駿府城

築城年 15世紀初め
幕末(慶応3年)の城主 城代本多紀伊守正訥(まさとつ)
所在地 静岡県静岡市
石高 幕府直轄
徳川家康大御所時代11年間の居城。家康が最も好んだ地
大御所時代、駿府は江戸を凌ぐ政治・経済・文化の中心だった



■CG復元駿府城

 天守台は、石垣天端で約55m×48mという城郭史上最大の天守台であった。五重七層の勇壮華麗な天守が存在した。三重の堀を持つ輪郭式の典型的な城。本丸を中心に二の丸・三の丸となる。城郭全容を復元(遺構 堀・石垣)

■特徴
 徳川家康大御所時代11年間の居城。家康が最も好んだ地でもある。
今川家の人質として19歳までの12年間を駿府で過ごした。その後信長と力を合わせ武田氏を滅ぼして信長より駿河の国をえる。そして信長の死後、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五ヶ国を支配する東海一の大名となり1585年8月に家康が居城としての城造りを始める。
翌1586年には駿府城に移った。一応竣工したのは2年後。しかし豊臣秀吉の指示により3年後には関東へ移封せざるを得なくなる。

秀吉没後徳川幕府を開き、豊臣家包囲網を築く中、将軍職を秀忠に譲った家康は隠居城として念願の大城郭駿府城の築城をはじめる。そして1607年には家康は天下普請により修築した駿府城に戻った。江戸に向かう東海道からの駿府城眺めは、天守と富士山が並列し美しく大御所の権威を示す城であった。三重の堀を持ち、五層七階の天守がそびえる大城郭であった。大御所時代、駿府は江戸を凌ぐ政治・経済・文化の中心としてその黄金時代を迎えた。江戸の将軍に対して大御所として実権を掌握し続けて二元政治をとりつつ、豊臣氏の処置に精魂を注ぎ、1614年には方広寺鐘銘事件をきっかけに開戦し、1614年の大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣で大坂城を攻め豊臣氏を滅ぼし、徳川政権による日本全域の支配を実現した。
1616年駿府城にて75歳の生涯を閉じる。


■見所
 徳川家康は駿府城を天下の政治の中心として位置づけていた。
気候のよい住みやすいこの地で、存分に大御所政治を行うために軍事機能を最小限にしたまったくの平城を築く。
駿府城が天下の中心である時代が、続くようにとの思いがあったろうが、家康の死とともに、城にも影が。
1624年3代将軍家光の弟忠長が駿府城入りする。しかし1631年忠長は、3代将軍家光により乱心したとして改易されてしまう。その後城は幕府直轄となり城の管理は城代にゆだねられる。
明治になって、徳川本家が駿府入りし、面目をたもつが、そのときは江戸幕府は、崩壊してしまっている。駿府城に込められた家康の熱き思いは、その死とともにさびしく終わったよう。でもいま、家康在城時の城がよみがえりつつある。整備が進み、往時の偉容が復元されつつある。
穏やかなこの地で富士を眺めると、この地こそ日本の中心だと家康が感じたのもうなづける。