大洲城

築城年 元弘元年(1331)
幕末の城主(慶応3年)の城主 加藤遠江守泰秋
石高 6万石
所在地 愛媛県大洲市大洲
自然と城郭が一体化され癒され心和む絵になる名城
天守が復元され台所櫓・高欄櫓の連なった景観は時を忘れる

■CG復元大洲城

4層4階の天守を中心とした本格的な城郭.本丸上段に残る台所櫓は籠城時にまかないの場となる重要な櫓であり、台所櫓が現存する唯一の城である。その他十九棟(十八棟ともいう)の二重櫓、多くの多聞櫓、櫓門が建っていた小藩としては天守、櫓、城門、内堀、外堀など城郭建築としてよく整って質量ともすばらしい城郭。
肘川を天然の堀として用い、川へ迫りだす小丘に築いた景観豊かな名城である。大洲城全容復元( 遺構 高欄櫓・台所櫓などが現存)特徴 鎌倉時代末期、伊予国守護宇都宮豊房が築城。戦国時代を経て、小早川隆景が伊予平定の後、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治が相次いで城主となる。1595年に藤堂高虎の領地となり、城地としての縄張りが進められ、1609年頃、脇坂氏の時に近世城郭としての形を整えた推定される。

■特徴

1617年7月、米子城より加藤貞泰(さだやす)が入城し、加藤大洲藩が誕生した。加藤氏は、鎌倉時代からの名族で、源頼朝が伊豆で挙兵したとき従った剛将として知られる。その後失脚して、美濃の斉藤龍興に仕えたが斉藤家が信長に滅ぼされたその後貞泰の父光泰の時、豊臣秀吉に仕えることとなり、光泰は戦いを重ね功を挙げる。1591年には甲斐の甲府二十四万石の領主にまで出世した。しかし朝鮮出征の際現地で兵糧不足などを訴え諸将と不和となり病死してしまう。

石田三成の讒言報告により、甲府24万石さえも没収されてしまう。跡を継いだ加藤貞泰は、美濃国黒野4万石の領地になってしまう。朝鮮出兵は秀吉にとっては配下の武将たちの長年の労苦に報いるための領土拡張政策だったのだろうが、慣れない異国の地で先の見えない過酷な戦闘は仲間内の疑心暗鬼を不平不満を呼び結果的に豊臣政権の内部崩壊につながってしまう典型的な例だ。

しかし関が原の戦いでは東軍に属し、功を挙げ米子6万石領主となって、大坂冬の陣夏の陣にも活躍し、伊予国大洲城主となる。治世手腕にも優れた名君であり、外様大名とはいえ以後安定して明治維新を迎えるまで13代約250年にわたり加藤氏が6万石の城主としてこの地を治めた。
明治維新に際しては、坂本龍馬の海援隊が運航したいろは丸の所有者として記録されている。また五稜郭を設計した武田斐三郎の出身藩でもある。
城は明治維新での取壊しを免れ、有志による払い下げを受けたが、維持費に窮して次第に城郭が取りのけられ、明治21年(1888)には、4層の層塔型天守も解体されてしまう。

■見所

 近くにある富士山に登ってお城を見ると、きれいに見下ろせる。お城は見上げるもので、眼下に見渡せるお城は、戦闘的というより心優しい身近な、お城という雰囲気がある。戦時には、不利だと思うが。その分、領民にとって威圧的でなくなる。自然と城郭が一体化され癒され心和む絵になる名城。このようなお城は珍しい。目線で感じることのできるお城との一体感が、現在の復元につながったのだろう。天守が復元され往時の姿がよみがえっている。