佐倉城

築城年 元和3年(1617)
幕末(慶応3年)の城主 堀田相模守正倫
所在地 千葉県佐倉市城内町
石高 11万石
江戸城の東を守る堅固で戦闘的な城
幕府の中枢の職を担う譜代大名の城

    ■CG復元佐倉城

     本丸南西隅の三重の天守は城郭の中核をなし象徴的に威容と尊厳を示している。規模は、三重櫓としては大きい部類に入るが、屋根に飾り破風が見られず質実な外観であった。天然の要害を十分に計算し縄張が極めて理論的に構成された、石垣を持たない近世城郭の典型的な城。空堀と土塁で堅固に築き上げた。本丸内の銅櫓は江戸城吹上庭の三層楼を移築したといわれる。佐倉城全容を復元
    (天守台・土塁・水掘等が現存)

    ■特徴

     慶長15年(1610)家康に江戸城東方の押さえとして任じられて、佐倉に移った幕府の重臣土井利勝によって城下の町と共に新たな城が作られた。下総の中心地にあって江戸城近郊の防衛拠点として強固に整備された。

    江戸時代前半は、老中・大老となる幕格の中心人物が入封し、転出、失脚するなどで移動していった。家康五男武田(徳川)家→家康六男松平家→小笠原家→土井家→石川家→松平(形原)家→堀田家→松平家→大久保家→戸田家→稲葉家→松平(大給)家→堀田家とめまぐるしい。
    1746年出羽山形から、老中となった堀田正亮が10万石で入封。老中首座をつとめ、1万石加増11万石となる。以後堀田家の支配で定着。山形からの移封に伴い、第二次堀田家佐倉藩の領地は、下総の印旛、千葉、埴生、海上、匝瑳、香取各郡、上総の山辺、武射、長柄、夷隅、望陀、市原各郡、さらに出羽村山郡にわたり、城付きの両総地域で7万石、山形分領が4万石あったといい、山形分領にも相当数の家臣を常駐させていた。譜代大名は、外様藩の監視役でもあり、城地の調整機能も持たされてこのような歪(いびつ)な領地となり幕府の力が弱まってくると税の徴収も困難になる。

    堀田家は、春日の局の義娘が、堀田家に嫁ぎ生まれた子を、春日の局が養子とした縁で、春日の局の後ろ盾で大きく飛躍し、代々幕府の要職を占めることとなった。そして佐倉藩の藩主となる。幕末の老中、堀田正睦は蘭学を奨励し、ペリー来航以降、外国事務取扱の老中となり、ハリスとの日米通商条約締結などで、奔走するが、井伊直弼の大老就任で、罷免、蟄居。
    譜代の小大名が数多くいるこの地域で佐倉藩は大藩だったが、県名・県庁所在地にはならなかった。

    ■見所

     江戸城の東を守る城。
    江戸にも近く、将軍様を守る城として恥ずかしくないりっぱな城。
    幕府一の実力者土井利勝が、幕府の偉大さを示すべく力を注いだ江戸東の城。
    城下町もあわせて造られ、東からの江戸への入り口として栄える。
    徳川の譜代大名の城として、誇らしい城。
    大政奉還(たいせいほうかん)後、佐倉藩は、勤王(きんのう)となり官軍側となった。しかし幕府譜代の城ゆえか佐倉城は新時代にはさびしい状況となった。