屋根に唐破風を飾っている。本丸、西ノ丸、二ノ丸、三ノ丸や、内堀、外堀、惣堀の三重堀を有し、城下町と一体化した城となる。亀山城全容復元
(遺構 内堀の一部)
■特徴
織田信長の命を受けたが丹波を平定し、中世的な気分を残した、近世城郭への過渡期的な形式の城郭丹波亀山城を築城。
光秀にとって人質として差し出した母親を失うなど、苦心の末の丹波攻略だった。
亀山城は1577年から1579年にかけて築城した。丹波攻略の拠点として織田信長天下平定のために大きく貢献した亀山城であった。丹波平定後明智光秀は本拠地として領民の人心掌握に努めた。軍事的要塞の城よりは、治世を重んじる平城の築城となる。
1582年6月1日夜、中国の毛利氏攻めを命じられた明智光秀は、1万3千の兵を率いて亀山城を出陣、しかし秀吉の待つ中国には行かず、翌朝本能寺を包囲して信長を討つ。本能寺の変出陣の城。
明智光秀亡き後、豊臣秀吉の支配を経て、関が原の戦いに勝利した徳川家康配下の譜代大名の城となる。大坂城の豊臣包囲網のための城として徳川家康が号令した「天下普請」によって、大改修をし、近世城郭として完成する。
当代一の築城の名手藤堂高虎が1610年、日本初の層塔型天守を築いた城でもある。
その後は、譜代大名が頻繁に交替し、1748年松平家が入城し幕末を迎える。
明治維新後は、廃城となり建物は解体されてしまった。
■見所
この城を拠点として明智光秀の丹波攻略が成果を挙げていたからこそ、信長は、播磨から毛利攻略へそして天下平定への道を着実に進むことができた。信長の天下平定総仕上げのとき光秀が軍事的にも政治的にも実績を上げ、自信を持った城だ。そして信長を討った。この城で、光秀は戦時下でも名君足りえることを示した。この城で光秀は武将のあるべき姿を描き、正しいと信じて行動に移した。そして信長を討った。今この地を巡ってもこの思いを感じることは難しいが。
その後、大阪城包囲網のひとつの徳川の城として生まれかわり、現況から推定できる亀山城は、天下普請で築かれた、徳川家の築城。今は宗教関係者によって維持されているお城。今は亡き名城というにふさわしい。