岡山城
築城年 天正元年(1573)
幕末(慶応3年)の城主 池田備前守茂政
石高 31万5200石
所在地 岡山県岡山市丸の内
豊臣政権大老宇喜田直家が大城郭に築き上げた名城
旭川の川面に映る黒漆喰のそそり立つ天守は荘厳・華麗
■CG復元岡山城
三重六階の堂々たる天守閣は織田信長の安土城天主を模して築かれたと伝えられ、全国的にも珍しい不等辺五角形の天守台をしている。関ヶ原合戦以前の古式を伝える天守。
現在広い範囲に残っている石垣の殆どは、昔のままの状態で保存されていることで、全国的にもあまり例がない。
天守台の石垣は、丸い形の自然石を用いた野面積である。近代的な城づくりが始められた頃(安土桃山時代の初め)のもので、貴重な文化遺産である。岡山城全容復元(遺構 本丸月見櫓・西の丸西手櫓・石垣・堀)
■特徴
宇喜田秀家築城。秀吉の信任厚い宇喜田秀家により大大名家としてふさわしく整備され、大坂城天守を偲ばせる「烏城」と呼ばれる漆黒の天守が築かれる。
関が原の戦いで西軍の首謀者となり改易。
変わって関ヶ原の戦いの戦功により小早川秀秋が55万石で入城し、整備した。小早川秀秋が嫡子なく死亡。
そして、池田氏が31万5千石で岡山藩主となる。家康の娘督姫との子池田忠継である。池田忠継が亡くなり弟・忠雄が跡を注いで藩主となるが相次いでなくなり、その子光仲が跡を継ぐことになる。光仲は幼少であったため、1632年因幡・鳥取32.5万石に移され、入れ違いで、当時鳥取藩主池田光政が岡山藩主となる。
池田光政にとって念願の生まれ故郷の岡山へ復帰できた。池田光政は、その前1628年に千姫の子勝姫(将軍の養女)と婚姻(光政22歳、勝姫11歳)していた。家康の娘督姫の孫池田光仲対秀忠の娘千姫の娘勝姫。家康の系統が形式をとっては32万5000石で鳥取藩・嫡流であり千姫の娘勝子の夫池田光政が内実を取って31万5000石で岡山藩となる。明治まで変わらなかった。
3代将軍家光の信頼厚い姉として千姫はいつも勝姫のために助力は惜しまなかった。その甲斐あって池田光政は、家臣に領主権を分与する地方知行制(じかたちぎょうせい)から米・貨幣を与える俸禄制への転換といった行政機構・領内支配体制の抜本的改革、家臣の津田永忠を起用し、藩営の閑谷学校を建て、儒教思想に基づく人づくりを進めるなど岡山藩政の基礎を確立した。水戸・徳川光圀や会津・保科正之とともに近世初期屈指の名君と並び称されるようになる。
勝姫の子綱政が藩主になり、父から藩政を引き継ぐと同時に、文化人としての才能を生かした後楽園を造営。後楽園は遊息の場・武芸鍛練の場・学問の場として築かれた。日本三名園(偕楽園・兼六園)に数えられる。
■見所
初代岡山藩主宇喜田直家の妻お福は夫の死にもかかわらず岡山藩を守り、嫡男秀家を五大老にまでする。
関ヶ原の戦いで敗れた宇喜田秀家は、八丈島に送られてしまう。宇喜田秀家の妻豪姫は、秀吉に溺愛された養女であり前田利家の娘でもある。豪姫は夫を刑死から守り、八丈島に実家前田家から、明治になって赦免されるまで、食料・衣類・日常品等を送り続ける。豪姫の尽力なくしては実現できなかった。宇喜田家は八丈島で力を持ち続ける。
東軍勝利に大きく貢献した小早川秀秋の家老稲葉氏の妻はあの大奥春日局である。
稲葉氏は小早川秀秋が東軍に味方することを決意するのに大きな影響力を持っていたといわれている。
傍にいたお福の果たした役割はどうだったのか興味深い。
そして千姫。外様大名池田光政が善政のために必要とする多額の財力、幕府からの援助を得ることに家光の信頼厚い千姫の力は大きかった。
岡山城には、時代の変わり目に重要な役をこなす女性が多い。