古河城
築城年 享徳4年(1455)
幕末(慶応3年)の城主 土井大炊頭利興
所在地 茨城県古河市中央町
石高 8万石
城跡の大部分は、現在渡良瀬川の河川敷
土井利勝の入城により城の拡張工事行い近世城郭として完成
渡良瀬川の洪水対策マニュアルを設けた防災対策重視の城
■CG復元 古河城
西に渡良瀬川と東を沼地に囲まれた要害の地形に築かれた水の上に浮かぶ水城。本丸の北西部にあった天守代用の御三階櫓を復元。御三階櫓は外周を廻る土塀のため城外からは四重に見えた。多くの郭を活用した防備堅固な大城郭全容を復元。(本丸・二の丸・三の丸は水没する。)
■特徴
幼少時より徳川家康に仕え、重臣となり、徳川家康・秀忠・家光3代の将軍に仕えた土井利勝が16万2千石で入城し、城の拡張工事を行い近世城郭として完成。将軍の日光社参の際の宿館とされた城で、そのため御成門が設けられていた。
渡良瀬川の増水による洪水により毎年のように被害を受ける。そのため古河藩は、洪水時の役務分担や臨時役所の設置など、いわば洪水対策マニュアルを設けていた。他の城では見られない防
災対策がいきわたっていた。しかし自然には逆らえず大正年間の河川改修により城の中心部は、水没してしまう。
鎌倉時代 古河公方がこの地を治めていた。成氏の後四代続いたが、天正18年(1590)秀吉によって滅ぼされた。この年江戸城に入った徳川家康は、この地を江戸城の外郭となる要地として、同年信濃国松本城から小笠原秀政を(3万石)にこの地を預ける。小笠原秀政は古河城を大改修した。次に慶長6年(1601)松平(戸田)康長が入城、元和5年(1,619)には松平忠昌が入城し、城郭改修や本格的な町割が実施された。藩主がいろいろ変わるようだけれどみな家康の身内ともいえる武将で江戸城の支城的感じだった。
そして徳川幕府が安定し、寛永10年(1633)には土井利勝(前期土井家)が16万石で入郭し、翌11年本丸に御三階櫓を築き、関東の名城としてその様相を整えるとともに、城下町の整備を進めた。ここに古河城は近世城郭として威容が整えられた。土井利勝の没後、長男利隆の不行跡を江戸家老大野仁兵衛が諌言して切腹、利隆は40歳で引退に追い込まれ三代利重は12歳で相続、27歳で早世。弟利久は8歳で4代目を継承したが10歳で早死するという不運に見舞われた。この時嗣子がなく領地没収、家名断絶の窮地に立たされたが、土井利勝の過去の功労を評価した将軍家綱の計らいにより、すでに常陸国に1万石を分与されていた利久の兄利益を本家に戻し家名を継ぐことになった。宗家を継いで藩主となった利益は、天和元年(1681)志摩国鳥羽へ転封となる。堀田氏の後、松平(藤井)氏、松平(大河内)氏、本田氏、松平(松井)氏と続いた。
宝歴12年(1762)土井利里(後期土井家)が肥前唐津藩から旧領古河に復帰、7代続いて明治を迎える。土井利勝が築いた名城を、土井家の領地として幕末まで存続できた。
幕府創立期の功労者の家系であっても存亡の危機があり、乗り切っていかなくてはならない試練も幾多あるということだ。
■見所
代々幕府の要職にある譜代大名の城。江戸幕府を守るための出城の感があるので、わが町のお殿様というよりは、江戸にいつもいるお殿様のお城。土地の人たちとの関係は薄いような気がする。軍事要塞としての機能や、将軍日光参拝時の宿泊施設となるなど、重要な城ではあったが。城の中心部が水没してしまうのは、現在に通じる近世城郭としては,残念。