大垣城
築城年 慶長元年(1596)
幕末(慶応3年)の城主 戸田采女正氏友
所在地 岐阜県大垣市郭町
石高10万石
大垣の地は美濃と近江を結ぶ最重要拠点
天下分け目の関が原の戦いでの、西軍の拠点となった
■CG復元大垣城
城は美濃平野北西部の沼沢と河川を利用した平城で、ほぼ整形の本丸、二の丸三の丸と南に連なっていた。本丸の天守は例の少ない、四重四階天守であった。天守の他に多くの櫓・城門があった。本丸は4重の堀で囲まれ防備は厳重であった。本丸への通路は二の丸から続く橋が唯一で厳重な縄張りだった。
大垣城全容復元(遺構 堀・石垣)
■特徴
大垣の地は美濃と近江を結ぶ最重要拠点として、織田信長の時代から重要視されていた。
1582年織田信長の死後、池田恒興が大垣に入り、小牧長久手の戦いで恒興が戦死するとその子輝政が入った。
その後、三好氏・木下氏・加藤氏・一柳氏・羽柴氏・伊藤氏と城主が代わり、1595年伊藤祐盛のとき天守を築いた。
祐盛の子、盛宗の時関ケ原の戦いが起こり石田三成の女婿、福原長堯以下七千名が籠城したが、東軍の水野勝成に攻められ落城した。
関ヶ原の戦いでは、西軍の拠点となり、西軍は敗北し、西軍に属した伊藤家は改易となる。
関ヶ原以後、大垣城主は、目まぐるしく替わる。
石川・松平忠良(久松・松平康元の長男)が5万石で入城と替わり、1620年には岡部長盛が丹波福知山から入る。1630年には岡部宣勝が播磨龍野へ、その後に山城淀から松平定綱が入るが、まもなく伊勢桑名へと移る。家康腹心の譜代大名が次々に入れ替わる。大垣城が幕府にとって重要な城だったから。
1634年戸田氏鉄(とだ うじかね)が十万石で入封し、家康腹心の譜代の城として以後十一代続き明治にいたった。戸田氏鉄は、大坂城修築や島原の乱の際に活躍、治世では新田開発や治水事業などを行い名君として知られる。家康の信頼も厚く戸田氏鉄正室は、家康異父妹の娘で家康養女として戸田氏鉄のもとに嫁いでいる。
■見所
1936年天守閣と艮櫓が国宝に指定されたが、1945年戦火により消失した。戦後に再建された。また、天守の北西には隅櫓と多聞櫓が建てられている。
広大な城であったが、現在は都市化が進み堀も、本丸廊下橋付近にわずかにあるのみ。唐突に天守が見えるという風情で現地では城の全体像を想像するのは難しい。天下分け目の関が原の戦いでの、西軍の拠点として、重要な位置を占めた大垣城。
広大堅固な大垣城として、心に留めて見ておきたい。