熊本城

築城年 慶長12年(1607)
幕末(慶応3年)の城主 細川越中守慶順
石高 54万石
所在地 熊本市本丸
大坂城・名古屋城とともに日本3大名城と称される。
築城の名手加藤清正が創りあげた大城郭。
西南戦争で薩摩軍から守り抜き熊本城の堅固さを知らしめた。

CG復元熊本城 

白川と井芹川を外濠に、周囲約九キロの規模で七層の大天守と五層の小天守をはじめ、四十九の櫓、十八の櫓門、二十九の城門を構えた堂々の大城郭。熊本城復元 (遺構 宇土櫓・不明門・源之進櫓・十四間櫓・長塀・石垣)

■特徴

 築城の名手加藤清正が、1601年頃から城の改築に着手し、1608年に熊本城を完成、心血注いで城と城下町を築いた。
(加藤)清正流石垣と呼ばれる石垣の勾配に強い反りをつけて石垣の強度を高める技法を確立し、名声を得る。石垣は、「武者返し」になって裾の勾配はゆるやかで、たやすく登れそうだが、登って行くにつれて急峻になり、石垣が頭上にかぶさってくるような構造を持っている。

城内には、銀杏が沢山植えられ、戦の時には食料になる。また、畳床を里芋の蔓(かずら)で作り、壁に干瓢(かんぴょう)を塗りこめ篭城に備えたといわれている。
大坂城・名古屋城とともに3大名城と呼ばれる。清正は大坂城・名古屋城築城にも深く関与しており、築城の名手と称せられるはずだ。西南戦争で熊本城の堅固さを示し、築城技術のすばらしさは今日も目のあたりにすることができる。

加藤清正は尾張愛知郡中村に生まれた。幼名を虎之助。加藤清正の母が豊臣秀吉の母親と従姉妹の関係で、秀吉子飼いの武将となり、数々の戦いで功をたて、1587年肥後半国二十五万石を与えられ、熊本城主となる。関ヶ原の合戦では家康方につき、役後肥後全州五十二万石への加増となった。清正は、治水、築城技術にも優れ、武田信玄とともに名高い土木工事技術者で白川、坪井川、緑川を清正堤等の工事で洪水をみごとに管理し、頑固な肥後人の信頼を得、肥後の国をみごとに統治した。

清正は、知・仁・勇の三徳兼備の名将として知られ、江戸時代の儒学者頼山陽は「勇猛は夜叉の如く、慈悲は菩薩の如し」と絶賛しているほどだ。1632年2代目忠広の時代 堅固な築城・3代将軍家光弟忠長との親密な関係・将軍養女との婚姻も信頼関係を築けなかった・後見人幕府から送られた家臣との軋轢等々3代将軍家光の権威を示すための犠牲になったかのように肥後一国を没収された上、忠広は庄内に配流されてしまう。そして細川家が、熊本城主として入城する。

■見所 

熊本城は、復元が進み、当時の威容がよみがえってきつつある。大城郭ゆえ、簡単には廻りきれず、全容を体感することはむつかしい。秀頼を迎え入れようと築かれたといういう御殿も復元され、徳川幕府と、対峙することも辞さないと言う心意気を感じることができる。太平の世には過剰防備に映るが結果がどうであろうと自分流を貫く意志が伝わる名城。
後世の藩主にとっては住みにくい城だったようだ。