小倉城

築城年 慶長7年(1602)
幕末(慶応3年)の城主 戸田采女正氏友
所在地 福岡県北九州市小倉北区室町
石高 15万石
城の東を流れる紫川を天然の堀として活用し城内に城下町を形成する総構えの城
築城主細川忠興は商工業保護政策を実施し城下町は繁栄する


CG復元小倉城
 
天守は「唐造り(からづくり)の天守」と呼ばれ、四階と五階の間に屋根のひさしがなく五階が四階よりも大きくなっているのが特徴的だ。城の石垣は切り石を使わない野面積みだ。本丸と松丸、北の丸。それらを囲い込むように二の丸、三の丸がある。城の東を流れる紫川を天然の堀として城内に城下町を形成する総構えをとった。(遺構 石垣・堀)

■特徴

 関が原の合戦での功により、丹後国田辺城18万石から大きく石高を増やし、大大名となった外様大名細川家。小倉城は1602年細川忠興が豊前・豊後国国東郡・速見郡39万9千石を領する大大名 のシンボルとして築城した南蛮造りの名城。関門海峡に面した小倉は、陸海の交通の要衝として、古くから砦や城が構えられた地だ。この地を領するために多くの豪族たちの攻防の歴史があった。小倉城の歴史は、戦国末期(1569年)、この地を平定した中国地方の毛利氏が現在の地に城を築いたことから始まる。

その後、高橋鑑種や毛利勝信が居城し、そして関ヶ原合戦の功労で入国した細川忠興によって、1602年に本格的に築城が始まり約七年の歳月をかけて城が築かれた。細川ガラシャ夫人の西軍に組せずに死を選んだ功績もあるかもしれないが。その後は秀吉ゆかりの大名改易の嵐を乗り切るために、徳川幕府に忠誠を尽くす名君としての心意気を示さなければならない小倉城だった。

細川忠興は城下町繁栄策として、諸国の商人や職人を集めて商工業保護政策を実施。外国貿易も盛んにし、祇園祭りも誕生させ小倉の町は栄える。細川氏熊本転封の後には、播磨国明石から細川家とは姻戚関係にある譜代大名の小笠原忠真が、1632年に入国。小笠原忠真は、家康の嫡男信康と信長の娘徳姫(家康孫)との娘登久姫を母としている。そして信康娘(家康孫)熊姫の娘亀姫を正室としている。徳川家との姻戚関係は長い。小笠原藩は、将軍・徳川家光から九州諸大名監視という特命を受けていました。また熊本初代藩主細川忠利の正室は、小笠原忠真の妹である。

幕末期になると、譜代小倉藩は、長州藩を攻める拠点となり、小倉と熊本藩は勇敢に戦ったが、他の九州諸藩は積極的には戦わず、ついに1866年、自ら小倉城に火を放って戦線を後退した。そして藩主は熊本城に避難した。明治10年の西南戦争の際には、立場が変わり小倉城内に駐屯していた歩兵第14連隊が、乃木将軍に率いられて出征した。

■見所
 
今は天守がぽつんという気がするけれど。市民の憩いの場として多くの人でにぎわう、桜の美しい城址公園だ。