盛岡城
■CG復元盛岡城
天守・多聞櫓・末御門等の立ち並ぶ美しい総石垣造りの城がよみがえる。(現況は、石垣が現存するのみ。)
盛岡城は、約9万坪(297,000平方メートル)の広さを持つ平城であった。
この城域のうち綱御門の内側を「御城内」といって区別されていた。「御城内」は藩主の居所と政庁であり、その外側になる「内丸」は重臣層の居宅が並んでいた。
「御城内」にある「本丸」は南隅に三重の天守櫓[やぐら]を持ち、藩主の生活の場であった。
「二の丸」は「中丸」とも呼ばれ諸役所が置かれ、藩士(侍)が日常登城して政務にあたり、「三の丸」には特に施設建物は設けられず、八幡社や鹿島社などがあり神域とされていた。「勘定所」は藩の一切の歳入歳出を統括する所であった。
往時の広大さ・美しさは、現状と比べて想像できないほど素晴らしい。
■特徴
南部氏は、甲斐源氏を始まりとし源頼朝から奥州征伐の功により領地としてこの地を与えられた名門である。天正18年、南部信直は豊臣秀吉による小田原征伐に参陣し、南部8郡の安堵を得た。しかし、南部一族九戸政実が、同年反乱を起こし、これを平定の後、居城を三戸城から不来方の地に移し名を盛岡と改める。そして豊臣秀吉の許可を得て、1598年南部氏26代信直公により普請に着手された城が盛岡城。奥州の地にはめずらしい総石垣造りの城。
会津若松城・白河城とともに東北3名城と称される。
1673年御三階櫓完成により 近世城郭として一応の整備終了とされる。
奥州街道を城下に引入れ、北上川の水運は盛岡と仙台領石巻を結ぶ物流の中心となる大城下町が形成された。領内の方々で発見された金山は盛岡藩の財力や城下町を潤し繁栄した。1665年南部藩は盛岡藩となり、明治を迎えるが、戊辰戦争では佐幕派として官軍と戦い、秋田戦争で敗れた。
■見所
石垣の美しさには圧倒される。石垣の高さや、山上にそそりたつ石垣のような見上げる美しさというより目の前にある存在感のすごさがすばらしい城。
桜・紅葉とシ−ズンには多くの人でにぎわうが、普段は目立たないお城。
厳しい自然・経済環境の中で、信長・秀吉と続く近世城郭築城の流れに遅れるまいと、知恵を絞って、築き始めた 南部藩の心意気・統治者としての存在感が感じられる城。
豊臣大阪城に似た縄張りを、この地の自然地形にあわせて南部流の築城となった。
豊臣家との結びつきが、感じられる城。豊臣家亡き後、徳川幕府の時代には外様藩として生き残るために細心の注意を払うことになる。
新しい徳川の時代に適した質素な、こじんまりとした城として築城を終えるが、しかし城下の発展のための城下町造りには力を注ぎ、現代に続く都市づくりを推し進めた。
花の季節が最も似合う名城。