高松城
築城年 天正16年(1588)
幕末(慶応3年)の城主 松平内膳正勝吉
石高 12万石
所在地 香川県高松市玉藻町
水戸光圀の兄である松平頼重が藩主として入城
四国最大の唐造天守がそびえ海水が内堀まで入り込んだ唯一の海城
■CG復元高松城
生駒氏が海に面し、本丸を中心に北に二の丸・東に三の丸・西南側には桜の馬場西の丸を築く。そして頼重入城後東の丸・北の丸を築き現在の形にする。天守を四階から五階に改造し、四国最大の三重の南蛮造の白亜の天守が建造された。高松城全容復元。
(遺構 月見櫓・水手御門・渡櫓・旭門・埋門・石垣・堀)
■特徴
1587年生駒親正(いこまちかまさ)が讃岐17万6千石の居城として築城。高松城と名付ける。秀吉配下の武将であり、数々の戦功を上げた勇将。瀬戸内海の要所を押さえる水軍の将としてふさわしい城を築く。今なお内堀にまで海水が入り込んでいる唯一の海城を築城した。関が原の戦いでは東軍につき、本領安堵される。しかし1640年生駒騒動により、出羽矢島1万石に転封される。
そして水戸光圀の兄である松平頼重が寛永19年(1642年)讃岐高松12万石の藩主として入城する。後,兄を押しのけて水戸家を継いだ光圀は、自分の後継ぎに兄の子を迎え、自分の子を高松に送った。幕府の許可を得て城の修築を行い、現在の高松城を築く。
水戸家の支系は、讃岐国高松藩の高松松平家、陸奥国守山藩の守山松平家、常陸国府中藩の府中松平家、常陸国宍戸藩の宍戸松平家の4家を数える。水戸徳川家の歴代当主は長命・子沢山が多く、江戸時代の後半には他家に養子に出した例が多い。そのため多くの大名家と縁続きとなっていた。尾張藩の徳川慶勝、会津藩の松平容保は水戸家から高須藩に養子に入った松平義和の系統である。高松藩主も養子が多い。
幕末 高松藩は彦根藩と会津藩松平家とともに江戸城溜間詰(たまりのまづめ)だった。そのため井伊直弼は高松藩主頼胤(よりたね)や会津藩主松平容敬(よりたか)を厚く信頼し、交流があった。そうした中で高松藩嫡男頼聰(よりとし)と井伊直弼の娘弥千代の婚礼話がまとまった。そこで頼聰は彦根を訪れて弥千代と顔合わせするのです。お見合いし双方納得の上の輿入れです。江戸の彦根藩上屋敷から高松藩の屋敷へと、大勢の供揃(ともぞろ)いと婚礼道具を従えては輿(こし)入れしました。しかし桜田門外で井伊直弼水戸の浪士に襲われ死亡する。高松藩主頼胤は水戸斉昭の弟だった。そのため弥千代姫は実家に帰ります。そして9年後明治の代になって再度輿入れするという時代の波にさらされても、耐えて愛を貫く素敵な二人だ。
■見所
水軍の将が築いた高松城。海上から眺めた様は圧巻である。