水戸城
築城年 天正18年(1590)
幕末(慶応3年)の城主 徳川中納言慶篤
所在地 茨城県水戸市
石高 35万石
徳川御三家の城。家康の孫水戸黄門様の城
天守代用御3階櫓は威光を示すが天守も石垣もなく広大ではあるが質素な城。
藩主は江戸詰めを原則としていた
■CG復元水戸城
水戸城は那珂川(なかがわ)と千波湖(せんばこの間に伸びた台地を利用して築いた中世以来の城である。
石垣は築かれず、南・北・東側は自然の侵食崖が城壁に利用された、総土塁造りの徳川御三家の城。天守はなく、天守代用の御三階櫓が二の丸にある。外観は三重で、内部は五階の構造である。層塔式で、台座の石垣もなく、一層目の半分まで海鼠壁(なまこかべ)だった。広大な城全容を復元。(現況は、堀・土塁・薬医門が現存する。)
■特徴
1625年以降御三家のひとつ水戸徳川家の居城としてふさわしく整備された。水戸藩の石高は当初25万石で元和8年3万石加増され28万石となったが、尾張家・紀伊家の半分しかなく、寛永18年幕府に願い出てやっと35万石となる。水戸家は尾張家・紀伊家とは極端に差をつけられていた。徳川家康が初めから御三家を作るのが目的なら、水戸家だけ別格にするとはおもえない。家康は将軍の補佐的役割を果たすことを水戸家に求めたようにおもわれる。それゆえ副将軍と言われるようになる。藩主は国元に帰ることなく江戸の小石川の藩邸に常駐し必要なときだけ幕府の許可を取り国元に帰った。
幕末まで水戸家は将軍継承者争いに参加することもなく、将軍家の補佐役であり続ける。
2代目藩主である光圀以降、水戸藩9代目藩主斉昭(なりあき)の子にあたる一橋慶喜が将軍職に就くまで、水戸徳川家からは将軍職に就く者はいなかった。
水戸藩は藩主は江戸詰めが原則で、一度も帰藩しなかった藩主もいた。
藩主不在の年月が多い事が、中枢部が小じんまりとした城となった。
2代藩主水戸光圀は大日本史の編纂に力を注ぎ、尊皇・好学は藩風となる。
そして幕末藩主水戸斉昭は藩政改革・幕政改革に力を尽くし、斉昭は藩の改革派のみならず、全国の他藩にも大きな影響あたえ、尊皇攘夷の火付け役となる。しかし新政府では、水戸藩の人材はほとんど出すことができなかった。
■見所
二代藩主徳川光圀は家康の孫であり有名な水戸黄門様だ。
初代藩主の次男の黄門様が、水戸本家を継ぎ、長男は四国高松12万石の藩主となる。このことを良しとしなかった黄門様は、水戸本家へ高松藩から養子を迎え、自分の子は、高松藩を継がせる。すごく真面目な黄門様だったようで、この辺で伝説が生まれるのかもしれない。どこにも行かなくても、黄門様は、勉強好きで世の中のことを良く知っていたらしい。そのぶん学問や資料収集に多額の投資をする一面をもち、すごい浪費家だったらしいが。
水戸家は長命・多産・学問好き・新し物好きの浪費家のよう。
広大な城だけど、お城から連想する、近世城郭の特徴である築かれた高石垣もなく、堀も少なく、これぞ城という気はしない。
自然をうまく利用した広大な城郭という趣である。偕楽園(かいらくえん)を廻り梅林を楽しみたい。