岡城
築城年 1594年から1597年
築城主 中川秀成
幕末の城主 中川久昭
所在地 大分県竹田市大字竹田
石高 7万440石余
険しい山上に築かれた三大山城(高取城・備中松山城)のひとつである。
源義経を迎える為の城・島津氏の大軍を撃退した城の逸話が残り、堅城と称えられる名城。
1594年秀吉は中川清秀の次男秀成を播磨国から豊後岡藩に移封した。
秀成は古城を改めて縄張りし今日に繋がる近世城郭岡城が完成する。
秀成の親戚は戦国史と因縁深く結びつき、父清秀と信長・秀吉・家康とは深い関係があった。
摂津茨城城主だった清秀は、高山氏・荒木氏と共に摂津池田家の重臣であり相互に縁戚だった。
■中央政界に直結
荒木村重の謀反で摂津平定に手こずる信長は、荒木氏打倒の為に清秀を味方にする必要に迫られた。
清秀も信長に従うと決め、荒木氏を倒した。見事な働きに信長は清秀嫡男秀政を娘鶴姫の婿とする。しかし信長は本能寺の変で倒れた。
中国大返しの途中、秀吉は清秀を頼り、協力を懇請した。清秀も秀吉の必死の頼みに応じた。
秀吉は義兄弟の杯を固め、真摯な態度に感銘を受け、清秀は山崎の戦いで秀吉を助け光秀を倒した。
しかしその後、秀吉からの礼も恩賞も清秀の想いとは、かけ離れたものであった。清秀は秀吉に裏切られたとの思いを持つ。
鬱陶しい雰囲気のなか賤ヶ岳の戦いに臨んだ。佐久間盛政の急襲を受けた清秀を秀吉は見殺しにする。
■激動期の乗り切り
秀吉は秀政の弟、秀成に盛政の次女虎姫を嫁がせた。中川家中は仇の姫を迎え混乱する。
しかし、次男ということもあり、秀政13歳と5歳上の虎姫18歳の結婚は、周囲の思惑を乗り越え、むつまじく7人の子達に恵まれる。
清秀討死後、秀政が継ぐが秀吉とは気まずく、朝鮮に出陣中に不名誉な戦死(鷹狩り中に、敵の刺客に暗殺された)となった。しかし秀吉は清秀の功に免じ、弟秀成の相続を認めた。秀成は陣中で三木城主となる。
移封後、初代豊後岡藩主になった秀成は一族と虎姫の冷たい関係をうまくまとめ、秀吉に忠誠を尽くす。秀成は西軍に兵を送る一方、黒田官兵衛に誘われ三成と親しい臼杵城主太田氏を攻め、激戦の末勝利する。
結果、家康の信任を得、領地は安堵された。
■徳川の姫を迎える
さらに嫡男久盛に家康ゆかりの姫を願い、家康養女、久松松平定勝の娘を妻に迎えた。かくして、家康の姪を妻とし徳川家の縁戚となった。
夫婦仲も良く、徳川家の血を引く嫡男が生れ、秀吉恩顧の外様大名ながら、中川家は安泰となる。
■佐久間家の再興
妻虎姫の存命中は、かなわなかったが、秀政は五男に佐久間の家を再興させている。1644年、秀成長男、久盛は外祖父、佐久間盛政の菩提寺として城下に英雄寺(牡丹で有名)を建立した。
また清秀の娘糸姫は姫路藩主、池田輝政の妻となり嫡男利隆が生れる。後に、秀吉は離縁させるが。
妹娘チボ姫は後に津山藩主になる森忠政に嫁ぎ、松姫をもうけたがまもなく亡くなってしまう。
清秀も秀政も突然の予期せぬ死を迎え、なぜか、秀成も大坂の陣を前にして亡くなっている。
岡城は一見、険しい山城に思えるが、谷底からでも100m余りしかなく、登城は困難ではない。
いまでは大手門下まで車で行ける。
山頂の三の丸・二の丸・本丸など各郭は、近世城郭としての機能を十分な果たす広さもある。
自然の断崖を活用しての合理的な築城だが、切り立つ石垣は一兵たりとも寄せ付けない構えである。
城内いたる処から切り立った石垣が見え、中川家の防備は完璧だと、誇っているようにも見える。
しかし、岡城は孤高の城というわけではない。石垣の上に立ち九重連山や阿蘇の山並みを遠望するとき何かしら優しさに包まれる自分を感じることができる。湧水や温泉が豊富な城下の竹田市も何度訪れても飽きることはない。
滝廉太郎もこのような自然に抱かれ、古城をめぐっていたとすれば、いまでは、うらやましいかぎりである。
■心に映える城
遺構はないが、普請方跡や家老屋敷跡などの礎石、瓦、などは残り、在りし日を思うには十分だ。
遺構のない城は多いが、岡城ほど遺構なくても、様になる城は、他にない。
■堅城のはずなのに、どこか優しい城、それが岡城である。
中央の雅を身につけた中川家の家風がそうさせるのか。
自然と共生し城下と一体化した岡城に身を置くと、訪れるたびに新鮮な緑の風を感じるはずだ。
春の桜、初夏の新緑、秋の紅葉、冬の北風、訪れる季節ごとに、岡城は厳しさと優しさを教えてくれる。
■耳を澄ませば城の声が聞こえる
平日の誰もいない城中を、しずしずと歩けば、間違いなく岡城の方から語りかけてくる。
熊本城などの大城郭ではなかなか聞けない。
岡城は少しずつではあるが、通えば通うほど、毎回何かを話してくれる。
この次、あなたには、何を話してくれるのだろうか、心の城、岡城は。

