新発田城

築城年 承応3年(1654)
幕末(慶応3年)の城主 溝口誠之進直正
所在地 新潟県新発田市大手町
石高 10万石
浮舟城と呼ばれる越後の名城。
赤穂浪士一の剣の使い手、堀部安兵衛の生誕の地
彼は藩主溝口氏の曾孫なのだ


■CG復元新発田城

 新発田川の自然堤防を生かして外堀に利用。本丸を中央に二の丸が取り囲み、三の丸が突き出るという南北に長いひょうたん形。二の丸・三の丸は複雑な塁線を描いている。天守代用三階櫓が本丸北西隅にあり天守に相当する櫓。各階外壁の海鼠壁・最上階の屋根の形態や3個ある鯱が特徴的だ。新発田城全容復元。
(遺構 本丸表門・旧二の丸隅櫓・石垣・堀)

■特徴

 浮舟城と呼ばれる越後の名城。櫓や城門にも瓦を張った海鼠壁は、雪国らしく厳しい自然との共存が美しい。室町時代に佐々木氏の支流、加治氏一族の新発田太郎左右衛門が築き、1587年18代目の家重が上杉景勝に滅ぼされるまで、代々新発田氏の本拠であった。秀吉は天下統一したのち、上杉家を会津に転封の後溝口氏を6万石で入城させた。溝口氏は、新発田氏の古城跡に新たな縄張りを設け近世城郭を築き上げる。
溝口氏は、関が原の戦いでは東軍につき本領安堵となる。江戸時代、秀吉ゆかりの外様大名であり、改易の危険にさらされながらも、溝口氏は一度も転封されることなく善政を貫いた藩主として明治維新を迎える。溝口氏は当時、低湿地帯が広がっていた阿賀野川流域などの干拓にも努め、治水事業と新田開発 農民救済、流通整備に勤め 幕末時には約20万石相当の藩の財力があったとも言われる。今日の新潟県の基礎をつくった。

また新発田藩は赤穂四十七士の「堀部安兵衛」の生地である。父・中山弥次右衛門が新発田城辰巳櫓の失火の責任を負って浪人となったことで、中山安兵衛は、十八歳で江戸に出る。そして浅野内匠頭長矩の家臣、堀部弥兵衛の婿養子となり、四十七士一の剣豪として吉良家討ち入りで重要な役目を果たす。堀部安兵衛の母は、新発田藩初代藩主溝口秀勝の孫という名門の生まれだったのです。

■見所

 中世城郭であった新発田氏の古城跡に、近世城郭を築いた溝口氏。
この地の古くからの支配者の名前をそのまま引き継いだ溝口氏。
この地を大切にする意思と、以前の統治者を尊重することを通じて円滑に溝口氏の統治時代に変えていく自信と、真面目さが築城にも治世にも表れている。
自己主張意識の強い戦国の世に、真面目で控えめな領地経営をめざす溝口氏に新鮮な心地よさを感じる。
この誠実さが、赤穂浪士一の剣の使い手、堀部安兵衛の生き方にも共通しているような気がする。
西国や、徳川につながる大名にありがちな落下傘統治にはない、その地に根ざした その地の人々とともに治めていく心の通った藩政であったのだろう。
城と城下町はこの地の人々に取り大切な誇りであり財産だったのだろう。復元を求める声は強く、木造で当時のよう天守代用三階櫓が復元された。威圧されるというより親しみの持てる美しい櫓。憩いの場として今が一番人々の集う城となっているのかもしれない。
現代に生きる城でもある。大手門を入ってすぐに塀それでおしまいは少し寂しいが。