名古屋城
築城年 慶長17年(1612)
幕末(慶応3年)の城主 徳川義宣
石高 61万9500石
所在地 愛知県名古屋市中区
金鯱輝く五重天守は城郭史上最大の面積を持つ
将軍後継者を出すべき御三家筆頭だったが将軍を出すことはなかった
■CG復元名古屋城
天守は、外観5層内部は地上5階地下1階延べ床面積は城郭史上最大であった。金鯱・千鳥破風・唐破風が作り出す外観の美しさは天下一の名城である。本丸の西方を御深井丸と西の丸の二つの郭で東南を二の丸で囲みそれらの南から東に掛けて三の丸で囲むという梯郭(ていかく)式の配置をした城。城の北側は低湿地帯で天然の要害で防備は十分だった。城郭全容を復元(遺構 東南隅櫓・西南隅櫓・西北隅櫓・表二の門・二の丸大手二の門・旧二の丸東二の門堀・石垣)
■特徴
大坂城の豊臣秀頼攻略を考える家康は、濃尾平野の要地に大規模な城郭を築城する。大坂城と対峙する徳川幕府の拠点城として1610年より築城開始された。豊臣秀吉恩顧の諸大名らによる天下普請で築城された。加藤清正、福島正則、池田輝政、浅野幸長、加藤嘉明など豊臣系大名が総動員された。築城に動員された者は20万人を超えたという。豊臣恩顧の大名が、豊臣家滅亡のための城を築く。それぞれの大名生き残りのためにやむをえないこととはいえ、複雑な思いがしたことだろう。
徳川幕府が確立されていく象徴のような軍事力保持を考えた名城である。3年後にほぼ完成しその後も築城を続け1614年完成。
待っていたかのように大阪冬の陣・大坂夏の陣と続き豊臣家は滅亡する。名古屋城は役目を果たした。
金鯱輝く五重天守は城郭史上第一位を誇る。
第2次世界大戦中の昭和20年(1945)5月、名古屋空襲の際に、大・小天守閣や本丸御殿をはじめ建物のほとんどを焼失してしまった。現在の天守閣は、昭和34年(1959)に再建された。豪華な本丸御殿は戦災焼失したが、襖絵群大小600余が疎開により現存している。
御三家筆頭尾張徳川家の居城である。徳川家康の九男徳川義直を家祖とし、江戸時代を通じて尾張藩を治めた。
徳川将軍家に後継ぎがないときは他の御三家とともに後嗣を出す資格を有したが、尾張家から将軍が出たことは江戸時代の最後までなかった。
兄継友が将軍位を紀伊家の吉宗に奪われたことへの反発もある8代藩主尾張宗春は『行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる』『規制を増やしても違反者を増やすのみ』などの主張を掲げ、質素倹約を基本方針とする吉宗が推進する享保の改革に反対し、名古屋城下に芝居小屋や遊郭を誘致するなど開放政策を採る。
幕府の倹約令で火が消えたようだった名古屋の街は活況を呈するようになる。さらに彼の治世の間、尾張藩ではひとりの処刑者も出さないという当時としては斬新な政策も打ち出している。
しかし8代将軍吉宗の怒りをうけて、早期に引退さされ蟄居生活を長く送ることになる。
■見所
織田信長の生まれた那古屋城は現名古屋城の二の丸付近である。
幕末藩主慶勝は、会津の松平容保、桑名の松平定敬と実の兄弟だった。松平容保は、佐幕派の雄として官軍と戦い、明治政府からはむごい仕打ちを受けることなった会津藩主です。
しかし尾張慶勝は、親勤皇を貫いて新政府の要職につくことになります。今の名古屋のように江戸とは一線を引いた独自性のある名古屋城主であったようだ。
時代を先取りする城である。