岡城
築城年 慶長元年(1596)
幕末(慶応3年)の城主 中川修理大夫久昭
所在地 大分県竹田市大字竹田
石高 7万440石余
険しい山上に築かれた三大山城(高取城・備中松山城)のひとつである。
源義経を迎えるために築城・島津氏の大軍を撃退など堅城とはこの城のためにあるような名城
■CG復元岡城
周囲が断崖(だんがい)となっている阿蘇溶岩台地を利用して築かれた。山城的殿舎(御廟)・平山城的殿舎(本丸・二の丸・三の丸)・平城的殿舎(西の丸)と、三様の建築形態があり、非常に珍しい。城の北を稲葉川、南に白滝川を天然の濠として、その二本の川に挟まれた標高325メートルの台地上にそびえる岡城。岡城全容復元(遺構 石垣)
■特徴
播磨三木城主中川秀成が、秀吉の命により1594年に入城した。この時、中世の山城を受け継いで近世城郭として改修した。
1596年に本丸・二の丸・三の丸と、大手門、近戸口、下原門が完成している。険しい山上に天守・櫓・門・を建てたのは珍しく、三大山城(高取城・備中松山城)のひとつである。その後、西の丸を築き山城としては全国一の規模となった。
1185年に緒方惟栄(おがたこれよし)が源義経を迎えるために築城し、1334年志賀貞朝が修築して以来、大友一族志賀氏の本城として続いたといわれる。大友氏による朝鮮出兵の失敗により志賀氏は去る。大友氏の改易には、大友宗麟亡き後の大友氏には力なしとみなされた名門の寂しさが伝わる。
中川氏は関が原の戦いでは東軍に属し、本領安堵となった。明治2年の版籍奉還まで13代277年間統治。
1586年に島津氏の大軍に攻め込まれた時、志賀親次以下の奮戦によりこれを撃退したことで堅城として有名な名城になった。
「豊後竹田城」又は「臥牛城」と呼ばれる。滝廉太郎の「荒城の月」のモチーフとなったことでも名高い。
■見所
岡城を見上げてすごいの一言に尽きる高石垣。本丸に向けて見上げて登っていくときにもまた石垣の存在感に感激する。急な階段と特徴的なカマボコ型石塁を見ながら登ると大手門に着く。加藤清正の意見により大手門は西に移されたそうで、古大手門と大手門がある。大手門から見える石垣のすごさ美しさまたまた感動する。三の丸・二の丸・本丸と城内最高地まで進む。城内どこからでも切り立った石垣を見ることができる。そして足のすくむ思いがする。領民すべてが岡城築城に関わって築き上げたかのような熱い思いが伝わってくる。困難を極めたろうけれど、この地の人々の力を結集した自慢の城であったに違いない、いつも何かの営繕工事が行われていたという。
普請方跡や家老屋敷跡も礎石等多くの遺構をとどめており、瓦、漆喰などのこされている。本丸から西の丸まで戻り広い西の丸を廻って近戸門を抜け右手に空堀を眺めてから七曲がりと呼ばれるつづら折りの急な坂になった通路を通り駐車場へ戻るコ−スが一般的見学コース。この城ほど城址を巡り歩いたと実感できる城はない。秀吉ゆかりの外様大名中川氏が徳川時代にも生き抜いた気迫を感じ納得してしまう。